藤原辰史『給食の歴史』岩波新書、2018年11月20日、268+17頁、880円+税、ISBN978-4-00-431748-7

 本書を読んで確認できたことが、2点。ひとつは、外部からの圧力があっても、取捨選択、取り入れ方は最終的には自由で、強制されただけのものはそれほど長くつづくわけがないこと。もうひとつは、取り入れたものは、突然取り入れたわけではなく、それには前史があって、受け入れる基盤ができていたことである。さらにあげるとすれば、定着農耕民社会は、いったん取り入れると、すぐにやめたりしないことだろう。流動性の激しい海域社会だと、ちょっと不都合がでると、簡単にやめてしまうような気がする。
 本書で取りあげた学校給食については、戦後1946年に来日したフーヴァー(後に大統領)が進言して導入されてから70年以上のあいだにさまざまな論争があった。だから著者、藤原辰史は、「給食史を運動史ととらえた」と「運動」を強調している。その捉え方を、著者は大まかにつぎのように2つにわけた。
 「まず、給食を、アメリカ、政治、企業や学校の、子どもに対する直接的かつ集団的な権力行使ととらえること。将来の人材育成と市場開拓のための強制的な食生活の改造とまとめてもよいだろう。敗戦後、日本がアメリカの勢力圏に置かれなければこれほどまでに日本にコッペパン、脱脂粉乳、牛乳、バター、ラーメン、パスタ、ケーキは広まらなかったし、そもそも製粉業者がここまで発展しなかっただろう。食品産業や食品の卸業が給食市場を寡占しなければ、こんなにも冷凍食品が給食で提供されなかっただろう。国会や地方議会がもっと給食の価値を議論し、もっと補助金を計上し、もっと自校方式の給食を増やしていれば、給食はもっとおいしくなっただろうし、弁当を持参できず惨めな思いに至った子どもたちを救えただろう。食べ切るまで席を立つことが禁止されるのは、先生の児童に対する最も分かりやすい権力の発現と言える。そのうえ、一九五一年に締結されたサンフランシスコ講和条約後のアメリカの小麦生産者や商社にとって、日本の子どもの味覚を変える給食は、現在と未来のアメリカ産農作物のお得意先作りに役立った」。
 「他方で、給食を、未来を構想する魅力的な舞台ととらえること。「食を通じた自治空間創出の実験」と言ってもよい。スポンサーは自治体と保護者、脚本は給食の献立を考えたり、調理をしたりする人たち、演出家は教師、そして、その主役は子どもたち。国語・算数が嫌いでも、給食のために学校に通うと公言する子どもたちは、昔もいまも存在する。実は、給食を食べるのが楽しみで働いているとこっそり漏らした教師も数人知っている。給食は学校の時間に潤いのようなものをもたらしてもいた」。
 このような両面を背景にしながら、著者は本書をつぎのような意図で書いた。「給食はどのような場であったのか。そして、これからどのような場になりうるのか。この問題を考えるために、本書は給食の制度だけでなく理念や思想にも力点を置く。思想なき実践は羅針盤なき航海と同じだからである。大人が子どもに行使する権力の温床である現実、大人の経済的欲望の在(あ)り処(か)である現実、そして、子どもの生を開花させ、命をつなぐ現実。給食はヤヌスの顔を持っている。だが、本書は、なによりも給食の可能性のために書かれるだろう。これから見ていくとおり、原理的かつ原初的には、給食は子どもたちの生を明日につなぐ行為であり、そのありさまがにじみ出る場所である。授業中にはなかなか見せない子どもたちの生の躍動を拾いあげ、授業の雰囲気作りにつなげる教師もたしかに存在したし、いまも存在する」。
 「子どもがしっかり学習し、充実した学校生活を送れるよう尽力するという学校教育の原点さえ見失わなければ、虐待のような矯正指導にはもはや復活の道は残されていない。農薬や化学肥料を極力使っていない地産の野菜を用いた温かくて味の豊かな給食が毎日学校で提供され、調理をしてくれた人たちに感想とお礼を直接言えて、いつのまにか食べられるものが増え、残菜がほとんどないという理想は夢物語では決してなく、一部地域でもう実現されている。たとえどれほど外国の小麦生産者や、政治家と結託した食品卸売業者の圧力が強くても、食の解放区を学校に打ち立てた先人たちは少なくない。この意味では、給食の歴史は、政策構想を担う大人たちの怠慢の記録でもあり、それに敢えて対抗した大人たちの勇敢さの記録でもある」。
 本書は、「まえがき-給食という舞台」、全6章、「あとがき」からなる。「第1章 舞台の構図」の後、「萌芽期」(第2章 禍転じて福へ)、「占領期」(第3章 黒船到来)、「発展期」(第4章 置土産の意味)、「行革期」(第5章 新自由主義と現場の抗争)にわけ、以上の「日本の給食史の検証を踏まえたうえで、第6章[見果てぬ舞台]では、来たるべき時代の給食のあり方を探って」いく。
