藤原辰史『農の原理の史的研究-「農学栄えて農業亡ぶ」再考』創元社、2021年1月30日、357頁、3500円+税、ISBN978-4-422-20295-2

 なにやら空恐ろしい話で、はじまる。序章「科学はなぜ農業の死を夢見るのか」「1 食と農の死」の最後の見出しは、「食と農のディストピア」である。

 著者、藤原辰史は、序章の「おわりに-人類史の臨界点で」で、つぎのようにまとめている。「農学には二つの原動力がある。食と農に関わる人間の負担を科学の力でできるだけ軽くすること。そして、食と農が持つ固有の価値を突き詰めていくことである」。「一つ目の原動力の臨界点は、シャーレの上で幹細胞から牛の筋肉を培養すること、消化の不必要な食品を生産すること、消化器官の退化、そして北輝次郎[北一輝]が夢見た肛門の閉鎖にまで至るだろう」。「二つ目の原動力の臨界点は、農民が工業労働者ではなく、農民であるために、農業が工業ではなく農業であるために、他国の土地を暴力で奪ってでも移民する場所を作り上げるというかつての農本主義にまで至るだろう」。

 著者は、つづけて「本書が最終的に目指している」3つについて、つぎのように述べている。「第一に、これら二つの原動力に引き裂かれながら「農学栄えて農業亡ぶ」という状況のなか研究をつづけた農学者たちや農業に関わった知識人たちの思想と実践を、歴史学的に精査することであり、第二に、それらの知識人たちが格闘した資本主義とはいったい何だったのかを検討することであり、第三に、そのあとでもなお残る思想のようなものがあるとすればそれはどのようなものなのかを明らかにすることである」。

 本書は、序章、全6章、終章などからなる。全6章では、「農をめぐる学問の担い手たちの具体的な思考と実践の経路を辿って」いる。著者が、第一に試みたかったことは、「農学の前進が農の存在根拠を脆弱化させるというパラドックスに引き裂かれて、そのなかで神がかり的な思想や行動に人生を捧げることも辞さなかった研究者たちの足跡を辿りつつ、農学という思考の場でこれら二つの綱引きがどのようになされたかを描写することで」、つぎのように章別に具体的に紹介している。

 「ロシアの小農論者チャヤーノフ(第1章)、日本の「農学の祖」横井時敬(第2章)、満洲移民の理論的指導者橋本傳左衛門(第3章)、「農学の哲学」の著者クルチモウスキー(第3章)、橋本の弟子で満洲移民運動を陰で支えた杉野忠夫(第4章)、満洲農業の中核となる法律「開拓農場法」作成に携わった小野武夫と川島武宜(第5章)、イタイイタイ病の原因を突きとめた農学者吉岡金市(第6章)などである」。

 つづけて第二に試みたかったことを、つぎのように述べている。「学問の営みそのものが、「現実からの遊離」と「現実への接近」という二つの現象にどのように引き裂かれてきたか、それならばそもそも学問とはどんな理由でこの世に存在しているのかという問いを、農学の事例から考えることである。医学が栄えると医療は滅ぶのか。神学が栄えると神は滅ぶのか。法学が栄えると法は滅ぶのか。経済学が栄えると経済は滅ぶのか。歴史学が栄えると歴史は滅ぶのか。そんなわけはない、と学問の只中にいる学徒は信じたいが、実は簡単に答えを導きだすことができない。この自分自身を抉るような思考は、人間を何かから解放しようとしてきた私たちが、なぜいま高度な科学文明のなかで生的な充溢感を失いつつあるのかという生活の問題、あるいは、対象を分解して理解しようとすればするほどその対象から離れていく、という学問の問題ともどこかでつながっていることだろう」。

