早瀬晋三書評ブログ2018年から

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2021年01月

永吉希久子『移民と日本社会-データで読み解く実態と将来像』中公新書、2020年2月25日、900円+税、ISBN978-4-12-102580-7

 表紙見返しに、つぎのような本書の要約がある。「少子高齢化による労働力不足や排外主義の台頭もあり、移民は日本の大きな課題となっている。本書は、感情論を排し、統計を用いた計量分析で移民を論じる。たとえば「日本に住む外国人の増加により犯罪が増える」と考える人は6割を超えるが、データはその印象を覆す。こうした実証的な観点から、経済、労働、社会保障、そして統合のあり方までを展望。移民受け入れのあり方を通して、日本社会の特質と今後を浮き彫りにする」。

 本書の目的は、「まえがき」につぎのように書かれている。「本書は、移民受け入れが社会にもたらす影響に関して、実証的な観点から行われた国内外の研究成果を提示することにより、移民受け入れのあり方について論じるための土台をつくることを目的としている」。

 「感情論」を排するために、「本書で取り上げる研究の中心となるのは統計データを用いた量的研究である。こうした研究は、個々の事例の「厚い記述」を行う質的研究と異なり、リアリティを欠いたものと見えるかもしれない。他方で、移民受け入れがもたらす影響を一定の客観性をもって示せるという利点もある。身に迫るような「厚い記述」はこれまで多数刊行されてきた。そこで本書では、これまで不足してきた量的研究の成果を中心に扱う」。

 本書は、まえがき、序章、全5章、終章、あとがきなどからなる。序章「移住という現象を見る」では、「「移民」とは誰か、また人の移動がなぜ生じるのかを検討する」。第1章「日本における移民」では、「日本における移民受け入れの歴史と現状を確認する」。

 「第2章から第5章では、移民受け入れの影響を見ていく」。第2章「移民の受け入れの経済的影響」では、「移民受け入れの経済的影響をとり上げる。具体的には、移民の受け入れが受け入れ社会住民の賃金や雇用を悪化させるのか、受け入れ社会に技術革新をもたらすのか、あるいはそれを阻害するのか、社会保障制度の維持可能性を高めるのか、あるいはむしろ悪化させるのかについて検討する」。
 第3章「移民受け入れの社会的影響」では、「移民受け入れの社会的影響として、地域の犯罪率や治安への影響を検討するとともに、移民に対するヘイトクライムの問題も見ていく。第2章、第3章の結論を先どりするなら、国内外で行われた研究の結果は、移民の受け入れがそのままプラスの影響やマイナスの影響をもたらすというものではない。雇用する企業や受け入れ社会の住民など、移民を取り巻くさまざまなアクターや、受け入れ社会の制度が影響のあり方を変える」。

 第4章「あるべき統合像の模索」では、「移民にかかわる制度として、移民の統合政策をとり上げ、それが移民の受け入れの影響をどのように変えるのかを検討する。具体的には、移民の文化的権利を認める多文化主義政策、国民の統合を重視する市民統合政策、移民に対する社会経済的権利や政治的権利の付与が、移民の社会統合に与える影響を見る」。

 第5章「移民受け入れの長期的影響」では、「移民受け入れの二つの長期的影響をとり上げる。一つは、移民の子どもにあたる第二世代の地位達成である。長期的に見て、移民の受け入れが経済的・社会的にどのような影響をもたらすかは、移民第二世代が移民としての背景をもたないネイティブと同じように地位達成を遂げられるかどうかにかかっている。そこで、移民第二世代の地位達成がどのような条件のもとに起きるのかを検討する。もう一つの長期的影響は、国民としてのまとまりへの影響である。移民第二世代が増えていくということは、国内の民族構成が変化するということでもある。移民受け入れに際しては、これによって国民としてのまとまりが失われるという声が聞かれるが、こうした懸念が妥当であるのか検討する」。

