早瀬晋三書評ブログ2018年から

紀伊國屋書店「書評空間」https://booklog.kinokuniya.co.jp/archive/category/早瀬晋三に2005~15年に掲載された続きです。2015~18年に掲載されたものはseesaaブログshohyobloghayase.seesaa.net/ で閲覧できます。

2021年02月

アーロン・S・モーア著、塚原東吾監訳『「大東亜」を建設する-帝国日本の技術とイデオロギー』人文書院、2019年12月15日、367頁、4500円+税、ISBN978-4-409-52080-2

 本書の内容は、帯の裏につぎのようにまとめられている。「アジア・太平洋戦争期、帝国日本の戦時動員のため「技術」という言葉が広範に使用されていた。それは単に科学技術だけではなく、社会全体の統治にもかかわるイデオロギーであった。狂信的な言説が吹き荒れたと思われる時代は、実は科学的・技術的な言説が力を持った時代でもあったのだ。本書では、革新官僚と技術者たちの動向を中心に、満州と中国における巨大建設プロジェクトを詳細に分析しつつ、戦後までをも貫く「技術」言説を思想史的に描き出す。新たな視角から帝国日本の核心に迫る、急逝した気鋭のアメリカ人研究者の遺作となった画期的研究」。

 本書の射程は、「序説 帝国日本の技術的想像力」で、つぎのように述べている。「本書で扱うのは、日本のファシズムおよび帝国主義の内部における技術と権力の関係であり、技術的想像力の範囲と深度についてカヴァーする。それは、知識人・技術官僚・技術者・国家計画立案者といった、戦時期の言説や国家の政策を形づくるのに大きな役割をはたしたさまざまな社会的アクターを詳しく吟味することによってなされる。本書では、日本帝国における都市・地域開発計画や河川流域の管理運営事業やダム建設計画といった大規模事業のいくつかを俎上に載せる。これらの分析が明らかにするのは、技術的想像力がたんに一握りのエリートの頭の中に浮かんだ構想の賜物ではなく、かなりの部分が現場において発展したものであるということだ」。

 ファシズム的権力については、「序説」でつぎのようにも説明されている。「日本のエリートの考え方や政策において、権力とは、たんに上から社会を組織化するものではなく、おびただしい数の人民や組織による生産的な実践を通して内側から社会をダイナミックに形成していくものだった。ファシズムとは、全体主義国家の存在以上のものであり、日常生活のあらゆる場面で「階級闘争の帰結や、疎外、不安定さや文化的・経済的不平等のすべてを……抹消して」資本主義を維持しようと努める「分子的もしくはミクロ・ポリティクス的な権力」の一形態を創造するものなのである。本書は、こういったファシズム的権力の様態が、技術的想像力によってどのように明瞭に提示されてきたかという問いを検証する」。

 本書は、序説、全5章、終章、解説などからなる。「第一章「生活を革新する技術」では、戦時中に転向した講座派マルクス主義者・相川春喜の理論と経歴を取り上げ」、「技術についての想像力の多様でダイナミックな主体性とエネルギーが、日本ファシズムの展開に、結果的にはどのように動員されていったかを示す」。

 「第二章「アジア発展のための技術」では、当時の重要な技術官僚である宮本武之輔と、技術者運動の言説を検討する。宮本は「技術の立場」、「総合技術」、「興亜技術」という概念を通して、技術官僚は、社会を組織化し複雑な問題を解決する「社会管理者」になるべきだと主張した」。

 「第三章「大陸を建設する」では、具体的に三つの「総合技術」あるいは「総合開発」事業を分析」し、「実際の現場においてあらかじめ想定していた技術的想像力は弱く、脆く、不均等なものでしかなく、多くのあいまいさや葛藤があったことを示してゆく」。

 「第四章「帝国をダム化する」では、満州国の豊満ダムと朝鮮と満州国の国境に跨がる水豊ダムの事例を分析」し、「企業や居住者などのアクターが技術をめぐる言説が持つ進歩と近代化のナラティブに挑むような対抗言説(たとえば、木材業者は、生業と戦時経済とバランスのとれた権利を主張し、居住者は科学技術の破壊的な力に警戒をした)も生まれていたことを指摘する」。

