石井正己編『博物館という装置-帝国・植民地・アイデンティティ』勉誠出版、2016年3月31日、391頁、4200円+税、ISBN978-4-585-20038-3

 本書の目的は、編者、石井正己が「序-なぜ帝国主義・植民地主義と博物館を問うのか」の冒頭で、つぎのように述べている。「本書は、帝国主義・植民地主義の視点から「博物館という装置」の持つ政治性を明らかにしてみようとするものである。二十一世紀になって、ポスト帝国主義・ポスト植民地主義をめぐる議論が盛んであるが、それを過去に封印したならば、その途端にダイナミックな視野を失ってしまうことが危惧される。過去を再認識するのは回顧が目的なのではなく、私たちの未来を模索するための手がかりを得ようと考えるからに他ならない。帝国主義・植民地主義は二十世紀の遺産ではなく、今もなお私たちの心を蝕んでいて、その呪縛と格闘する必要に迫られている」。
 編者は、「このテーマについて概念化を図ることが本書の目的である」としながらも、これまで自身が書いてきたものを中心に、「この本を編集するに至った極めて個人的な軌跡をたどるところから始めて」いる。
 編者は、植民地での教育という問題を通して、「課題になってきたのが博物館だった」と述べ、つぎのように説明している。「植民地で教科書を編纂する傍に博物館関係者がいた場合もあるが、そうでなくても、日本は植民地支配を拡大する過程で、教化のシステムとして「博物館としての装置」を次々に創設していった。博物館は植民地支配の先兵となっていったのである。そうしたことと連動して、ロシア帝国のシベリア探検と支配との関わりで、それまで取り上げることのなかった樺太も研究の対象になってきた。そこには当然、民俗学から排除されて人類学の中に居場所を見つけたアイヌ研究の問題もあった」。
 そして、現在、「博物館が帝国主義・植民地主義を本当に乗り越えられているかという問題」を、「かつて植民地であった場所から運ばれた文化財の帰属と返還をめぐる問題は世界中で起こっている」ことなどから考え、「「博物館という装置」に潜在する政治性を明らかにしよう」としている。
 本書は、序、6部、全16章、5コラムからなる。執筆者は総勢19人で、「東京学芸大学のフォーラムで講師を務め」た著者の友人を中心としている。韓国、中国、ロシア出身の4人を含む。全体をまとめるものは、「まえがき」「あとがき」にもなく「序」にしかない。
6部は、つぎのようなタイトルと章・コラム数になる:「Ⅰ 帝国主義の欲望を担った博物館」(全2章)「Ⅱ 帝国日本で生まれた博物館の歴史」(全3章、1コラム)「Ⅲ 帝国日本が営んだ外地の植民地博物館」(全4章)「Ⅳ 帝国の進出と収集されたコレクション」(全3章、1コラム)「Ⅴ ローカルな博物館とグローバルな博物館」(全2章、3コラム)「Ⅵ 文化財返還の根拠と歴史を逆なでする博物館」(全2章)。
 博物館は、学校の教科書とは違う。だが、近代国民国家の教科書がよき国民になるためにあるのなら、博物館は国立を含め、文化にせよ歴史にせよ、政治的なものでも自然科学的なものでも、もっと基層から訴えかけるものがある。それが間違った方向であっても違和感を覚えるものであっても、そこから人びとの声が聞こえてくる。その声を聞き取ることができるかどうかが、「博物館という装置」を問うことにつながる。
 博物館そのものが時代と社会を反映しているものといえるが、その歴史的変遷を知ることはそれほど容易くない。展示物をまとめた図録は残っているが、すべてを掲載しているわけではない。世界の多くの国の博物館では、入館料無料で自由に写真を撮ることができるので、展示をすべて自分のカメラに収めて保存することができるが、おそらく日本の博物館が世界でもっとも撮影の自由を認めていないだろう。博物館は、地域や社会、民族などにとって、重要な役割を果たす。撮影の自由を認めるなど、開かれたものにすることによって、博物館はもっと身近で、大切なものになる。そのためには、まず入館料を無料にすることだ。日本の博物館の入館料は高すぎるし、入館料をとること自体の意味を考えてみたい。