 終章「移民問題から社会問題へ」では、「これらの結果をもとに、移民受け入れが社会に与える影響を、多面的な視点から検討し、「望ましい移民受け入れのあり方」を議論するために、何を考える必要があるのかを示す」。

 「終章」では、まず第2-5章の「四つの章を通して見えてきたのは、移民の受け入れがもたらす影響は、受け入れた社会が移民をどのように処遇するのか/それに対して移民自身がどのように反応するのかによって変化するということ」を確認した。つぎに、「日本での移民受け入れの影響で、特に重要な役割を果たすと考えられる三つの要素がある」とし、それぞれつぎのようにまとめている。

 「第一の要素は、労働市場での処遇である。日本の移民受け入れ政策は労働者としての移民の受け入れを中心に行われてきた。しかしそれは、日本の労働市場のあり方を変えるというよりも、すでにある労働市場の形に合わせて、その中の不足を埋める形で実施されてきたといえる。これは高技能移民についても、低技能移民についても同じである」。

 「第二の要素は、移民と地域社会のかかわりである。移民が地域とのかかわりを作ることができないままに増加すれば、近隣トラブルが起こりうる。一方、地域社会における関係性の形成は、受け入れ社会の移民に対する偏見を解消し、地域での逸脱行動を未然に防ぐ役割も果たす」。
 「第三の要素は、移民統合政策である。本書では、移民にかかわる制度に限定されない多様な制度が、「移民受け入れに伴う影響」を規定することを見てきた。しかし、それは移民に直接かかわる制度の重要性を否定するものではない」。

 そして、「移民や移民制度に焦点を合わせることによって、制度上の問題が明らかに」なったが、「移民に直接かかわる制度にのみ焦点化することは、その背景にある社会自体の問題を見えにくくしてきた側面もあるのではないか」と問題提起し、つぎのように結論して、「終章」を結んでいる。

 「だからこそ、移民に限定されない、雇用や地域、国の形のあり方までも含めた、幅広い議論が必要だともいえる。そして、議論の土台として、諸外国および日本で行われてきたさまざまな調査研究の結果をふまえる必要があろう」。「「移民問題」は「移民が引き起こす問題」でもなければ、「移民のために考えるべき問題」でもない。「移民の受け入れ」という現象に直接的/間接的にかかわってきたすべての人が当事者であり、自分たちがその構成員となる社会のために考えるべき、社会問題なのだ」。

 よく学生が、インタビュー調査をしたいという。インタビューで得られた成果を学問的に考察するには、充分に先行研究を把握し、分析のための理論的枠組みなどの基礎学力が必要となるが、やった経験を重視する小学生の夏休みの自由課題と同じように考えている者がいる。著者の質的研究批判は、その基礎となるデータを充分把握せずに考察している者が多いからだろう。もちろん、著者は量的研究にも多くの問題があることは充分承知したうえで、質的研究と量的研究のバランスが崩れている現状から、統計データにこだわったのだろう。

 移民受け入れを拒否することは、もはや現実的ではない。移民受け入れで、社会をどのように変えていくのか。著者が力説するように、自分たちの未来の問題である。

趙景達編『儒教的政治思想・文化と東アジアの近代』有志舎、2018年3月30日、324頁、5600円+税、ISBN978-4-908672-21-7

 本書の概要は、裏表紙につぎのようにまとめられている。「東アジアの国民国家形成は、西欧近代国家のモジュールを単にコピー・アンド・ペーストしてなされたわけではない。そこには儒教的伝統が強く刻印されている。近世後期から近代、そして現代にかけて、儒教的政治思想や政治文化はいかに展開し、また近代的価値を受容するに当たっていかにその受け皿となったのか。また一方で、「儒教」といっても各国での在り方は同じではなく、それがそれぞれの近代に与えた影響とはどのようなものだったのか。一国史の枠をこえて新しい東アジア比較史の地平を拓く挑戦」。

