細田尚美『幸運を探すフィリピンの移民たち-冒険・犠牲・祝福の民族誌』明石書店、2019年2月28日、395頁、5000円+税、ISBN978-4-7503-4795-0
本書は、「故地との強固な親族ネットワークへの疑問」から出発し、「幸運という視点からみた「つながり」」を明らかにしようとするものである。本書は、フィリピンのサマール島にある、とある村と「その村の出身者の移住先という複数の地点で、二〇〇〇年から二〇一七年までの間に行ったフィールドワークで得たデータに基づく」成果である。
著者、細田尚美は、本書の試みを「序章 冒険とつながりの民族誌に向けて」で、つぎのように述べている。「移民と故地の人びとをつなげるものとして、「血」でもなく「食」でもなく、神からの祝福とされる幸運という概念を中心に据える。幸運に焦点を当てることによって、移民と両方の存在との関係を視野に収めて、移民のつながりについて考察することが可能となる。ただし、幸運は移民と故地の人びとをつなげるだけではない点にも留意する必要がある。本書は、幸運を得たとされる人が幸運の一部を身内の人間に分け与えない場合、つながりが弱まる可能性が高い様子も描く。このように、幸運を中心に人びとの関係を紐解いていくと、より包括的で柔軟な移民を取り巻く社会関係が浮き彫りになる」。「従来のつながりに対する見方とは違う、新しい「つながり」論を試みる研究でもある」。
本書は、序章、4部全8章、終章からなる。各部はそれぞれ2章からなり、終章は第四部に含まれる。そのまとめは、「終章 グローバル化時代における幸運とつながり」「一 サパララン・モデルの汎用性」でおこなわれ、まず本書全体をつぎのようにまとめている。「本書は、「幸運探し」など、サマール島の人びとが語る移動に関連するローカルな概念とそれに関連する実践に注目し、一般には労働力の移動とみなされてきた同島の人びとの行為をかれらの生きかたの一つとして捉えて描いた。すると、単に仕事を求めて別の土地へと移動しているようにいわれてきたかれらの行いは、実は、まだ見ぬ自分の運命を探して、一生かけて冒険するという生きかたそのものだった。そしてかれらの移動は、神や不可視の存在から家族・親族、雇用者、近所の人など関係するすべての存在とのつながりのなかで行われ、つながりを再編するものでもあった」。
つづけて、各部各章ごとに、つぎのようにまとめている。「第一部[サマール島における人の移動]で、本書の舞台であるサマール島では、別の土地への移動が生活のなかに組み込まれていることを示した。第一章[サパラランの歴史・地理的背景]で記したように、極めて人口密度の低かったサマール島では、少なくとも数世紀にわたり、移動することによって新しい機会を見つけるという態度は全体として肯定的に捉えられてきた。第二章[バト村の人びとの暮らしと移動]では、その点をバト村の例を用いてより具体的に描いた。村人の生業や職業選択の様子を調べると、村人やその祖先は、村の創成期から農業、漁業、賃金労働といった様々な分野で、自分や家族にとってより良い機会が来たと思ったら、まず試すという姿勢がみられた。これは、力を持たない人間が生き残るための方法とみなされている。別の土地への移動も、その試す行為の一部である」。
「第二部[運命とサパララン]は、村人の考える人間の運命とその活かしかたについて、移民の語りや行いをもとにまとめた。第三章[移動・豊かさ・リスク]では、サパララン(パキキパグサパララン)とは、人間の運命は人それぞれ生まれた時点で定まっているが、それに対して人間は働きかけられる、すなわち、自分で運命を変えられるかもしれないという考えに基づくと述べた。かれらのコスモロジーでは、富は世界に偏在しており、リスクはあるが、人間はそれを獲得しに行くことができるとされる。第四章[サパラランの過程]では、実際にサパラランした村人のライフヒストリーをもとに、サパラランの過程を分析した。一瞬にしてもたらされるという一般的な幸運のイメージとは異なり、実際の幸運探しは、いろいろ試す以外に、生き抜く術を身につける、辛抱するなどの場合もくぐり抜けなくてはならない。そうした行為も成功を祈願し神の前で約束したサクリピショ[神に捧げる行為]だからである」。
「第三部[幸運を通じたつながり]では、神や人びととの付き合いかたと幸運との関係を探った。まず第五章[祈りの世界のサパララン]では、幸運は神からの祝福という形でもたらされるが、祝福はサクリピシュとの交換ではなく、神が好感を持つ人に与えるものである。そのため人間は、神のような慈悲の心に基づいた分け与えをするブオタンな人であり続けなくてはならない。そのような態度をとっていないと、神が祝福を与えた人、すなわち幸運者だと周囲の人は認めず、富を得ただけの単なる金持ちとしか呼ばれないことを第六章[ブオタン精神がつなぐ移民と村の人びと]で論じた。この意味からすれば、幸運者からの送金やパサルボン[帰省時などに渡す贈り物]は、幸運の分け与えであり、つながりの維持や拡大と解釈できる」。
