川島浩平・竹沢泰子編『人種神話を解体する3 「血」の政治学を越えて』東京大学出版会、2016年9月30日、359+9頁、5000円+税、ISBN978-4-13-054143-5

 本書は、共同研究「人種表象の日本型グローバル研究」の成果で、3巻からなるシリーズの第3巻である。共同研究では、「生物学的実体をもたないはずの人種が、いかに創られ、再生産されるのか、そのプロセスを検証することこそいま必要とされる作業であるという信念から、人種神話の解体に挑んできた」。
 第1巻『可視性と不可視性のはざまで』、第2巻『科学と社会の知』につづく本書第3巻『「血」の政治学を越えて』の目的は、つぎのように「刊行のことば」のなかでまとめられている。「「ハーフ」「ダブル」「ミックスレイス」と呼ばれている人びとや歴史的に「混血」と名指されてきた人びとの表象がいかに生成され変化してきたか、加えて、当事者たちがそうした表象に抗いながらいかなる自分らしい生き方を見出してきたかを吟味する。これらの分析を通して、今日の「ハーフ・ブーム」が何を可視化させ何を不可視化させているのか、またそれが帝国・植民地主義・国民国家の歴史とどのように接合しているのかについても問い直す」。
 本書は、「序章 混血神話の解体と自分らしく生きる権利」につづいて、3部全11章からなる。「第一部 表象と帝国・占領・植民地主義」は、「四つの章ともに、近現代日本の「混血児」「混血」「ハーフ」をめぐる表象の連続性と非連続性を考察しながら、戦前の帝国、GHQによる占領、沖縄に対する植民地主義というさまざまな支配構造やその変化の問題に迫る」。「第二部 「混血」「ミックスレイス」から歴史を読み直す」の3論文は、「他集団、とりわけ白人との関係性を射程に含めつつ、マルチレイシャルな人びとの個人や集団、あるいは社会的位置をめぐる変化のプロセスを歴史学的に検証する」。「第三部 自分らしい生き方を求めて」の「四論文に登場する主体は、現代のアメリカ、日本、沖縄を生きる複数のルーツをもつ若者たちである」
 本書で、まず問題となるのが呼称で、「序章」でつぎのように指摘している。「本書には、「混血児」「混血」「ハーフ」「ダブル」「ミックスレイス(mixed race)」「マルチレイシャル(multiracial)」など、多種多様な呼称が登場する。当事者たちが幼少期から経験してきたあらゆる差別は第三者による呼称の発話を介してなされ、それらは時に刃物のように多くの人びとを傷つけてきた。そのため本共同研究は当初より、対象を日本語でいかに表現するかという重い課題を抱えてきた」。
 つぎに「序章」では、つぎのように問題提起している。「まず呼称につきまとう問題を指摘したうえで、日本社会において異集団混淆を生み出してきたと思われる五つの構造的要因と、それらと交錯することによって複数のルーツをもつ人びとの表象や序列を形作る四つの社会的カテゴリを試論として提示する。続いて日本と海外の事例を接続させることにより、表象と自己定義をめぐる新たな研究課題の可能性を提起することとする」。
 その5つの構造的要因とは、「帝国主義・国外植民地主義」「先住民支配・国内植民地支配」「占領期から今日に至る米軍などの軍隊・基地の存在」「国外における婚姻外の混淆」「一般的な移住・移住労働」で、つぎの「四つの社会的カテゴリが交錯することによって、その婚姻や混淆によって生まれた人びとの表象が社会的価値観や序列のイデオロギーを伴い生成されると考えられる」という:「人種(とくに①社会通念上の人種カテゴリ・皮膚の色、②「血」のイデオロギー)」「ジェンダー・セクシュアリティ」「階級・社会的地位」「他の社会的・文化的差異(国籍、言語、宗教など)や行為・価値観など」。
 「同じこと」と「違うこと」、それはその時々や場所場所によって、捉え方が違ってくる。違うことが当たり前と捉える東南アジアでは、「多様性のなかの統一」ということばが、近代国民国家の形成や、なんらかのまとまりのあることを論じるときに、しばしば使われる。それは、統一しようとするのではなく、違いを認めあうことを意味することが多い。たとえば、ASEAN共同体では、全会一致を原則とし、違いを認めあうまで非公式会談を繰り返し、なんらかの合意ができたときにはじめて議題になる。だが、いつまでも議題にしないですますことができるか。本書で取りあげられた議論でも、議論しないほうがいいといわれることもしばしばある。「神話」をつくることはたやすいが、いったん「常識化」された「神話」を解体することは至難である。