 本書の課題は、「序論 東アジアの儒教化と近代」の最後で、編者がつぎのように述べている。「儒教の政治思想や政治文化は、近代移行期を含め近代に入って、いかに存在していたものがいかに変容していくのか。そして、とりわけ民衆世界の現実はどのようなものであり、どのように近代と向き合ったのか。本書の課題はまさにこのことを東アジア史的に解き明かすことにある」。

 このキーワードの「政治思想」と「政治文化」について、「序論」でつぎのように説明している。「政治文化というのは大きな概念であり、本来なら政治思想もまたここに含まれてしかるべきである。しかし編者は、これまでいくつかの機会で述べてきたように、政治文化を三層からなるものとして考えている。すなわち、第一層-原理(体制の政治理念・政治思想など)、第二層-現実・現象(収税慣習・官民関係・選挙慣行・運動作法・願望・迷信など)、第三層-表象(旗幟・標識・言葉・服制・儀礼・祝祭など)である。第一層の原理はあくまでも理想であって、それが第二層の現実や現象をそのまま規定するわけではない。民主主義を標榜しながら民主主義的でない国はいくらでもある」。「第一層によって規定される第三層は、第一層が変質したときには新たな表象が立ち現れ、それがいつしか伝統として観念される。政治文化とはこうした原理・現象・表象の一切をいう」。

 本書は、序論、2部、各部6章の全12章からなる。2部になったのは、「残念ながら第三層については論究することができず、第一層と第二層に限定されたので、政治思想と政治文化に分け二部構成としてある」。

 第一部「儒教的政治思想の近代的転回」は、つぎの6章からなる:「一 一九世紀朝鮮における対西洋認識と洋擾期の朴珪寿-対アメリカ交渉を中心に-」(久留島哲)、「二 近代朝鮮における民国思想」(趙景達)、「三 清末士大夫における二つの民認識について」(小野泰教)、「四 江戸時代の政治思想・文化の特質-「武威」「仁政」のせめぎ合いと「富国強兵」論-」(須田努)、「五 一九世紀の藩学と儒学教育-越後長岡藩儒・秋山景山『教育談』の世界-」(小川和也)、「六 吉野作造における「歴史の発見」と儒教的政治文化の再認識」(中嶋久人)。

 第二部「儒教的世界文化の近代的転回」は、つぎの6章からなる:「一 近代朝鮮における道路整備の展開過程と民本-ソウルの事例をもとに-」(伊藤俊介)、「二 犯罪と刑罰に見る一九世紀末の朝鮮」(愼蒼宇)、「三 済州島四・三事件と政治文化」(藤本匡人)、「四 救荒の理念と現場-清末北京における「宗室騒擾」をめぐって-」(村田遼平)、「五 「仁政」と近代日本-地方都市秋田の感恩講事業を事例として-」(大川啓)、「六 天地会とベトナム南部社会-民衆運動に見るベトナム近代の政治文化-」(武内房司)。

 結論めいたことは、「序論」「おわりに」冒頭で、つぎのように記されてる。「以上のように、東アジア四国の儒教のあり方は一様ではない。忠孝観念はもとより、儒教の宗教性、民衆教化の程度に至るまで違いがある。正直なところ、ベトナムについては編者の能力不足で分からないことが多い。中国や日本についてもそうなのだが、序論を書くべき責があるため、言及するのやむなきに至った。専門研究者のご批正を待ちたいが、いずれにせよ儒教と近代という問題を考える場合、平等主義と平均主義の実現というのは、重要な視点ではないかと思う。本来儒教なかんずく朱子学というのは、一君万民と民本主義を標榜するがゆえに、本来的に自由主義の契機も孕みながら、平等主義と平均主義の方向に進んでいくのではないか。長期の時間がかかったとはいえ、誰もが士になりうるという思想的地平が切り開かれ、大同思想も生き続けて無政府主義や社会主義を受容する受け皿になった。朱子学では本来、身分や貧富の格差などあってはならないのであるが、ある意味では礼秩序を重んじる儒教本体の中に自己を否定する契機があったともいえる」。