「第四部[つながりの揺らぎと再編]は、村人同士のつながりが弱まる可能性のある状況を調べ、村人の幸運の分け与えに関する考えかたや行いが一枚岩ではないことを示した。第七章[都市で暮らす移民の間の「分け与え」と「自立」]では、都市に移住したバト村移民の間で富の分配をめぐる考えかたの対立やすれ違いが起こっている場合に注目し、そこでは「分け与え」と「自立」という二つの理念が複雑に絡み合う様子を描いた。また、多くの富を持たない村人は、経済的に向上した村人による分け与えの様子を吟味し、噂によってかれらをコントロールする力を持つことがわかった。第八章[「村」を離れる人びと]は、村とのつながりが弱まると思われる三つの場面から、人びとのつながりが変化したり、再編されたりすることを明らかにした。総じて、村からの移民と村とのつながりは、顔が見えない期間が長引いたり、世代が代わったり、階層移動が起こったりした際に弱まる。それは、ブオタン関係を結ぶ親しい集団が別にいるということでもある。しかし、かつてのつながりが永久に切れるというわけではない。神からの祝福を望み、ブオタンな態度をとり続ける限り、幸運を通じた、神や周囲の人びととのつながりは、必要なときに再活性化したり、新しく構築されたりする。
そして、つぎのように結論している。「当事者たちの語りや行為から浮かび上がったのは、個人の冒険物語というよりも、祝福を求めて神と絶え間ないコミュニケーションをとり続ける人びとの物語だった。言い換えれば、神が認め、喜び、祝福を与えるブオタンな人間になる自己変容の物語といえる」。
著者も述べているとおり、本書でみられる移動は、東南アジア島嶼部地域各地でみられる。温帯の定着農耕民社会とは違い、移動性の激しい海洋民社会や遊牧民社会では、能力のある者はその能力を発揮できる場を求めて冒険する。移動先でも、新しい知識や技術などをもたらす冒険者を歓迎する。それが、英雄譚として語り継がれてきた。だが、グローバル社会のなかで、だれもが冒険をする機会を得られるようになった。そこで「移動する文化」がどのような現実となって現れてきたのか、本書ではフィリピンのサマール島の一村を通して具体的に語られている。基層社会と現代社会が、どう個人、家族、コミュニティのなかで交差するのか、フィリピンらしく「祝福」ということばでまとめられている。
著者、細田尚美は、本書の試みを「序章 冒険とつながりの民族誌に向けて」で、つぎのように述べている。「移民と故地の人びとをつなげるものとして、「血」でもなく「食」でもなく、神からの祝福とされる幸運という概念を中心に据える。幸運に焦点を当てることによって、移民と両方の存在との関係を視野に収めて、移民のつながりについて考察することが可能となる。ただし、幸運は移民と故地の人びとをつなげるだけではない点にも留意する必要がある。本書は、幸運を得たとされる人が幸運の一部を身内の人間に分け与えない場合、つながりが弱まる可能性が高い様子も描く。このように、幸運を中心に人びとの関係を紐解いていくと、より包括的で柔軟な移民を取り巻く社会関係が浮き彫りになる」。「従来のつながりに対する見方とは違う、新しい「つながり」論を試みる研究でもある」。
本書は、序章、4部全8章、終章からなる。各部はそれぞれ2章からなり、終章は第四部に含まれる。そのまとめは、「終章 グローバル化時代における幸運とつながり」「一 サパララン・モデルの汎用性」でおこなわれ、まず本書全体をつぎのようにまとめている。「本書は、「幸運探し」など、サマール島の人びとが語る移動に関連するローカルな概念とそれに関連する実践に注目し、一般には労働力の移動とみなされてきた同島の人びとの行為をかれらの生きかたの一つとして捉えて描いた。すると、単に仕事を求めて別の土地へと移動しているようにいわれてきたかれらの行いは、実は、まだ見ぬ自分の運命を探して、一生かけて冒険するという生きかたそのものだった。そしてかれらの移動は、神や不可視の存在から家族・親族、雇用者、近所の人など関係するすべての存在とのつながりのなかで行われ、つながりを再編するものでもあった」。