 「第五章「社会機構を設計する」では、毛利英於菟という人物を通じて、満州港での「革新官僚」たちの持った技術的想像力のひとつの典型例を分析」し、「ファシズムの定義を生産性、創造性、自発性を動員する方法を含むものと広げ、さらにテクノ・ファシズムの具体的な様相に迫ろうと」する。

 「終章「戦後におけるテクノファシズムとテクノ帝国主義の遺産」では、戦後と戦中の非連続性の歴史記述への問いかけを行う。ここでは、連続性、すなわち戦後日本の東南アジア・東アジアにおける広範なODA事業、戦後日本の経営主義、開発主義の形成と総合国策機関の継続、経済発展のための科学技術政策、そして全国総合開発計画等を指摘」する。

 終章では、さらにつぎのように未来を展望して、本書の結びとしている。「戦時期に淵源を持つ技術と結びついた非民主的遺産を理解し向き合うことは日本の二一世紀の困難を乗り越える上で大きな可能性をもたらすであろう。慢性的な不景気や原子力に過度に依存した危険なエネルギー政策、継続する支配的かつ強固な官僚制度、真の意味で地域の能力を養成することに失敗した海外での開発援助などの諸問題の根源は、日本という国家とそこに連なる者たちが長期間にわたる発展途上国の貧困解決策は技術であると訴え取り組み続けたことにあるのだから」。

 本書は、内容的にも文章的にも、けっして読みやすいものではない。それを補うべく適切な「解説」(塚原東吾・藤原辰史)が付されている。「解説」の最後で、「現在のモーアの研究と現代的な意味」をつぎのようにまとめている。「モーアが検証している事例は、日本の原発輸出の問題、つまり、東南アジア、東アジア各国への「原発技術」の移転のための試みや、核科学・原子炉技術をめぐる専門的な学生・研究者のJICA(独立行政法人国際協力機構)研修制度による、いわゆる「原子力ムラ」のアジア的なサブ(もしくはネオ)・コロニアルな拡大などについても参照事例になることだと考えられる。このような観点からも、本書の訳出が、この領域やその周辺に、より大きな議論を喚起してゆく契機になることを望んでやまない」。

 著者は、「父上がアメリカの外交関係者であり、母上は韓国人、そしてモーア自身も日本生まれということもあり」、「日本語・韓国語に通じている」。「文化的にもオープンであり、社交的で快活、そしてまた多くの友人にも恵まれた人物であって、アメリカにおける日本科学史・技術史の中堅を占めていた」。本書のようなテーマは、このようなハイブリッドな研究者の出現によって可能になった。それでも、まだまだ多くの課題が残されている。

 本書では、インフラ整備がおもに取りあげられ、資源開発、とくに東南アジアについてあまり語られていない。いっぱんに科学技術が日本より進んでいた欧米の植民支配下にあった東南アジアでは、日本の軍事占領にともなって多くの技術者が、欧米の科学技術を「盗む」ために派遣された。技術者も、積極的に協力した。そして、戦後、戦犯に問われることを恐れて、資料を処分し口をつぐんだ。それが、戦後の東南アジアへの賠償・ODA(政府開発援助)にどう絡んでいくのか。これらの課題に取り組みはじめていたのに、47歳という若さで急逝したことがくやまれる。

赤澤史朗『戦中・戦後文化論-転換期日本の文化統合』法律文化社、2020年10月20日、362頁、6500円+税、ISBN978-4-589-04099-2

 帯に、「戦後75年-。戦中と戦後の間の連続と断絶を実証的に捉え直す。」と大書され、右につぎのような具体例があげられている。「小説家、力士、出版界、雑誌、天皇制など、戦中・戦後の文化・政治を特徴づける多くの個別テーマ研究を、戦中・戦後の通史的構成のなかに配置し再評価する。著者の複合的な歴史観と多様な観点による、これまでの研究の集大成。」

