早瀬晋三書評ブログ2018年から

紀伊國屋書店「書評空間」https://booklog.kinokuniya.co.jp/archive/category/早瀬晋三に2005~15年に掲載された続きです。2015~18年に掲載されたものはseesaaブログshohyobloghayase.seesaa.net/ で閲覧できます。

2019年08月

藤原辰史編『歴史書の愉悦』ナカニシヤ出版、2019年7月1日、254頁、3000円+税、ISBN978-4-7795-1397-8

 編者、藤原辰史は、「はじめに」の冒頭、本書の趣旨をつぎのように述べている。「歴史書は、単に歴史を学ぶ道具ではない。歴史の授業の延長として視野を広めるための教材という意義もあるが、むろんそれだけではない。文学、絵画、写真、映画などの作品と同様に、鑑賞する者の内面に愉悦を感じさせる作品でもある。単純に、読んで楽しいものでもあったはずだ。愉悦とは、心地よさと同義ではない。五官に刺激を与え、心と体を癒やす、そんな観光ガイドブックの定型句のような感覚ではない。危険と不安に満ちた異世界への時間旅行を、歴史書はもたらすのである。「トリップ」後の読み手は、自分の生きている時代がどんな時代だったかを忘れるような空気にひたり、自分の生きている空間に違和感を覚え、歴史書の世界への郷愁に心を掻き回されることがある。優れた歴史書の持つ力は、読み手を異世界の海にひたらせ、ゆらゆらと漂わせる、そんな領域にまで及んでいた。しかも、大上段に振り構えられた言葉では届かない領域にも踏み込める現状批判の言葉は、史実の正確かつ綿密な把握ばかりでなく、それに伴う歴史書の「愉悦」によっても築かれてきたはずだった」。

 「ところが、現在の日本の歴史書の少なからぬものは」、編者のいう「愉悦」とはほど遠いもので、そのうえ「歴史書の読み手も読書時間が削られたり、浩瀚な本を読み抜く忍耐力が衰えたりして、歴史ファンでさえも、読みやすい手頃な本に手を伸ばす傾向がある」。編者は、「何日もかけてじっくりと歯ごたえのある歴史書に取り組むことが、ただ知識を入れるだけの読書よりも悦びに満ちた行為であることを伝える」ため、執筆者にそれぞれの「座右の書」についてエッセイを書いてもらった。

 本書の構成は、テーマを設定して、つぎのように配置した。「第Ⅰ章「中心と周縁を揺るがせる」では、宗主国と植民地、都市と農村、支配する側とされる側などを扱っている本が揃っている。第Ⅱ章「声なき声に耳をすます」では、歴史の表舞台からは聞き取りづらい民衆のささやきや動物の声、そういったものに耳を傾けた先人たちの本を扱っている。第Ⅲ章「精神の森に分け入る」では、とらえどころのない精神の動きや時代の空気に挑んだ作品が並ぶ。第Ⅳ章「歴史を叙述する」では、歴史を叙述することへの厳しい自己凝視に堪え、革新を目指した歴史書、あるいは、そういったことを書き手に考えさせる歴史書が挙げられている。いうまでもなく、各章のテーマをまたぐ歴史書も多いことは、編者の能力の限界をあらわすばかりではない。選ばれた本のスケールの大きさの証左でもある」。

 もちろん、編者は、ここで取りあげられた「ハードでディープ」な歴史書ばかり読んでいてはつまらないことを知っている。編者が批判としてあげた「生命の短い」歴史書も、その短い期間に読むことによって大いに意義があることがある。「生命の短い」歴史書が、なぜ一瞬異彩放ち、消えていったのかを知ることも、その時代を知る大きな手がかりになる。「生命の長い」ストックな歴史書と「生命の短い」フローな歴史書を読み比べるのも、それぞれの長短がわかっておもしろい。

 問題は、「愉悦」を楽しむことができるだけの時間と心のゆとりがあるかどうかだ。日本の大学でもサバティカル制度が導入されて、何年かに数ヶ月間から1年間、授業から解放されるようになった。そのときこそ、「何日もかけてじっくりと歯ごたえのある歴史書に取り組む」絶好の機会だ。

江澤誠『「大東亜共栄圏」と幻のスマトラ鉄道-玉音放送の日に完成した第二の泰緬鉄道』彩流社、2018年9月21日、414頁、4500円+税、ISBN978-4-7791-2498-3

 「大東亜戦争」中に建設された鉄道としては、泰緬鉄道があまりにも有名で、ほかの鉄道について語られることはほとんどない。本書の副題に「第二の泰緬鉄道」とあるのも、泰緬鉄道の有名さにあやかってのことだろう。だが、本書の主題、副題とも、読者に誤解を与えることばが含まれている。主題の「幻」から完成されなかった、あるいは利用されなかった印象を受ける。副題にあるとおり8月15日に完成されており、本書に書かれているとおり1946年3月26日まで列車は走っていた。「幻」とは、「知られざる」あるいは「忘れ去られた」という意味だろう。副題の「第二の泰緬鉄道」の「第二」から泰緬鉄道と密接にかかわったような印象を受けるが、日本軍が必要に応じて建設した鉄道のひとつで、現在のインドネシアだけでもスマトラだけでなく、ジャワ、ボルネオ、セレベス島に建設された。「第二」とは泰緬鉄道につぐ大規模な鉄道建設だったという意味だろうか。  帯にあるとおり、「敗戦の日に完成したこの鉄道建設で、多くの捕虜やロームシャが犠牲になった」「巨大鉄道」が、著者の江澤誠の「膨大な資料の渾身の発掘・分析と現地でのていねいな聞き取り調査により、歴史の闇に埋もれていた幻の鉄道の全貌が初めて明らかに」なった。  これまで、スマトラ鉄道が「幻」であった理由を、著者はつぎのようにまとめ、(本文より)として帯の裏に掲載されている。「そして(中略)、重要なことは「地政学的に周縁」とともに「意識上の周縁」とも言うべき点に思いをいたさなければならないということである」。「多くの犠牲者を出したスマトラ横断鉄道に関して戦後72年が経ってもその詳細が明らかになっていないのは、本来責任をとるべき日本国、軍、国鉄、建設会社などが責任を回避して意図的に沈黙してきたことも大きな要因である。戦争責任、戦後責任の認識を政府はじめ組織・団体、関係者の多くが持ち合わせていないのである。ほとんどの日本人はスマトラ横断鉄道という存在すら知らず、そのような意識の上での「周縁化」によって、スマトラ横断鉄道建設問題は埋もれてしまったと言える」。  著者は2015年に「スマトラ横断鉄道建設問題に本格的に取り組み始め」、1992年に一度「発見」された「スマトラ新聞」が行方不明になっていたのを「再発見」した。復刻した1943年10月1日から44年1月20日までの94号(全体では1943年6月から45年の敗戦時まで約650号発行)のなかに、スマトラ横断鉄道にかんする記事は2つしかなかった。日本軍政下で発行された東南アジア各地の新聞にも、鉄道にかんするものはほとんどない。鉄道は、軍事的に重要な機密事項で、とくに資源開発と絡んでいたため、検閲がかかってほとんど報道されなかった。  著者は、「あとがき」をつぎのように締めくくっている。「本文でも述べたがスマトラ横断鉄道の研究はインドネシア、オランダ、日本とほとんど独自に進められており、情報共有と共同研究が求められている。そのためにも本書が広範な人々に読まれ、可能であれば速やかにインドネシア語、オランダ語、英語へ翻訳されることを希望する次第である」。日本語の「スマトラ新聞」が発行される前から、マレー語のSumatora SinbunやKita-Sumatora- Sinbunが発行されていたが、これらも読まれていないのだろう。  その必要性は、同じく「あとがき」にあるつぎの文章からもよくわかる。「「玉音放送の日」後のスマトラ島に入ったRAPWI[ラプウィ:連合軍俘虜及び抑留者救援隊]ジェイコブズ少佐の抱いた言い知れぬ恐怖の対象は、鉄道建設で使役された捕虜やロームシャの凄惨な状況であったが、それにとどまるものではなかった。ジェイコブズは日本軍の持つ「何をしでかすかわからない狂気の塊」に怖気を振るったのである。普通の日本人が個としての存在から集団の一員になった時に現れる狂気は、いつ蘇るかわからないという点において、被害者のみならず加害者側の我々自身が恐れなければならない対象である」。  そのことにまったく気づいていない日本人の多くが、本書からその「狂気」を感じとってくれることを望む。  索引の頁がぐちゃぐちゃになっているのが残念である。出版事情の厳しいなか、出版社によっては編集者が原稿を読む余裕がないままに出版されることもあるという。誤字脱字が多くなるのも当然で、索引までこのような状況で出版されている。内容はいいのに、このような編集の不手際で読者離れがさらにすすむという悪循環にならなければいいのだが。

