林博史『帝国主義の軍隊と性-売春規制と軍用性的施設』吉川弘文館、2021年12月20日、472頁、3800円+税、ISBN978-4-642-03912-3
日本政府は、外務省のホームページで「慰安婦問題に対する日本政府のこれまでの施策」(平成26(2014)年10月14日)をつぎのように公表している。「日本政府は、慰安婦問題に関して、平成3年(1991年)12月以降に調査を行い、平成4年(1992年)7月、平成5年(1993年)8月の2度にわたり調査結果を発表、資料を公表し、内閣官房において閲覧に供している。また、平成5年(1993年)の調査結果発表の際に表明した河野洋平官房長官談話において、この問題は当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であるとして、心からのお詫びと反省の気持ちを表明し、以後、日本政府は機会あるごとに元慰安婦の方々に対し、心からお詫びと反省の気持ちを表明してきた」。
しかし、「これまでに日本政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述は見当たりませんでした」と述べ、内外の歴史研究者が示してきた資料を全面的に否定してきた。研究者には、これ以上なすべきことがないかのように思われるが、まだまだできることはある。本書が、その成果のひとつで、日本政府は詭弁を弄してきたことが明らかになり、信頼を失墜することになる。
2015年の著書『日本軍「慰安婦」問題の核心』(花伝社)で、「慰安所はどの国にでもあったのか-国際比較の視点」としてある程度の見通しを示した著者、林博史は1年間のサバティカル研究期間を利用して、ロンドンを中心に文書館調査をおこない、「世界史的な視野でとらえ直してみよう」と試みた。
その背景は、本書「はじめに」冒頭で、つぎのように説明されている。「日本軍が一九三〇年代から一九四〇年代前半に組織的かつ大規模に展開した日本軍「慰安婦」制度は、はたして日本軍独自のものなのか、あるいはどの国の軍隊でも同じようなものはあったのか、という疑問は、一九九〇年代にこの問題が人権問題として国内外で大きな問題となってから継続して問われてきた」。そして、同じようなものがあったとするなら、「日本だけが批判される筋合いはない」と「同じような非人道的、性差別的なことをおこなう」「軍隊そのものに問題があるとする」ふたつの立場にわかれて議論されてきた。
著者が、具体的に考察対象としたのは、19世紀以来の近代の国家売春規制制度で、つぎのように述べている。「売春対策と性病対策とを一体化させ、近代の国家売春規制制度が本格的に実施されるのは一九世紀になってからである。本書は、そうした史料文献に基づいて、一九世紀初頭から二〇世紀にいたる帝国主義の歴史のなかで、英国の規制制度と英軍の対策を取り上げ分析しながら、英国にとどまらずフランス、オランダ、ドイツ、イタリア、米国などの帝国主義諸国における軍隊の売春管理政策・方法について軍用性的施設という視点から比較分析し、それぞれの歴史的な位置と特徴を明らかにすることを目指している。そのことにより日本軍「慰安婦」制度の歴史的な位置と特徴を明らかにすることができるだろう」。
本書は、はじめに、全7章、終章などからなる。構成についての説明はなく、各章の「はじめに」「おわりに」もない。概ね、時系列的に論じているが、相前後することもある。序章にあたる「第一章 売春をめぐる考え方」の後、「第二章 英国の売春規制と軍隊」「第三章 女性たちの廃止運動」でイギリス本国の動向を追い、「第四章 英国のインド植民地支配と英軍の性病対策」「第五章 インドでの売春規制廃止運動」で植民地インドの性病対策が論じられている。「第六章 欧米諸国、インド、英植民地」で、視野を欧米に広げ、イギリスの事例を相対化している。総力戦となった第一次世界大戦では、軍用性的施設の「世界性」を考えることにもなり、「第七章 第一次世界大戦後の展開」を経て、「終章 今日までつづく課題」へとつながっていく。
