原民樹・西尾善太・白石奈津子・日下渉編著『現代フィリピンの地殻変動-新自由主義の深化・政治制度の近代化・親密性の歪み』花伝社、2023年3月20日、280頁、2000円+税、ISBN978-4-7634-2054-1
若い研究者が、切磋琢磨するのをみるのはいいもんだ。なんとなく感じていた現代フィリピンの「地殻変動」を、具体例とともに知ることができた。
本書の目的は、4人の編者のひとり、原民樹の「批判的序論 2010年代のフィリピン政治をどう理解するか-社会民主主義への転換」の冒頭で、つぎのように端的に示されている。「本書は、2000年代の現実を基礎にしたフィリピン理解に対し、2010年代のフィールド調査から新しい変化をつかみだし、これまで注目されてこなかった論点を提示する試みである。本章[「批判的序論」]に続く各論は、序論[新時代のフィリピン人-なぜ「規律」を求めるのか]で展開された日下[渉]のフィリピン社会論との批判的対話を通して、さまざまな切り口からフィリピンの新しい姿を描く」。
「批判的序論」では、「2010年代に調査を行った政治研究者の立場から現代フィリピンの変化を検討し、日下の議論に正面から批判を加え、最後にそこから浮かび上がるフィリピン理解の相違を手がかりに、各論であつかう論点の意義を紹介する」。
「2010年代のフィリピン政治の変化」は、つぎの6つにまとめられている:「1.新自由主義+寡頭制から社会民主主義+反寡頭制へ」「2.インフラ政策」「3.労働力輸出政策」「4.女性政策」「5.福祉レジーム論から見たフィリピンの変化」「6.アキノ・ドゥテルテ政権の歴史的意義と限界」。そして、「2000年代の現実を基礎にした」「日下論文への批判」は、つぎの3つにまとめられている:「1.新自由主義による分断なのか?」「2.福祉制度の評価をめぐって」「3.反国家主義の限界」。
本書は、はじめに、問題の所在、2部各部5章全10章、結論にかえて、あとがき、からなる。「問題の所在」は、「異なる視点からの2つの序論」からなる。「第1部「フォーマリティへの欲望」は、2010年代における政策や制度の変化を論じる。ここでは、国家の力が弱く、属人的関係が主たる社会編成原理であるためにインフォーマルな領域が大きかったフィリピンにおいて、フォーマルな領域が拡大していることが見出されている」。
「第2部「ままならないインティマシー」は、急激な社会変化が人々の親密な領域に与える影響に注目し、現代フィリピン人の生のあり方を多面的に活写する。ここでは、フィリピン社会における変わりゆくものと変わらないものが、具体的な位相において捉えられる」。
そして、終章となる「結論にかえて」(白石奈津子論文)では、「「時間」をキーワードにしながら、本書を総括する。そこでは、新自由主義化、近代化、親密性の変容が複雑にからみ合う現代フィリピンのダイナミズムが、各論文の議論をふまえ、日下や筆者[原民樹]とは異なる視点から整理される」。
本書の結論は、「あとがき 変化の混沌を受けとめる道行き」の「舞台裏」の顛末の最後にあるようだ。つぎのように書かれている。「一番のトラブルな道のりは、最終段階(原稿締め切りのなんと10日前!)に生じた。最終的に提出された日下の序論が、極めて首尾よく様々な議論をまとめているがゆえに日下の論を批判する「世代間プロレス」の構成が破綻してしまっているという異論が出たのである。企画の締め切りを延ばして、もう一度議論を再構成するか、編者たちで何度も話し合ったが、最終的に落ち着いたのは「元の構成のままでいこう」という結論だった」。
本書は、フィリピン・ナショナル・スタディーズの枠内で語られているため、フィリピン研究で前提となる基礎的なことはあまり説明されずに議論が展開されている。省略されたことをまとめると、つぎの3つになり、それが相互に絡みあっていまのフィリピン社会があるということになるだろう。これらのほかにカトリック教徒が多く、その影響で離婚や人工中絶が「できない」ことなどがあるが、省略できない本質的なことで本書でも正面から取りあげている。
まず、フィリピンが流動性の激しい海域社会に属しているため、自己完結的な社会を考えず、必要なものは外からもってくる、もってこられないなら自分たちが行くという考えがある。海外就労がそのひとつの例で、それによって条件のよくない国内就労にこだわらなくなる。
ふたつめが、フィリピンは1898-1946年にアメリカの植民地であったために近代の基本的制度が、アメリカによってもたらされたことである。選挙や社会保険制度がその例で、フィリピン人エリートはアメリカで教育を受けた者が多く、それを「常識」と考えている。しかし、海域世界に属しているため、制度化は徹底せず、中央集権化せず、インドネシアでいわれる「村落国家」的な地方の自治・独自性が残った。