永井史男・水島治郎・品田裕編著『政治学入門』ミネルヴァ書房、2019年5月30日、364頁、3500円+税、ISBN978-4-623-08568-2

 本書の内容は、表紙見返しに、つぎのように紹介されている。「政治はどのように捉えればいいのか。本書では、初めて政治学に触れる大学生が、入学から卒業に至るまでに様々な「政治」を経験するというストーリーとともに、政治学の世界を分かりやすく紹介する。また、「合理的個人」という視座では説明がつかない政治の現象も視野に収めた、包括的な内容を目指す。大学新入生はもちろん、どの学部の学生にとっても、最初に紐解くべき入門書であり、社会人になってからも役立つ道しるべ」。
 本書が出版された理由のひとつは、「学問へのファーストステップ①」として、「しっかり書かれた教科書を作りたい」、というのはすぐわかる。もうひとつの理由は、「政治学入門を市民教育の柱として明確に位置づけたいということである」。そして、つぎのように説明している。「「市民教育の柱」という趣旨は、政治学を専門的に学ぶ政治学科などの学生よりも、文学、経済学、工学はじめさまざまな学問分野を学ぶみなさんにこそ、この本を読んでいただきたいという意味である」。「大学を卒業した後にこそ、市民として社会に責任を持ったり、あるいは社会福祉の担い手や受け手になったりする。その時にこそ必要な政治や社会の基本的考え方を伝えておきたい、という発想である。そこで本書では、従来の入門的教科書では正面からあまり取り上げられることのない「市民社会」論や「福祉国家」論、さらには現代政治学でやや敬遠される傾向のある「民主主義」論にそれぞれ1章ずつ割いた」。
 換言すれば、「はしがき」にある「政治はたいへん身近なものである」ということをわかってもらいたいということだろう。そのため、各章の冒頭に、新入生のミネオ君が「Short Story」で登場することになったのだろう。もうひとり女子学生が登場すると、「政治は男のもの」というイメージ払拭にも貢献したかもしれない。
 本書は、政治学の入門書であるが、つぎの2つの研究動向の影響を大きく受けているという。「1つは、近年の政治学入門書の多くが「方法論的」個人主義に基づく「合理的」個人を前提に政治現象を説明するのに対して、本書はそのような分析視座を共有しつつも、個人の行動が合理性のみによっては説明がつかない場合も視野に収めている点です。政治的営みを個人の「合理的」行動から説明しようとするのは「方法論的」個人主義の典型例です。あるいは、社会や階級、利益団体といったグループを自明の前提として1つの単位で捉えるのではなく、あくまで個人の集合体として理解しようとする立場です」。
 「もう1つは、理論と実証のバランスに対する目配りです」。「政治学のような社会科学でも、問いと仮説を立て、適切な理論を説明し、実証を行うという研究の作法が重要になりました」。「本書の執筆者は、ちょうど日本の政治学が大きく変わり始めた後で、大学で政治学や国際関係論を修めた人たちが中心です。本書もまた、こうした理論と実証の態度を大切にしたいと思います」。
 本書は、序章、4部全12章からなる。序章の最後で、つぎのようにまとめている。「「第Ⅰ部 政治は身近なところから」では、政治を身近なところから感じてもらうため、政治を知るメディアやツール、選挙における投票行動、政治家の生活について焦点を合わせます。続く「第Ⅱ部 政治はみんなで決めるもの?」では、やや遠いところで「政治」がどのように決められているのかを、議会や政策過程を通して考えます」。「「第Ⅲ部 『まち』と地域で支え合う政治」では、再び身近な政治に立ち戻りますが、「方法論的」個人主義では議論しづらい、市民社会論や地方自治、福祉国家など、目線を地域や社会に移して政治を考えたいと思います」。「最後の「第Ⅳ部 世界と関わり合う政治」では、これまでの議論が一国内で完結していたのに対して、視野をグローバルに広げています。政治学の分野で言えば、比較政治学や国際政治学に属する分野です」。
 15回の講義を想定して、序章と12章で13回分と試験、残り1回を担当教員に自由に使ってもらおうということだろうか。執筆者も12人で、全学共通科目の教科書として、各大学で使ってもらえば、採算もとれるということだろう。それでも3500円+税になるのか。高くなったのは「近年教科書は薄く短くなる傾向」に反した結果だろうが、「薄く短く」なるとわけがわからなくなり、長いほうがわかりやすい。わかりやすい本が高くなるというのはなっとくがいかないが、「逆向き」が功を奏してわかりやすくなっている。とくに第Ⅰ部はわかりやすいが、途中から「よくわからない」ということにならなければよいが・・・。

小原篤次・神宮健・伊藤博・門闖編著『中国の金融経済を学ぶ-加速するモバイル決済と国際化する人民元』ミネルヴァ書房、2019年6月20日、252頁、3000円+税、ISBN978-4-623-08565-1

 「これからの世界経済を読むために-世界最大規模となった中国金融業の発展プロセスと構造的特徴を理解する。」と帯にある。そして、裏の帯には、「目次」に「主要用語対訳一覧(日本語・中国語・英語)」がある。もはや国際金融は、英語だけではだめで、中国語も用語として理解しなければならないのか。
 本書は、はしがき、序章、4部全11章、終章からなる。序章「中国金融経済を学ぶ目的」では、第1節「中国金融発展のプロセス」で、「40年の改革・規制とインターネット金融」で今日に至る歴史的経緯と「中国金融に関する研究の特徴」を学んだ後、第2節「中国の金融経済を学ぶ目的」で、「市場メカニズムだけで中国の金融発展を分析することができず、政府のコントロール下にある中国の金融システムはどのように市場メカニズムを導入し機能させるのか、そして政府の介入を受けながら中国の金融システムはどのような役割と機能を果たし、効率的な資金配分を行っているのか、といった点が学習上重要になる」と指摘する。そして、「本書の内容構成」で各部、各章の要約をする。
 第Ⅰ部「金融セクター発展の歴史」の第1章「改革開放と中国の金融業」と第2章「中国金融制度の整備」では、「中国金融業の歴史と改革開放および金融制度の整備について体系的に整理した」。
 第Ⅱ部「多様化する金融セクター」では、第3章「金融業の規制緩和と競争」で「金融業の規制緩和の競争では、市場開放に対して一貫して慎重な姿勢を崩さない金融当局の政策転換を中心に、関連法整備および市場参入・金融業務における自由化の進展を中心に記述した」。第4章「政策金融と農業・農村金融」では、「「三農問題」(農民・農村・農業)を中心に、農業金融の現状とあり方について詳述している」。第5章「国有企業改革からベンチャー企業支援へ」では、「企業の上場に伴うコーポレートガバナンスの強化や外国投資家への段階的な市場開放を分析し、株式取引と市場の育成に決定的な影響を及ぼす「政府と党」の意思決定を考察した」。第6章「不良債権処理と金融資産管理会社」では、「不良債権処理の長期化や処理方法の多様化に伴う金融資産管理会社の金融コングロマリットへの成長過程を考察し、中国不良債権処理業界の特殊性を指摘した」。第7章「アセットマネジメントの急拡大」では、「中国で急速に拡大した資産運用業界に対して、家計所得の増加や資産運用の多様化に応える側面を強調しつつ、金融機関が規制から逃れるために資産運用商品(財テク)を増やし、いわゆる影の銀行という側面に焦点をあて、リスクが膨らむ中国の資産管理業界における現状と課題を再認識した」。
 第Ⅲ部「フィンテックと金融イノベーション」では、「フィンテックと金融イノベーションというテーマのもと、これまで技術においてキャッチアップの立場にあった中国の金融業について、異業種の参入によりインターネット金融やモバイル決済の分野において世界をリードし、キャッシュレス社会へ前進する中国フィンテックの事例を紹介する」。第8章「モバイル決済・インターネット金融の普及」では、「とりわけ金融弱者を救済する金融包摂におけるインターネット金融の役割と意義を分析した」。第9章「フィンテックの発展と最新動向」では、「技術開発を奨励する一方、技術の進歩に追いつかない規制の弱体化を危惧する政府が抱えるジレンマについて考察を加えた」。
 第Ⅳ部「金融セクターの国際化」では、「中国金融業の海外展開と人民元の国際化動向を扱う」。第10章「中国金融業の海外展開」では、「国際金融機関の樹立を通じて国際金融における中国のプレゼンスの拡大を目指す国際化政策の展開および国際化のあり方を検討した」。第11章「為替管理と人民元の国際化」では、「人民元為替レート制度の改革や関連国際収支の状況を踏まえ、人民元国際化の見通しについて考察を加えた」。
 終章「経済成長、金融行政、金融政策の展望」では、4節にわたって「米中の名目GDP逆転はいつ起きるのか」「経済社会政策の形成構造」「金融政策の有効性」「金融危機は起きるのか」を検討している。
 「はしがき」で、それぞれの関心にしたがって、どこから読んでもいいことが書かれている。本書を読み終えて、関心のあるところから読んでも仕方がないように思えてきた。「加速する」中国金融経済では、本書の情報は関心ある分野ではすでに古くなって役に立たなくなっているのではないか。むしろ関心が二の次から読んで、関心のある分野の相対化に役立てたほうがいいのではないだろうか。「加速する」分野の先を捕らえるために

