坂本邦夫『紀元2600年の満州リーグ-帝国日本とプロ野球』岩波書店、2020年7月21日、339+33頁、3000円+税、ISBN978-4-00-061416-0

 本書の概要は、表紙見返しにつぎのようにまとめられている。「東京オリンピックが幻に終わった1940年。神武天皇即位から2600年とするこの年、日本統治下の満州で、日本プロ野球チームによるリーグ戦が開催された。しかし、これを契機にプロ野球は国策と戦争に翻弄されていく-。学生野球が盛んだった1920年に「職業野球」として始まり、蔑まれつつ、苦難の道を歩んだ日本プロ野球の埋もれた歴史を、河野安通志(1884-1946)と孫孝俊(1901-63)という日韓二人の野球人の運命を軸に克明に描き出す」。

 主タイトルとなった「紀元2600年の満州リーグ」は、本書で描かれた日本プロ野球の誕生と初期の「苦難」の歴史のほんの一こまにすぎない。そして、2人の「主人公」は、一般にはあまり知られた野球人ではない。

 河野安通志は、「一九二〇年秋に日本初のプロ野球チーム「日本運動協会」を盟友押川清、橋戸信(筆名・頑鉄)らとともに設立した」。3人は「早稲田大学野球部の草創期の中心選手で、河野は右投げのエースピッチャーだった。母校早大の講師を六年ほど務めていたこともあり、球界屈指の理論家として知られた。三人はともに野球殿堂にその名を刻む日本野球界の大功労者である」。だが、日本初のプロ野球チームは、「野球を職業にすることへの理解に欠ける時代で」、「仲間であるはずの同じ野球人からも冷たい視線を浴び続け」、孤軍奮闘空しく9年で幕を閉じた。「チームの解散後、河野は母校早大野球部の総務や評論活動で雌伏の時を過ごすが、一九三六年二月に読売の正力主導で巨人など七チームによる日本職業野球連盟が誕生すると、加盟チームの一つ「名古屋軍」に招かれ総監督に就任、同年末には辞任し、翌三七年には自身二度目のプロ野球団である「イーグルス」を押川らと設立して総監督になった」。そして、1940年夏、河野は遠征団長として連盟に加盟する全9チーム、総勢約200名を率いて、満州に渡り公式戦72試合をおこなった。俗に「満州リーグ」と呼ばれた。

 もうひとりの主人公、孫孝俊は、河野らが設立した日本初のプロ野球チームに在籍した何人もの朝鮮の野球選手のひとりで、もっとも活躍した。「一九二二年六月に真っ先にチームに加入し、解散する二九年七月まで主にセンターを守り、ときには四番も打つなど強打の外野手として鳴らした」。「運動協会が解散すると映画会社のマキノ・プロダクションに入社し、俳優をやりながら野球を続け、二年連続で全京都の一員として都市対抗野球大会(一九三〇、三一年)に出場している」。「労働争議でマキノ・プロが潰れると、日本が満州事変を起こして作った満州国へ渡り、満鉄系の電力会社南満州電気に就職、強豪チームの奉天満惧でプレーした後、同社が満州の電気事業を統一するために誕生した満州電業に吸収されると新京本社へ異動となり、新たに創設された満州電業チームでも主力として活躍した」。「その後、同社安東支店に転勤になると、安東実業というクラブチームを立ち上げ、選手兼任監督を務めている。このときすでに齢四十を数えた」。

 この2人を「めぐるいくつかの逸話は、植民地統治に寄り添いながら朝鮮や満州や台湾へと野球を持ち込み、広めていった日本人による「外地」の野球史の一断面である。運動協会で出会い、七年を師弟の関係で共に過ごした河野安通志と孫孝俊。奇しくも二人の軌跡は、いつしか時を違えながら満州へと伸びていく」。「なぜ満州だったのか-」。