三つめが、2015年に成立したASEAN共同体の影響である。12年に中等教育が4年間から6年間になったのも共同体の3つの柱のひとつの社会・文化共同体への影響がある。海域世界に属するため、セレモニー的な公式会議より非公式な対話が重視される。かつては、英語に堪能なフィリピン人が「おしゃべり」であったが、ほかのアセアン諸国代表の英語力が高まり、アセアン内での発言力はけっして大きくない。かつて1人あたりのGDPでかなり差をあけていたインドネシアにも抜き去られた。1959年から隔年ごとに開催され、非公式対話の場になってきた東南アジア競技大会でも、メダル獲得競争でインドネシアにつぐ人口にもかかわらず、小国シンガポールにも及ばない6位が定位置になっている。アセアン諸国内での人の流れも活発になり、空港にはアセアン専用の窓口があり、滞在する者も各国で多くなって、庶民レベルで各国を比較でき、ほかのアセアン諸国を意識せざるを得なくなってきている。柔軟性のあるアセアン方式(アセアン・ウェイ)は、アセアン内で臨機応変に対処できるいい面もあれば、なにも決められないというアセアン外に評判のよくない面もある。アセアン内で考えることも有効になってきている。
このような近代社会の成り立ちのなかで、制度化、中央集権化が充分にされていないフィリピンでは事例研究が成り立ちにくく、時代や社会によってさまざまな事例が紹介され、モデルとなった先行研究の事例が批判されてきた。したがって、2000年代をモデルとして10年代の事例を持ち出せば批判の対象となる。そして、この10年代のモデルも20年代の事例研究によって批判されることになるだろう。そうしたなかで、社会科学だけでは充分に理解できない東南アジア研究に、地域研究の重要性が持ち込まれてからずいぶん時が過ぎた。10年代に事例研究をおこなった者は、すでに地域研究が当たり前のなかで研究をスタートしている。本書のなかに、社会科学をこえた論考があるのは、その影響だろう。温帯の定着農耕民社会を事例に近代で発展した社会科学だけで、熱帯の流動性の高い海洋民社会に属する東南アジアを理解するには無理がある。
本書で議論されたもののなかには、たとえば「麻薬戦争」のようにアセアン各国共通の課題がある。その点、本書に寄稿した者が、それぞれ英語での発表を積極的におこない、ほかのアセアン諸国、あるいは第三者の立場の研究者と議論することができる条件を整えていることを頼もしく思う。想定する読者対象をフィリピン人だけでなく、もっと広げることによって、リージョナル、グローバルな問題として議論することができる。そのためには、フィリピンの基礎的なことがわかるように説明することも必要だろう。
最後に、議論が多岐にわたると当時に、共通するものもあるため、索引がほしかった。たとえば、行政地域としてのメトロ・マニラ(首都圏マニラ)とマニラ首都圏は、あきらかに違うことが索引を作成すればわかるだろう。首都圏マニラの地域的範囲は変わらないが、マニラ首都圏は拡大している(縮小することもある)。フィリピン政府もID CARDなどに使うOverseas Filipino Workers (OFW)は、日本的文脈で「海外出稼ぎ労働者」と一般に書かれるが、元の英語に「出稼ぎ」とことばはない。本書でも、それを使い分けているものもある。そして、「出稼ぎ」はもはや個々の生活、社会の一部になって、たんに「出稼ぎ」とも言えなくなってきている。日本の「移民」ということばの意味が、戦前、戦後、現代と違うように、フィリピンのOFWの内実にも時代的変化がある。
流動性の高い海域世界に属するフィリピン人は、そのときその場で自分の居場所を見つけていくたくましさをもっている。頭でっかちの議論をよそに、研究者の想定をこえた言動をすることがある。そこにグローバル化社会のいまを生きる知恵があり、反面教師としての面を含め、わたしたちが学ぶことがある。
さて、この「世代間プロレス」に参戦した12人の10年後、20年後が楽しみだ。ぜひ、同じメンバーで、同じタイトル(当然、副題は変わる)で「第2版」を出してほしい。自分たちが書いたことを批判の対象として。その前に、わたしが30代前半に取り組んだ『フィリピンの事典』(同朋舎、1992年)を出版してから30年以上が過ぎたので、これだけのメンバーがいるなら新しい「フィリピンの事典」を出版するのもいいだろう。本書でいう「地殻変動」が起こっているなら、「事典」の項目の多くが役に立たなくなっているはずだから。
評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
早瀬晋三『電子版 戦前期フィリピン在住日本人関係資料:解説、総目録』(研究資料シリーズ9)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2023年3月、234頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるhttps://waseda.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_snippet&pn=1&count=20&order=7&lang=japanese&creator=%E6%97%A9%E7%80%AC+%E6%99%8B%E4%B8%89&page_id=13&block_id=21 )
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年1月20日、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』(龍溪書舎、2021年4月~ )全30巻+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。
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