高嶋航『帝国日本とスポーツ』塙書房、2012年3月25日、287+16頁、3800円+税、ISBN978-4-8273-1253-9

 本書の概要は、帯につぎのように記されている。「帝国内の明治神宮大会と帝国外の極東大会の系譜をたどり、帝国内外のスポーツを結集して大東亜会議に連動して催された第一四回明治神宮国民錬成大会の実態を明らかにし、近代国家に翻弄されたスポーツの歴史をふりかえる」。本書のキーワードのひとつは、背に「スポーツから錬磨育成へ」とあるように、明治神宮国民錬成大会の「錬成」である。たんなる「大会」でも「競技大会」でも「スポーツ大会」でもなく、「錬成大会」となったところに、本書の論点のひとつがある。
 まず、「スポーツ」とはなにかを考えなければならない。著者、高嶋航は「序章」でつぎのように述べている。「スポーツそのものを厳密に定義するのは難しい。本書では当時の人びとが漠然とスポーツと呼んでいたもの、たとえば野球、陸上競技、テニスなどオリンピックや極東選手権競技大会(以下、極東大会)に採用されていた競技を指すことにする。スポーツは外来のもの、西洋のものであると意識され、それゆえ戦時、とくに太平洋戦争勃発後の英米文化排撃の風潮のなかで批判の矢面に立たされた。同じ外来のものでも、体操や軍事訓練はそのような扱いを受けることはなかった」。
 排撃の対象となったスポーツと対象にならなかった体操の境界は曖昧で、「戦争への直接的貢献を重視した「錬成」」ということばに置き換わっていった。「錬成」とは、鄭根埴によると、「錬磨育成の意味で、体力、思想、感情、意志など、人間のすべての能力を包括する言葉である」。「スポーツは英米的、自由主義的、個人主義的という言葉を冠せられ、錬成から排除されていった」。
 排除された理由を、「単なる戦時体制の強化とかたづけることは可能であろう。しかし、なぜ大東亜各国の指導者が第一四回明治神宮国民錬成大会を参観し、彼らの息子たちを含む大東亜各地の青年が体操をしたのか、そもそもなぜ彼らはそこにいたのか、明治神宮国民錬成大会と大東亜体育協会の関係はどうなのか、等々の問題に答えるには、いわゆる「明治神宮大会」(以下、通称として用いる)の変化を追うだけでは不十分である」。
 本書は、「序章」、3部全11章、「あとがき」からなる。第Ⅰ部「極東選手権競技大会の系譜」で「帝国日本の外部の状況を、極東選手権競技大会の系譜をたどりつつ、明らかにしていく。その系譜は大東亜体育協会につながるはずである」。第Ⅱ部「明治神宮大会の系譜」では、「帝国日本の内部の状況を、明治神宮大会の系譜をたどりつつ、跡づけていく。そして、第一四回明治神宮国民錬成大会を、この二つの系譜が交わるところに位置したものと考え」、第Ⅲ部「大東亜会議と明治神宮大会」で「詳細に検討して」いく。
 明治神宮大会は、1944年2月に冬季大会を開催し、4ヶ月後厚生省は全面的に中止することを決めた。敗戦後、「軍事教練の廃止、銃剣道、射撃の禁止、大日本武徳会の解散など」と平行して、「体育・スポーツの民主化が推進される」。「しかし、フィリピンでスポーツが民主主義を育てるのに必ずしも成功しなかったように、日本でもそれは掛け声だけに終わった」。
 明治神宮大会は、国民体育大会として、早くも1946年8月に夏季大会、11月に秋季大会、翌年1月に冬季大会を開催して「復活」した。「国体は回を追うごとに明治神宮大会に近づいていった。第二回大会にははやくも天皇が出席して、当時は禁止されていた日の丸が掲揚され、君が代が斉唱され、競技場を「感激と歓喜の渦」に巻き込んだ。第三回大会には天皇杯、皇后杯が創設され、第六回大会には開会式にマスゲームが導入される。東京オリンピックの翌年に開かれた岐阜国体では明治神宮大会をはるかに凌駕する総動員体制が構築された。「岐阜方式」と呼ばれる選手強化策は、勝利のためにすべてを犠牲にすることを正当化した」。「国体には国籍条項があり、一九七〇年まで日本国籍が参加の条件となっていた」。国体は、各県持ち回りで開催され、県のスポーツ施設の充実に貢献したが、開催県が優勝するのが常で、著者が実際に参加し、その「不正」を経験したことを「あとがき」で告白している。
 スポーツ大会には、得体の知れない時代と社会がまとわりつく。本書から、「帝国日本」という時代だけでかたづけられない日本社会の基層が垣間見えてくる。それは、今日でも国際大会を通じて、国際関係だけでなく、ナショナリズムを通じた国内事情がみえてくることを意味する。スポーツを通した歴史、社会、文化、国際関係などいろいろな切り口から、今日のグローバル社会もみえてきそうだ。