 本書の「初出一覧」をみると、もっとも古いものは1983年で、全9章2補章の11論考のうち4つは1983-90年、2つは1994-2000年、もっとも最近のものは2015年に出版されていることがわかる。それにたいして、著者、赤澤史朗は「はじめに」の最後で、つぎのように説明している。「ではなぜ、最初の公表から長い時間を経た今、公刊するのであろうか。僕が最初に発掘して、時には二〇年以上の年月を経てから、初めて体系的な批判が寄せられるという、あまり一般的ではない経験が、僕の論文には往々にして見られる。先行研究の少ない領域の研究だったからであり、研究蓄積が現代に近いところにまで及ぶのに、相当の時間がかかることもあったからであろう。問題の見つけ方や実証の仕方は幸い今なお有効であり、旧稿も今日でも変わらぬ「今」の研究として扱われていると考えている」。

 本書は4部からなる。「第一部 戦中編」(1941-45年)は3章からなり、「息苦しいあの時代を描こうとしたものだ」。「第一章 アジア・太平洋戦争下の国民統合と社会」は、「一九四〇年を画期とした総力戦体制の構築のための官製国民運動について検討し」、「軍国主義化の進む経緯を叙述している」。「第二章 太平洋戦争期の青少年不良化問題」は、「内務・司法・厚生・文部の四省の緊急対策として作られた「勤労青少年補導緊急対策要綱」(一九四二年)と、その実施過程を明らかにしたものである」。「第三章 戦時下の相撲界-笠置山とその時代」では、「相撲=武道論の一つを唱えた学生相撲出身の笠置山」をとりあげる。「彼の主張は、一方で軍隊の相撲の応援にもなりながら、あらゆる自由主義・個人主義を頭ごなしで非難する時代の風潮に正面から逆らうものであった」。

 「第二部 戦後・占領期編」は、4章からなる。「第四章 戦後・占領期の社会と思想」は、2つの論文からなり、「第四章の(一)は、戦争末期の「一億玉砕」が叫ばれた時期に始まるが、人々は都市大空襲のさなか、疎開の準備に追われ、精神は「自己喪失」していたというのが実態であろう」とみた。「第四章(二)では、天皇の戦争責任問題も取り上げた」。「第五章 出版界の戦争責任と情報課長ドン・ブラウン」では、「出版界の戦争責任追及を取り上げた」。「第六章 占領の傘の下で-占領期の『思想の科学』」は、「とりわけアメリカ哲学における幸福感とは何かを解明し、さらに科学と宗教との関係について明らかにした」。「第七章 占領期日本のナショナリズム-山田風太郎の日記を通して」は、「かつての軍国少年少女であったロスト・ジェネレーション世代の一人の医学生の生活と意識を描いたものである」。

 「第三部 転換期日本の文化」は「第八章 戦中・戦後のイデオロギーと文化」と「補章(一) 書評 鶴見俊輔『戦時期日本の精神史』」からなり、「戦中期と戦後・占領期が重なりあう」「急転回する時代を再検討するために設けられた」。第八章は、「戦中から戦後にかけての、政府の宣伝する支配イデオロギーとそれと関連する文化論の盛衰のさまを追ったものであり、ここには総力戦体制からの単純な連続説だけではとらえがたい実態があったことが見てとれる」。

 「第四部 象徴天皇制論」は、「第九章 藤田省三の象徴天皇制論」と「補章(二) 近年の象徴天皇制研究と歴史学」からなる。第九章では「なぜ皇統が「連綿として」前近代の天皇制から続いているかについて、問いかけている」。補章(二)では、「二一世紀に入ってからの象徴天皇制と女性皇族をめぐる、「有識者」のさまざまな提案を批評したものである」。

 以上を総括して、著者はつぎのようにまとめている。「本書に再録した諸論文では、しばしばイデオロギー的な題材を取り上げながら、なおイデオロギーのみには捉えられない視点で追跡している。それは、実証的にその当時の社会の実像に迫ることを中心にしたものであった。また、たとえば戦争責任をめぐって、その議論が各方面に波及していく状況を取り上げている」。