「終章」「一 まとめ-軍用性的施設の展開と消滅」では、つぎのようにまとめて節を終えている。「このように規制主義の考え方の上に軍用性的施設が設けられたという点では両者は密接に関連していると言えるが、軍用性的施設の場合は、植民地や占領地(特に住民が非白人の地域)などにおいて人種主義/民族差別や植民地主義と密接に結びついて展開されたものであり、本国の規制制度とは区別してとらえた方がよいと考えている。この点については各国の政策・制度とともにそこに動員された女性たちから見た実態を含めた実証的な研究の進展を期待し、そのうえであらためて議論できればと考えている」。
「第二次世界大戦後は、一九五〇年代までには規制制度が主要諸国で廃止されたこともあり、軍用性的施設と言えるものは、帝国主義諸国においてはフランス軍と駐韓米軍で継続したにとどまるだろう」。「規制制度が廃止され国家が売春を公認することが許されなくなった状況では、軍用性的施設は本国の議会や世論から隠れて密かに、あるいは韓国のように軍事独裁政権下で情報を統制したなかでおこなわれた。したがって、兵士のために軍・国家が軍用性的施設を提供する方法は規制主義の衰退、否認とともに一部の例外を除いて消えていったと言ってよいだろう」。
「しかし問題はそれで終わったわけではない」。「現在に至るまで占領地や軍の駐屯地の女性を性的に搾取することは形を変えながらも深刻な問題であり続けている。その典型的な事例は米軍と同時に国連平和維持活動にも見られる」。そして、安全保障理事会でも、「戦時性暴力をはじめ武力紛争中ならび紛争後の性暴力、性的搾取に関する問題への」取り組みがはじまった。2000年12月に「日本軍「慰安婦」制度を戦争犯罪として裁く「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」が開催されたことはこの年が戦時性暴力に対する国際社会の取り組みの始まりであったことを象徴的に示している。しかしながら、この女性国際戦犯法廷を激しく攻撃し否定しようとする日本政府や日本社会は、日本軍「慰安婦」問題だけでなく、こうした世界で起きている性暴力・性搾取の事態から目を背け、国際社会の取り組みをも無視し続けている。平和維持活動にともなう性的搾取、性的虐待問題は自衛隊が各地に派遣されていながら日本ではまったく議論されていない」。
「世界史的な視野」で試みる発想は、ここまで長期問題化していることからだれもが考えることができるだろうが、既存の研究成果に頼るだけでなく、それをさらに発展させるべくみずから根気強く文書館調査をおこなうことは、なかなかできるものではない。それを断行した著者に、敬意を表したい。また、サバティカル研究期間を有効に利用したことをかたちにした好例である。
だが、「本書が対象としているものはあまりにも膨大であり歴史的にも地理的にも幅広く、一人の研究者が十分に理解して分析できるものではない」。著者は、「無謀な試みであることは重々承知し」たうえで、議論を深めていくためのたたき台になることを願っている。
そして、「あとがき」を、つぎの文章で締めくくっている。「今日の世界の状況を見渡すと、帝国主義/植民地主義、人種差別/民族差別、女性差別/性暴力/性搾取などの問題群、あるいは地球温暖化に象徴されるような経済や生活のあり方に関わる問題群など、一九世紀から今日にいたる近代・現代という時代の全体を根本から総括し見直すことが人類にとって決定的な課題として突きつけられているように思います。そうした問題に真摯に立ち向かっている人々がいる一方、日本政府をはじめとする日本社会の多数はそこから目を背け続けています。特に帝国主義/植民地主義の問題は終わったこと、なかったこと、それどころか帝国主義を正当化しようとする巨大な力が日本社会で圧倒的ですが、それに抗して一歩一歩、自分のやれることをやり続けていくしかないでしょう」。
著者の声を素直に聞く良心が「日本政府をはじめとする日本社会」にあることを願っている。
評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年1月20日、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』(龍溪書舎、2021年4月~ )全30巻+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。
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