中西嘉宏『ミャンマー現代史』岩波新書、2022年8月19日、860円+税、ISBN978-4-00-431939-9

 帯に「暴力と不正義の連鎖は終わらない」とある。「止まらない」ではなく「終わらない」のだ。読者が訊きたいことは、表紙見返しにつぎのようにまとめられている。「ひとつのデモクラシーがはかなくも崩れ去っていった。-二〇二一年に起きた軍事クーデター以降、厳しい弾圧が今も続くミャンマー。軍の目的は? アウンサンスーチーはなぜクーデターを防げなかった? 国際社会はなぜ事態を収束させられない? 暴力と分断が連鎖する現代史の困難が集約されたその歩みを構造的に読み解く」。もうひとつ訊きたいのは、アセアン(東南アジア諸国連合)はなにをしている?、である。

 これらの疑問に答えるのが本書の目的で、「基本となるストーリーライン」は、つぎのようなものだ。「二〇二一年の政変をひとつの政治経済変容の終着点とみなして、一九八八年からはじまる約三五年間のミャンマー現代史を描く。二三年間続いた軍事政権のあと、二〇一一年から進んだ民主化、自由化、市場経済化、グローバル化の試みがクーデターによって頓挫した」。

 つづけて、著者、中西嘉宏の課題と目標を、つぎのように述べている。「断言してもよい。この国がクーデター前の状況に戻ることはない。混迷含みの新たな時代に突入する。だが、その新たな時代がどういったものになるのかは、いまだに像を結ばない。そこで、たとえ朧ろげではあっても、この国の行方を見通すこともまた、本書の課題としよう」。「二〇二一年のクーデター以来、私たちを困惑させ続けてきた数々の出来事が、本書で示す鳥瞰図の上で線としてつながって、なるほどそうなっていたのかと読者の腑に落ちれば、とりあえずの目標は達成されたことになるだろう。欲をいえば、ミャンマーのいまを通じて、世界秩序の危うさを再認識し、価値観を異にする他者や容認し難い不正義とどうかかわるべきなのかを考えるきっかけになれば、筆者にとって望外の喜びである」。

 本書は、はじめに、序章、全6章、終章、あとがき、などからなり、「はじめに」のおわりで、概要が章ごとにつぎのように記されている。序章「ミャンマーをどう考えるか」では、「ミャンマーという国をどうみるのかについて、筆者の基本的な視座を提示したい。また、本書が主に対象とする時代よりも前の時代についても、大きな流れをまとめておこう」。

 第1章「民主化運動の挑戦(一九八八-二〇一一)」は、「民主化運動について考える。一九八八年、ミャンマーで大規模な反政府運動が発生した。学生主体の反政府運動は、アウンサンスーチーを政治指導者とすることで、民主化を求める大衆運動へと変容し、軍と民主化勢力という基本的な対立構図が生まれる。両者の対立の過程を考察しよう」。

 第2章「軍事政権の強権と停滞(一九八八-二〇一一)」は、「一九八八年から二〇一一年まで続いた軍事政権についてである。ミャンマーの軍事政権は、国民から反発を受け、欧米の制裁で国際的に孤立し、経済も停滞したが、それでもなお、二三年間続いた。どうしてこんなことが可能だったのか、その理由を探る」。

 第3章「独裁の終わり、予期せぬ改革(二〇一一-一六)」は、「長い軍事政権からの転換に焦点を当てる。二〇一一年三月の民政移管と、そこから五年間続いたテインセイン政権下の政治と経済が考察対象である。長く停滞してきたミャンマーがなぜ急速に変わったのかを検討しよう」。

 第4章「だましだましの民主主義(二〇一六-二一)」で「論じたいのは、アウンサンスーチー政権の実態である。民主化の大きな進展といってよい二〇一六年のスーチー政権成立は同時に、長年の政敵が共存する不安定な政権のはじまりともいえた。スーチーの夢はどの程度実現して、何に失敗したのかを掘り下げたい」。