 1980年代からの議論が、いまに通用すること自体が問題である。この40年間、歴史認識問題がさまざまなかたちで取りあげられ、とくに日中、日韓では大きな問題となったが、解決の糸口さえ見つからない状況がつづいている。「旧稿も今日でも変わらぬ「今」の研究として扱われている」ことが、大きな問題といえよう。

山縣大樹『帝国陸海軍の戦後史-その解体・再編と旧軍エリート』九州大学出版会、2020年9月24日、272頁、4000円+税、ISBN978-4-7985-0292-2

 本書がめざしたものは、「序章 課題と視角」の最初の頁で、つぎのように記されている。「本書では、帝国陸海軍の解体と再編をめぐる一連の過程における「旧軍エリート」の動向を通じて、その特質を明らかにし、歴史的意義を解明することを主たる課題としている。念のため、誤解を避ける意味であえて付言しておくと、本書は、帝国陸海軍の解体と再編(あるいはそれを推し進めたGHQの対日非軍事化政策)それ自体の解明というよりも、その過程にみる「旧軍エリート」のさまざまな動向から、何かしらの「政治性」-次節で述べる占領史・戦後史研究の「盲点」-を抽出し、それを戦後史のなかに位置付けることを目指すものである」。

 具体的事例としては、以下の「三つの柱を主軸に検討を進める」。「①GHQの対日占領を下支えした復員組織職員の動向と役割の解明、②「経済的非武装化」としての軍人恩給廃止の衝撃とその反動、③対日再軍備過程における「旧軍エリート」の認識・活動とその影響」。

 本書は、序章、全5章、終章、あとがき、などからなる。「第一章「敗戦と武装解除」では、復員業務に従事する復員組織職員の言動を陸海軍別に検討する」。「第二章「復員組織職員の職務と役割-第二復員省における公職留任の実態-」では、帝国陸海軍軍人の復員業務への従事および復員組織への残留を制度的に補完した、公職留任の運用状況を検討する」。

 「第三章「軍人恩給の復活過程-『経済的非武装化』をめぐる衝撃と諸相-」では、軍人恩給が停止から復活にいたる政治過程を、制度をめぐる都度の政況と諸勢力の議論を関連付けながら分析していく」。「第四章「『反動』と旧軍人特権回復-軍人恩給在職年数加算制度復活を事例として-」では、「軍人恩給厚遇化による旧軍人特権の回復に奔走する軍恩全連の政治運動を扱う」。

 「第五章「旧日本海軍グループの『空海軍』再建とその遺産」では、占領期後半以降における対日占領方針の変化(経済自立化・日本再軍備、早期対日講和)、および東アジア情勢の緊迫化といった時代の転換期に際して、新海軍再建を希求していく旧日本海軍グループの「空海軍」構想を追いつつ、彼らの構想が日本再軍部に与えた影響や意義等を検討し、戦後史における彼らの適切な位置付けを行」う。

 「終章「帝国陸海軍の解体・再編と旧軍エリート」では、以上の五つの章で論じた、復員・恩給・再軍備にみる各アクターの特徴と役割、および動向分析にみる特質や位置付けを総合的に検討しつつ、本研究の総括を行う。こうした「旧軍エリート」の政治性を踏まえて、従来の占領史・戦後史研究一般で等閑視されてきた、一つの政治勢力としての彼らの立ち位置を示しつつ、その歴史的意義を明らかにし、本書の結論を述べる」。

 そして、「三つの分析軸から、アクターとしての特徴や役割、および動向分析に基づく特質の解明を試み」、「帝国陸海軍の解体と再編をめぐる「旧軍エリート」の足跡を戦後史のなかで改めてとらえ直」した結論は、つぎのようにまとめられた。「敗戦後、連合国によって完膚なきまでに打ちのめされた帝国陸海軍であっても、「旧軍エリート」が自身の勢力保持とその拡大、あるいは自己利益の獲得を模索し続ける一つの勢力として、戦後日本の政治に関与する力を持つ背景とその行使-いわば、軍隊なき国家における帝国陸海軍の「残滓」-は、以上のメカニズムに由来する。これが本書の結論である」。