 終章では、序章で掲げた3つの「最終的に目指している」問いを見出しに、それぞれつぎのようにまとめている。まず、「農学の思想はどう紡がれたか」については、「農業の非経済的要素こそが農学を他の学問から切り離すものであり、いわば「農の原理」であった。だからこそ、経済活動が巨大化するなかで、農本主義のような思想運動が世界各地に登場する。ところがこの農本主義は、精神主義的な葛藤なき機械主義であり、無駄をなくす労働の純化であり、[二宮]尊徳をテイラー主義に接続させる思想であり、農学の宿命に抗する思想になるどころか、資本主義的に乗り遅れた農業を農民の心理への圧迫によって資本主義にキャッチアップさせる役割を果たした」。

 つぎに、「農学のまなざしから見える資本主義とは何か」については、「社会主義を選ばなかった日本、ドイツ、イタリア、ハンガリー、ポルトガルは、経済危機のなかであっても民族、人種、性差別に根差すことで運動を続ける資本主義を、計画経済を混入しながら温存しようとした。たしかに、日本は、満洲国で、こうした西欧の民族差別を克服し、五族協和をスローガンに掲げもした。だが、農業経済学者や少なからぬ開拓団員が、「大和民族」の優秀性とそれ以外の民族の劣等性を前提としていたことはすでに述べたとおりであり、ナチスの人種主義がドイツ農民を資本主義下でもできるかぎり温存する役割を果たした。両国ともにパルチザンの抵抗運動を招いたこと、ポルトガルやイタリアも植民地への強制を強める結果になったことは、やはり強調しておくべきだろう」。

 最後に、「それでも残る農の原理とは何か」については、「道徳主義、精神主義、異国ならびに他者の破壊と包摂、自国礼讃。幸運にもそのような落とし穴をすべて逃れられたうえで、食と耕を総合した実学がおのずと生ずれば、農だけの価値を排他的に説く農本主義もほとんど力を持たなくなる。それだけではない。そのとき、農業は、あなたは美しいと答えつづけてきた魔法の鏡を叩き割り、医、食、心、政、技との交わりを深めて栄え、ただ専門化するだけの官許の農学は静かに亡び、分解され、まだ見ぬ総合的な学問の肥やしとなっていくだろう」。

 「あとがき」では、「仲間たちと一緒に、いろいろな実践に首を突っ込み、仲間たちとともに発言や実践を繰り返すことがやめられない」著者が、本書を通じて得た収穫を、つぎのように語っている。「本書は、そんな私の実践の自己点検でもある。実践は、必然的に学問の問いの立て方に対し深刻に影響する。立てた問いは、個人の思想から離れて徹底的に実証の手続きに洗われる。私はどちらかと言うと講座派的な考え方よりも労農派的な考え方に惹かれるし、大農論よりも小農論の陣営にいると思って実践をしているが、今回の研究の問いの一つは、そのような考えがどうして悲惨な歴史と深い関係を結んだのか、というものであった。実際、私の立ち位置と異なるはずの吉岡金市の仕事に興味を抱き、吉岡のように実践と学問を往復することが、かならずしも学問的壊滅をもたらさないことを知ったのは収穫である。自分の予想を裏切るような事実の発見こそ、学問の面白いところだと本書執筆でも感じることができた」。

 本書で議論した「農」は、人民や大衆の大半が「農民」であった時代の話である。それがいまや、「農」に生きる人びとはマイノリティになったし、意味も大きく違っている。日本で「農」がマイノリティになりつつあった時代に、まだ「農の原理」がいきていた途上国に「指導」に行った青年海外協力隊員がいた。「農」がほかのものと接合する場合、そこには当然、人とのかかわりがある。協力隊員の「指導」は、「農学栄えて農業亡ぶ」を「実践」していた面があったのではないか。だから、任期を終えて帰国するとき隊員が口を揃えて、「教えるつもりが、教わることのほうが多かった」と感想を述べたのではないだろうか。著者が机上の学問では終わらせたくない「農の原理」は、著者が実践している「学校給食や有機農業の普及運動、地域や大学の自治を作る運動などに関わり、アカデミズム以外の人びとと交流を続けて」いくなかにあるようだ。


評者、早瀬晋三の最近の編著書
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早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
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