バラク・クシュナー著、井形彬訳『思想戦 大日本帝国のプロパガンダ』明石書店、2016年12月25日、417頁、ISBN978-4-7503-4436-2
帯に「ナチスを凌ぐプロパガンダの正体に迫る!」「「アジアの解放者」日本を内外に宣伝する「思想戦」。その戦士となることを国民は自ら選び加担した。十五年戦争の長期にわたり総動員体制を持続させたプロパガンダのメカニズムと参加した国民の実像を描く」「戦後にも継承された日本的プロパガンダの危うい本質を抉る傑作」「待望の邦訳登場!」とある。
つまり、戦争責任、戦後責任は国民にもある、ということで、著者は序章「万人の、万人による、万人のためのプロパガンダ」で、つぎのように説明している。「戦時下日本のプロパガンダは、日本との比較でよく挙げられる第二次世界大戦中の他のファシスト政権国家をはるかに凌駕する規模で国家動員を後押ししていた。この人口七千万人の小さな島は、十五年にわたる戦争で中国を侵略し、中国北部に傀儡政権を築きあげ、東南アジアの広域を占領・植民地化し、中国のみならず米国・英国・オーストラリアとの血みどろの戦争を行った。さらに、ドイツやイタリアと異なり、日本では多数の一般人や知識人が国外逃亡することもなく、また、一九三〇、四〇年代の軍事侵攻が政府や軍部に対する大規模な国内反乱を生じさせることもなかった。十五年に及ぶアジアの覇権を巡る戦争で、日本人一般大衆は個人的な不自由と経済的な貧窮に苦しみながらも、大日本帝国の防衛と拡張に全力を注いでいたのだ」。
著者は、「日本は半世紀にわたり帝国を統治してきたが、現在の学者や日本の一般市民は、帝国とプロパガンダの関係性について十分に検討してきたと言うことはできないだろう」と指摘し、つぎのようにつづけている。「実際、戦争プロパガンダが帝国プロパガンダの延長線上にあるという考えは、一九三〇年代に日本が「非常時」に直面したことが原因で、突如として日本の戦時下プロパガンダ構造が現れたわけではないことの説明となっている。第二次世界大戦中の日本のプロパガンダの起源は、一八九〇年代まで遡る帝国プロパガンダの一部として理解することができる。本書は一九三一~四五年のプロパガンダのみを分析対象としているが、帝国のアイディアとそのプロパガンダは中国との戦争よりはるか以前から、著名な作家、政治家、教育者、ビジネスマンを魅了しており、また、これらの人々は日本の敗北後もこのプロパガンダに関心を持ち続けていた。二十世紀初頭の日本人エリート層は、日本が目指す帝国主義的目標を支持していたが、「アジア人のためのアジア」というメッセージは、より広い一般大衆をも引き付ける魅力を持っていたのだ」。
本書は、「日本語版への序文」「謝辞」「序章」、全6章、「終章」「訳者あとがき」からなる。「各章が戦時下日本のプロパガンダを構成していた諸要素を取り扱っている」。第一章「「武器なき戦い」-プロパガンダ専門家とその手法」は、「プロパガンダ専門家が日本でどのように進化していったかを対象にしている。プロパガンダ戦略の潜在的理由を詳述することは、日本のプロパガンダ政策の目的を理解することに貢献する」。第二章「「姿なき爆弾」への対処-社会規範の規定」は、「警察や軍部が何を基準に社会的に許容されうる行動の範囲を決定していたのか、また、どのように社会の不平不満の兆候を監視していたのかを分析する」。第三章「軍官民の協力関係-広告とプロパガンダ」は、「広告業界が制作したプロパガンダ製品を検討する」。第四章「娯楽と戦争-プロパガンダに加担した演芸人の軌跡」は、「大衆文化や娯楽産業がどのように戦争支持に貢献していたかを検討する」。第五章「三つ巴の攻防-中国大陸を巡る思想戦」は、「日本のプロパガンダが海外で直面したプロパガンダに対し、どのように対応したかを検討している」。第六章「「精神的武装解除」の実現-敗北に向けた準備」は、「戦時中と戦後のプロパガンダに見られる継続性について分析する」。
そして、「序章」をつぎのパラグラフで結んでいる。「日本は、事実上地球の半分を巻き込んだ戦争を十五年間にわたり継続してきた。これほどの規模や凶暴性、幅広さを持つ戦争を継続するには、その目的を信じる一般大衆による積極的な参加が必要不可欠であった。確かに「戦時下」という時期には暗いイメージが付きまとう。しかし、当時の日本社会には終始暗雲が垂れ込めていたわけではない。という理解なくして、戦時下の日本社会を正確に捉えることはできないだろう」。