 われわれの日々の生活のなかに「儒教」が存在していることに、通常は意識しない。だが、われわれの日常のなかに、「儒教」とは無縁の世界から多くの人びとが入ってくるようになった。「儒教」的社会を知る者には、暗黙の前提がある。だが、東アジアの「儒教」のあり方は一様でないことが、本書で明らかになった。通常意識しない「儒教」を問い直す意味を、グローバル化社会のなかに見出すことができる。

若林正丈・家永真幸編『台湾研究入門』東京大学出版会、2020年2月29日、365+30頁、3900円+税、ISBN978-4-13-036277-1

 本書では、まず「「台湾研究」とは何かを考え、ついでその台湾研究に「入門する」とはどういうことかに触れる。最後に、日本[に]おける台湾研究に期すべきものを考える」、と編者のひとり、若林正丈は「はじめに-「相互理解の学知」を求めて」の冒頭で述べている。

 まず、「「台湾研究」とは、学術研究の一分野である「地域研究」の一領域であり、「台湾」を対象として把握しようとする地域研究である」と答えている。ついで「台湾研究に「入門する」とは、さしずめ、本書を通読して「台湾とは何か」という問いの通奏低音に耳を傾け」、台湾研究への「誘いに自らの知的好奇心を委ねてみることではないだろうか」と答えている。

 そして、「台湾研究に期すべきもの」について、「はじめに」の最後で、つぎのようにまとめている。「台湾における「主体性構築の学知」の興隆を前にして、日本における台湾研究の学知とは如何なるものなのか、否、如何なるものたろうとすべきなのか。私見ではそれは「相互理解の学知」であると考える。周知のように、現今の台湾をめぐっては、「台湾島の地政学」がまたも「前景化する」様相を呈している。二一世紀中葉に向かう東アジアの情勢は、一九世紀末から二〇世紀初頭とは異なる内容と質における、またふたたびの「帝国の学知」を求めているのかもしれない。しかし、だからこそ、戦後の平和と民主化の中でようやくのことで立ちあがってきた「帝国の学知」から「相互理解の学知」への流れはいっそう大事にすべきものではなかろうか」。

 本書は「若手からベテランまで、日台の幅広い年齢層の研究者が、それぞれが得意とする台湾理解のキーワードを解説した文章を集めた」5部全27章からなる。第Ⅰ部「日本の植民地統治が台湾社会に与えたインパクト」は10章、第Ⅱ部「「中国」との距離」は7章、第Ⅲ部「台湾の民主化以降の社会・文化」は7章、第Ⅳ部「台湾の学界から見た日本の台湾研究」は2章、第Ⅴ部「台湾研究序説のために」は1章からなる。「一つのキーワードは、「台湾という来歴」を構成するであろう、複雑に絡み合ったコンテキストの中の一束を語っている。一束というのは、一つのコンテキストはさらに見ていけば複数のコンテキストの束であるからである」。

 この「台湾という来歴」への骨太のテーマについて、若林正丈は第Ⅴ部「1 「台湾という来歴」を求めて-方法的「帝国」主義試論」のなかで、「どのようなコンテキスト、つまり、具体的な「来歴」の論述から骨太のテーマを見出すことができるのだろうか」とと問いかけ、「地域研究としての基本的問題意識からして、これらのコンテキストは、現今の台湾の姿をその「来歴」をたどるかたちで浮き彫りにできるものである必要がある」と述べている。

 つづけて、つぎのように整理している。「現在の台湾の姿を、その社会、国家、国民共同体の三点に分けて考え得るとすれば、「帝国の鑿」の視角[諸帝国の外挿国家の台湾における振る舞い]からは、①現在の台湾の主流社会、すなわち漢人の社会の形成を把握すること、②今日にも連続する近代国家の基盤的制度の形成、さらには③二つの国民帝国(近代日本と中華民国)の統治と民主化を経て形成されている国民という政治共同体の形成の過程や様態などにアプローチする必要があり、そして④これら全ての過程において底辺に置かれることとなった先住民族の歴史経験と視座の確認も行う必要があるだろう」。

