岡田慶治原著、田中秀雄編『スマラン慰安所事件の真実-BC級戦犯岡田慶治の獄中手記-』芙蓉書房出版、2018年4月10日、268頁、2300円+税、ISBN978-4-8295-0736-0
本書をどう読めばいいのだろうか。帯に「慰安婦問題の「強制性」を考え直す手がかりとなる手記」とある。
「本書は、大日本帝国陸軍軍人だった岡田慶治の獄中手記である。彼は戦後昭和二十二~二十四年にかけて蘭領インドネシアで行われたバタビア軍事裁判において、オランダ人女性を慰安婦にした、いわゆる「スマラン事件」の主謀者として唯一死刑になった人物である」。「彼は死刑判決が出てから処刑されるまでの八か月間に膨大な獄中手記を書き残した。陸軍士官学校を卒業してから死刑直前までの自伝である。それを「青春日記」、「青壮日記」二冊の自筆稿本(計一〇八九頁)に残した。本書はその後半の三分の一であり、英米との戦争が始まった直後の昭和十七年以降の部分である」。
「手記」ではあるが、主語は「小(お)方(がた)」であり、解説者の田中秀雄は「栄光と苦難の一大叙事詩の感がある」と述べている。獄中で思い出すままに書いたため、正確を期すことができなかったためであろうか、「小方」という人物に仮託した。それを正確さに欠けるとして資料的価値が低いとみるわけにはいかない。かといって、ここに書かれていることをそのまま信じて「冤罪」だと主張することもできない。要は、人ひとりが戦犯容疑で銃殺刑に処せられた是非を問う判断材料になるかどうかであるが、わたしの結論を述べれば、このような時期に、このような状況で、いかなる「証拠」が示されようが、死刑の根拠になるはずがないということである。
この「スマラン事件」が注目を集めるようになったのは、つぎの理由による。「一九九一~一九九三年にかけて、韓国在住の元慰安婦たちが日本政府に賠償を求めて提訴し、宮澤喜一首相が訪韓中に何度も謝罪し、河野洋平官房長官(村山富市内閣)が、日本軍の慰安婦強制連行を認めた「河野談話」を出すという一連の流れの中で、スマラン事件も日本軍の慰安婦強制連行の具体的事例として、注目を集めるようになった」。宮澤のような戦争体験者は、慰安婦の強制性を示す確固たる証拠がなくても、日本の植民支配下に置かれた朝鮮の状況を総合的に考えれば、日本軍・政府に責任があることは明白だと肌で感じていたのだろう。
しかし、本書を読む限り、その「強制」性はみあたらない。それが、「強制」と裁判で主張された理由を、解説者はつぎのように理解している。「英米の多大な協力を得たにせよ、オランダは戦勝国であった。彼らが〝黄色い猿ども〟[日本人]への復讐の念を持ってインドネシアに凱旋して来たことは言うまでもない。降伏した日本人に対して、彼らは戦犯裁判という名の復讐劇を敢行したのである。おまけに裁判官や検察官は抑留されていた軍人や行政官が多かった」。
戦犯を擁護するのによく使われるのが、「良き夫であり、良き父であった」というフレーズである。だが、岡田慶治は、妻もふたりの娘もいる身で「毎日酒を飲むだけでなく、フランス人女性や娼婦と次々に関係する」ことが手記で赤裸々に語られている。解説者は、解説のタイトルを「フェミニスト岡田慶治」として、つぎのように結論した。「岡田慶治は女性に優しく、その心理によく通じた人物で、また自分の男性としての欲望にも極めて忠実な生き方をした人物だったということである。岡田はその当時の日本人としては百七十センチ超、八十キロ超の大柄な体格であった。そしていつも楽天的で朗らかな性格、正義感が強く頼りがいがある。頭が良くて弁舌もさわやか、歌もうまいとなれば、女性にもてないはずがないだろう。彼が女に近づくというよりは、女が寄ってくるという艶福家であった」。
そして、解説の最後の見出しは「岡田慶治の立派さ」で、つぎのようにまとめている。「本書を読めば分かるように、岡田は勝ち戦でも負け戦でも戦争巧者で、部下に尊敬され、現地人を味方につける名人であった。彼は現地人を知らずして、何が戦争かと考えていた。現地人を味方にすれば、自分の部隊の被害も少ないのだ。満洲国での治安維持のために取った方略もそうだった。結果的に皆岡田の人柄や治安維持能力に感謝したのである」。
「岡田の銃殺刑は昭和二十三年十一月二十七日に執行された」。これをくい止め、真実を追究するために生き残すという考えは、軍事裁判を主導した「戦勝国」側にもなかった。戦争をなくすために戦争を語るのが「戦犯」の責任であるという意識があれば、つぎへの戦争の抑止力のひとつになるだろう。その意味で、戦犯の死刑には反対である。