そして、その「戦時下の日本社会」は、そこだけを切り取って理解できるものではないことを、終章最後でつぎのように述べて、結んでいる。「恐らく、日本が一晩で変わってしまったと信じること自体、歴史的な認識が甘かったのではないだろうか。結局のところ、日本の社会動員は長い歴史を経てきている。内務省の歴史に関する戦後の回顧録では、戦前に道路が舗装される前にはよく、内務省は警察の電話線が引かれたかを確認していたとある高齢となった当時の官僚は思い起こしている。交通網の整備が進んでいないような人里離れた地域においてでさえ、警察は民心の動向の経過を追っていた。プロパガンダは戦前、日本の近代化に向けた努力に対して、日本全体をまとめあげることに役立っていたが、このような行動の重要性は降伏後も消え失せることはなかった。日本は戦争に敗北したものの、その決意とプロパガンダの綿密な運用によって、国家を失うことはなかったのだ」。
英語の原著が出版されたのが2006年、それから10年たってこの日本語訳が出版された。著者はすでにその先の研究を邁進している。「日本語版への序文」では、まず原著が出版されたときと比べて、「この分野における国内外の研究は大幅に拡大しており、プロパガンダの歴史に関する分野では、新たな重要な研究成果が生み出されている」として、その後の研究史を追っている。つぎに、著者のプロパガンダの歴史研究は、「全く新しい展望を開き、その後の研究は当初の計画とは異なる方向へと進んでいる」とし、つづけてつぎのように説明している。「東アジア史における日本の理解と位置付けから、最近はより中国をその分析対象とすることが多くなっており、最近はこれら二つの分野を結合する試みを行っている。私が大日本帝国の終焉と、日本の敗北が東アジアをどのように再構成したのか、そして、東アジアが内部的にどのように再編成されたのかという問題(すなわち米国を戦後秩序の唯一の設計者として見るのではない視点)に関する研究に着手して以来、この分野の研究が全般的に不足していることを実感し始めている。しかし、現在は世界中の多くの学者が、このトピックを有益な研究課題として取り組み始めている」。
さらに、著者の視線はヨーロッパにも向けられ、「過去数年においてフランスで起きてきたことを鑑みると、中国、あるいは日本が、過去の歴史と国家の役割をどのように認識しているかについては多くの比較されるべき点がある」と述べている。
グローバルな視点で、戦争を経験していない世代が相対化して研究課題に取り組んでいることが、新たな研究へと向かう原動力になっているのだろう。だが、ヨーロッパと東アジアで戦争は過去のものになってきているとはいえ、いまなお戦争状態の国ぐにが世界各地に存在している。現在もそのようななかで、「終始暗雲が垂れ込めているわけではないだろう」。いま現実に起こっている戦争下に暮らす人びとの日常に目を向けることによって、相対化される戦争にかんする研究をよりリアルに理解し、現代の問題と相涉することができるだろう。
つまり、戦争責任、戦後責任は国民にもある、ということで、著者は序章「万人の、万人による、万人のためのプロパガンダ」で、つぎのように説明している。「戦時下日本のプロパガンダは、日本との比較でよく挙げられる第二次世界大戦中の他のファシスト政権国家をはるかに凌駕する規模で国家動員を後押ししていた。この人口七千万人の小さな島は、十五年にわたる戦争で中国を侵略し、中国北部に傀儡政権を築きあげ、東南アジアの広域を占領・植民地化し、中国のみならず米国・英国・オーストラリアとの血みどろの戦争を行った。さらに、ドイツやイタリアと異なり、日本では多数の一般人や知識人が国外逃亡することもなく、また、一九三〇、四〇年代の軍事侵攻が政府や軍部に対する大規模な国内反乱を生じさせることもなかった。十五年に及ぶアジアの覇権を巡る戦争で、日本人一般大衆は個人的な不自由と経済的な貧窮に苦しみながらも、大日本帝国の防衛と拡張に全力を注いでいたのだ」。
著者は、「日本は半世紀にわたり帝国を統治してきたが、現在の学者や日本の一般市民は、帝国とプロパガンダの関係性について十分に検討してきたと言うことはできないだろう」と指摘し、つぎのようにつづけている。「実際、戦争プロパガンダが帝国プロパガンダの延長線上にあるという考えは、一九三〇年代に日本が「非常時」に直面したことが原因で、突如として日本の戦時下プロパガンダ構造が現れたわけではないことの説明となっている。第二次世界大戦中の日本のプロパガンダの起源は、一八九〇年代まで遡る帝国プロパガンダの一部として理解することができる。本書は一九三一~四五年のプロパガンダのみを分析対象としているが、帝国のアイディアとそのプロパガンダは中国との戦争よりはるか以前から、著名な作家、政治家、教育者、ビジネスマンを魅了しており、また、これらの人々は日本の敗北後もこのプロパガンダに関心を持ち続けていた。二十世紀初頭の日本人エリート層は、日本が目指す帝国主義的目標を支持していたが、「アジア人のためのアジア」というメッセージは、より広い一般大衆をも引き付ける魅力を持っていたのだ」。
