石原俊『硫(い)黄(おう)島(とう)-国策に翻弄された130年』中公新書、2019年1月25日、221頁、820円+税、ISBN978-4-12-102525-8

 本書、終章「硫黄島、戦後零年」は、つぎのパラグラフで終わっている。「総力戦期から冷戦期を経てポスト冷戦期に至るまで、日本と米国が幾重にも軍事利用しつくし、島民に与えた被害を感じることなく、さらには島民の存在そのものさえ忘却し続けてきた島。島民の歴史経験が忘れられているかぎり、硫黄島はいまだ「戦後零年」なのである」。
 近代は、国民国家の時代であり、民族運動やナショナリズムがさかんに語られた。だが、国民国家形成や民族自決・自治に結びつかない運動は、力を持たなかった。それが、冷戦が終わり、国家より大きな地域や小さな地方社会に目が向けられるようになると、それぞれ住民個人の生活を基本とした空間が見直されるようになってきた。国境が閉鎖的な壁ではなくなり、国境の向こうへとつながるゲートウェイと認識され、ボーダーレスなグローバル化時代がはじまった。そのようななかで、取り残されたのが硫黄列島で、島民にとっては著者の石原俊がいう「戦後零年」、さらには「冷戦後零年」「グローバル化零年」状態がつづいている。
 本書の目的は2つある。「一つは、硫黄列島の歴史を従来の「地上戦」一辺倒の言説から解放し、島民とその社会を軸とする近現代史として描き直すことである。もう一つは、日本帝国の典型的な「南洋」植民地として発達し、日米の総力戦の最前線として利用され、冷戦下で米国の軍事利用に差し出された硫黄列島の経験を、現在の日本の国境内部にとどまらないアジア太平洋の近現代史に、きちんと位置づけることである」。
 本書は、「はじめに-そこに社会があった」、全6章、「終章」からなる。全6章は時系列的で、著者は「はじめに」でつぎのようにまとめている。「第1章 発見・領有・入植-一六世紀~一九三〇年頃」では、「一八八〇年代後半に盛り上がった日本帝国初の南進論を背景としながら、明治政府が小笠原群島などに続いて硫黄列島の領有を宣言し、二〇世紀初頭にかけて硫黄島と北硫黄島が農業入植地として発展する過程をみていく。続く」「第2章 プランテーション社会の諸相-一九三〇年頃~四四年」は、一九二〇年代以降、島民の大半を占める拓殖会社の小作人らが、厳しい搾取下に置かれつつ、いかにしたたかに生き抜いていたのかに焦点をあてる」。
 「第3章 強制疎開と軍務動員-一九四四年」では、「一九四四年、硫黄列島が地上戦候補地として要塞化され、島民が強制疎開または軍務動員を強いられていく局面を記述する」。「第4章 地上戦と島民たち-一九四五年」では、「一九四五年の硫黄島地上戦の過程を、軍務動員された島民の視点から再構成する」。
 「第5章 米軍占領と故郷喪失-一九四五~六八年」では、「日本の敗戦後から冷戦期にかけて、硫黄島が米軍の核秘密基地となるなか、帰郷を阻まれた島民が長期「難民」生活に困窮しながら生き抜いていく状況に照準をあてる」。「第6章 施政権返還と自衛隊基地化-一九六八年~現在」は、「施政権返還後も島民が引き続き帰郷を阻まれ、さらにポスト冷戦期に入っても硫黄島が日米の軍事利用下に置かれるなか、島民一世が高齢化し、次々と世を去りつつある現状を描き出す」。
 そして、つぎのように述べて、「はじめに」を締めくくっている。「本書は、忘れられてきた硫黄列島の近現代史を再構成するとともに、硫黄列島民の視点から、日本とアジア太平洋の戦前・戦争・戦後を問い直す作業である。硫黄列島民が近現代の日本とアジア太平洋世界のなかで強いられてきた、激動と苦難に満ちた一三〇年間は、「帝国」「戦争」「冷戦」の世紀であった二〇世紀が何であったのかを、その最前線の地点から鮮烈に照らし出すことになるだろう」。
 「はじめに」で述べられた2つの目的は、「終章」でつぎのようにまとめられている。まず、第一の目的については、つぎのように記している。「硫黄列島民の歴史経験のなかに地上戦を位置づける作業は、凄惨な地上戦の実態を相対化し、希釈することには決してならない。むしろ、反対である。本書がおこなったのは、日本帝国の総力戦の前線として利用された結果、強制疎開または地上戦への動員を強いられた硫黄列島民の経験を、日米本土などから硫黄島に動員された将兵の経験とともに、アジア太平洋戦争の社会史のなかに書き込んでいくことであった」。
 第二の目的については、つぎのようにまとめている。「硫黄列島は一九世紀末、日本帝国の南進論の高まりのなかで、初期「南洋」入植地の一つとして開発が始まった。その後、製糖業を軸とするプランテーション型入植地として発展し、日本帝国の「南洋」における植民地開発モデルとなっていく。さらに一九三〇年代に入ると、硫黄島のプランテーションは、日本帝国屈指のコカの集約的な生産地として、闇市場にもつながる場となった」。「そして硫黄列島は、日本帝国の崩壊・敗戦の過程で、本土防衛の軍事的前線として徹底的に利用された。結果としてこの島々は、北西太平洋の日本帝国の勢力圏を手中にした米国によって、島民を帰還させないまま秘密核基地化されていく。米軍による硫黄列島の排他的軍事利用を追認することと引きかえに、日本は主権回復を認められ、復興そして高度経済成長へと突き進んだ。そのかたわらで、故郷を失った島民の大多数は、拓殖会社の小作人として搾取されていた強制疎開前以上に、困窮を強いられていったのである」。
 そして、つぎのように総括している。「硫黄列島は、日本帝国の最前線で開発のターゲットになり、日米の総力戦の最前線として激烈な地上戦にさらされ、冷戦下で米国の核拠点として秘密基地化された。本書がおこなったのは、「帝国」「戦争」「冷戦」の最前線の島々から、日本とアジア太平洋世界の近現代史を描き直すことであった」。
 1974年生まれの著者にとって、本書は5冊目の単著になるという。2007年が1冊目であるから2~3年に1冊、コンスタントに出版していることになる。それだけ著者には書くことがあり、訴えたいことがあるということだろう。そして、収集した文献資料、口述資料を組み合わせて整然と整理し、まとめていくノウハウを身につけたということだろう。大学に入る前に冷戦の崩壊と「失われた10年」を経験した世代が、国民国家にとらわれることなく人びとの生活に目を向けたのも、自然のことかもしれない。そこには、国家に翻弄された人びとの姿があり、頼るべき組織も制度もない。ひとりひとりの生活と人生を見つめることが、これからの人文学の基本になっていくことだろう。本書が投げかけた問題を契機に、歴史学も社会学も変わっていかなければならない。