中野円佳『教育大国シンガポール-日本は何を学べるか』光文社新書、2023年1月30日、232頁、840円+税、ISBN978-4-334-04645-3
「たかが人口560万人、淡路島ほどの面積の特殊な都市国家と日本を比較してどうするのかという批判に応じるとすれば、だから私はこの本で比較をしようとは思っていない」と著者、中野円佳は「あとがき」で答え、つづけてつぎのように述べている。「それでもシンガポールで見えてきたことは、他の国にも照射することができるはずだ。決してバラ色の国などないという前提のもと、読後に何かを得てもらえていたら幸いだ」。
本書の内容は、表紙見返しにつぎのようにまとめられている。「国を挙げて教育政策に力を注ぎ、国際学力テストではつねに上位にランクイン。諸外国からの教育移住の多い国としても知られるシンガポール。5世帯に1世帯が外国人の住み込みメイドを雇っており、共働きしやすい国というイメージもある。今や日本が見習う国のように見えるが、はたしてすべてがうまくいっているのか。夫の赴任に伴い、5年間を現地で暮らした教育社会学の研究者・ジャーナリストである著者が、取材やインタビュー調査などを通じて、シンガポールの教育システムの実態を報告、激しい教育競争、習い事競争、教育熱と、母親たちの葛藤・試行錯誤を追う。日本の近未来ともいえるシンガポールを通し、日本のミドルクラスの共働き家庭がぶつかるであろう課題や教育の今後を考える」。
著者が本書で伝えようとしていることは、「はじめに」でつぎのように述べられている。「この本では、シンガポールの競争社会を取り上げる。もちろんシンガポール人が全員、教育競争に血眼になっているわけではない。階層や人種の差もあるし、たとえば同じ中華系の大卒の親たちの中でもかなりの多様性はある」。「本書が主眼を置くのは、教育や家庭の在り方についての格差論ではなく、むしろミドルクラスの内部で起こっている矛盾や葛藤だ」。
つづけて結論めいたことを、つぎのように述べている。「シンガポールで5年、生活をしながら調査をして見えてきたのは、色々とうまくいっているように見える中で葛藤している親たちの姿と、あまり表立って抗議はしないし問題と思っていない人も多いのだけれど、そこに静かに根差している男女の役割分担だ」。
そして、「はじめに」をつぎのパラグラフで閉じている。「それに代わる[日本の望む]未来までを導き出すことを本書は目的としていない。今あるがままを描くのがジャーナリストの1つの役割だと思っている。今、何が起こっているかを記述することで、読者の方々に何らかの示唆を得てもらえたら幸いである」。
本書は、はじめに、全4章、各章末のコラムまたは補論、あとがき、主要参考文献からなる。各章では本論である「教育優等生のシンガポール?」「もう1つの教育競争-グレード化する習い事」「「教育役割」の罠」「「教育と仕事の両立」とジェンダー平等」が論じられ、コラム、補論では、横道に逸れるかもしれないが本論同様に重要なテーマをシンガポールと日本の現実の具体例から著者の意見を述べる。
本書のキーワードは「メリトクラシー」である。著者は、第1章でつぎのように説明している。「もともとマイケル・ヤングの著作『メリトクラシー』に出てくる社会のことで、それまでの属性主義、つまり貴族に生まれたものが貴族になるということではなく、能力主義、つまり学歴などによって測った能力とされるものに応じた処遇を徹底するという考え方だ」。そこでは、「メリトクラシー化した社会では、自分の劣等生を認めなくてはならなくなる」ということにもなる。
「シンガポールにおける教育システムの目的は、国家へのアイデンティティと献身の精神を身につけさせること、経済発展の持続を達成することだ。そこで重視されているのが、教育を媒介として能力のある人材を登用していく体制である」。「国家の発展のため、学歴エリートを、官僚、そして政府に引き入れていく。シンガポール政府は、近隣のアジア諸国で賄賂や不正がまかり通っている可能性とは一線を画し、自国のシステムを「メリトクラシー」といって憚らない」。
最終章の第4章の最後は、「メリトクラシーの矛盾」の見出しのもと、シンガポールの教育事情をつぎのように総括している。「シンガポールは、これまで見てきたように、メリトクラシーを通じた国の統治と経済発展を目指し、教育に力を入れてきた。しかし、現在の教育システムは、本当の意味で「属性主義」ではないとはいえない」。「シンガポールでは、妊娠したとたんに、評判のいい小学校があるエリアに家を買ったという話をよく聞く。小学校はすべて公立だが、小学校を選択する際に、父母やきょうだいが卒業生であることや、家から近いことが優遇される」。「さらに、メリトクラシーの階段を上がっていく手段としての教育は、その費用負担の重さが少子化の原因として指摘される要因にもなっており、そして親のジェンダーにまで目配りをすれば、平等に機能しているとはいえない状態だ」。
そして、つぎのパラグラフで、この章を閉じている。「一人一人の親が、子どもに投資しようと考えることは、私は止められないと思う。問わなければならないのは、個々人の行動ではなく、個々人にそのような行動を起こさせる構造ではないだろうか」。
本書は、「シンガポールにいて全然経験していない」日本の公園での「我が子」の水遊びからはじまる。本書の副題にある「日本は何を学べるか」は、「教育大国」シンガポールから見習うことより、反面教師としての面が強いように感じられる。1970年代からはじまったシンガポールの少子化対策は一向に効果を上げず、日本より低い1.2程度の出生率で低迷しているのは、教育を通して子どもたちに明るい未来がみえないだけでなく、親になって教育のために犠牲になることを忌避しているからだろう。この点も、反面教師として日本が学ぶことができる。介護される本人だけでなく、その家族にも支援が必要なように、子どもだけでなく養育する親への支援も必要で、それは金銭的な面だけでなく、生活全面で日常と非常時に支えることができる構造が必要である。
評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年1月20日、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』(龍溪書舎、2021年4月~ )全30巻+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。
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