ニコ・ベズニエ、スーザン・ブロウネル、トーマス・F・カーター著、川島浩平、石井昌幸、窪田暁、松岡秀明訳『スポーツ人類学-グローバリゼーションと身体』共和国、2020年9月20日、473頁、4500円+税、ISBN978-4-907986-65-0

 本書が出版された前々月の2020年7月、拙著『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』(めこん)が出版された。本書を参考文献にできていれば、拙著でもうすこし「厚味」のある議論ができていたかもしれない。本書で網羅的と言っていいほど取りあげられたスポーツにまつわる数々のことが、拙著でも取りあげられていたからである。しかし、本書で「網羅的」に取りあげられたなかに、拙著で取りあげた「東南アジア」にかんするものはほとんどないし、拙著の視点である「海域世界」や「地域としてのスポーツ」はない。本書の執筆者・訳者が拙著を読んでいれば、さらに「網羅的」になっただろうし、「訳者あとがき」もすこし違ったものになっていたかもしれない。

 「本書は、学問としての後発性がもたらす不利や不足を埋め合わせるべく、オランダ、アメリカ合衆国(略)、イギリスを研究の拠点とする三者が満を持して書き上げたスポーツ人類学の概説書である」。「日本語版への序文」では、2018年にカルフォルニア大学出版局から出版された本書の英語版を書いた理由を、つぎのように述べている。「スポーツの研究が現代の人類学と人々の生活の主だった関心に多大な貢献をすると感じたからである。人類学者はいまやあらゆる形態のスポーツに関心をもっている。それは、スポーツが二十一世紀の人々の生活で重要な役割を果たし、また現代世界の中心的な問題に示唆を与えているからである」。

 このことは、「エピローグ 人類学にとってのスポーツ」で、さらに詳しくつぎのように説明されている。「我々は本書で、単に社会や文化におけるスポーツの位置づけについてのみ描くことを目指したわけではなかった。つまり、人類学の概念や方法がスポーツにまつわるトピックにいかに適用可能かを探ろうとしたわけではなかった。そうしたありきたりな仕事は繰り返し試みられてきたが、まとまりのある結果がもたらしてはこなかった。我々がそれをありきたりと呼ぶのは、結局のところ、そうした研究は少数の社会科学者の関心しか集めないからである。本書はむしろ、人類学にとってのスポーツについて書かれたもので、スポーツというレンズを通してどのような幅広い問いを投げかけることができるのかを示したものである。スポーツは、社会や文化、そして政治の仕組みについてなにを教えてくれるだろうか。また、スポーツはそのなかに埋め込まれている社会的・経済的関係や政治的なプロセス、そして象徴構造を理解するのにいかに役立つのだろうか。この問いはとくに的を射ている。なぜなら過去三十年間にわたって、身体、ナショナリズム、近代性、グローバリゼーション、トランスナショナリズム、国家、市民権、ジェンダー、セクシュアリティなどのトピックが人類学の理論において中心的な役割を果たしてきたからである。これらのトピックは偶然にもスポーツの根本的な側面でもあるので、スポーツを人類学における現代的関心の中心に位置づけることになるのである」。「人類学」を「海域世界」や「東南アジア地域研究」に置き換えると、拙著がめざしたものになる。

 そして、つぎのパラグラフで、「エピローグ」を結んでいる。「まさにいま、スポーツの人類学は人類学の亜領域としての本領を発揮しつつある。人類の壮大な歴史についてのこの手短な概説は、スポーツが世界中で時空を超えて社会生活の中心であったことを示してきた。そして、近代スポーツは、近代という時代の産物であるばかりでなく、近代という時代を創り出す助けとなったのである。我々が暮らすこの困難な世界をより良く理解するのにスポーツが貢献するのだ、ということの魅惑的な民族誌的証拠と創造的な理論的洞察の一端を本書が提示できたなら幸いである」。

 本書で、まず議論しなければならなかったのは、「序章」の見出しになっている「スポーツの概念」と「人類学のなかのスポーツ」だった。

 まず、「スポーツの概念」については、つぎのようにまとめている。「我々は一般的に、スポーツの非常に広い定義を採って、何がそれを他の日常的な活動から分かつのか、それは当該の土地でどのように特徴づけられているのか、それは他の人々にはどのように理解されているのか、それは国際的に「スポーツ」と認識されているメインストリームの活動に対して、どのような位置を占めているのかなどの点に特に注意を払う」。

 つぎに、「人類学のなかのスポーツ」については、つぎのように考えをまとめている。「我々は、人類学的なアプローチがスポーツに独自の光を当て、またスポーツに焦点を当てることが人類学における斬新なアイデアに貢献すると考えている。だから我々は本書を、一方でスポーツ人類学というフィールドの情況を批判的に評価することと、もう一方で将来の探求に向けたプログラムのアウトラインを描くこととの間を行き来するものと考えているのである」。

 本書は、日本語版への序文、序章、全8章、エピローグ、註、謝辞、訳者あとがき、などからなる。「第一章 スポーツ、人類学、歴史」で「スポーツが人類学者の関心をひいた例の概観」をした後、各章で取りあげた「多種多様なテーマやトピック」をつぎのように要約している。

 「第二章 スポーツ、植民地主義、帝国主義」では、「ポストコロニアル研究および植民地主義に対する人類学的批判というレンズを通してスポーツを分析する」。「第三章 スポーツ、健康、環境」では、「スポーツと、健康と、医学との関係を、科学とテクノロジーについての批判的研究からの視点を応用して検討する」。

 「第四章 スポーツ、階級、人種、エスニシティ」では、「ピエール・ブルデューの実践理論を解明するためのとりわけ豊かなフィールドとしてスポーツを用いる」。「第五章 スポーツ、セックス、ジェンダー、セクシュアリティ」では、「セックス、ジェンダー、セクシャリティに対するフェミニスト的批判と人類学的批判にとってのスポーツの価値を例示し、そうしたものすべてが文化的に構築されたものであることを明らかにする」。

 「第六章 スポーツ、文化パフォーマンス、メガイベント」では、「すでに短く論じた一九七〇年代および八〇年代の儀礼理論に戻って、そうした理論のなかで、もはや失効していると考えられる諸側面を確認しながら、一方で、今日でも価値がある諸側面についても検討する」。

 「第七章 スポーツ、ネーション、ナショナリズム」では、「ナショナリズムの諸理論にスポーツがあてはまるさまざまな例をあげていく」。「第八章 世界システムにおけるスポーツ」では、「国際スポーツおよびオリンピック・スポーツを一つの世界システムとして分析し、スポーツがグローバリゼーションの多様な側面に対する、増加しつつある批判的アプローチのなかで考察される価値があることを示す」。

 そして、「第一章」を、つぎのパラグラフで結んでいる。「スポーツを人類学の理論の中心に置くことによって、次のことが明らかとなる。それは、個々の理論的アプローチは我々の世界の限られた一側面しか説明しないかもしれないが、それらの理論を全体として捉えることで、過去数十年間に我々が手にしていたものよりも、より完成度の高い説明の枠組みへと収斂しはじめるということである」。

 本書は、1998年に設立された日本スポーツ人類学会創立20周年の節目に出版された原著を俎上に、著者のひとりを招いてシンポジウムを開催し、翻訳作業を進めた成果である。世界的にも新しい学問で、74年に遊戯人類学会が結成されたのが人類学におけるスポーツ研究のはじまりだという。85年に出版された『スポーツ人類学入門』につづき、本書が出版されたことで、個々の事例研究が今後進むことだろう。


評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
近刊:早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年1月10日、412頁、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』(龍溪書舎、2021年4月~ )全30巻+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。