立石泰則『戦争体験と経営者』岩波新書、2018年7月20日、179頁、780円+税、ISBN978-4-00-431728-9
本書を読み終えて、そんなに長く書けないだろうと思った。ところが書いてみると、予想に反して書くことがあった。これも実ある体験を戦中も戦後もしてきたからだろう。そういう人びとから、なにかしら学ぶべきことがある。
著者、立石泰則は、長年、経済誌や週刊誌の編集者・記者などを務め、「大企業の経営トップから中小企業の創業社長まで様々なタイプの経営者に出会い」、経営幹部まで広げると、一千人をくだらないと思われる経済人にインタビューしてきた。そのなかで、「経営理念も経営手法もまったく異なる、そして様々な個性で彩られた経営者たちであっても、彼らの間には「明確な一線」を引ける何かがあるのではないか、と思える」ようになった。「それは、「戦争体験」の有無である」。
その例として、まず西友を率いた堤清二とダイエーを率いた中内㓛のふたりを取りあげる。「堤氏は徴兵されず国内に止まり空襲などの「戦時」を経験したものの、中内氏には一兵卒として満州(現・中国東北部)やフィリピンなどの戦地に赴き、死と背中合わせの日々を送ったという違いがある」。
著者は、戦場に行かなかった堤にたいして、少々厳しい評価を、つぎのようにしている。「戦場での残虐行為の原因を「正常な感覚が麻痺」に求める堤の分析は、あまりにも単純すぎる気がするが、実際の戦場や戦闘行為を経験していない以上はやむを得ないことなのかも知れない」。「堤の九条改憲反対の主張が「経済人」の立場から展開されていることにやや違和感を覚えた。経営者でなくなっているのだから、もっと平和の観点から強く主張してもいいのではないかと思ってしまったのだ」。
それにたいして、著者は中内のように戦場を体験した人は、生き残ったことへの「後ろめたさ」を感じ、「自分のためにではなく他人のために生きる……これが、戦地から生きて帰ってきた人たちのレゾンデートルになっているように感じた」。「実際に戦場に立ち、食うか食われるかを経験した者でなければ、語れない心から」、中内はつぎのことばを叫びとして発したと紹介している。関西財界の重鎮の、「国民皆兵とか、軍備を強化せよなどという主張」にたいして、「「お国のために死んでよかったなぁ」なんて言えるか!?」と叫んだのである。
ケーズデンキの創業者、加藤馨は職業軍人の暗号係としての満洲などでの体験から、中内と同じようなつぎの考えをもっていた。「実際に戦争を体験した者として加藤は、戦争を知らない世代から再軍備や徴兵制の復活、海外派兵が「軽く」語られることに強い危機感を覚えたのであろう。そうした雰囲気や流れを、戦争の経験者として黙って見過ごすわけにはいかなかったに違いない。戦争体験は彼の心に、戦争が終わってからも暗い影を落としていたのである」。
近江商人でワコール創業者の塚本幸一は、インパール作戦に従軍し、その経験がかれの経営理念に強く影響した。塚本の女性観は、「女性が生きることは美しくありたいという願いそのものなのだという。しかし戦争は、その願いを女性に捨てさせるものであり、逆に平和は女性が美しくありたいという願望を謳歌できる時代だというのである」。「女性を美しくする」ことが、塚本にとっての「戦友の死が与えた「生かされている」人生」なのである。
戦記ものを読んでいて、いつも疑問に思うのは、みな殺されるなど犠牲になることを恐れるばかりだ。殺されることより恐ろしいのは、自分が人を殺すことだ。また、自分の肉親が人を殺さなければならない状況に追い込まれ、平和になってもその「殺人者」といっしょに暮らすことになることだ。「殺人者」といっしょに仕事をすることだって、どこまで平常心でいられるか。いまも戦場となった地域では、「殺人者」が身近にいる社会で暮らしている。戦争終わってもその状況は、寿命が長くなれば100年近くつづく。日本でも、最近までそのような状況がつづいていたのだが、それを知っていても気づかないふりをしてきたのだ。加害者としての恐ろしさはなかなか語られないが、本書ではわが子を殺すことになった例が紹介され、著者はつぎのように怒りをぶちまけている。「私の怒りは、我が子を殺すまで追い詰めた戦争の中での集団心理よりも彼らを置き去りにした日本軍に向かった。国民の生命と財産を守らない軍隊にどんな存在価値があるというのか。そもそも、海外に居留する日本人の生命と財産を守るためという大義名分のもと朝鮮や中国、アジアへ侵攻したのではなかったのか」。