重松伸司『マラッカ海峡のコスモポリス ペナン』大学教育出版、2012年3月20日、147頁、1800円+税、ISBN978-4-86429-118-7

 2008年にマラッカとともに世界遺産に登録されたペナンの中心地ジョージタウンに、「他の多くの世界遺産が誇るような、巨大な建築遺構や宗教施設、あるいは独特な文化史跡といったものは存在しない」。にもかかわらず、「世界文化遺産の三つの基準に適合すると認定された」のは、「それは目に見える形としての建築・技術・デザイン・景観だけではなく、むしろ多種多様な人々が日常的な営みの中で紡ぎ出した無形の生活遺産ではないかと思える」と著者、重松伸司は語る。
 本書の意図は、「はじめに」の最後でつぎのように語られている。「本書はその足で稼いだ原地調査、フィールドワークの一部であるが、ただ旅行ガイドや世界遺産案内を目的としたものではない。大学で講義していると、専門的論議は別として、ベンガル湾やマラッカ海峡の面白さを解説する一般書や啓蒙書の類が思いのほか少ないことに気づく。そこで、できるだけわかりやすい形で、ほとんど知られていない東南アジアの小島ペナンを対象にして、多くのエスニックが共存してきたアジアの近代という時代、そして様々な人々がたどってきた歴史のカタチについてまとめてみようと考えた。本書の意図はこの点にある」。
 本書は、はじめに、全7章、おわりに、からなる。全7章は、テーマごとで、つぎのタイトルからなる:「第一章 ビンロウと植民者」「第二章 アジールの島」「第三章 コスモポリス誕生」「第四章 移民マフィアの時代」「第五章 日本人町、彼南市の興亡」「第六章 アルメニア商人の海峡世界」「第七章 ベンガル湾のインド人海商」。
 「ジョージタウンという市街の成り立ちと、それを形作った人々の三〇〇年にわたる社会・生活史を概説」した本書を、まとめることは容易ではない。そのかわりに著者は、「おわりに」で「本書執筆中にぶつかった課題」、つぎの3つをあげている。
 「その一つは、本来この島の「当主」であるはずの、マレー人についての記述を十分に書けなかったことである。記録資料が少ないという問題も確かにある。だが、記録文書のほかに、マレー人が残した様々な伝承や非文献資料などを利用する研究方法や、マレー人の視点での歴史観を掘り下げる必要があったことを痛感している」。
 「第二に、本書では、インド系やアルメニア系の人々の記述が不十分なことである。アルメニア人については、今後まとめたいと考えているのだが、インド系の集団については、きっと私家文書や族誌は存在するはずであるから、それらの記録資料を掘り起こす必要がある」。
 「第三に、ペナン定住の中国系の人名や史跡の読み方の問題である。出身地ごとに-たとえば、福建・広東・海南・客家など-発音が異なり、さらにまたマレー語に発音が転写され、あるいは当時の西欧人がローマ字表記した際の表記が多様であり、それらをまたカタカナで表記する場合に、いったい何が正当な(あるいは妥当な)表記なのか確証が得られなかったのである」。
 著者は、類書がないというが、上記の3つの課題だけで、その理由はよくわかる。本書が書けたのも、著者の飽くなき追求心で、資料でも現地調査でも、決して諦めなかったからである。それを20年以上つづけた成果が本書である。この3つの課題をクリアするためには、日本人の1研究者だけではどうにもならない部分がある。現地の人びとの関心と、地元出身者によるローカルヒストリーの充実が必要である。日本史が、テーマによって粗密はあるものの、洗練された学問領域に達したのも広い底辺が支えているからである。本書のテーマは、底辺がないに等しい。
 ただ1点、これだけ博捜しても漏れるものがあることがわかった。「明治四二年施餓鬼供養」をおこなった僧言証は、島原の太師堂の創建者、広田言証で、倉橋正直氏の研究『島原のからゆきさん-奇僧・広田言証と太師堂』(共栄書房、1993年)で詳細が明らかになっている。

長濱博文『フィリピンの価値教育-グローバル社会に対応する全人・統合アプローチ』九州大学出版会、2014年3月31日、301頁、4000円+税、ISBN978-4-7985-0124-6

 本書の目的は、「はじめに」冒頭でつぎのように書かれている。「フィリピンの価値教育と価値教育を内包する統合科目の分析を通して、フィリピンにおける国民的アイデンティティの在り方に、価値教育がどのように作用しているかを明らかにすることである」。
 その必要性を、つづけてつぎのように説明している。「現在、これまでの道徳教育の名称に代わり、価値教育や人格教育、または社会科の要素を含む市民性教育の導入が世界的な潮流となっている。それは従来の道徳心を育む教育に加えて、グローバル化による急速な社会変容に伴う多様な価値観が、どの国民国家の中においても並存する状況に対して、レジリエンス(困難な状況にもしなやかに適応する力)のある内発的な心の教育が求められているからである」。
 著者、長濱博文がフィリピンを選んだ理由は、同じく「はじめに」でつぎのように述べられている。「現在のフィリピンの学力水準は日本と比較できるものではないかもしれない。しかし、様々な社会の矛盾の中で、高い自己肯定感や幸福感を持つフィリピンから学ぶことは少なくないのではないか」。
 本書の研究内容は、研究目的、問題意識に沿って、つぎの3つにまとめられている。「まず①統合科目における価値教育がどのような特質を持つかを考察し、それを受けて②フィリピンの価値教育の特質を有する統合科目が、異教徒の子どもたちの国民的アイデンティティの形成にどのような影響を持っているかを現地調査に基づいて検証する。さらに、③分析した価値教育の特質が実践においてどのように反映していると評価できるかについて考察する」。
 そして、著者は、フィリピンを通して、つぎのように日本の教育について考えている。「本研究はフィリピンの価値教育の研究であるが、それはフィリピンにおける価値教育の可能性を分析することだけでなく、その経験と知見を援用することにより、日本の子どもたちがグローバル化する社会において「生きる力」を発揮し、同時に健全な国民意識の育成を可能とする示唆を抽出できるのではないかとの問題意識に根ざしている。長きにわたり植民地化され、近代化も国民国家の形成も思うに任せなかったフィリピンであるからこそ、その苦難の歴史から投影される試みには、物質的繁栄の裏でいまだ克服し得ない国民意識の超克すべき課題と「生きる力」の形成に関する日本への示唆が見出せるのではないか。我々が途上国への偏見や先入観を克服した時に、フィリピンの価値教育は全く新しい「価値」を持って日本の学校教育の課題の処方箋として作用すると考える」。
 本書は、はじめに、序章「本研究の課題設定と分析の枠組み」、全6章、終章「総括と今後の課題」、あとがき、などからなる。各章の要約は、序章の最後でおこなっている。 第1章「マルコス政権とアキノ政権下の価値教育の展開」では、「価値教育の成立過程についてマルコス、アキノ政権の価値教育に関わる展開を考察する」。第2章「フィリピンの統合科目における価値教育の理念」では、「統合科目における価値教育の理念について分析する」。第3章「価値教育の全人・統合アプローチによる展開」では、「教授法である全人・統合アプローチの分析とそれに基づく現地において観察した授業実践について分析を加え、統合科目において価値教育がどのように教授されているかについて考察する」。第4章「意識調査にみる子どもの価値認識」では、「本研究の分析フィルターである革命の歴史からの分析と宗教と地域性に着目した分析について、現地での意識調査の成果を基に考察していく」。第5章「価値教育の理念から実践への展開」では、「第4章の意識調査の分析結果を基に、本研究において定義づけた価値意識の観点から、フィリピンの子どもたちの伝統、学校教育、選好に関わる意識調査の分析を再検討する」。第6章「市民性教育との比較考察と教育改革の動向」では、「フィリピンの価値教育の展開と比較考察するため、市民性教育を推進してきたオーストラリアの価値教育導入過程について論及する」。そして、「終章では、本研究で得られた知見を概括し、価値教育の国民的アイデンティティ形成への影響を明らかにするとともに、異教徒間対話を促進する可能性について考察する。そして、価値教育の可能性と教育実践における留意事項についてまとめるとともに、最後に、今後の課題について述べる」。
 その終章では、まず第6章を除いて章ごとに要約して議論を発展させ、「価値多元社会における価値教育の可能性」について探り、フィリピン価値教育の課題をつぎのように総括している。「常に過去との対話によって形成され、その過去との対話が未来につながるフィリピン像に投影される。フィリピンの価値教育におけるナショナリズムの涵養は、定点に留まることなく、常に未来への飛躍を目指す教育実践なのである」。
 最後に、今後の課題として、つぎの3つをあげて終章を終えている。「第1に、今後の研究の課題として考えられるのは、現地調査を継続し、ミンダナオのムスリム・ミンダナオ自治区(後のバンサモロ)を中心とした地域でどのような授業実践がなされているかを考察・分析することである」。「第2に、個々の価値を成立させている概念的背景からの理解と考察である」。「第3に、マニラとミンダナオにおける教員養成課程の比較検討である」。
 「価値教育」は教育学界では一般的かもしれないが、一般にはなじみのないことばである。本書は、「はじめに」で道徳教育にかわるもののひとつであることが説明され、なんとなくわかった気になって読むことができるが、読み進むにつれ「定義」のようなものがほしくなった。だが、どう定義されようが、結局は現場で個々の教員がどう応用させていくかにかかっていることがわかってきた。また、統合することによってより具体的に実践させることができることもわかってきた。つまり、教員教育にかかっている。
 本書では、カトリックとイスラーム、マニラとミンダナオとを2項対立的に比較し、わかりやすくなっている。この単純化からどう発展させていくかが、今後の研究の鍵になるだろう。多様性を特徴とするフィリピンの事例研究をいくつすればいいのか、するたびに差異が見つかる。本書表紙の2枚の教室の写真にともに掲げられている調査時点での大統領のアロヨは、後に選挙法違反、公金不正流用で逮捕された。キリスト教聖職者の性犯罪も後を絶たない。この「価値教育」と政治家や聖職者の犯罪行為は相容れないものである。だからこそ、議論の場を国内ではなく、ユネスコでおこなったともいえる。子どもたちは、教育されることと現実とが矛盾することを知っている。
 フィリピンの教員の給料だけで一家を養っていけないことは、だれもが知っていた。それを補うためのサイドビジネスをすると「聖職」としての教師に相応しくないことも起きる。アキノ政権で、充分ではないとはいえ、教員の給料が大幅に増えた。教員の質の向上、教室不足の解消など、フィリピンの教育は基本的な問題を多々抱えてきた。本書でも紹介されたASEANとの協調による教育改革が、その突破口になるかもしれない。

