鈴木恒之『スカルノ-インドネシアの民族形成と国家建設』山川出版社、2019年4月25日、110頁、800円+税、ISBN978-4-634-35092-2

 スカルノといえば、スカルノを政権から追い落としたスハルトと名前が紛らわしいためか、大学入試によく出る。1955年にバンドン会議(アジア・アフリカ会議)を率いたことも、世界史で大学を受験した者は知っている。だが、それ以上となると、デヴィ夫人がテレビのバラエティ番組などで見かける程度だろうが、デヴィ夫人がスカルノの第三夫人であったことを知る視聴者もそれほど多くないだろう。
 政治家としてのスカルノのイメージは、表紙にある力強い演説に代表されるだろう。だが、気になったのは裏表紙の1950年の「インド旅行中のスカルノとファトマワティ」で、自転車を自らこぎ、後部座席に三番目の妻で第一夫人のファトマワティの乗せている。ふたりとも、満面の笑みを浮かべている。扉の写真は、「アジア・アフリカ会議で開会を宣言するスカルノ」である。
 これら3枚の写真とは、違うイメージのスカルノもある。睦ましく見えた第一夫人との仲も、第二夫人を迎えたことで冷え切って、別居することになった。その第二夫人も、日本との経済関係を重視するなかで、第三夫人にファーストレディの座を奪われた。第三夫人はスカルノが失脚する前に出産のため日本に滞在し、失脚後は第二夫人が最後まで世話をした。第三夫人は、スカルノの死の前日にインドネシアに戻った。
 本書の要約は、表紙見返しに、つぎのようにまとめられている。「「建国の父」と称されるスカルノは、1920年代からオランダの植民地支配にたいする民族運動を牽引し、45年のインドネシア共和国独立へと導き、初代大統領として国家建設を指導した。67年の失脚まで、種々の対立、分裂の危機に直面しながらも、それらを克服し、民族統一・国家統合に努め、民族革命の完遂にいどみ続けた。彼の事績をたどりながら、それと表裏を成すインドネシア現代史の歩みを描く」。
 そして、つぎのように本書を結んでいる。「人民に自己を同一化し、人民(大衆)の代弁者として権力をふるったスカルノは、最後はその人民の支持を失い権力を失った。人民大衆との断絶をもっとも恐れていたにもかかわらず、最終的にはそれを強制され、孤独のうちになくなったスカルノの霊にとって、このあふれんばかりの[沿道の数百万人の]人民大衆の見送りは、せめてものなぐさめになったのではないだろうか」。
 1965年の9・30事件を契機として、スカルノからスハルトへ政権は移るのだが、事件の真相はいまだ明らかになっていない。はっきりしていることは、60年代になると、西イリアン解放闘争やマレーシアとの対決などで国家財政が、破綻していたことだ。そして、その後遺症は、今日まで大きく影響している。9・30事件を契機として、50万とも100万を超えるともいわれる人びとが殺害された。マレーシアとの対決後のマレーシア、シンガポールとの関係改善は容易ではなく、双方で嫌インドネシア、嫌マレーシア・シンガポール感情が残っている。
 リブレットで多くを詳細に語ることは不可能だが、裏表紙の仲睦ましく見える夫婦などを通して、「建国の父」そして本書冒頭の「蘇るスカルノ」の裏の「インドネシア現代史の歩みを描く」試みが、もうすこし出ていればと思った。