 つづけて「日韓二人の野球人のはるかな道行をたどってみよう」ということばで、「プロローグ」を締め括っている。

 河野は戦後、3度目のプロ野球に挑戦し、新球団を日本野球連盟に加盟申請し却下された。その決定を知ることなく1946年1月12日に急逝した。日本の「プロ野球のために生涯を尽くした河野は、戦後のプロ野球復興に献身する機会を与えられることなく世を去った。日本の野球史に大きな足跡を残しながら、その評価は不当に低い」。

 いっぽう、孫孝俊は、戦後、朝鮮野球協会の役職を歴任し、1963年9月に無理をして来日した翌月に亡くなった。「河野安通志がそうであるように、孫孝俊もまた十分に韓国野球史のなかで評価されているとは言い難いものがあるようだ」。「韓国で最初にプロ野球選手になった人物であるにもかかわらず、そこに正しくフォーカスされないのは、河野の運動協会の評価が日本でそうであるように韓国においても不当に低いからだろう。韓国が日本統治下にあった時代、孫孝俊は日本と満州で二〇年を超える歳月を過ごした。そのことが孫孝俊の野球人としての評価に何かしら影響を与えているのかもしれない」。

 このことは、著者、坂本邦夫が満州リーグについて調べていたときに受けた、つぎの指摘にも通ずる。「満州リーグ? 調べても何も出てこないよ。あれは満州日日新聞に呼ばれたから行っただけ。まさか軍のお先棒を担いだとか言って、当時の職業野球の戦争責任でも追及しようってんじゃないよね? あの時代、野球は敵性スポーツだと弾圧されていたから、生き延びるのに必死だったんだよ。いまの時代に生きる者が、戦争の時代に生きた者を体制に迎合したと裁くようなことをするのは、あまり気持ちのいいものではない。お前はしなかったのか、と問われたとき、しなかったと言えるほどぼくは強くない」。

 それでも、著者が取材をつづけたのは、つぎのような理由によった。「満州リーグの遠征団長だった河野安通志の野球人生を調べるうちに、野球という外来スポーツが不幸にも背負わされてしまった理不尽な排斥や差別の歴史を知ったことで新たな視座を得たからだ」。

 そして、「あとがき」で、つぎのようにまとめ、結論としている。「学生野球は、不当な排斥などを回避するために日本の伝統武術にも劣らない精神修養の方途であると武士道野球を掲げ、撃剣などと同様の神聖性を纏おうとするが、現実には甲子園球場や神宮球場が満員になるほどの興業性を獲得していく。そうした事態を恐れたからこそ河野や押川清らは日本運動協会を創設し、健全なプロ野球市場を育てようと考えたのだが、味方になってくれる野球人は少なかった。野球で稼いで食べるということがひどく不純で自堕落な行為に思えただけでなく、それまで積み上げてきた武士道野球のイメージが、野球商売人のせいで穢れる、との苦々しい思いもあったのだろう」。

 「このため、学生野球界の有力選手は誰一人協会チームに加入することはなかった。そこで河野らが目を向けたのは、孫孝俊をはじめとする日本の植民地統治下にあった朝鮮の野球人だった。このことは野球というスポーツが、満州や朝鮮、台湾で、さまざまな理由から植民地統治に寄り添い、利用されてきたという事実を筆者に教えてくれた。職業野球を賤業視する世間の眼差しは、正力松太郎の主導で始まったプロ野球でも変わることはなかった。満州リーグは、冷たい視線を浴び続けたプロ野球が新天地を求めた一大興業であると同時に、満州統治を支える在満日本人を慰撫するための重要なイベントでもあった」。

 日本の植民地統治下にあったとはいえ、朝鮮と台湾では野球の受け止め方が違う。満州のような日本の支配・占領地の中国人は、野球をしなかった。今日、日本、韓国、台湾はオリンピックのような国際大会でしのぎを削るが、そこに中国は入ってこない。そして、日本代表チーム名は「侍ジャパン」である。

 いま、わたしは河野安通志ら本書に登場する野球人が活躍した戸塚球場(安部球場)跡地に建つ中央図書館を見下ろす建物にいる。中央図書館前には、安部磯雄、飛田穂洲の胸像はあるが、河野安通志のものはない。


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