飯島明子・小泉順子編『世界歴史大系 タイ史』山川出版社、2020年9月15日、422+98頁、6500円+税、ISBN978-4-634-46212-0
2000年には「世界歴史大系第二期」の1冊として企画されており、2002年に刊行予定となっていた本書が、ようやく出版された。まずは、もともとの編者(石井米雄)が2010年に世を去ったことで頓挫した、この企画を引き継いだ2人の編者の「容易ならざる決心」に敬意を表したい。「世界歴史大系」シリーズのなかで、「唯一東南アジアを、しかも一冊丸ごとタイを扱う『タイ史』」が刊行できたことは、「序章 タイ史から何を学ぶか」を読めば、並大抵のことではなかったことが想像できる。
「序章」では、タイで一般に語られている「ナショナル・ヒストリー」を、つぎのように紹介している。「タイ王国の歴史は、スコータイ以前、スコータイ時代、アユタヤー時代、トンブリー時代、そしてバンコク時代というかたちに区分され、一つの王国がスコータイ時代に遡って存在したことを所与として、中部チャオプラヤー川流域におかれた王都の変遷を軸に連綿と描かれる」。「中部タイのタイ民族が卓越するシャム国を、歴史を遡って所与とする公定史観は、十九世紀末以降のバンコクの王権による周辺地域への介入を、西洋植民地勢力に対抗した領土防衛、独立の維持として正当化する根拠となり、さらには立憲革命(一九三二年)をへてタイ国時代のナショナリストたちに受け継がれ、一九四〇年代初頭の失地回復運動の拠り所にもなった。そして今日なおタイの人びとに広く受け入れられている」。
「タイ国のいわゆる「一国史」を相対化する」試みは、本書の企画段階からあっただろうが、その後の「東南アジアにおけるタイ」や「タイ文化圏」の議論を経ても、容易ではなく、編者は「このようないわば新領域は本書の構想の範囲を超える」「完成した本書は充実した「一国史」といってよいだろう」と総括している。だが、この「充実した」に「類書を求めてもこれまでの日本にはなかった『タイ史』を世に送り出」したという自負が感じられる。
本書は、序章、全7章、図版補説3、補説3に加えて、充実した付録(索引、年表、参考文献、歴代王名表・略系図、行政区分図)からなる。「第一章 先史・古代のタイ」から時系列的に並べられているが、「一国史」を超える試みも随所にある。第1章は、現在のタイ王国の領土を越えて論じざるを得ないだろうが、「第二章 北方の「タイ人」諸国家」は、その後の「中部タイのタイ民族が卓越するシャム国」を語るためにも、きわめて重要な位置を占めている。そこには、「北方の「タイ人」」では表せない、周辺諸地域、とくにビルマとの関係が描かれている。
「第三章 港市国家アユタヤー」でも、国際性を語るとともに、周辺諸地域との関係が描かれ、とくに中国との関係は「第四章 華人の時代」に繋がる。「第五章 絶対王制の構築」で近代シャム王国の形成を描いた後、タイ王国としての現代の歩みを「第六章 現代の政治」と「第七章 現代の経済・社会」の2章に分けている。第6章は政治、第7章は経済を中心に論じているが、重複する部分が少なくない。いっぽう、第7章のタイトルにある「社会」はほとんど描かれていない。
「東南アジアにおけるタイ」や「タイ文化圏」といった「新領域」は随所で感じられるが、まとまった叙述となってあらわれていない。3つの補説(「マンラーイサート」、ビルマ語史料にみるラーンナー、マカオからみる十六・十七世紀の日・タイ関係)で、文字通り補われているが、いっそのこと、ビルマ、マカオだけでなく、中国、日本、ベトナム、カンボジア、ラオス、マレーシアなどの周辺諸国のナショナル・ヒストリーからみた「タイ」があってもよかったのではないだろうか。
「タイ史」は、現在のタイ王国国民のためだけにあるではない。地域や民族のことを考えると、「国民国家の連合によって定義される地域とは異なる」分野・領域の理解が、「タイ史」の本質であるようにも思えてくる。編者は、「序章」をつぎのことばで終えている。「日本におけるタイ史研究は「公定史観」の桎梏のもとにあるタイ「国内」の動向に追随するばかりでは足りないとはいえ、同時に彼らから学ばずして、日本人の研究は存在しえない。日本人が学んできたことは、自国研究者が卓越する言わずもがなの実証研究の成果だけではない。少なからぬタイの歴史家たちが、「歴史学は、過去の事実を掘り起こすことを目的とする学問ではなく、そのことを通じて、社会に何らか寄与することを目指す学問である」[略]という、歴史学の「アクチュアリティ」にかかわる認識を絶えず思い起こさせてくれることを銘記したい」。
執筆者の顔触れは、ひとりを除いて当初案通りであったという。企画時に40歳代の執筆者が多かったことが幸いした。事典も企画から出版まで10年以上かかかることが珍しくない。「大系」も、幅広く扱うため、個々の分野・領域で研究状況が違い、すぐに書けることもあれば書けないこともある。ましてや、ほかの「世界歴史大系」に比べ、格段に研究者が少ない「タイ史」では、個々の執筆者が「有能」であったから出版にいたることができたのだろう。こういう「一国史」が、東南アジア11ヶ国すべてで出そろうと、東南アジア通史がもっと書きやすくなるだろう。
評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
近刊:早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年1月10日、412頁、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』(龍溪書舎、2021年4月~ )全30巻+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。
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