福田忠弘『海耕記-原耕が鰹群(なぐら)に翔けた夢』筑波書房、2018年11月24日、288頁、2800円+税、ISBN978-4-8119-0544-0

 「原耕知らずに、カツオを食すことなかれ!」と著者は意気込むが、著者の子どもたちは「お父さんは原耕、原耕って言っているけど、学校で原耕のこと知っている人なんて誰もいないよ」と言い返す。原耕の胸像は、枕崎市の大海原を見渡す松之尾公園にあるので、誰も知らないわけではない。
 著者、福田忠弘は、本書のチラシで、つぎのように原耕を紹介している。「カツオ漁とカツオ節のためにその身を削った政治家がいます。その正体は、医者で衆議院議員でカツオ漁ナンバーワン漁師の原耕(はらこう1876年鹿児島生まれ、1933年オランダ領東インドのアンボンで病死)という人物です。原耕は戦前、漁獲量が減って困窮する日本のカツオ漁師のために、現在のインドネシアのアンボンに新天地を築こうとしました。その計画はとても巨大で、ディズニーランド約5個分の広さの土地に、7000人もの漁師を移住させ、そこで日本にはカツオ節を、欧米にはツナ缶と魚粉を輸出しようと計画しましたが、夢半ばで議員在任中に命を落としてしまいました。原耕の墓は今もアンボンに残されています。「海を耕した政治家」が行おうとしたことはなんだったのか、現代の私たちの生活とどのようなつながりがあるのかを紹介します。カツオ節がありがたくなること、間違いなしです」。
 「本書は、2012(平成24)年5月16日から2017(平成29)年7月28日までの間、鹿児島の地方紙『南日本新聞』に126回掲載された「海耕記 原耕が鰹群に翔けた夢」がもとになって」いる。その第126回、最後の回で、「耕が90年前の第1回南洋漁場開拓事業前後にすでに予測していた事態」が、いま起こっていると、著者は述べている。それは、つぎのように説明されている。「世界における鰹の漁獲高は、1950(昭和25)年の鰹漁獲高16万トンから、2014(平成26)年には306万トンと、約19倍にも急増している(FAO統計)。世界中で、鰹の缶詰などの消費が急増しているのである。その最大の供給地がタイのバンコクで、ここから欧米、中東に向けて輸出されている。さらに東南アジア諸国では鰹節生産量が増加している。こうした動きと表裏一体をなすようにして、日本では鰹の確保が難しくなってきている」。
 疑問に思うには、鰹漁獲高がこれだけ増えているのに、90年前になぜ漁獲量が減ったと問題になったのかである。資源枯渇ではなく捕り方が未熟だったのか、資源が増えたのか、そのあたりの説明がない。
 日本漁業の戦前のインドネシアへの影響は、いまでも見ることができる。堅い鰹節は「木の魚」と呼ばれる。ソフトな生節もある。いまも国内線の小さな飛行機に乗ると鰹の群れを見ることがあるし、漁港にあがった日本では見たこともない丸々と肥った大きなカツオを見ると、インドネシアの漁場の豊かさを感じ、原耕が抱いた夢が幻ではなかったと思えてくる。戦前にインドネシアに漁業進出したのは原耕だけではないし、東南アジア、南洋群島など各地に日本人漁民が進出した。著者は、さらにオランダの文書館で調査したいと述べているが、オランダだけではなく、当時東南アジアに植民地をもつ、イギリス、アメリカの文書館にも、漁業進出、さらに軍事的進出を警戒して、日本人の漁業活動を注視していた文書が多く残されている。海外雄飛だけではない、日本の南進政策の一環としての漁業進出があった。だからこそ、政府、軍部が関心をもち、原耕の無謀とも思える事業を支援したのだ。著者の「研究は継続しています」のことばに期待したい。