平田利文編著『アセアン共同体の市民性教育』東信堂、2017年2月28日、336頁、3700円+税、ISBN978-4-7989-1414-5

 本書は、2010~13年度科学研究費補助金による研究の成果であるが、2002年度から継続的におこなってきた「アセアン諸国における市民性教育」の成果でもある。
 研究の目的は、つぎの3つである。「第1に、アセアン10カ国における市民性教育の現状・課題・展望を解明すること、第2に、アセアンネス(ASEANness)のための教育を解明すること、そして第3には、アセアン10カ国における市民性教育・アセアンネスのための教育に対する提言を行うことであった」。
 また、広義には、「わが国では立ち遅れている」「この領域の学術図書を教育界・学会に問い、この領域の学術研究を進展・活性化させるのが第1の目的である。第2には、市民性教育が21世紀を生き抜いていくために必要不可欠であることを広く社会と学校現場に訴え、特に教育実践現場において市民性教育を浸透させることにある」。
 そして、「具体的な本書の目的は、アセアン諸国における(1)市民性教育の政策・カリキュラム・教科書などの現状、(2)児童生徒を対象として実施した市民性に関する意識調査結果、(3)そして市民性教育に関する有識者を対象としたデルファイ調査(未来予測調査)の結果、について検討することである。特に、デルファイ調査によって、10年後のアセアン各国において、達成すべき市民性資質を未来予測することをねらいとした」。
 本書の大きな特色は、つぎのように説明されている。「児童生徒に対し市民性教育に関する意識調査を実施するとともに、市民性教育に係わる有識者を対象にデルファイ調査(未来予測調査)を実施している点である。特に、デルファイ調査法によって、当該分野の専門家に対しておよそ10年後の市民性教育の姿を予測してもらっていることである。つまり、今後10年間で当該国はどのような市民性教育を実施すべきか、児童生徒が具体的にどのような市民性を身につけるべきかを予測することを主なねらいとしている」。
 「あと一つの特色は、本書は、比較教育学において当該国の教育研究の第一線に立つ研究者によって執筆されているということである。すなわちアセアン諸国の教育研究者が一堂に会して、相手国の市民性教育の専門家と共同研究を推進したということであり、このような試みは、はじめてのことであり画期的なことといってよい」。
 本書は、まえがき、3部全13章、あとがきからなる。「第Ⅰ部 研究概要」は1章のみで、その第1章では、表題通り、「研究目的・方法、研究枠組み、各国の報告要旨」が説明されている。
 「第Ⅱ部 アセアン10カ国の市民性教育」は、第2~11章の10章、すなわちアセアン加盟各国1章ずつからなり、本書の中心をなす。「10カ国それぞれの担当者が市民性教育について分析考察している。市民性教育に関する政策・カリキュラム・教科書等の分析をもとに、児童生徒を対象とした市民性に関する意識調査結果、また、本プロジェクトの大きな特色である、市民性教育に関する有識者を対象としたデルファイ調査結果について分析・検討している。デルファイ調査結果からは、それぞれ10年後の市民性教育がどうあるべきか、10年間でどのような市民性を身につけるべきかを明らかにしている」。
 「第Ⅲ部 総括」は、第12~13章の2章からなり、「児童生徒への質問紙調査結果とデルファイ調査によって得られたデータを元に、各国間の比較考察を試みている(第12章)。そして、第13章では、アセアン共同体の市民性教育について総括している」。
 しかし、第Ⅱ部の各国の調査、分析にもばらつきがみられ、「まえがき」で「本研究の限界あるいは課題」をつぎのように指摘している。「まず、広く包括的な考察・分析になったという点であろう。調査対象国として、10カ国を取りあげ比較研究した関係上、1カ国の内容分析に集中できなかったことによる。特に、児童生徒への意識調査結果、デルファイ調査結果に関しては、児童生徒の場合、学校段階別、年齢別の比較分析やクロス分析、デルファイ調査結果の属性別・職種別分析など、各種分析を十分行うことができなかった。児童生徒のデータは小学校から高校までの平均値としてみていただきたい。次に、未来予測を主目的としたため、各国間の比較考察も十分に行えなかった」。
 本書あるいは本研究の成果は、2014年の学会で報告し、つぎのようにまとめている。「アセアンにおける市民性教育というのは、「多様性」と「共通性」という観点から考察できることを報告した。まず、「多様性」という点については、一応アセアンネスのための教育の共通枠組みがアセアン憲章に規定されているものの、アセアン各国は、それぞれ固有の市民性教育の焦点をもっているということである。重要だと考えている市民性、達成すべき市民性は、アセアンすべての国で異なっている、多様であるということである。一方、「共通性」という点に関しては、ほとんどの国で、アセアン共通の問題に関する関心がほとんど見られないということもわかった。そして、アセアン共同体としてまとまり、共同体として統合が成功するためには、アセアンの市民性に関する共通の課題に対し、より関心を持つべきであるという調査結果を得ることができた」。
 本書にあるデータは、調査時点からすでに10年が過ぎようとしている。この10年間にアセアンは大きく変わった。その最大の要因のひとつは、中国である。とくに南シナ海の領有権問題は、アセアンの結束の必要性を感じさせた。各国国際空港の入管ではアセアン優先ラインがある。テレビを観ていても、アセアン各国を知る番組が流れている。アセアンは大学の重要な研究テーマになり、教育も進んできている。10年後のデルファイ調査の有効性を確認する時期が近づいている。今回の調査結果との比較を楽しみにしている。

ルシオ・デ・ソウザ、岡美穂子『大航海時代の日本人奴隷-アジア・新大陸・ヨーロッパ』中公叢書、2017年4月25日、201頁、ISBN978-4-12-004978-1

 2003年のNHK大河ドラマ「武蔵MUSASHI」は、たしか日本人が奴隷として売られていくシーンではじまったと記憶している。藤木久志『雑兵たちの戦場-中世の傭兵と奴隷狩り』(朝日新聞社、1995年)などを読めば、日本人が海外に奴隷として売られていくことは、珍しいことでもなんでもなかったことがわかる。秀吉の朝鮮出兵にさいして、自分の子どもの遊び相手にするために、朝鮮人の子どもをさらってきたり買ってきたりした日本の武将もいた。そんなことから、本書のきっかけがメキシコに渡った日本人「奴隷」がいたことが、2013年に新聞で「いくぶんセンセーショナル」に報道され、「一般の人には新鮮に受け取られた」ということが、ピンとこなかった。奴隷や海賊、頭蓋骨(考古学調査で発掘される)など、マスコミがセンセーショナルに報道する、いくつののキーワードがある。しかも、それらは珍しいからではなく、日常的でありふれたものだからである。
 本書はポルトガルで2014年に出版されたものの第1~2章で、日本人読者向けに改稿・翻訳したものである。ポルトガル語の書籍の3分の1であるという。
 本書の目的は、「緒言」の最後でつぎのように記されている。「本書では、我々が知る偉大な探検者たちの「大航海時代」とは異なる、この時代に生き、大きな歴史の流れに埋もれて人知れず生涯を終えた人々の「大航海」に光を当て、イベリア勢力の世界進出の陰の一面を描き出すことを目的としている」。
 日本人奴隷の存在が、これまで「一般にはほとんど知られておらず、南蛮貿易やキリシタン史の専門的な研究でも、この問題の細部にまで立ち入ったものはなかった」理由を、著者は2つあげている。「第一の理由に、一六世紀や一七世紀の国内外の史料に、南蛮貿易の「人身売買」について言及したものが、きわめて少ないことが挙げられる。これは何も日本に限ったことではなく、日本人よりも数量的には、はるかに多く取引されたであろうインド人や東南アジア島嶼部の人々に関しても同様である。記録が残りにくい理由は、世界各地で人身売買を盛んにおこなったポルトガル人商人にとって、その行為はあまりに日常的であったのと同時に、ポルトガル国王やそのインド領国の総督ら、政治的権力者によって表向きには何度も禁じられた「違法商売」であったことにある」。
 「第二に、総体的に史料が少ないことにもまして、いかなる人が、どういう経路で日本から海外へ渡り、彼らの生活がどのようなものであったのかを具体的に示す事例に欠けていたことが挙げられる。冒頭に挙げた史料は、個別の事例を具体的に示すものというだけではなく、日本人奴隷が一人称で語る、裁判所での「証言記録」であった。漠然とした「人身売買」のイメージは、彼自身の体験が語られることで、よりリアルに再現可能なものとなり、人々の関心を引いたのだと思う」。
 本書は、緒言、はじめに、序章「交差するディアスポラ-日本人奴隷と改宗ユダヤ人商人の物語」、全3章、おわりに、あとがき、からなる。本文3章は「アジア」「スペイン領中南米地域」「ヨーロッパ」の地域ごとにまとめられており、「第一章 アジア」はさらにマカオ、フィリピン、ゴア、「第二章 スペイン領中南米地域」はメキシコ、ペルー、アルゼンチン、「第三章 ヨーロッパ」はポルトガル、スペインに分けて事例を紹介し、論じている。
 そして、裏表紙で、全体をつぎのようにまとめている。「戦国時代の日本国内に、「奴隷」とされた人々が多数存在し、ポルトガル人が海外に連れ出していたことは知られていた。しかし、その実態は不明であり、顧みられることもほとんどなかった。ところが近年、三人の日本人奴隷がメキシコに渡っていたことを示す史料が見つかった。「ユダヤ教徒」のポルトガル人に対する異端審問記録に彼らに関する記述が含まれていたのだ。アジアにおける人身売買はどのようなものだったのか。世界の海に展開したヨーロッパ勢力の動きを背景に、名もなき人々が送った人生から、大航海時代のもう一つの相貌が浮かび上がる」。
 近代になって国際的に奴隷は非合法になっていったが、買売春や強制労働など実態として残り、日本でもフィリピン人やタイ人などが「じゃぱゆきさん」として風俗で働くことを強要されたり、研修生という名の奴隷的労働を強いられたりした実態が明らかになった。16~17世紀の日本人奴隷が語られない理由と同じものが、いまの日本にも存在している。センセーショナルに語られることによって、逆説的に非合法な存在が黙認されてきたということもできる。そう考えると、本書はきわめて今日的な問題として読むこともできる。

長津一史『国境を生きる:マレーシア・サバ州、海サマの動態的民族誌』木犀社、2019年2月27日、481頁、5500円+税、ISBN978-4-89618-068-8