 今日まで尾を引く歴史問題の大きな要因のひとつは、敗戦の張本人である帝国陸海軍が「復活」したことである。その復活の内容が問題である。たとえば、恩給は生活保障としてではなく、階級に応じて支給された。本来、階級の高い者ほど責任が重く、最低限でいいはずだが、職責を果たしたかのように支給された。このような厚遇では、「反省」というものは生じない。ほかの国ぐにでは、戦死者は個々別々に同じ大きさの墓標で平等に扱われるが、日本では集合的に扱われる。集合的に扱われることで、階級が高かった者が代表者になり、大きな顔をするようになる。本書から、諸々の問題が、終戦直後からあったことがわかる。

園田茂人『アジアの国民感情-データが明かす人々の対外認識』中公新書、2020年9月25日、256頁、880円+税、ISBN978-4-12-102607-1

 本書の概要は、つぎのように表紙見返しにある。「政治体制や文化が異なるアジア各国は、歴史問題や経済競争も絡み近隣諸国への思いは複雑だ。本書は、10年以上にわたる日中韓・台湾・香港・東南アジア諸国などへの初の継続調査から、各国民の他国・地域への感情・心理を明らかにする。台頭する中国への意識、日本への感情、米中関係への思い、ASEAN内での稀薄な気持ち、日韓に限らず隣国への敵対意識など様々な事実を提示。データと新しい視点から国際関係を描き出す」。

 本書の目的は、「まえがき」の最後で、著者、園田茂人はつぎのように述べている。「本書は、筆者が入手したデータを用い、アジアを構成する国や社会が、それぞれにどのような感情を抱え、これがどのように対外認識や国際関係を作り上げているかを読み解くことを目的としています。そうした作業を通じて、アジア域内の国家間関係がくっきりした輪郭を現すばかりか、いままで見えなかった人びとの心のひだが明らかになるからです」。

 著者は、「序章 なぜ国民感情なのか-対外認識を可視化する」で、これまでの調査の問題点を、つぎのように3つあげている。「第一に、世界規模の調査では、調査可能な大国が対象となりやすく、アジア域内のいくつかの国・地域が対象から抜け落ちる傾向にあります」。「第二に、アジア各地で実施されている調査結果を見ても、アジアを俯(ふ)瞰(かん)するには調査対象地域が限られています」。「第三に、多くの調査結果は、一次データまで公開されるケースが少なく、条件をコントロールして、比較を進めることが難しい状況にあります」。

 そして、本書で使用したデータが優れていることを、つぎのように説明している。「多くの国・地域をカバーし、域内の国家間関係を広く質問している、しかも時系列でのデータがあるとなると、私たちが実施してきたアジア学生調査が最適です。ところが、アジア学生調査にも、①カンボジアやミャンマー、インドが調査の対象となっていない、②調査対象者が学生に限られている、といった制約があります」。「他方で、アジア学生調査の場合、①同じ条件でサンプリングをしているため、比較可能性が確保されている、②調査対象者が国際事情を理解した各国のエリート学生であるため、「わからない」という回答が少ない、といった利点があります。何より、これらの学生が将来、それぞれの国・地域のリーダーとしてアジアを牽(けん)引(いん)する存在になることを考えると、彼らに注目してアジアの国際関係や国際心理を論じることには、大きな意味があります」。