 「台湾研究」は「地域研究」であるというのは、「台湾は諸帝国の周縁である」ということと関係してくる。たいていの歴史は、国の中心である首都・主都を中心に語られる。だが、台湾を語る場合の中心は、台湾の外にある。そういう状況で、主体性をもって語ることは並大抵のことではない。本書が「入門」と題して、その英訳がInvitationであることの意味がわかると、「入門」から1歩進むことができる。

田中明彦・川島真編『20世紀の東アジア史 Ⅲ各国史[2]東南アジア』東京大学出版会、2020年7月29日、389頁、9800円+税(全3巻)、ISBN978-4-13-020309-8

 本書は、英文タイトル20th Century East Asia: A New Historyにふさわしい「新しい歴史」である。本書は、2016年7月に開始した「日本国際問題研究所が、日本政府から受託した国際歴史共同研究事業用に準備された原稿を基礎としている」。全3巻からなり、「第一巻では、世界的な視野のもとで東アジアの国際関係の変遷を叙述分析する。第二巻と第三巻では、それぞれ東北アジアと東南アジアの各国史を、国際関係の展開を視野にいれつつ、近代国家という制度が経済や社会の発展との関連のなかでどのように生成発展してきたか[を]中心に叙述分析する」。

 「今また東アジアの国際関係史と各国史を叙述することの意義」について、「はじめに」で編者はつぎのように答えている。「それぞれの時代に歴史は繰り返し書き直されなければならないから、というのが、当たり前ではあるが、その答えである」。「本書が提示したいのは、二一世紀の今日の視点から見たときに、東アジアの歴史のどこに着目して叙述し直さなければならないかということなのである」。

 つづけて「二一世紀の今日の視点」について、つぎの3つの特徴をあげている。「第一に明白なことは、二一世紀初頭の東アジアは、世界の中でも経済的に最もダイナミックに発展している地域であるということである」。「一体、どのようにして、この世界で最も貧しい地域が、最もダイナミックに発展する地域に変貌をとげたのか」。

 「第二に言えそうなことは、この地域が比較的にいえば「平和」であることである。二十世紀に東アジアには多くの戦争があり、世界で最も戦争の頻発した地域でさえあった。だが、一九七九年の中越戦争以来、この地域では大規模な国家間戦争は発生していない」。「どのようにして、かつては世界で最も戦争の頻発した東アジアが、不安定性をはらむとはいえ戦争や内戦がほとんど発生しない地域になったのか」。

 「第三に言えそうなことは、この地域の政治体制がきわめて多様であるということである」。「自由主義的民主制という政治システムもあれば」、「共産党統治の政治システムからさまざまな変遷した政治体制もある」。「独特の権威主義体制のもと経済成長をとげた国もあり」、「軍の影響力が著しく強い国もある」。

 本書は、これら3つの特徴を踏まえたうえで、「国際関係と国家(政治体制)建設という二つの観点を重視する」。

 第一巻「国際関係史概論」は第1部「近代東アジア国際関係史 一九世紀から二〇世紀前期」の第1~4章と第2部「現代東アジア国際関係史 二〇世紀後期から現在」の第5~7章、全2部、7章からなる。第二巻「各国史[1]東北アジア」は、第3部「東北アジア」第8~12章、全5章からなる。第三巻「各国史[2]東南アジア」は、「第4部 東南アジア」第13~19章、全7章からなる。

 第三巻は、それぞれの章でフィリピン、シンガポール、インドネシア、ベトナム、ミャンマー、マレーシア、タイの国家建設に着目して論じている。第13章「フィリピン」だけは、2つの論考からなる。問題は、おそらくここで論じられていないカンボジア、ラオス、ブルネイ、東ティモールを含めて、地域としての東南アジアをどう語るかだろう。東南アジアを語る場合は、国際関係と国家建設に加えて、地域共同体としてのアセアンの成立過程を語る必要がある。そのために、拙稿の第7章「東南アジアの国民国家形成と地域主義」が第一巻第2部にある。

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