金時鐘『朝鮮と日本に生きる-済州島から猪飼野へ』岩波新書、2015年2月20日、291頁、860円+税、ISBN978-4-00-431532-2
ごあいさつ
略啓
小生この度、外国人登録[証明]書名の「林」でもつて韓国の済州島に本籍を取籍しました。父、母の死後四十余年を経てようやく探し当てた親の墓をこれ以上放置するわけにもいかず、せめて年一、二度の墓参りぐらいはつづけようと、思い余った決断をしました。
それでも総称としての〝朝鮮〟にこだわって生きることには、いささかの揺らぎもありません。あくまでも小生は在日朝鮮人としての韓国籍の者であり、〝朝鮮〟という総称の中の、同族のひとりとしての「林」であります。変わらぬご交情を賜りますよう、謹んでお知らせ申し上げます。 敬白
’03年十二月十日
略啓
小生この度、外国人登録[証明]書名の「林」でもつて韓国の済州島に本籍を取籍しました。父、母の死後四十余年を経てようやく探し当てた親の墓をこれ以上放置するわけにもいかず、せめて年一、二度の墓参りぐらいはつづけようと、思い余った決断をしました。
それでも総称としての〝朝鮮〟にこだわって生きることには、いささかの揺らぎもありません。あくまでも小生は在日朝鮮人としての韓国籍の者であり、〝朝鮮〟という総称の中の、同族のひとりとしての「林」であります。変わらぬご交情を賜りますよう、謹んでお知らせ申し上げます。 敬白
’03年十二月十日
これで著者の「四・三事件」は、終わったのだろうか。著者は、自らを「四・三事件に関わりのある者にならざるをえなくなって親を捨て、故郷を捨て、日本に流れ着いて在日朝鮮人になってしまった者」とし、「残す何かがあっての「回想記」なのかと、今更ながら思いはやはり晴れない私です」と、「はじめに」の最後で書いている。
この「四・三事件」について、「はじめに」でつぎのように説明している。「ソ連との話し合いに見切りをつけたアメリカは、一九四八年、南朝鮮だけの分断国家樹立にむけた総選挙を実施しようとするが、「四・三事件」は、直接的には、この「単独選挙」に反対する済州島での四月三日の武装蜂起に端を発し、その武力鎮圧の過程で三万人を超える島民が犠牲となる。この血なまぐさい弾圧に投入された警察・軍・右翼団体は、おおむね、植民地期に日本がつくり育てた機構や人員を引き継ぐ存在であったことを忘れてはならない。つまりそれは、ほかならぬ日本の朝鮮支配の申し子たちであった」。その後、南朝鮮の人びとは1948年の大韓民国樹立宣言後も、1953年の朝鮮戦争休戦後も、アメリカ駐留軍の下で暮らし、「四・三事件」の難を逃れた著者は植民地宗主国であった日本に暮らすことになった。思いが晴れるわけがない。
本書の内容は、表紙見返しに、つぎのようにまとめられている。「日本統治下の済州島で育った著者(一九二九~ )は、天皇を崇拝する典型的な皇国少年だった。一九四五年の「解放」を機に朝鮮人として目覚め、自主独立運動に飛びこむ。単独選挙に反対して起こった武装蜂起(四・三事件)の体験、来日後の猪飼野[コリアンタウン]での生活など波乱万丈の半生を語る詩人の自伝的回想」。
書き終えて、「あとがき」で著者は、「気が晴れる「回想記」ではありませんが、思いいっぱい感謝しています」と述べ、つぎのようにまとめている。「この連載を機に私はどのような関わりから「四・三事件」の渦中に巻き込まれ、私はどのような状況下で動いていたのか、〝共産暴徒〟のはしくれの一人であった私が、明かしうる事実はどの程度のものか、を改めて見つめ直すことに注力しました。今更ながら、植民地統治の業の深さに歯がみしました。反共の大義を殺戮の暴圧で実証した中心勢力はすべて、植民地統治下で名を成し、その下で成長をとげた親日派の人たちであり、その勢力を全的に支えたアメリカの、赫々たる民主主義でした」。「具体的にはまだまだ明かせないことをかかえている私ですが、四・三事件の負い目をこれからも背負って生きつづけねばならない者として、私はなおなお己に深く言い聞かせています。記憶せよ、和合せよと」。
今年になって、済州島に内戦から逃れてきた中東イエメンの人たちが、難民申請に殺到した。住民とのトラブルがある一方、支援を申し出ている人たちもいる。70年前に起こった「四・三事件」から、他人事ではないからである。
この「四・三事件」について、「はじめに」でつぎのように説明している。「ソ連との話し合いに見切りをつけたアメリカは、一九四八年、南朝鮮だけの分断国家樹立にむけた総選挙を実施しようとするが、「四・三事件」は、直接的には、この「単独選挙」に反対する済州島での四月三日の武装蜂起に端を発し、その武力鎮圧の過程で三万人を超える島民が犠牲となる。この血なまぐさい弾圧に投入された警察・軍・右翼団体は、おおむね、植民地期に日本がつくり育てた機構や人員を引き継ぐ存在であったことを忘れてはならない。つまりそれは、ほかならぬ日本の朝鮮支配の申し子たちであった」。その後、南朝鮮の人びとは1948年の大韓民国樹立宣言後も、1953年の朝鮮戦争休戦後も、アメリカ駐留軍の下で暮らし、「四・三事件」の難を逃れた著者は植民地宗主国であった日本に暮らすことになった。思いが晴れるわけがない。
本書の内容は、表紙見返しに、つぎのようにまとめられている。「日本統治下の済州島で育った著者(一九二九~ )は、天皇を崇拝する典型的な皇国少年だった。一九四五年の「解放」を機に朝鮮人として目覚め、自主独立運動に飛びこむ。単独選挙に反対して起こった武装蜂起(四・三事件)の体験、来日後の猪飼野[コリアンタウン]での生活など波乱万丈の半生を語る詩人の自伝的回想」。
書き終えて、「あとがき」で著者は、「気が晴れる「回想記」ではありませんが、思いいっぱい感謝しています」と述べ、つぎのようにまとめている。「この連載を機に私はどのような関わりから「四・三事件」の渦中に巻き込まれ、私はどのような状況下で動いていたのか、〝共産暴徒〟のはしくれの一人であった私が、明かしうる事実はどの程度のものか、を改めて見つめ直すことに注力しました。今更ながら、植民地統治の業の深さに歯がみしました。反共の大義を殺戮の暴圧で実証した中心勢力はすべて、植民地統治下で名を成し、その下で成長をとげた親日派の人たちであり、その勢力を全的に支えたアメリカの、赫々たる民主主義でした」。「具体的にはまだまだ明かせないことをかかえている私ですが、四・三事件の負い目をこれからも背負って生きつづけねばならない者として、私はなおなお己に深く言い聞かせています。記憶せよ、和合せよと」。
今年になって、済州島に内戦から逃れてきた中東イエメンの人たちが、難民申請に殺到した。住民とのトラブルがある一方、支援を申し出ている人たちもいる。70年前に起こった「四・三事件」から、他人事ではないからである。
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