 本書は、まえがき、序章、全6章、終章、あとがき、などからなる。「第1章 台頭する中国への錯綜する視線-何が評価を変えるのか」では、「中国の台頭をめぐって、アジアの近隣諸国がどのように評価しているかを論じます」。「第2章 ASEANの理想と現実-域内諸国への冷たい目」では、ASEAN地域統合をめぐる心理的な特徴を見ていきます」。「第3章 東アジア間の心理的距離-厄介な近隣関係」では、「第2章で扱われない東アジアを取り上げ、その対外認識を概観し、アジア域内で相互予期仮設(ママ)[仮説]が当てはまるかを検証します。そして、その結果から、アジアにおける国家間関係の特徴を見ることにしましょう」。「第4章 アジア各国・地域の特徴とは」では、「第1章から第3章で提示されたデータを振り返りながら、アジア学生調査がカバーした国・地域の国民感情の特徴を深掘りします」。「第5章 影の主人公アメリカ-米中摩擦とアジアの反応」では、「アジアにおけるアメリカの存在に注目します」。最後に、「第6章 日本への視線-アジアからの評価、アジアへの目」では、「アジア域内の人びとが日本をどのように見ているのかを論じます。そして、ソフトパワー仮説を検証するとともに、日本がアジアをどう見ているかについても再確認します」。

 これらのデータ分析を経て、「終章 国民感情のゆくえ」で、つぎの4つが明らかになったとしている。「第一に、以前から見られた中国への警戒感や否定的な評価が、今回の調査結果でも表れています」。「第二に、日本の冷戦体制メンタリティーが確認されています」。「第三に、隣国である韓国と台湾への異なる評価が、今回の調査でも確認されています」。「第四に、台湾同様に評価が高いのがオーストラリアで、評価の最底辺にいるのが北朝鮮という状況にも変わりが見られません」。

 そして、最後の見出し「国民感情をめぐるギャップ」で、つぎのことを確認したと述べている。「国民感情が厄介なのは、本来個々の人間の感覚をもとに成り立つ認識や評価が、あたかもすべての人に共有されているもののように感じられ、客観的に存在しているかのように思われる点にあります。しかも自らのバイアスに気づきにくく、理解のためのフレームと現実とが同じものに見える特徴を持っています」。「本書では、フレーム受容と実際の行動の間や、政治的主張と現実認識の間にギャップが存在していることを何度となく確認してきました」。

 つづけて、つぎのように説明している。「国・地域によって対外認識が異なり、国・地域の内部で意見の不一致が見られること、また冷戦体制の崩壊がもたらすインパクトに地域差があることは、ある意味健全なことです。認識を支えるミクロ/マクロな条件が、国・地域や個人・集団によって異なるからです」。「重要なのは、国民感情のこうした特性を知ったうえで、これを尊重する姿勢を維持できるかどうかです」。「同じことは、国民感情をめぐるギャップについてもいえます。私たちが認識のギャップを知り、そのための対策を打てば、最悪の事態を避けられるはずです」。

 本書によって、議論の礎となるデータが示された意義は、きわめて大きい。問題は、使う人です。ここに出てきたデータは、あくまで参考になるだけで絶対ではないのに、絶対であるかのように、使う人によって独り歩きすることになってしまうことがある。質問の仕方や回答欄の順番によっても、大きく違う結果が出てくる。無意識に回答を誘導するような質問になったり、選択肢が期待される順番に並んでいたりすることもある。肯定的な質問と否定的な質問、好き嫌いのどっちを先に選択肢にもってくるかで違ってくる。国や地域によって、はっきりした回答よりあいまいなほう(どちらかといえば・・・)を選ぶ傾向があったりなかったり、質問者が自国民か外国人かでも当然違う。対人関係を重視する東南アジアの人は、相手が期待する回答をしてしまうかもしれない。域内貿易が20%かそれ以下が多いASEAN諸国の結束を、50%のEUと比べて「域内諸国への冷たい目」と結論されても困る。「20%」程度しか期待していないのに、・・・。

 このようなこともすべて、議論となる基礎的データを示され、それに基づいた考察が本書でおこなわれたからこそ、いえることである。著者もそのことを重々知っているから、終章をつぎのようなことばで閉じている。「本書が、今後の研究に一石を投じることができれば、そしてその結果、域内の相互理解が深まることになれば、筆者としてそれに勝る幸せはありません」。

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