本書は、「日本語版への序文」「謝辞」「序章」、全6章、「終章」「訳者あとがき」からなる。「各章が戦時下日本のプロパガンダを構成していた諸要素を取り扱っている」。第一章「「武器なき戦い」-プロパガンダ専門家とその手法」は、「プロパガンダ専門家が日本でどのように進化していったかを対象にしている。プロパガンダ戦略の潜在的理由を詳述することは、日本のプロパガンダ政策の目的を理解することに貢献する」。第二章「「姿なき爆弾」への対処-社会規範の規定」は、「警察や軍部が何を基準に社会的に許容されうる行動の範囲を決定していたのか、また、どのように社会の不平不満の兆候を監視していたのかを分析する」。第三章「軍官民の協力関係-広告とプロパガンダ」は、「広告業界が制作したプロパガンダ製品を検討する」。第四章「娯楽と戦争-プロパガンダに加担した演芸人の軌跡」は、「大衆文化や娯楽産業がどのように戦争支持に貢献していたかを検討する」。第五章「三つ巴の攻防-中国大陸を巡る思想戦」は、「日本のプロパガンダが海外で直面したプロパガンダに対し、どのように対応したかを検討している」。第六章「「精神的武装解除」の実現-敗北に向けた準備」は、「戦時中と戦後のプロパガンダに見られる継続性について分析する」。
そして、「序章」をつぎのパラグラフで結んでいる。「日本は、事実上地球の半分を巻き込んだ戦争を十五年間にわたり継続してきた。これほどの規模や凶暴性、幅広さを持つ戦争を継続するには、その目的を信じる一般大衆による積極的な参加が必要不可欠であった。確かに「戦時下」という時期には暗いイメージが付きまとう。しかし、当時の日本社会には終始暗雲が垂れ込めていたわけではない。という理解なくして、戦時下の日本社会を正確に捉えることはできないだろう」。
そして、その「戦時下の日本社会」は、そこだけを切り取って理解できるものではないことを、終章最後でつぎのように述べて、結んでいる。「恐らく、日本が一晩で変わってしまったと信じること自体、歴史的な認識が甘かったのではないだろうか。結局のところ、日本の社会動員は長い歴史を経てきている。内務省の歴史に関する戦後の回顧録では、戦前に道路が舗装される前にはよく、内務省は警察の電話線が引かれたかを確認していたとある高齢となった当時の官僚は思い起こしている。交通網の整備が進んでいないような人里離れた地域においてでさえ、警察は民心の動向の経過を追っていた。プロパガンダは戦前、日本の近代化に向けた努力に対して、日本全体をまとめあげることに役立っていたが、このような行動の重要性は降伏後も消え失せることはなかった。日本は戦争に敗北したものの、その決意とプロパガンダの綿密な運用によって、国家を失うことはなかったのだ」。
英語の原著が出版されたのが2006年、それから10年たってこの日本語訳が出版された。著者はすでにその先の研究を邁進している。「日本語版への序文」では、まず原著が出版されたときと比べて、「この分野における国内外の研究は大幅に拡大しており、プロパガンダの歴史に関する分野では、新たな重要な研究成果が生み出されている」として、その後の研究史を追っている。つぎに、著者のプロパガンダの歴史研究は、「全く新しい展望を開き、その後の研究は当初の計画とは異なる方向へと進んでいる」とし、つづけてつぎのように説明している。「東アジア史における日本の理解と位置付けから、最近はより中国をその分析対象とすることが多くなっており、最近はこれら二つの分野を結合する試みを行っている。私が大日本帝国の終焉と、日本の敗北が東アジアをどのように再構成したのか、そして、東アジアが内部的にどのように再編成されたのかという問題(すなわち米国を戦後秩序の唯一の設計者として見るのではない視点)に関する研究に着手して以来、この分野の研究が全般的に不足していることを実感し始めている。しかし、現在は世界中の多くの学者が、このトピックを有益な研究課題として取り組み始めている」。
さらに、著者の視線はヨーロッパにも向けられ、「過去数年においてフランスで起きてきたことを鑑みると、中国、あるいは日本が、過去の歴史と国家の役割をどのように認識しているかについては多くの比較されるべき点がある」と述べている。
グローバルな視点で、戦争を経験していない世代が相対化して研究課題に取り組んでいることが、新たな研究へと向かう原動力になっているのだろう。だが、ヨーロッパと東アジアで戦争は過去のものになってきているとはいえ、いまなお戦争状態の国ぐにが世界各地に存在している。現在もそのようななかで、「終始暗雲が垂れ込めているわけではないだろう」。いま現実に起こっている戦争下に暮らす人びとの日常に目を向けることによって、相対化される戦争にかんする研究をよりリアルに理解し、現代の問題と相涉することができるだろう。
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