著者の怒りは、つぎの元関東軍将校の戦後のことばで、打ち消されるどころか怒りを通り越してあきれさせた。この元将校は「記者の不勉強を呆れたと言わんばかりに、そして子供を諭すように」つぎのように答えたという。「日本の軍隊は皇軍と言いますよね。皇軍の意味はご存じですか。皇軍とは、天皇の軍隊という意味です。つまり、天皇を守るのが皇軍の務めです。だから、国民を守るのが日本軍の、皇軍の務めではありません」。戦後になっても、この将校は、まったく疑問も感じていないのである。これが、日本軍の本質というよりは、戦後日本の根本問題である。こういう人間を、なぜ叩き潰せなかったのか。
この戦後責任のなさにたいして、本書で取りあげた戦場を体験した経済人は戦わなかった。著書は、つぎのように総括している。「先の戦争の総括を国民自らの手で行わなかったからである。結果に対して責任を問い、責任を負うことがなければ、誰も反省もしないし、何も変わりようがない。「個」に無条件に、かつ無制限に「全体」への自己犠牲を強いる体質を社会から、国から一掃出来なかったのである」。
戦争を体験した経済人は、平和な経済環境を整えるために戦ったのかもしれない。だからこそ、1990年代までは一定の「反戦」があり、どこかで歯止めがかかるとして、塚本が日本会議の初代会長を務めたのかもしれない。だが、その後、首相が靖国神社に参拝するなど、政治家をはじめとする日本の右傾化が顕著になっていった。中内のような「叫び」をあげ、歯止めをかける者がいなくなってしまった。
その戦後責任のなさは、著者が「取材した経営者や経営幹部たちは、自らの戦争体験を進んで話すようなことはほとんどなかった。むしろ話題になることを避ける傾向にあった」ことから明白である。すでに戦後責任を果たせる世代の多くが、責任を果たせなくなってしまった。この穴を埋めることは、ほんとうに困難である。
著者、立石泰則は、長年、経済誌や週刊誌の編集者・記者などを務め、「大企業の経営トップから中小企業の創業社長まで様々なタイプの経営者に出会い」、経営幹部まで広げると、一千人をくだらないと思われる経済人にインタビューしてきた。そのなかで、「経営理念も経営手法もまったく異なる、そして様々な個性で彩られた経営者たちであっても、彼らの間には「明確な一線」を引ける何かがあるのではないか、と思える」ようになった。「それは、「戦争体験」の有無である」。
その例として、まず西友を率いた堤清二とダイエーを率いた中内㓛のふたりを取りあげる。「堤氏は徴兵されず国内に止まり空襲などの「戦時」を経験したものの、中内氏には一兵卒として満州(現・中国東北部)やフィリピンなどの戦地に赴き、死と背中合わせの日々を送ったという違いがある」。
著者は、戦場に行かなかった堤にたいして、少々厳しい評価を、つぎのようにしている。「戦場での残虐行為の原因を「正常な感覚が麻痺」に求める堤の分析は、あまりにも単純すぎる気がするが、実際の戦場や戦闘行為を経験していない以上はやむを得ないことなのかも知れない」。「堤の九条改憲反対の主張が「経済人」の立場から展開されていることにやや違和感を覚えた。経営者でなくなっているのだから、もっと平和の観点から強く主張してもいいのではないかと思ってしまったのだ」。
それにたいして、著者は中内のように戦場を体験した人は、生き残ったことへの「後ろめたさ」を感じ、「自分のためにではなく他人のために生きる……これが、戦地から生きて帰ってきた人たちのレゾンデートルになっているように感じた」。「実際に戦場に立ち、食うか食われるかを経験した者でなければ、語れない心から」、中内はつぎのことばを叫びとして発したと紹介している。関西財界の重鎮の、「国民皆兵とか、軍備を強化せよなどという主張」にたいして、「「お国のために死んでよかったなぁ」なんて言えるか!?」と叫んだのである。