 出版できて、ほんとうによかった。フィールドワークから20年、博士論文を2005年に提出してからも14年が過ぎている。時間が過ぎれば過ぎるほど、完成度の高いものを求めて自分自身で勝手にハードルを高くして、結局、収拾がつかなくなって、出版できなくなる。わたしも、最初に序章と終章を書いてから、もたもたしているうちに、5年もたっていなかったが、まったく「時代」にそぐわなくなって、序章と終章を全面的に書き直した経験がある。この10余年間に、本書のメインテーマである国境をめぐる研究も進展し、「国境学」なる学会の活動が活発化している。すこし心配して、読みはじめた。
 帯に、本書のまとめがつぎのように記されていた。「東南アジアに近代国家が導入される以前から、現在のマレーシア、フィリピン、インドネシアにまたがる海域を自前の生活圏として暮らしてきた海サマ。典型的な国境をまたぐ社会であった海サマ社会は、マレーシア国家に組み込まれたあと、その制度や政策とのかかわりでいかに変容してきたのか。国境は海サマにとってどのような意味を持つのか。サバ州センポルナの海上集落で幾重にもフィールドワークをかさね、開発と宗教の領域における変化を手がかりに、かれらの国家経験を探る」。
 本書は、著者、長津一史のつぎの問いからはじまった。「わたしたちの世界にかくも深く関与しつづける国境とは、そもそも何なのだろうか。それはどのような意味を持っているのだろうか」。著者は、この問いにたいして「政府や国家や国際機関の視点ではない」「国境を生きる人びとの視点から」探ることを目指した。
 その舞台として、「島嶼部東南アジアに位置するマレーシアのサバ州」を選んだ。焦点をおいたのは、「マレーシア・サバ州とフィリピンとの国境海域に住む海サマを名乗る人たちである」。「本書の主題は、この海サマと近代国家とのかかわり、そしてかれらにとっての国境の意味を、フィールドワークにもとづいて具体的に考えていくことにある」。具体的には、3つの課題、「①民族の生成と再編、②開発過程と社会の再編、③イスラーム化と宗教実践の変容」を設定して、「国境を生きる海サマの社会文化変容をより多元的、複合的な現象として描こう」とした。
 本書は、はじめに、序、第一章、3つの課題に対応した3部10章、結びからなる。「はじめに」があって、「序 海サマと国家・国境という課題」「一 フィールドワーク-国境社会をいかに捉えるか」があるのは、フィールドワークから出版までに20年の歳月を費やした影響だろう。著者の20年間の試行錯誤を整理したものともいえるのだろう。よく整理されている。
 第Ⅰ部は3章、第Ⅱ部は3章、第Ⅲ部は4章からなり、それぞれ章ごとに「はじめに」のおわりでまとめ、「結び 国境社会を生きること」についてつぎのように述べている。「結びの章では、イスラーム化と宗教実践再編の歴史過程に焦点をおいて、海サマと国家・国境との相互作用ならびにそのダイナミクスについての本書の解釈をまとめる。ここではとくに、公的イスラームの受容にともなう海サマの宗教実践の再編をかれらの文化適応の一様式として理解することを試みる。最後には、本書を基点とする比較研究の可能性を展望し、この本の結びとする」。
 「結び」は4節からなり、「2 イスラーム化の構図」の2つの見出し「イスラームをめぐる社会秩序の再編」「イスラーム化と国家の枠組み」、「3 宗教実践の変容」の2つの見出し「「伝統的」儀礼の再編」「文化適応としての儀礼再編」から、本書の結論が見えてくる。そして、最後の「4 比較への展望」で、つぎのように締め括っている。「本書は、マレーシア・サバ州の国境社会を生きる海サマの社会文化変容に焦点をおいたひとつの民族誌研究の試みであった。それは同時に、島嶼部東南アジア全体を視野において、周辺民族の視点から「宗教の政治」や、あるいは「開発の政治」を比較考察していくための出発点となるものでもあったと位置づけたい」。
 このような「結び」になったのは、マレーシア、フィリピン、インドネシアといった国民国家を跨いで生きてきた人びとが、それぞれの国民になることで大きく変わってきたからであろう。国民になることのメリットとデメリットが本書で語られているが、人びとはそれをたくましく利用してきた。しかし、それが通用する時代、社会はまちまちで、一概にいえないことが多い。著者が、「出発点」というのはよくわかるが、はたしてその終着点はあるのだろうか。
 本書でいう「現在」とは、著者がフィールドワークをおこなった1997~99年のことである。著者は、その後も数度、補足調査をおこなっている。時間をおいて調査をまとめることのメリットは結果論で語れることである。本書でも、2000年の国勢調査などの資料が使えている。調査したときは数年前のデータでおこなったはずだ。先のことを知り、同時代のデータを使うことで正確さが増してくる。デメリットは、時間が経てば経つほど資料的価値が下がることである。間違ったことや勘違いしたことを含め、時代や社会のなかで生きたデータから考察することが本来のフィールドワークのあり方で、本書で細心の注意を払っていることはよくわかるが、「後出しじゃんけん」になることは免れない。
 「あとがき」に書かれているように、出版できなかった理由はいろいろあり、それもわかる。その解決策としては、考古学では常識のまずは調査の報告書を出版することである。発掘調査にしろ、フィールドワークにしろ、調査費用を調達しておこなわれており、その成果をまず出版し、公に知らしめることによって、つぎの資金獲得に備えることができる。本書の悉皆調査も、早く報告書としてまとめていれば、ほかの研究者が比較の材料として使うこともできただろう。
 ともあれ、出版したことで著者はこれから前に進むことができる。期待したい。

細田尚美『幸運を探すフィリピンの移民たち-冒険・犠牲・祝福の民族誌』明石書店、2019年2月28日、395頁、5000円+税、ISBN978-4-7503-4795-0

 本書は、「故地との強固な親族ネットワークへの疑問」から出発し、「幸運という視点からみた「つながり」」を明らかにしようとするものである。本書は、フィリピンのサマール島にある、とある村と「その村の出身者の移住先という複数の地点で、二〇〇〇年から二〇一七年までの間に行ったフィールドワークで得たデータに基づく」成果である。
 著者、細田尚美は、本書の試みを「序章 冒険とつながりの民族誌に向けて」で、つぎのように述べている。「移民と故地の人びとをつなげるものとして、「血」でもなく「食」でもなく、神からの祝福とされる幸運という概念を中心に据える。幸運に焦点を当てることによって、移民と両方の存在との関係を視野に収めて、移民のつながりについて考察することが可能となる。ただし、幸運は移民と故地の人びとをつなげるだけではない点にも留意する必要がある。本書は、幸運を得たとされる人が幸運の一部を身内の人間に分け与えない場合、つながりが弱まる可能性が高い様子も描く。このように、幸運を中心に人びとの関係を紐解いていくと、より包括的で柔軟な移民を取り巻く社会関係が浮き彫りになる」。「従来のつながりに対する見方とは違う、新しい「つながり」論を試みる研究でもある」。
 本書は、序章、4部全8章、終章からなる。各部はそれぞれ2章からなり、終章は第四部に含まれる。そのまとめは、「終章 グローバル化時代における幸運とつながり」「一 サパララン・モデルの汎用性」でおこなわれ、まず本書全体をつぎのようにまとめている。「本書は、「幸運探し」など、サマール島の人びとが語る移動に関連するローカルな概念とそれに関連する実践に注目し、一般には労働力の移動とみなされてきた同島の人びとの行為をかれらの生きかたの一つとして捉えて描いた。すると、単に仕事を求めて別の土地へと移動しているようにいわれてきたかれらの行いは、実は、まだ見ぬ自分の運命を探して、一生かけて冒険するという生きかたそのものだった。そしてかれらの移動は、神や不可視の存在から家族・親族、雇用者、近所の人など関係するすべての存在とのつながりのなかで行われ、つながりを再編するものでもあった」。
 つづけて、各部各章ごとに、つぎのようにまとめている。「第一部[サマール島における人の移動]で、本書の舞台であるサマール島では、別の土地への移動が生活のなかに組み込まれていることを示した。第一章[サパラランの歴史・地理的背景]で記したように、極めて人口密度の低かったサマール島では、少なくとも数世紀にわたり、移動することによって新しい機会を見つけるという態度は全体として肯定的に捉えられてきた。第二章[バト村の人びとの暮らしと移動]では、その点をバト村の例を用いてより具体的に描いた。村人の生業や職業選択の様子を調べると、村人やその祖先は、村の創成期から農業、漁業、賃金労働といった様々な分野で、自分や家族にとってより良い機会が来たと思ったら、まず試すという姿勢がみられた。これは、力を持たない人間が生き残るための方法とみなされている。別の土地への移動も、その試す行為の一部である」。
 「第二部[運命とサパララン]は、村人の考える人間の運命とその活かしかたについて、移民の語りや行いをもとにまとめた。第三章[移動・豊かさ・リスク]では、サパララン(パキキパグサパララン)とは、人間の運命は人それぞれ生まれた時点で定まっているが、それに対して人間は働きかけられる、すなわち、自分で運命を変えられるかもしれないという考えに基づくと述べた。かれらのコスモロジーでは、富は世界に偏在しており、リスクはあるが、人間はそれを獲得しに行くことができるとされる。第四章[サパラランの過程]では、実際にサパラランした村人のライフヒストリーをもとに、サパラランの過程を分析した。一瞬にしてもたらされるという一般的な幸運のイメージとは異なり、実際の幸運探しは、いろいろ試す以外に、生き抜く術を身につける、辛抱するなどの場合もくぐり抜けなくてはならない。そうした行為も成功を祈願し神の前で約束したサクリピショ[神に捧げる行為]だからである」。
 「第三部[幸運を通じたつながり]では、神や人びととの付き合いかたと幸運との関係を探った。まず第五章[祈りの世界のサパララン]では、幸運は神からの祝福という形でもたらされるが、祝福はサクリピシュとの交換ではなく、神が好感を持つ人に与えるものである。そのため人間は、神のような慈悲の心に基づいた分け与えをするブオタンな人であり続けなくてはならない。そのような態度をとっていないと、神が祝福を与えた人、すなわち幸運者だと周囲の人は認めず、富を得ただけの単なる金持ちとしか呼ばれないことを第六章[ブオタン精神がつなぐ移民と村の人びと]で論じた。この意味からすれば、幸運者からの送金やパサルボン[帰省時などに渡す贈り物]は、幸運の分け与えであり、つながりの維持や拡大と解釈できる」。
 「第四部[つながりの揺らぎと再編]は、村人同士のつながりが弱まる可能性のある状況を調べ、村人の幸運の分け与えに関する考えかたや行いが一枚岩ではないことを示した。第七章[都市で暮らす移民の間の「分け与え」と「自立」]では、都市に移住したバト村移民の間で富の分配をめぐる考えかたの対立やすれ違いが起こっている場合に注目し、そこでは「分け与え」と「自立」という二つの理念が複雑に絡み合う様子を描いた。また、多くの富を持たない村人は、経済的に向上した村人による分け与えの様子を吟味し、噂によってかれらをコントロールする力を持つことがわかった。第八章[「村」を離れる人びと]は、村とのつながりが弱まると思われる三つの場面から、人びとのつながりが変化したり、再編されたりすることを明らかにした。総じて、村からの移民と村とのつながりは、顔が見えない期間が長引いたり、世代が代わったり、階層移動が起こったりした際に弱まる。それは、ブオタン関係を結ぶ親しい集団が別にいるということでもある。しかし、かつてのつながりが永久に切れるというわけではない。神からの祝福を望み、ブオタンな態度をとり続ける限り、幸運を通じた、神や周囲の人びととのつながりは、必要なときに再活性化したり、新しく構築されたりする。
 そして、つぎのように結論している。「当事者たちの語りや行為から浮かび上がったのは、個人の冒険物語というよりも、祝福を求めて神と絶え間ないコミュニケーションをとり続ける人びとの物語だった。言い換えれば、神が認め、喜び、祝福を与えるブオタンな人間になる自己変容の物語といえる」。
 著者も述べているとおり、本書でみられる移動は、東南アジア島嶼部地域各地でみられる。温帯の定着農耕民社会とは違い、移動性の激しい海洋民社会や遊牧民社会では、能力のある者はその能力を発揮できる場を求めて冒険する。移動先でも、新しい知識や技術などをもたらす冒険者を歓迎する。それが、英雄譚として語り継がれてきた。だが、グローバル社会のなかで、だれもが冒険をする機会を得られるようになった。そこで「移動する文化」がどのような現実となって現れてきたのか、本書ではフィリピンのサマール島の一村を通して具体的に語られている。基層社会と現代社会が、どう個人、家族、コミュニティのなかで交差するのか、フィリピンらしく「祝福」ということばでまとめられている。

