津田浩司・櫻田涼子・伏木香織編『「華人」という描線 行為実践の場からの人類学的アプローチ』東京外国大学アジア・アフリカ言語文化研究所(風響社)、2016年3月20日、386頁、ISBN978-4-86337-223-8

 「まえがき」の冒頭で、「本書は「華人学」という枠組み、あるいはその根底にある「華人」という枠組みそのものについて問うことを目的としている」と述べながら、編者を代表して伏木香織は、このパラグラフを「筆者には当初から「華人学」という学問分野が成立していること自体が不思議であった」で終えている。
 「筆者」は、つぎの「永遠に続く循環論的な罠」に気づいていたのである。「目の前の人を「ある種/地域の人々」として括ったとき、その人はすでにその「種/地域」的属性を背負った主体としてそこに厳然として立ち現われてしまったかのような様相を見せてしまい、そこからは当の「種/属性」をめぐる問いと答えしか得られない。せいぜい、その枠組みから幾分はみでるような事態を、さも重大事であるかのように報告するのが関の山だろう」。この罠から逃れるために、「とんでもない難題」に格闘した成果が本書である。
 なにが問題なのか、編者のひとり津田浩司が、「第一章 序論-「華人学」の循環論を超えて」の冒頭で、つぎのように説明している。「「華人学」(ethnic Chinese studies)」という学問は、いま大きく行き詰まっている。それは一言でいえば、学問の論理構成が循環論に陥っているということに起因している。本論集の執筆者たちは、この行き詰まりから脱するための方途を、具体的な事例記述を通して探ることを共通の課題として掲げている。続く章で櫻田は、研究者にせよ当の研究対象の人々にせよ、「華人をどのように認識・解釈するか」という類の議論に替えて、「どのように行為する限りにおいて華人は立ち現れるか」という行為中心的アプローチにより存在論的に記述する方途の可能性を、理論的に踏み込んで論じている。だが、この序論ではその一歩を踏み込む前の下準備として、現場において何らかの現象を「華人にまつわる」と判断し記述する研究者の認識が、いかに循環論を招来するかを改めて図式的に描き出すことで、本書の問題意識を明確にしようと思う。この作業を通じて、ある人たちを「華人」と主体(subject)化した記述の限界を示した上で、そのような主体の物語から解き放たれた地平に至るための手掛かりを、試みに提示してみたい」。
 本書で、乗り越えようとしているのは、つぎのような手順の論立てである。「課題-○○における華人(社会)を研究する」「方法-彼らの「華人性/華人らしさ」を具体的に検証する」「結論-彼らは(このような)「華人性/華人らしさ」を保持(/持続/残存/変容/利用・・・・・・)している」。本書は、「「華人-あるいは華僑、漢族等々-なるものを整除しつつそれ自体を説明・解明することを究極の目的とする学問としての「華人学」とは、一線を画そう」としている。
 本書は、まえがき、4部、全9章、あとがき、からなる。本書の構成は第一章の最後にあるが、「まえがき」でもつぎのようにまとめている。「議論の骨格となる理論については、第一部の津田と櫻田の両章で展開されているが、その先では人々の様々な実践、現象が具体的に語られていく。タイの「華人廟」とそれを見つめる研究者、「英語で上座仏教を実践する人々」、インドネシアからオランダへ移住した「プラナカン」たち、マレー半島の「コピティアム」という現象、ミャンマー出身の「帰国華僑」と呼ばれる人々、シンガポールの中元普度儀礼とそれを取り巻く人々、そしてインドネシアにおける「華人国家英雄」の実現というプロセスの捉え方、といった具合に並ぶ諸論考は、それぞれに「華人」の香りを色濃く示すものばかりであるかのように見えるかもしれない。しかしながら、それらを丁寧に読んでいただくと、いかに「華人」と呼ばれるものが一枚岩でないのかは無論のこと、そもそも「華人」という括りを設定することがいかほどに難しいのかを示す事例になっていることが、お分かりいただけるのではないかと思う。もしかしたら本書のいくつかの章については、語りが小難しかったり、章としてボリュームが大き過ぎたりして、読む気力がわかない、という読者もいるかもしれないが、そうした方々には、たとえば第二部、第三部のコンパクトな論考から読んでいただくとよいかと思う。その上で理論編に戻っていただければ理解が一層深まると思うし、第四部の長大さと情報量の多さにも納得していただけるのではないかと思う」。
 そして、「あとがき」で、編者のひとり津田浩司は、つぎのようにまとめている。「論集全体として、果たして冒頭で大風呂敷を広げるように掲げた問いに対し明確な答えを示し得るものになったかどうかについては、議論の余地があるとも思う。ただ少なくとも、全執筆者が、ある対象や事象を論じる際に、「華人だから」、「華人の文化・伝統だから」などといった具合に、エスニックと目される事柄を専らエスニシティでもって説明するような論法とは慎重に距離を置いていることは、読み取っていただけただろうと思う。これに代わる方法として、本書内である者は、対象のそれ以外の要素や側面、事象のそれ以外のロジックや背景に十全に目配りをしようと努めただろうし、またある者は、エスニックやエスニシティのロジックなるものに基づく結論めいたものに安易に飛びつくのではなく、その一歩手前に留まり、現場で生起している現象を実直に微細に見ていく、という態度に徹したことだろう。それら個々の記述を通して、本書を手に取った皆さんがどのようなインスピレーションを得られたか。そして、それら論文の集積としての本書を通して、皆さんが「華人学」をヴァージョンアップするためのどのような展望や着想を得られたか。これについては、読者からのご批判とともに建設的なフィードバックを待つことにしたいと思う」。
 本書で気になったのは、各章のタイトル、副題に国民国家名が残っていることだ。「華人学」が「大きく行き詰まっている」原因のひとつは、これまでおもに国民国家のなかで考察されてきた「華人学」が、グローバル化のなかで意味をなさなくなってきているからではないのか。「移動と同化」が底流にある国民国家内の「華人」が、グローバル化のなかで華人以外のだれにでも、グローバル市民としてあてはまるようになったからではないのか。にもかかわらず、国民国家を念頭に置いて議論することは、これまでの「華人学」とどう違うのか。それを語ることができれば、これまでの「華人学」を超えることができるのはないか。これにたいして、本書で語ろうとしているものもあるし、それがわかったうえで国民国家を意識して議論するものもある。「中間報告集」からどのように脱皮していくのか、楽しみである。