高嶋航『軍隊とスポーツの近代』青弓社、2015年8月20日、440頁、3400円+税、ISBN978-4-7872-2062-2

 軍隊とスポーツとの関係について、戦場で死んだスポーツ選手を思い浮かべる人は、よくなかったと考えるだろう。だが、一時期ではあるが、「民間スポーツ界と軍隊の関係はきわめて密接であった」。
 そのことが、「いまや完全に忘れられ、日本体育史から抹殺されている」理由を、著者は「序論」でつぎのように説明している。「スポーツ史の側からすれば、軍隊とはひとえにスポーツの弾圧者であり、軍隊そのものをスポーツ史の対象と見ることができなかった。一方、軍隊史の側からすれば、スポーツは取り上げるに値しない、あるいはふさわしくないテーマであった。それは軍隊の本質とは何の関係もない、些末な問題にすぎなかった。いや「問題」でさえなかった。この問題は軍事史とスポーツ史のはざまにあって顧みられることがなかったのだ」。
 ところが、「欧米では近年、軍隊スポーツの研究が盛んになりつつある」。そして、「軍隊スポーツを意義づけるためによく用いられる概念が男性性である」。本書の議論のひとつがこの「男性性」で、著者は、議論を先取りしてつぎのように結論している。「社会の男性性の変化が軍隊のあり方を変え、スポーツの興隆を生み、よき兵士がよきスポーツマンであるとみなされるようになったとき、軍隊でスポーツが花開くことになる」。
 本書のふたつ目の議論は、「鍛錬/娯楽」である。陸軍が「スポーツを弾圧する主体となってしまった」原因として、「「娯楽」に対する考え方の違いにあるのではないか」と著者は「本書の仮説」とし、つぎのような議論を試みている。「日本軍がスポーツの鍛錬的側面と娯楽的側面をそれぞれどのように評価したか、そのようなスポーツ評価は軍隊内部でおこなわれるスポーツに対する場合と民間社会のスポーツに対する場合で違いがあったのか、軍隊のスポーツに対する評価は時代によって、また陸・海軍によって違いがあったのか、違いがあったとするならばどのような違いだったのか、そのような違いをきたした原因は何だったのか、などの点に着目し、整合的な説明を試みたい」。
 そして、3つ目の議論が、「皇室・軍隊・スポーツのトライアングル」で、「明治以降の皇室男子は基本的に陸・海軍に所属したので、皇室と軍隊の関係は明瞭」、そして「皇室とスポーツの関係については、二〇年代のスポーツの発展に皇室が大きな役割を果たしたことが最近の研究で明らかになってきている」ので、残るは「軍隊とスポーツの関係である」。「若い皇族たちのなかにはスポーツの愛好家が多かった」。「皇族、軍人、スポーツマンを兼ね備える存在だった彼らの動向に本書は注目する」。
 これら3つの議論が、「本書で軍隊とスポーツを分析する際の基本的な枠組みとなる」。本書は、序論、2部全7章からなる。1部「戦前の軍隊とスポーツ」と2部「戦時下の軍隊とスポーツ」で時代を分けて論じ、それぞれの部で海軍と陸軍の違いを論じている。それらに加えて、1部には「第3章 デモクラシー時代の軍民関係」「第4章 欧米の軍隊とスポーツ」があり、第2部には「第7章 軍隊とスポーツの日米比較」がある。3つの議論をあわせて、本書の結論とするような「終章」はない。
 本書を著者に代わってまとめるようなことはできないが、気づいたことをいくつか拾ってみる。まず、「男性性」について、つぎのように論じている。「一九三〇年代に軍隊の男性性が大きく変化した結果、二〇年代に一時盛んだった陸軍のスポーツは衰退していった。そして戦争が始まると、陸軍は総力戦の要請からスポーツ界、とりわけ学生スポーツ界への干渉を強めていった。いわゆるスポーツの「弾圧」」をおこなった。そこには、スポーツと「男性性」の関係がある。「男性性」は海軍と陸軍では異なっていた。「イギリスの影響を強く受けた海軍では、スポーツに象徴されるイギリス的な男性性も基本的に肯定されていた。しかし、同じスポーツではあっても、ラグビーやサッカーは士官にふさわしいものとして、バレーボールやバスケットボールは下士官兵や職工にふさわしいものとして区別して扱われた。前者は士官にふさわしい資質を養成する鍛錬としての側面が評価され、後者は気晴らし、思想善導、安全弁といった役割、すなわち娯楽的な効果が期待された。両者の男性性は区別され、後者は前者の引き立て役の地位に置かれた」。
 いっぽう、「陸軍はスポーツと無縁なまま男性性を形成した」。「陸軍はスポーツを採用したが、その男性性を否認した」。「一九二〇年代の日本軍のスポーツ熱は、大戦後の欧米の軍隊における新しい男性性に触発されて生じたものだった」。「結局のところ、陸軍にとってスポーツは単なる娯楽にすぎなかった。そのため軍隊教育のなかにスポーツの痕跡を見いだすことは難しい。逆にいうと、軍人としての男らしさを要求されない人たちは、スポーツを許されていた」。「陸軍幼年学校は将校の卵を養成する学校ではあったが」、「軍人としての男らしさはまだ強く要求されなかった」。
 皇室との関係は、つぎのようにまとめられた。「皇室が一九二〇年代の軍隊スポーツに大きな役割を果たしたことは第1部で論じた。三〇年代後半以降、皇室とスポーツ界の関係はそれ以前と比べるとかなり希薄になっていた。皇族が総裁をつとめた明治神宮大会と東亜大会はその数少ない例外だが、その明治神宮大会も軍事化され、スポーツが排除されていった。二〇年代、自らスポーツを実践していた昭和天皇、秩父宮、高松宮もこのころには四十歳前後になっていて、皇族として軍人として多忙な日々を送っていた」。「二〇年代の平民的な皇室が媒介となって結び付いた軍隊とスポーツは、天皇が神格化されるなかでつながりを失い、「皇軍」とスポーツは対極の男性性をなすにいたった。菊と星と五輪のトライアングルは、星と五輪のあいだだけでなく菊と五輪のあいだでも切断されてしまったのだ」。
 そして、最終章となった第7章を、つぎのように結んでいる。本間雅晴は「第一次世界大戦のドイツ軍を「硬性軍隊」と呼び、平素は強いが逆境に弱いと分析していた。その本間が軍隊のスポーツを奨励したのは、軍隊をより柔軟な組織にしようとしたからである。大正末期の陸軍は本間の目指す方向に進み、そしてスポーツが花開いた。しかし、それは一時的な脱線に終わり、日本軍はかつて以上に「硬性」な軍隊になった。イギリスのスポーツマンシップを称賛し、兵士の人格と自由に基づく軍紀を主張していた将校=スポーツマンの本間が、太平洋戦争で「硬性軍隊」を率い、バターン死の行進の責任を問われて処刑されたことは、日本の軍隊とスポーツの近代を象徴する出来事だったのではないだろうか」。
 表紙にもなっているように、本書には多くの写真が掲載されている。それだけ宣伝材料になったということである。そのいっぽうで、「弾圧と抑圧」のイメージが強い。平和な時代においては「柔軟な組織」としての軍隊が求められるが、戦時においては「硬性」な軍隊が求められ、皇室も民間スポーツ界もそれに同調したということだろう。「スポーツの戦争化」である。つまり、「奨励」と「弾圧」はそれほど遠いものではなく、表裏一体と言っていいかもしれない。スポーツに目を向けることによって、戦争への「黄信号」を読みとり、事前に対策がとれるかもしれない。