鈴木恒之『スカルノ-インドネシアの民族形成と国家建設』山川出版社、2019年4月25日、110頁、800円+税、ISBN978-4-634-35092-2

 スカルノといえば、スカルノを政権から追い落としたスハルトと名前が紛らわしいためか、大学入試によく出る。1955年にバンドン会議(アジア・アフリカ会議)を率いたことも、世界史で大学を受験した者は知っている。だが、それ以上となると、デヴィ夫人がテレビのバラエティ番組などで見かける程度だろうが、デヴィ夫人がスカルノの第三夫人であったことを知る視聴者もそれほど多くないだろう。
 政治家としてのスカルノのイメージは、表紙にある力強い演説に代表されるだろう。だが、気になったのは裏表紙の1950年の「インド旅行中のスカルノとファトマワティ」で、自転車を自らこぎ、後部座席に三番目の妻で第一夫人のファトマワティの乗せている。ふたりとも、満面の笑みを浮かべている。扉の写真は、「アジア・アフリカ会議で開会を宣言するスカルノ」である。
 これら3枚の写真とは、違うイメージのスカルノもある。睦ましく見えた第一夫人との仲も、第二夫人を迎えたことで冷え切って、別居することになった。その第二夫人も、日本との経済関係を重視するなかで、第三夫人にファーストレディの座を奪われた。第三夫人はスカルノが失脚する前に出産のため日本に滞在し、失脚後は第二夫人が最後まで世話をした。第三夫人は、スカルノの死の前日にインドネシアに戻った。
 本書の要約は、表紙見返しに、つぎのようにまとめられている。「「建国の父」と称されるスカルノは、1920年代からオランダの植民地支配にたいする民族運動を牽引し、45年のインドネシア共和国独立へと導き、初代大統領として国家建設を指導した。67年の失脚まで、種々の対立、分裂の危機に直面しながらも、それらを克服し、民族統一・国家統合に努め、民族革命の完遂にいどみ続けた。彼の事績をたどりながら、それと表裏を成すインドネシア現代史の歩みを描く」。
 そして、つぎのように本書を結んでいる。「人民に自己を同一化し、人民(大衆)の代弁者として権力をふるったスカルノは、最後はその人民の支持を失い権力を失った。人民大衆との断絶をもっとも恐れていたにもかかわらず、最終的にはそれを強制され、孤独のうちになくなったスカルノの霊にとって、このあふれんばかりの[沿道の数百万人の]人民大衆の見送りは、せめてものなぐさめになったのではないだろうか」。
 1965年の9・30事件を契機として、スカルノからスハルトへ政権は移るのだが、事件の真相はいまだ明らかになっていない。はっきりしていることは、60年代になると、西イリアン解放闘争やマレーシアとの対決などで国家財政が、破綻していたことだ。そして、その後遺症は、今日まで大きく影響している。9・30事件を契機として、50万とも100万を超えるともいわれる人びとが殺害された。マレーシアとの対決後のマレーシア、シンガポールとの関係改善は容易ではなく、双方で嫌インドネシア、嫌マレーシア・シンガポール感情が残っている。
 リブレットで多くを詳細に語ることは不可能だが、裏表紙の仲睦ましく見える夫婦などを通して、「建国の父」そして本書冒頭の「蘇るスカルノ」の裏の「インドネシア現代史の歩みを描く」試みが、もうすこし出ていればと思った。

阿部純一郎『<移動>と<比較>の日本帝国史-統治技術としての観光・博覧会・フィールドワーク』新曜社、2014年4月14日、386頁、4200円+税、ISBN978-4-7885-1359-4