 著者は「給食の定義」で「給食の特徴は「強制」であり、選択肢の少なさである」と述べ、「主として、工場給食、病院給食、学校給食の三形態に分類される」なかでも、本書では「日本で最も経験者が多い学校給食、とくに小学校の給食を中心に扱」うとしている。
 「給食の基本的性格」は、「第一に、家族以外の人たちと食べること」、「第二に、家が貧しいことのスティグマを子どもに刻印しないという鉄則」、「第三に、給食は食品関連企業の市場であること」で、「家族以外の人びとと、貧富の差を棚上げして、食品産業のビジネスの場で、不思議な雰囲気を醸し出しつつ、同じ時間に同じ場所で同じものを子どもたちが一緒に食べる。給食を囲む基本的条件」がある。
 「給食史の視角」として、「第一に、子どもの貧困対策という視角」、「第二に、「災害大国の給食」という視角」、「第三に、運動史からの視角」、「第四に、教育史からの視角」をとりあげ、最後に「第五に、日本の給食史を世界史のなかに位置づけ直しながら考え」、「世界の給食史概観」をしている。
 そして、「それら五つの視点が、教育の現場で焦点を結ぶことについて考え」、最後の第6章で「過去に眠る未来」の見出しの下で、つぎのようにまとめている。「給食の歴史を眺めると学校と家庭、福祉と教育のはざまにある曖昧さが、縦割り行政を打破し、教育の理念そのものを変えていく潜在的能力を有していたが、他方で、教師や学校栄養職員や調理員を忙しくし、疲弊させてもいる。国や地方自治体の財政難は給食に資金を投じることを渋る」。
 「航海図は描きにくい。波は相変わらず高く、激しい。その対処を誤れば、逆効果の威力も甚だしい。給食の歴史には苦しみ、痛み、不快といった感覚がつきまとっていた。食中毒はその最たるものであり、被害者の立場にたてば安易な給食擁護を叫ぶのには躊躇せざるをえない。けれども、給食は、教育政策、貧困対策、災害対策、健康政策、食料自給、地域の発展、地域の活性化、すべてについて持続的かつ効果的な力をもたらすものであった。子どもの貧困が許されざるほど深刻化し、小中学校の先生が心身の過労でつぎつぎに倒れ、地方の疲弊が止まらず、地域の紐帯が緩み、地震と水害が絶えない災害大国である日本を根本から立て直すには、ある意味日本の「お家芸」でもある給食は、その原動力に位置するといっても過言ではないだろう」。
 最後に、「給食は、役割を終えた旧時代の遺物ではない。世界史を歩み始めたばかりの新時代のプロジェクトなのである」と結んでいる。
 著者は、給食にまつわるさまざまな問題を取りあげ、絶望して廃止を主張しているわけではない。逆に、本書を通して、給食がもたらす効用をどのように現場に伝えればいいのかを考えている。そのためには、奥底に潜む問題をみていかなければならない。そのひとつを、「あとがき」でつぎのように述べている。「今後の課題も残されました。たとえば、植民地統治との関係です。いろいろな文献にあたってみたのですが、管見の及ぶかぎり、給食についてまとまった言及はありませんでした。植民地期の給食政策はどうだったのか、もし本当にほとんどなかったのだとしたらなぜなのか、英仏など他の国の植民地ではどうだったのか、というテーマは依然として未解決のままです」。「史料は膨大で、ノートはたまる一方なのに、巨人の全体像はなかなか見えて」こないなかで、著者が「深く広がりのある世界に何度の足をすくわれそうに」なったことが、給食という問題の「可能性」と「危険性」を示している。
 本書を読むと、日本の給食がいかにアメリカ占領の影響を受けたかがわかる。だが、アメリカの影響をもっとも大きく受けたフィリピンには、学校給食はない。フィリピンは台風や地震などの自然災害が頻繁に起こるところであるから「災害対策」として導入されても不思議ではない。貧富の差が激しいところだから、「貧困対策」としても有効なはずである。答えのひとつは、カトリック教会を中心としたチャリティーがあるからだろう。こうしてフィリピンと比較して考えてみると、日本の給食はアメリカだけでなく、日本の「政治、企業や学校」という「権力」が絡み、全体像がなかなかみえてこない、とてつもない巨人に成長したことがわかる。
 ちなみに、わたしは給食を完食した。「篤農家」といわれた祖父と一緒に稲刈りし、味噌や醤油、番茶も祖父の家で作るのを「手伝った」ことがある。生産してみると、残す気にはならない。また、刺身といえば冷凍の鯨肉で、山陰からの行商人が塩乾魚を自宅に売りに来た盆地に住んでいた子どもにとってシチューなど洋風料理ははじめてで、家庭ではまだ一般的ではなかった。目新しく、未知のおいしさがあった。たしかに、給食は時代、場所、環境などによって、捉え方がずいぶん違う。