野村幸一郎『東京裁判の思想課題-アジアへのまなざし』新典社、2021年12月8日、267頁、2000円+税、ISBN978-4-7879-6857-9

 本書は、「序」の冒頭で、つぎのように目的を述べている。「極東軍事裁判、いわゆる東京裁判について、同じ時代を生き、裁判を目撃した、場合によっては当事者としてかかわることになった文化人、言論人が抱いた違和感や批判意識について分析を試みるものである。東京裁判を法律の問題や歴史の問題、政治的イデオロギーとして扱うのではなく、近代日本のアジア認識とのかかわりの中で分析しようとする試みであると言ってもよい」。

 つづけて、つぎのように説明している。「東京裁判は単に戦争責任を問うだけではなく、今日から見れば、その思想課題は文明論上の問題にまで拡大している。サミュエル・ハンチントンの言う「文明の衝突」が法廷という場で展開された歴史上希有な例であると言ってもよい。私が思想上、文明論上の問題として東京裁判を考えてみる必要を感じたのは、ここに理由がある」。

 著者、野村幸一郎は、東京裁判の争点をつぎの4点に整理している。「まず、第一は「平和に対する罪」や「人道に対する罪」という概念が、まだ国際法上において成立していない現状にあって、これをもって裁くのは「事後法」(犯罪が行われた後に成立した法をもって裁くこと)である、というものである」。「第二はいわゆる「勝者の裁き」に対する疑念である」。「第三は日本の軍部や政治家が、ナチスのように集団で計画的に侵略戦争を進めたとする「共同謀議」に対する批判である」。「そして、第四は「文明の裁き」に対する批判である」。

 著者は、「これら四つの争点の内、東京裁判に批判的であった言論人、文化人がとくに違和感を感じたのが、「文明の裁き」の問題であったことはまちがいない」と述べ、つぎのように説明している。「植民地化への危機意識から日本人はやむをえず西洋文明を受けいれ、近代国家を建設したと考える彼らにとって、アジア太平洋戦争もまた、東条の言う「自衛のための戦争」であり、大東亜共栄圏は明治維新の世界的展開、つまり、列強による植民地化からのアジアの解放であった。それゆえ彼らにとっては、アジアを蚕食してきた西洋諸国家が、アジア太平洋戦争を文明への宣戦布告であると批判したことは、みずからが過去に犯した犯罪を顧みず被害者の側に罪を押しつける無恥と傲慢に満ちた強弁のように感じざるをえなかった」。

 本書は、序、全6章、あとがきからなる。「序 保田與重郎の東京裁判批判-問題の所在」では、「保田與重郎の批判が内包する思想課題を指摘して」、本書の問題の所在を明らかにし、つぎのようにまとめている。「大東亜共栄圏をアジア解放の思想と主張したり、西洋近代こそが侵略戦争の根源であると語るなど、東京裁判史観からあまりにもかけ離れているために、従来、保田の歴史認識は、狂気と暴力に彩られた、きわめて危険な思想のように扱われてきた。このような指摘が保田の批評が内包する独善性や非人道性を照射していることは、私も承知している。しかし、仔細に見れば、保田は、アジア太平洋戦争が内包する功利的性格、侵略的性格を非難しつつ、もう一方で、その反植民地主義的性格をすくい取ろうとしている。誤解を恐れず言えば、戦争を「可能性」として見ようとしている」。「日本によって戦われた戦争はすべて正しいといったような、単純なナショナリズムを主張しているわけではない」。

 全6章各章で取りあげる徳富蘇峰、松井石根、大川周明、竹山道雄、堀田善衛、阿川弘之ついては、「序」でつぎのように紹介している。「徳富蘇峰は、ペリー来航にはじまる列強の圧迫に、日本における「国民」の誕生を指摘し、以後、日本は「国民」の意思として列強に対抗するために対外戦争をくりかえすことになった、と論じている。南京事件の責任を負わされ死刑となった松井石根は軍人であるが、さまざまな文章で彼の政治理念であった大亜細亜主義を主張している。松井にとって中国の民は列強に圧迫されつつあった「同胞」であり、日支事変は侵略戦争ではなく、「同胞」同志の内輪もめ、兄弟げんかのようなものであった。大川周明は岡倉天心の影響の下にあって、インドの仏教も中国の儒教も日本の精神文化として蓄積されており、日本はこの「三国意識」をもってアジアのリーダーとなるべきことを主張している。『ビルマの竪琴』の作者として知られる竹山道雄は、近代文明の光と影を論じ、行きすぎた経済格差が共産主義やファシズムの温床となった、日本でもまた近代文明の負面を温床としてファシズムや共産主義が人心をとらえていった、と論じている」。

 堀田善衛は、「東京裁判史観そのものを思索なり批判の対象としているわけではないのだが、東京裁判法廷での南京事件に関する詳細な証言を作品世界に巧みに取り入れ、歴史と実存の問題について思索をめぐらしている」。

 阿川弘之は、「東京裁判史観と歴史認識を共有することで、戦争責任に関する議論としては、ある死角を抱え込んでしまっている。保田の文明観にしたがうならば、アジア太平洋戦争の責任は、西洋的近代に追随した側の政治勢力にあったことになるわけだが、阿川の歴史認識、そして、その源流にある東京裁判史観は、この問題を捨象してしまっている」。

 「あとがき-坂口安吾のまなざし」では、坂口が言おうとしていることを通じて、本書をつぎのように総括している。「安吾は戦争の原因を、東京裁判で裁かれる軍人政治家の個人意思にではなく、日本文化そのもの、安吾の言葉で言う「日本を貫く巨大な生物、歴史のぬきさしならぬ意志」に求めていた。私たちの生を偶然から必然へ、非意味から有意味へと転換していく日本文化に、安吾は戦争の原因を求めたと言ってもよい」。

 そして、著者は、「東京裁判をめぐるさまざまな言説の限界性をあきらかにしていくところに、本書の目的があったことを、最後に述べさせていただきたい」と締め括っている。

 東京裁判については、いろいろなことが書かれ、評価されている。だが、本書のように同時代の文化人・言論人がどのようにとらえていたのかを考察したものはそれほど多くない。歴史学の基本は、後付けで議論するのではなく、あくまでも同時代資料にもとづいて議論すべきで、本書はそれに沿っている。問題が錯綜すれば、本書のように基本に戻って考えてみる必要がある。


評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年1月20日、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』(龍溪書舎、2021年4月~ )全30巻+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。