 「帝国」研究は、ひと昔前に終わった。それは、近代の帝国研究である。いま、新たにポストモダンの「帝国」研究がおこなわれているのか。「比較」研究も、単純な二項対立的な比較は終わったはずだ。すると、本書の主題のもうひとつのキーワードである「移動」がポイントとなるのか。帯には、「移動の時代、3つの比較が膨張する植民地帝国を支えた」とある。
 著者、阿部純一郎は、意外な序章のタイトル「はじまりの拉致」で本書をはじめ、つぎのように説明している。「こうした原住民の拉致は、ヨーロッパ人と植民地住民との出会いのなかでは、ありふれたものであった。スペインに代わって次世代の海洋国家を担ったイギリスの航海者たちも、珍しい動植物や収集品とともに、現地の人間を、実に多種多様な理由で〝持ち帰っている〟。たとえば通訳や情報提供者として、安価な労働力として、貴族のステータス・シンボルとして、未知なる世界の物的証拠として、宮廷内の娯楽あるいは商業的な見世物(フリークス)として、さらには愛する子供へのプレゼントとして」。「我々は、これらの移動する原住民の存在を、近代史における単なる偶発的なエピソードとして扱うべきではない。むしろそれは「近代」に、そのはじまりから不可分に組み込まれてきたものなのだ」。
 つづけて、著者は本書の主題を、つぎのように述べている。「近代のグローバリゼーションとナショナリズムの展開にともなう原住民の<移動=転地>の経験、ならびにそれを取り巻く学知と政策の歴史である。その主な舞台は、一九世紀後半以降の日本とその最初の植民地である台湾に設定される。本書は、これらの島々を舞台にして繰り広げられた人々の移動と遭遇、特に観光・博覧会・フィールドワークという三つの「植民地的出会い」に焦点をあてる」。
 その「第一は、原住民の見世物化の問題である」。「第二に注目したいのは、日本人と原住民との接触、あるいは原住民の移動を「管理management」しようとする政策的思考である」。「第三の関心は、帝国期日本の人類学とフィールドワークの問題」である。そして、「観光・博覧会・フィールドワーク-。このいまだ萌芽的に現れているにすぎない三つの点を繋ぎ合わせたとき、一体いかなる「日本帝国」の輪郭が浮かび上がってくるか。本書は、日本人と植民地住民とが対峙したこれらの三つの「植民的出会い」に焦点をあて、日本帝国史を再構成する試みである」とまとめている。
 「本書は、一九世紀後半に加速するグローバルな人の<移動>と<接触>という前提から出発し、日本の植民地帝国の成立・存続にとって、日本人と原住民の<移動>と<接触>の管理こそが決定的な重要性をもっていたと主張する。そのためにはまず、「ナショナリズム」と「グローバリゼーション」を分析的に対立させる思考法や「国民国家」時代の後に続くものとして「グローバリゼーション」時代を位置づけるような段階論的な歴史観を刷新しなくてはならない」。
 以上のことを念頭に、本書は、序章、全9章、結語からなる。章ごとのまとめは、序章の後半でおこなっている。「第一章[理論視角-移動・比較・ナショナリズム]では、B・アンダーソンのナショナリズム論を手がかりにして、近代の輸送・通信ネットワークの発達とそれに基づく現実的/仮想的な<移動=転地>の経験が、ナショナリズムという新たなイマジネーションを成立させるうえで鍵となる役割を果たしたことを明らかにする」。
 「第二章[「人類」から「東洋」へ-坪井正五郎の旅と比較]・第三章[フィールドワークにおける「リスク」と「真正性」-鳥居龍蔵の台湾・西南中国調査]の主題は、人類学の<比較>の実践である。第二章では、坪井正五郎と鳥居龍蔵という日本人類学の学問的制度化の原点となる二人の人物を取り上げる」。「第三章では、鳥居の閉域化された「フィールド」理解がいかにして生みだされたかを、実際の調査の現場から検証する。
 「第四章[フィールドとしての博覧会-明治・大正期日本の原住民展示と人類学者]からは、学知の領域から博覧会そして観光の領域へと少しずつ焦点を移していく。第四章では、日本の人類学史ならびに博覧会史上に刻まれる負の歴史のひとつである<原住民展示>の問題を取り上げる」。「第五章[「台湾」表象をめぐる帝国の緊張-第五回内国勧業博覧会における台湾館事業と内地観光事業]では、博覧会という<比較>の空間を植民地サイドの視点から捉えかえす」。
 「第六章[「比較」という統治技術-明治・大正期の先住民観光事業]・第七章[「比較」を管理する-霧社事件以後の先住民観光事業]では、観光という<比較>の実践が、植民地住民に対する統治技術としてどのように利用されたかを詳細に論じる」。
 「第八章[フィールドワークとしての観光、メディアとしての民族-小山栄三の観光宣伝論と日本帝国の国際観光政策]では、日本帝国内部の民族運動の高まりや国際的な対日世論の悪化にともない、一九三〇年代以降の日本政府の政策において、観光が一種の世論操作・プロパガンダ活動として民族政策に接続されていく過程を追う」。
 「第九章[「日本化」と「観光化」の狭間で-『民俗台湾』と日本民芸協会の台湾民芸保存運動]では、日中戦争下の台湾で発行された『民俗台湾』という雑誌の活動、特に台湾民芸品の保護活動を取り上げる」。
 そして、つぎのようにまとめている。「本書は、以下の二つの理由で、現代の視点から書かれた歴史書である。第一に、本書で扱うのは、現代と同じく、グローバリゼーションとナショナリズムが同時進行していた世界である。第二に、本書は、当時支配的だった価値観のなかでは看過されてきた出来事を扱うという意味において、現代の視点から書かれている。すなわち本書は、かつては周辺的とみなされてきたが、脱植民地化やグローバリゼーションの進展にともなう言説空間の再編のなかで新たな意味を獲得しつつある。そんな歴史的経験に光をあてる。しかしそれは言いかえれば、本書が対象とする時代と現代の言説空間とが大きく異なるということを意味する。したがって本書は、現在の視点から当時の研究者の「未熟さ」や政策実践の「暴力性」を非難するような歴史分析からは自覚的に距離をとろうと努めた(本書が多くの章で一九九〇年代以降の日本のポスト・コロニアリズム研究を俎上に載せているのはこのためである)。本書が目指しているのは、今日の基準からみればあまりにも「未熟」で「暴力的」にさえ映る帝国期の言説実践の意味を、それらが生まれてきた歴史的な<場>のなかで内在的に理解し、帝国期を生きた人々の社会的現実-植民地的想像力-に迫ること、である」。
 そして、著者は「結語 比較と植民地的想像力」で、つぎのようにまとめている。「観光・博覧会・フィールドワークという三つの領域は、当時の日本人にとって、植民地の暮らしや文化、そして生身の人間に直接触れることのできる、貴重な「植民地的出会い」の場であった。また、それらはいずれも諸文化・諸社会の「比較」を可能にするものでもあった。その意味で、今日では個別に研究されているこれら三つの領域は、帝国期の学知や政策的思考のなかで、単なる比喩にとどまらず、実質的に重なり合っていたのである」とし、その結果、「本書の目的はむしろ、これら三つの領域を互換可能にした想像力の源泉を問い、帝国期の社会的現実を浮き彫りにすることであった」と結んだ。
 見ることは見られることでもある。見ることと見られることの両方が揃って、「比較」ができる。台湾の博物館を見ると、いまだに日本人研究者の功績を高く評価している。見られた台湾が展示してある。では、台湾は見ている日本をどう見たのか。この「比較」研究を裏返してみると、また別の日本帝国が姿を現してくるかもしれない。
 すでに「終わった」研究に、新たな視点を注ぎ込むことによって、終わったはずの研究がまったく別の意味をもつ研究に再生される。すでに「終わった」研究だから一定の結論が出ていて学びやすい。それは同時に「終わった」研究の盲点を見つけやすいことを意味する。当時気づかなかったことにも、すこし時間が経てば気づくことがある。学会などで定期的に「回顧と展望」をするのも、新たな発見のためである。

福田忠弘『海耕記-原耕が鰹群(なぐら)に翔けた夢』筑波書房、2018年11月24日、288頁、2800円+税、ISBN978-4-8119-0544-0

 「原耕知らずに、カツオを食すことなかれ!」と著者は意気込むが、著者の子どもたちは「お父さんは原耕、原耕って言っているけど、学校で原耕のこと知っている人なんて誰もいないよ」と言い返す。原耕の胸像は、枕崎市の大海原を見渡す松之尾公園にあるので、誰も知らないわけではない。
 著者、福田忠弘は、本書のチラシで、つぎのように原耕を紹介している。「カツオ漁とカツオ節のためにその身を削った政治家がいます。その正体は、医者で衆議院議員でカツオ漁ナンバーワン漁師の原耕(はらこう1876年鹿児島生まれ、1933年オランダ領東インドのアンボンで病死)という人物です。原耕は戦前、漁獲量が減って困窮する日本のカツオ漁師のために、現在のインドネシアのアンボンに新天地を築こうとしました。その計画はとても巨大で、ディズニーランド約5個分の広さの土地に、7000人もの漁師を移住させ、そこで日本にはカツオ節を、欧米にはツナ缶と魚粉を輸出しようと計画しましたが、夢半ばで議員在任中に命を落としてしまいました。原耕の墓は今もアンボンに残されています。「海を耕した政治家」が行おうとしたことはなんだったのか、現代の私たちの生活とどのようなつながりがあるのかを紹介します。カツオ節がありがたくなること、間違いなしです」。
 「本書は、2012(平成24)年5月16日から2017(平成29)年7月28日までの間、鹿児島の地方紙『南日本新聞』に126回掲載された「海耕記 原耕が鰹群に翔けた夢」がもとになって」いる。その第126回、最後の回で、「耕が90年前の第1回南洋漁場開拓事業前後にすでに予測していた事態」が、いま起こっていると、著者は述べている。それは、つぎのように説明されている。「世界における鰹の漁獲高は、1950(昭和25)年の鰹漁獲高16万トンから、2014(平成26)年には306万トンと、約19倍にも急増している(FAO統計)。世界中で、鰹の缶詰などの消費が急増しているのである。その最大の供給地がタイのバンコクで、ここから欧米、中東に向けて輸出されている。さらに東南アジア諸国では鰹節生産量が増加している。こうした動きと表裏一体をなすようにして、日本では鰹の確保が難しくなってきている」。
 疑問に思うには、鰹漁獲高がこれだけ増えているのに、90年前になぜ漁獲量が減ったと問題になったのかである。資源枯渇ではなく捕り方が未熟だったのか、資源が増えたのか、そのあたりの説明がない。
 日本漁業の戦前のインドネシアへの影響は、いまでも見ることができる。堅い鰹節は「木の魚」と呼ばれる。ソフトな生節もある。いまも国内線の小さな飛行機に乗ると鰹の群れを見ることがあるし、漁港にあがった日本では見たこともない丸々と肥った大きなカツオを見ると、インドネシアの漁場の豊かさを感じ、原耕が抱いた夢が幻ではなかったと思えてくる。戦前にインドネシアに漁業進出したのは原耕だけではないし、東南アジア、南洋群島など各地に日本人漁民が進出した。著者は、さらにオランダの文書館で調査したいと述べているが、オランダだけではなく、当時東南アジアに植民地をもつ、イギリス、アメリカの文書館にも、漁業進出、さらに軍事的進出を警戒して、日本人の漁業活動を注視していた文書が多く残されている。海外雄飛だけではない、日本の南進政策の一環としての漁業進出があった。だからこそ、政府、軍部が関心をもち、原耕の無謀とも思える事業を支援したのだ。著者の「研究は継続しています」のことばに期待したい。

石井正己編『博物館という装置-帝国・植民地・アイデンティティ』勉誠出版、2016年3月31日、391頁、4200円+税、ISBN978-4-585-20038-3

