栗原俊雄『シベリア抑留 最後の帰還者-家族をつないだ52通のハガキ』角川新書、2018年1月10日、273頁、820円+税、ISBN978-4-04-082175-7

 「最後の帰還者が持ち帰った、奇跡の一次資料」である52通のハガキを手がかりとして、著者栗原俊雄は、「教科書には書かれない、抑留をめぐる事実」5点など、日本政府などに怒りをぶつける。そして、「悲劇の中にも、家族愛と人間の絆、ヒューマニズムの輝きがあった」ことを、「世の中に広く伝える役目を果たすことができることを新聞記者として誇りに思う」と、「あとがき」で結んでいる。著者怒りの5点は、帯の内側につぎのように列挙されている:「日本政府は、同胞を「賠償」としてソ連に提供しようとした」「国会議員も知らなかった抑留者の個人データの存在」「日本政府は帰還者や遺族への補償を拒否した」「帰還の実現は、その代償も膨大だった」「今も異境に眠る、三万体以上の遺骨」。
 まだある。最後の帰還の前年の1955年に、収容所を訪れた国会議員は、国際法違反で抑留されつづけている「同胞を「戦犯」」と呼び、「映画を「みせてもらえる」」と表現して、著者を呆れさせた。「原爆が投下された広島と長崎では毎年、公による追悼式が大々的に開かれるが、シベリア抑留にはそれもない」。「抑留を巡っては政府のみならずアカデミズムも長く実態解明に着手しなかった。ジャーナリズムも役割を果たさなかった。その結果、未解明なことも多い。そもそも何人が抑留され、何人が生きて帰り、何人が死んだのか、正確な数字は分からない。抑留された人たち一人一人の生活ぶり、日本で帰りを待つ留守家族たちの生活ぶりについても、体系的かつ継続的な研究はない」。したがって本書の目的は、「彼らがどんな体験をし、何を考え、どうやって生き抜いたのかを明らかにして」ゆくことである。
 2016年2月に52通のハガキをはじめて見て、著者が「日本現代史の超一級資料だと確信した」。背景には、それまでに「毎日新聞で一〇〇回以上、シベリア抑留に関する記事」を書き、「その過程で膨大な資料に接していた。その経験」があった。
 本書は、まえがき、全7章、終章、あとがきからなる。章別の要約は、「まえがき」の最後でつぎのようにまとめられている。「第一章 佐藤家の人びと」では、「佐藤健雄の生い立ちと、満鉄エリート社員としての生活を描く。順調にキャリアを積み、妻とし子との間に五人の子どもに恵まれた佐藤とその家族が、敗戦によって動乱に飲み込まれてゆく様が分かるだろう」。
 「第二章 抑留される」では、「健雄らを苦しめた抑留の実態を概観したい。さらに、満鉄が行っていたソ連研究、ことに健雄が関わった研究の内容を詳細にみてゆく。機密資料がことごとく焼却された中、健雄の頭脳に刻まれた一次資料が明らかになる」。
 「第三章 抑留生活の日々」は、「健雄は民間人でありながら裁判で「戦犯」扱いされた。その裁判の詳細が、遺族による情報公開請求で明らかになった。この初公開の一次資料とともに、「戦犯」たちが生きた地獄を振り返りたい」。
 「第四章 命のハガキ」と「第五章 見えない出口」では、「引き裂かれた佐藤家が交わしたハガキを通じて、抑留者と留守家族の様子をみてゆきたい。健雄の妻、とし子は五人の子どもを連れて日本に生きて帰った。だが夫の生死は不明だった。健雄も、家族がどうなったのか知らなかった。家族があきらめかけていた一九五二年夏、離ればなれになってから七年目、シベリアにいる健雄から突然ハガキが来た。以後五六年の帰国まで、たびたびの中断がありながらハガキの行き来が続いた」。
 「第六章 帰国、再会まで」では、「帰国直後の健雄と家族の様子を振り返りたい。「健在」と書き続けた健雄だったが、それは家族を安心させるための記述で、実際は死線を踏みつつあったことが分かる」。「第七章 ソ連研究の専門家として」では、「健雄や満鉄OBや、抑留経験者がどのように戦後を生きたかをたどってみる」。
 そして、「終章では、五二通のハガキが報道されるまでの経緯と、その報道が生んだ新たな展開を振り返ろう。一一年間引き裂かれながら、強い気持ちで結び合った佐藤家が生んだ奇跡のつらなりが見えてくるだろう」。
 本書で、これまで「未解明」だったことのいったんがわかる。だが、このような体験では、当事者が言えることと言えないこと、調べてわかっても書けることと書けないことがある。言えないこと、書けないことの意味がわからない人もいる。言えないこと、書けないことを含めて、読者に伝えることは至難である。言えないこと、書けないことを批判されても、反論のしようがないもどかしさがある。
 その奥深さを知るためにも、この52通のハガキのような資料を保存することが重要になる。著者は、その現実を「あとがき」でつぎのように述べている。「日本には戦争を専門にとりあげる資料館が少ない。収蔵庫の物理的な制約もあって、遺族が寄贈を申し出ても、断られることもある。そのためか、手紙や手記など、戦争にまつわる資料は当事者がいなくなると処分されてしまうことが多い」。研究者個人が集めた資料も、行き場がなくて困っている。この52通のハガキが超一級資料であること自体が、日本の「戦後責任の欠如」の結果であるともいえる。