「本書は、大日本帝国陸軍軍人だった岡田慶治の獄中手記である。彼は戦後昭和二十二~二十四年にかけて蘭領インドネシアで行われたバタビア軍事裁判において、オランダ人女性を慰安婦にした、いわゆる「スマラン事件」の主謀者として唯一死刑になった人物である」。「彼は死刑判決が出てから処刑されるまでの八か月間に膨大な獄中手記を書き残した。陸軍士官学校を卒業してから死刑直前までの自伝である。それを「青春日記」、「青壮日記」二冊の自筆稿本(計一〇八九頁)に残した。本書はその後半の三分の一であり、英米との戦争が始まった直後の昭和十七年以降の部分である」。
「手記」ではあるが、主語は「小(お)方(がた)」であり、解説者の田中秀雄は「栄光と苦難の一大叙事詩の感がある」と述べている。獄中で思い出すままに書いたため、正確を期すことができなかったためであろうか、「小方」という人物に仮託した。それを正確さに欠けるとして資料的価値が低いとみるわけにはいかない。かといって、ここに書かれていることをそのまま信じて「冤罪」だと主張することもできない。要は、人ひとりが戦犯容疑で銃殺刑に処せられた是非を問う判断材料になるかどうかであるが、わたしの結論を述べれば、このような時期に、このような状況で、いかなる「証拠」が示されようが、死刑の根拠になるはずがないということである。
この「スマラン事件」が注目を集めるようになったのは、つぎの理由による。「一九九一~一九九三年にかけて、韓国在住の元慰安婦たちが日本政府に賠償を求めて提訴し、宮澤喜一首相が訪韓中に何度も謝罪し、河野洋平官房長官(村山富市内閣)が、日本軍の慰安婦強制連行を認めた「河野談話」を出すという一連の流れの中で、スマラン事件も日本軍の慰安婦強制連行の具体的事例として、注目を集めるようになった」。宮澤のような戦争体験者は、慰安婦の強制性を示す確固たる証拠がなくても、日本の植民支配下に置かれた朝鮮の状況を総合的に考えれば、日本軍・政府に責任があることは明白だと肌で感じていたのだろう。
しかし、本書を読む限り、その「強制」性はみあたらない。それが、「強制」と裁判で主張された理由を、解説者はつぎのように理解している。「英米の多大な協力を得たにせよ、オランダは戦勝国であった。彼らが〝黄色い猿ども〟[日本人]への復讐の念を持ってインドネシアに凱旋して来たことは言うまでもない。降伏した日本人に対して、彼らは戦犯裁判という名の復讐劇を敢行したのである。おまけに裁判官や検察官は抑留されていた軍人や行政官が多かった」。
戦犯を擁護するのによく使われるのが、「良き夫であり、良き父であった」というフレーズである。だが、岡田慶治は、妻もふたりの娘もいる身で「毎日酒を飲むだけでなく、フランス人女性や娼婦と次々に関係する」ことが手記で赤裸々に語られている。解説者は、解説のタイトルを「フェミニスト岡田慶治」として、つぎのように結論した。「岡田慶治は女性に優しく、その心理によく通じた人物で、また自分の男性としての欲望にも極めて忠実な生き方をした人物だったということである。岡田はその当時の日本人としては百七十センチ超、八十キロ超の大柄な体格であった。そしていつも楽天的で朗らかな性格、正義感が強く頼りがいがある。頭が良くて弁舌もさわやか、歌もうまいとなれば、女性にもてないはずがないだろう。彼が女に近づくというよりは、女が寄ってくるという艶福家であった」。
そして、解説の最後の見出しは「岡田慶治の立派さ」で、つぎのようにまとめている。「本書を読めば分かるように、岡田は勝ち戦でも負け戦でも戦争巧者で、部下に尊敬され、現地人を味方につける名人であった。彼は現地人を知らずして、何が戦争かと考えていた。現地人を味方にすれば、自分の部隊の被害も少ないのだ。満洲国での治安維持のために取った方略もそうだった。結果的に皆岡田の人柄や治安維持能力に感謝したのである」。
「岡田の銃殺刑は昭和二十三年十一月二十七日に執行された」。これをくい止め、真実を追究するために生き残すという考えは、軍事裁判を主導した「戦勝国」側にもなかった。戦争をなくすために戦争を語るのが「戦犯」の責任であるという意識があれば、つぎへの戦争の抑止力のひとつになるだろう。その意味で、戦犯の死刑には反対である。
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