つづけて、各部各章ごとに、つぎのようにまとめている。「第一部[サマール島における人の移動]で、本書の舞台であるサマール島では、別の土地への移動が生活のなかに組み込まれていることを示した。第一章[サパラランの歴史・地理的背景]で記したように、極めて人口密度の低かったサマール島では、少なくとも数世紀にわたり、移動することによって新しい機会を見つけるという態度は全体として肯定的に捉えられてきた。第二章[バト村の人びとの暮らしと移動]では、その点をバト村の例を用いてより具体的に描いた。村人の生業や職業選択の様子を調べると、村人やその祖先は、村の創成期から農業、漁業、賃金労働といった様々な分野で、自分や家族にとってより良い機会が来たと思ったら、まず試すという姿勢がみられた。これは、力を持たない人間が生き残るための方法とみなされている。別の土地への移動も、その試す行為の一部である」。
「第二部[運命とサパララン]は、村人の考える人間の運命とその活かしかたについて、移民の語りや行いをもとにまとめた。第三章[移動・豊かさ・リスク]では、サパララン(パキキパグサパララン)とは、人間の運命は人それぞれ生まれた時点で定まっているが、それに対して人間は働きかけられる、すなわち、自分で運命を変えられるかもしれないという考えに基づくと述べた。かれらのコスモロジーでは、富は世界に偏在しており、リスクはあるが、人間はそれを獲得しに行くことができるとされる。第四章[サパラランの過程]では、実際にサパラランした村人のライフヒストリーをもとに、サパラランの過程を分析した。一瞬にしてもたらされるという一般的な幸運のイメージとは異なり、実際の幸運探しは、いろいろ試す以外に、生き抜く術を身につける、辛抱するなどの場合もくぐり抜けなくてはならない。そうした行為も成功を祈願し神の前で約束したサクリピショ[神に捧げる行為]だからである」。
「第三部[幸運を通じたつながり]では、神や人びととの付き合いかたと幸運との関係を探った。まず第五章[祈りの世界のサパララン]では、幸運は神からの祝福という形でもたらされるが、祝福はサクリピシュとの交換ではなく、神が好感を持つ人に与えるものである。そのため人間は、神のような慈悲の心に基づいた分け与えをするブオタンな人であり続けなくてはならない。そのような態度をとっていないと、神が祝福を与えた人、すなわち幸運者だと周囲の人は認めず、富を得ただけの単なる金持ちとしか呼ばれないことを第六章[ブオタン精神がつなぐ移民と村の人びと]で論じた。この意味からすれば、幸運者からの送金やパサルボン[帰省時などに渡す贈り物]は、幸運の分け与えであり、つながりの維持や拡大と解釈できる」。
「第四部[つながりの揺らぎと再編]は、村人同士のつながりが弱まる可能性のある状況を調べ、村人の幸運の分け与えに関する考えかたや行いが一枚岩ではないことを示した。第七章[都市で暮らす移民の間の「分け与え」と「自立」]では、都市に移住したバト村移民の間で富の分配をめぐる考えかたの対立やすれ違いが起こっている場合に注目し、そこでは「分け与え」と「自立」という二つの理念が複雑に絡み合う様子を描いた。また、多くの富を持たない村人は、経済的に向上した村人による分け与えの様子を吟味し、噂によってかれらをコントロールする力を持つことがわかった。第八章[「村」を離れる人びと]は、村とのつながりが弱まると思われる三つの場面から、人びとのつながりが変化したり、再編されたりすることを明らかにした。総じて、村からの移民と村とのつながりは、顔が見えない期間が長引いたり、世代が代わったり、階層移動が起こったりした際に弱まる。それは、ブオタン関係を結ぶ親しい集団が別にいるということでもある。しかし、かつてのつながりが永久に切れるというわけではない。神からの祝福を望み、ブオタンな態度をとり続ける限り、幸運を通じた、神や周囲の人びととのつながりは、必要なときに再活性化したり、新しく構築されたりする。
そして、つぎのように結論している。「当事者たちの語りや行為から浮かび上がったのは、個人の冒険物語というよりも、祝福を求めて神と絶え間ないコミュニケーションをとり続ける人びとの物語だった。言い換えれば、神が認め、喜び、祝福を与えるブオタンな人間になる自己変容の物語といえる」。
著者も述べているとおり、本書でみられる移動は、東南アジア島嶼部地域各地でみられる。温帯の定着農耕民社会とは違い、移動性の激しい海洋民社会や遊牧民社会では、能力のある者はその能力を発揮できる場を求めて冒険する。移動先でも、新しい知識や技術などをもたらす冒険者を歓迎する。それが、英雄譚として語り継がれてきた。だが、グローバル社会のなかで、だれもが冒険をする機会を得られるようになった。そこで「移動する文化」がどのような現実となって現れてきたのか、本書ではフィリピンのサマール島の一村を通して具体的に語られている。基層社会と現代社会が、どう個人、家族、コミュニティのなかで交差するのか、フィリピンらしく「祝福」ということばでまとめられている。
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