ケーズデンキの創業者、加藤馨は職業軍人の暗号係としての満洲などでの体験から、中内と同じようなつぎの考えをもっていた。「実際に戦争を体験した者として加藤は、戦争を知らない世代から再軍備や徴兵制の復活、海外派兵が「軽く」語られることに強い危機感を覚えたのであろう。そうした雰囲気や流れを、戦争の経験者として黙って見過ごすわけにはいかなかったに違いない。戦争体験は彼の心に、戦争が終わってからも暗い影を落としていたのである」。
近江商人でワコール創業者の塚本幸一は、インパール作戦に従軍し、その経験がかれの経営理念に強く影響した。塚本の女性観は、「女性が生きることは美しくありたいという願いそのものなのだという。しかし戦争は、その願いを女性に捨てさせるものであり、逆に平和は女性が美しくありたいという願望を謳歌できる時代だというのである」。「女性を美しくする」ことが、塚本にとっての「戦友の死が与えた「生かされている」人生」なのである。
戦記ものを読んでいて、いつも疑問に思うのは、みな殺されるなど犠牲になることを恐れるばかりだ。殺されることより恐ろしいのは、自分が人を殺すことだ。また、自分の肉親が人を殺さなければならない状況に追い込まれ、平和になってもその「殺人者」といっしょに暮らすことになることだ。「殺人者」といっしょに仕事をすることだって、どこまで平常心でいられるか。いまも戦場となった地域では、「殺人者」が身近にいる社会で暮らしている。戦争終わってもその状況は、寿命が長くなれば100年近くつづく。日本でも、最近までそのような状況がつづいていたのだが、それを知っていても気づかないふりをしてきたのだ。加害者としての恐ろしさはなかなか語られないが、本書ではわが子を殺すことになった例が紹介され、著者はつぎのように怒りをぶちまけている。「私の怒りは、我が子を殺すまで追い詰めた戦争の中での集団心理よりも彼らを置き去りにした日本軍に向かった。国民の生命と財産を守らない軍隊にどんな存在価値があるというのか。そもそも、海外に居留する日本人の生命と財産を守るためという大義名分のもと朝鮮や中国、アジアへ侵攻したのではなかったのか」。
著者の怒りは、つぎの元関東軍将校の戦後のことばで、打ち消されるどころか怒りを通り越してあきれさせた。この元将校は「記者の不勉強を呆れたと言わんばかりに、そして子供を諭すように」つぎのように答えたという。「日本の軍隊は皇軍と言いますよね。皇軍の意味はご存じですか。皇軍とは、天皇の軍隊という意味です。つまり、天皇を守るのが皇軍の務めです。だから、国民を守るのが日本軍の、皇軍の務めではありません」。戦後になっても、この将校は、まったく疑問も感じていないのである。これが、日本軍の本質というよりは、戦後日本の根本問題である。こういう人間を、なぜ叩き潰せなかったのか。
この戦後責任のなさにたいして、本書で取りあげた戦場を体験した経済人は戦わなかった。著書は、つぎのように総括している。「先の戦争の総括を国民自らの手で行わなかったからである。結果に対して責任を問い、責任を負うことがなければ、誰も反省もしないし、何も変わりようがない。「個」に無条件に、かつ無制限に「全体」への自己犠牲を強いる体質を社会から、国から一掃出来なかったのである」。
戦争を体験した経済人は、平和な経済環境を整えるために戦ったのかもしれない。だからこそ、1990年代までは一定の「反戦」があり、どこかで歯止めがかかるとして、塚本が日本会議の初代会長を務めたのかもしれない。だが、その後、首相が靖国神社に参拝するなど、政治家をはじめとする日本の右傾化が顕著になっていった。中内のような「叫び」をあげ、歯止めをかける者がいなくなってしまった。
その戦後責任のなさは、著者が「取材した経営者や経営幹部たちは、自らの戦争体験を進んで話すようなことはほとんどなかった。むしろ話題になることを避ける傾向にあった」ことから明白である。すでに戦後責任を果たせる世代の多くが、責任を果たせなくなってしまった。この穴を埋めることは、ほんとうに困難である。
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