 第5章「クーデターから混迷へ(二〇二一-)」では、「二〇二一年二月一日に起きたクーデターとその後の余波を検討する。クーデターは市民の抵抗を呼び、それを軍が力で抑え込もうとしたことで急進化してしまう。だましだまし維持されていた民主主義はなぜ崩壊したのか。軍はなぜ自国民に銃を向け、何を実現しようとしているのか考えたい」。

 第6章「ミャンマー危機の国際政治(一九八八-二〇二一)」では「国際社会の動向に目を向けよう。ミャンマーの民主化や経済開発を支援した国際社会は、どうしてクーデターを未然に防ぐことができず、また、クーデター後の混乱に手をこまねくしかないのか。国際政治の複雑な力学を読み解く作業をしたい」。

 終章「忘れられた紛争国になるのか」では、「本書の内容をまとめたうえでミャンマーの今後を考える。シナリオとして描くことができるのは、決して明るい未来ではない。軍の統治は難航しそうだが、抵抗勢力による革命も実現しそうにない。困難な現実を直視したうえで、日本にできることはあるのか、あるとすればそれは何なのかを考える」。

 その「終章」では、まず「この国の行方」をつぎのようにまとめている。「先行きを左右するのは、軍、そしてそのトップのミンアウンフラインである。わたしたちが好むと好まざるとにかかわらず、実効支配という点では優位に立つ軍の動向がこの国の行方を左右する。したがって、軍の出口戦略がどの程度実現するのか、また、各種の要因でそこからどうずれていくのかといった点から、今後の行方を考えることが必要だろう」と述べて、「三つのシナリオ」(親軍政権の成立、軍事政権の持続、新たな権力分有)を示して、検討している。

 つぎに、「この国の困難」をポピュリズム、誤算の連鎖、暴力の罠の三つのキーワードからみていく。そして、最後に「日本はどうすべきか」、日本の対ミャンマー政策のあり方を、つぎの見出しのもとで検討している:「平和、民主主義、人権の支持が原則」「正義と平和の緊張関係」「アジアの現実に向き合う」「国家と生活を壊さない支援」「援助の見直しと過去の検証」「人道支援は日本でもできる」「日本の覚悟」。

 「はじめに」で著者が明言したように、ミャンマーがクーデター前に戻ることはないだろう。それは、Z世代が新たな動きをしたように、クーデター前とは違った「民主化」へ動くという期待でもある。その前に著者が危惧しているのは、「現状維持」のまま世界から忘れ去られていくことで、「あとがき」でつぎのように述べている。「忘却には抗いたい。かといって、関心を惹くために、過度に単純化した悲劇の物語にしてもなるまい。忘却でも単純化でもなく、現実を変えるための冷めた他者理解が必要とされていると思う。現状の救いのなさに戸惑うことになるかもしれないが、それでも、変容するアジアと世界を前にした大事な心構えだろう。ちょっとおおげさだが、ミャンマー現代史の解説を通じて、読者の世界認識が変わることに少しでも貢献できればと願う」。

 結局、ミャンマーを変えることができるのは、ミャンマー人しかいない。現状を変えるために、ミャンマーを外から見ることが必要である。これまでは先進国から学ぶことが多かった。だが、いまのミャンマー人、とくに若者にとって見るべき外は、近隣のアセアン諸国だろう。1960-70年代にビルマ(ミャンマー)は東南アジア競技大会(SEA Games)で、タイ、マレーシア、シンガポールと金メダルを争った。それがいまではカンボジア、ラオスと並ぶ、東南アジアのなかでもスポーツ小国になった。それはスポーツだけではなく、経済をみても明らかだろう。先進国をモデルとした変革は、あまりにも非現実的だ。まずは、近隣諸国と伍していくためにはどうすればいいのかをみることからはじめてはどうだろうか。その意味で、冒頭で訊きたいことに「アセアンはなにをしている?」を加えた。日本にできることは、日本に留学生として呼ぶだけでなく、近隣諸国との交流の機会を作ることも大切ではないだろうか。


評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年1月20日、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』(龍溪書舎、2021年4月~ )全30巻+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。