平井肇編『スポーツで読むアジア』世界思想社、2000年9月30日、258頁、1900円+税、ISBN4-7907-0837-3

 前世紀最後の年の2000年に出版された20年近く前の本なので、新刊が購入できるかどうか疑問であったが、購入できた。やはり新品はいい。図書館の本だと書き込みはできないし、古本はだれかのマークや書き込みがあるのを見つけると興ざめして読む気がなくなってしまう。最近は、在庫に税金がかかるのですぐに裁断処分されて、2~3年前に出版されたものでも手に入らず、古本で定価の数倍の値がつけられていることもある。新品を自分のものにして、書き込みをし、内容を理解することがどれだけ重要で、なにものにもかえがたいことだとをわかる人が少なくなったので、本が売れないのだろう。書き込みだけでなく、書評を書くともっと理解力は高まる。
 国交のない国同士でもスポーツを通して交流があったり、逆に国際スポーツ大会をボイコットすることで国交が断絶したり、スポーツは国際政治にとっても重要な意味をもつことがある。ことばを交わさなくてもルールさえ知っていれば、交流の手段になることから、国家間だけでなく個人・団体などのあいだでもいろいろと利用されてきた。それをスポーツ社会学として、学問的に議論しようとするのも当然のことだ。
 編者の平井肇は、スポーツ社会学、なかでもアジアを取りあげることについて、つぎのように説明している。「このスポーツ社会学の分野では、スポーツの制度化・組織化、およびその背景にある社会・文化的要因との関係は大きなテーマのひとつである。とくにグローバル化が急速に進む今日、一九世紀以来続いてきたスポーツの伝播と普及の従来型のパターンが大きく変化している。スポーツは文化・社会的活動であると同時に、経済的な活動でもあるが、今日では後者の占める比重がますます大きくなってきている。今日のスポーツは、それがトップ選手の世界であれ、草の根レベルであれ、「するスポーツ」であれ、「見るスポーツ」であれ、グローバルな情報や経済活動のネットワークの中にしっかりと組み込まれているのである」。
 「アジア諸国は、近代化の過程で、欧米のスポーツを積極的に受け入れてきた。その結果、スポーツは今日、アジアのほとんどの国でもっとも重要な大衆文化と位置づけられている。また、外交や政治、貿易、産業の分野でも、スポーツは重要な役割を担ってきている。しかし、スポーツと他の社会制度との関係は、かならずしもいつも円滑で良好であるとは限らない。むしろ、いろいろな緊張関係が生じて、その結果、さまざまな問題が生じてきているのが常である。「スポーツは社会を映しだす鏡である」としたら、今日のアジアのスポーツについて知ることは、すなわち、その社会や文化全般について知るひとつの手がかりになるのではないだろうか」。
 本書は、はじめに、Ⅱ部全11章からなる。「関心のあるテーマ、とりあげている国や地域、アプローチの仕方など十人十色、見事なくらいバラバラである」。それを、「Ⅰ 世界のなかのアジア、アジアのなかの世界」と「Ⅱ アジアのなかの日本、日本のなかのアジア」の2つに括り、それぞれ6章と5章からなる。「まだひとつの研究として完結していない段階で、あえて成果(途中経過)を公表することにした」「最大の理由は、アジアのスポーツへの関心をもつ人が増えるなかで、彼らの知的好奇心に応えることができるような学問的な蓄積がほとんど見あたらないことである」。
 その後、アジアのスポーツをテーマとして博士論文を書いた人がいたり、単著単行本が出版されたりしている。本書が期待した目的の一部が、果たされつつあるといえるかもしれない。いっぽう、本書で書かれた内容と違うことが、その後に起こった国もある。本書第4章「スポーツ小国ゆえの可能性-シンガポール的ニュー・スポーツライフ-」では、つぎのようにスポーツがナショナリズムと結びつかなかった例としてシンガポールが取りあげられている。「シンガポールでは、英国からの独立後も、経済や行政、教育などのあらゆる面で宗主国の影響を色濃く残してきた。また、この国のような、国家としての歴史も新しく、しかも多民族・多文化社会では、スポーツは国家統一の格好のシンボルとなるはずである。実際に似たような状況にある国々では、スポーツはナショナル・アイデンティティの確立のために一定の役割を果たしてきたケースが多い。ところが、シンガポールでは、スポーツがそのような形で展開しなかった。少なくとも、この国では、スポーツは国家全体に大きな影響を及ぼすような社会制度として確固たる地位を築くことはなかった」。
 ところが、1993年の東南アジア競技大会で、競泳女子15種目のうち9種目で金メダルに輝くスーパーヒロインが誕生し、ASEAN10に向かって地域統合が進むなど、グローバル化(国際化)、地域主義の進展のなかでナショナリズムが高揚し、そのひとつの場が国際スポーツ大会になっていった。「社会を映し出す鏡」としてのスポーツは、「その社会や文化全般について知るひとつの手がかり」として目が離せない存在になっている。