 本書の目的は、編者、石井正己が「序-なぜ帝国主義・植民地主義と博物館を問うのか」の冒頭で、つぎのように述べている。「本書は、帝国主義・植民地主義の視点から「博物館という装置」の持つ政治性を明らかにしてみようとするものである。二十一世紀になって、ポスト帝国主義・ポスト植民地主義をめぐる議論が盛んであるが、それを過去に封印したならば、その途端にダイナミックな視野を失ってしまうことが危惧される。過去を再認識するのは回顧が目的なのではなく、私たちの未来を模索するための手がかりを得ようと考えるからに他ならない。帝国主義・植民地主義は二十世紀の遺産ではなく、今もなお私たちの心を蝕んでいて、その呪縛と格闘する必要に迫られている」。
 編者は、「このテーマについて概念化を図ることが本書の目的である」としながらも、これまで自身が書いてきたものを中心に、「この本を編集するに至った極めて個人的な軌跡をたどるところから始めて」いる。
 編者は、植民地での教育という問題を通して、「課題になってきたのが博物館だった」と述べ、つぎのように説明している。「植民地で教科書を編纂する傍に博物館関係者がいた場合もあるが、そうでなくても、日本は植民地支配を拡大する過程で、教化のシステムとして「博物館としての装置」を次々に創設していった。博物館は植民地支配の先兵となっていったのである。そうしたことと連動して、ロシア帝国のシベリア探検と支配との関わりで、それまで取り上げることのなかった樺太も研究の対象になってきた。そこには当然、民俗学から排除されて人類学の中に居場所を見つけたアイヌ研究の問題もあった」。
 そして、現在、「博物館が帝国主義・植民地主義を本当に乗り越えられているかという問題」を、「かつて植民地であった場所から運ばれた文化財の帰属と返還をめぐる問題は世界中で起こっている」ことなどから考え、「「博物館という装置」に潜在する政治性を明らかにしよう」としている。
 本書は、序、6部、全16章、5コラムからなる。執筆者は総勢19人で、「東京学芸大学のフォーラムで講師を務め」た著者の友人を中心としている。韓国、中国、ロシア出身の4人を含む。全体をまとめるものは、「まえがき」「あとがき」にもなく「序」にしかない。
6部は、つぎのようなタイトルと章・コラム数になる:「Ⅰ 帝国主義の欲望を担った博物館」(全2章)「Ⅱ 帝国日本で生まれた博物館の歴史」(全3章、1コラム)「Ⅲ 帝国日本が営んだ外地の植民地博物館」(全4章)「Ⅳ 帝国の進出と収集されたコレクション」(全3章、1コラム)「Ⅴ ローカルな博物館とグローバルな博物館」(全2章、3コラム)「Ⅵ 文化財返還の根拠と歴史を逆なでする博物館」(全2章)。
 博物館は、学校の教科書とは違う。だが、近代国民国家の教科書がよき国民になるためにあるのなら、博物館は国立を含め、文化にせよ歴史にせよ、政治的なものでも自然科学的なものでも、もっと基層から訴えかけるものがある。それが間違った方向であっても違和感を覚えるものであっても、そこから人びとの声が聞こえてくる。その声を聞き取ることができるかどうかが、「博物館という装置」を問うことにつながる。
 博物館そのものが時代と社会を反映しているものといえるが、その歴史的変遷を知ることはそれほど容易くない。展示物をまとめた図録は残っているが、すべてを掲載しているわけではない。世界の多くの国の博物館では、入館料無料で自由に写真を撮ることができるので、展示をすべて自分のカメラに収めて保存することができるが、おそらく日本の博物館が世界でもっとも撮影の自由を認めていないだろう。博物館は、地域や社会、民族などにとって、重要な役割を果たす。撮影の自由を認めるなど、開かれたものにすることによって、博物館はもっと身近で、大切なものになる。そのためには、まず入館料を無料にすることだ。日本の博物館の入館料は高すぎるし、入館料をとること自体の意味を考えてみたい。

栗原俊雄『シベリア抑留 最後の帰還者-家族をつないだ52通のハガキ』角川新書、2018年1月10日、273頁、820円+税、ISBN978-4-04-082175-7

 「最後の帰還者が持ち帰った、奇跡の一次資料」である52通のハガキを手がかりとして、著者栗原俊雄は、「教科書には書かれない、抑留をめぐる事実」5点など、日本政府などに怒りをぶつける。そして、「悲劇の中にも、家族愛と人間の絆、ヒューマニズムの輝きがあった」ことを、「世の中に広く伝える役目を果たすことができることを新聞記者として誇りに思う」と、「あとがき」で結んでいる。著者怒りの5点は、帯の内側につぎのように列挙されている:「日本政府は、同胞を「賠償」としてソ連に提供しようとした」「国会議員も知らなかった抑留者の個人データの存在」「日本政府は帰還者や遺族への補償を拒否した」「帰還の実現は、その代償も膨大だった」「今も異境に眠る、三万体以上の遺骨」。
 まだある。最後の帰還の前年の1955年に、収容所を訪れた国会議員は、国際法違反で抑留されつづけている「同胞を「戦犯」」と呼び、「映画を「みせてもらえる」」と表現して、著者を呆れさせた。「原爆が投下された広島と長崎では毎年、公による追悼式が大々的に開かれるが、シベリア抑留にはそれもない」。「抑留を巡っては政府のみならずアカデミズムも長く実態解明に着手しなかった。ジャーナリズムも役割を果たさなかった。その結果、未解明なことも多い。そもそも何人が抑留され、何人が生きて帰り、何人が死んだのか、正確な数字は分からない。抑留された人たち一人一人の生活ぶり、日本で帰りを待つ留守家族たちの生活ぶりについても、体系的かつ継続的な研究はない」。したがって本書の目的は、「彼らがどんな体験をし、何を考え、どうやって生き抜いたのかを明らかにして」ゆくことである。
 2016年2月に52通のハガキをはじめて見て、著者が「日本現代史の超一級資料だと確信した」。背景には、それまでに「毎日新聞で一〇〇回以上、シベリア抑留に関する記事」を書き、「その過程で膨大な資料に接していた。その経験」があった。
 本書は、まえがき、全7章、終章、あとがきからなる。章別の要約は、「まえがき」の最後でつぎのようにまとめられている。「第一章 佐藤家の人びと」では、「佐藤健雄の生い立ちと、満鉄エリート社員としての生活を描く。順調にキャリアを積み、妻とし子との間に五人の子どもに恵まれた佐藤とその家族が、敗戦によって動乱に飲み込まれてゆく様が分かるだろう」。
 「第二章 抑留される」では、「健雄らを苦しめた抑留の実態を概観したい。さらに、満鉄が行っていたソ連研究、ことに健雄が関わった研究の内容を詳細にみてゆく。機密資料がことごとく焼却された中、健雄の頭脳に刻まれた一次資料が明らかになる」。
 「第三章 抑留生活の日々」は、「健雄は民間人でありながら裁判で「戦犯」扱いされた。その裁判の詳細が、遺族による情報公開請求で明らかになった。この初公開の一次資料とともに、「戦犯」たちが生きた地獄を振り返りたい」。
 「第四章 命のハガキ」と「第五章 見えない出口」では、「引き裂かれた佐藤家が交わしたハガキを通じて、抑留者と留守家族の様子をみてゆきたい。健雄の妻、とし子は五人の子どもを連れて日本に生きて帰った。だが夫の生死は不明だった。健雄も、家族がどうなったのか知らなかった。家族があきらめかけていた一九五二年夏、離ればなれになってから七年目、シベリアにいる健雄から突然ハガキが来た。以後五六年の帰国まで、たびたびの中断がありながらハガキの行き来が続いた」。
 「第六章 帰国、再会まで」では、「帰国直後の健雄と家族の様子を振り返りたい。「健在」と書き続けた健雄だったが、それは家族を安心させるための記述で、実際は死線を踏みつつあったことが分かる」。「第七章 ソ連研究の専門家として」では、「健雄や満鉄OBや、抑留経験者がどのように戦後を生きたかをたどってみる」。
 そして、「終章では、五二通のハガキが報道されるまでの経緯と、その報道が生んだ新たな展開を振り返ろう。一一年間引き裂かれながら、強い気持ちで結び合った佐藤家が生んだ奇跡のつらなりが見えてくるだろう」。
 本書で、これまで「未解明」だったことのいったんがわかる。だが、このような体験では、当事者が言えることと言えないこと、調べてわかっても書けることと書けないことがある。言えないこと、書けないことの意味がわからない人もいる。言えないこと、書けないことを含めて、読者に伝えることは至難である。言えないこと、書けないことを批判されても、反論のしようがないもどかしさがある。
 その奥深さを知るためにも、この52通のハガキのような資料を保存することが重要になる。著者は、その現実を「あとがき」でつぎのように述べている。「日本には戦争を専門にとりあげる資料館が少ない。収蔵庫の物理的な制約もあって、遺族が寄贈を申し出ても、断られることもある。そのためか、手紙や手記など、戦争にまつわる資料は当事者がいなくなると処分されてしまうことが多い」。研究者個人が集めた資料も、行き場がなくて困っている。この52通のハガキが超一級資料であること自体が、日本の「戦後責任の欠如」の結果であるともいえる。

馬場公彦『世界史のなかの文化大革命』平凡社新書、2018年9月14日、331頁、920円+税、ISBN978-4-582-85891-4

 中国の文化大革命(1966-76年)、インドネシアの9月30日事件(1965年)、ともに真相は闇のままで、両国とも真相を追究するどころか、語ることさえ憚られる状況がつづいている。そんな2つの事件をつなぎ合わせることによって、「世界史のなかの文化大革命」に迫ってみようというのが本書である。
 本書は、序章、全9章と終章からなる。時系列的に中国とインドネシアを行き交いながら、日本やアメリカ、ヨーロッパなどにも飛び火する状況を交えて、「世界史」のなかに位置づけようとしている。
 キーワードは、序章「文革五〇年目の亡霊」、終章「過ぎ去らぬ「革命の亡霊」」のタイトルにある「亡霊」である。著者、馬場公彦は、「亡霊とは実体のないものだから、定義することは難しい。ただし、現象として指摘できることはある」とし、つぎの3つをあげている。「第一に、消えたと思えば現れる。文革を公式に全面否定し社会が否認したとしても、似たような社会現象が起こる」。「第二に、幽霊のように頭と尻尾がはっきりしない。いったい文革はいつ始まっていつ終わったのか。毛沢東の個人意思によって権力獲得のために始まったとするならば、劉少奇から国家主席の座を奪還した時点で文革は終息したはずなのに、全国・全社会に拡大して収拾がつかなくなった。ではいつ終わったのか。七一年の林彪事件か。七六年の第一次天安門事件か。毛沢東死去か。四年組逮捕か。それとも八一年の「歴史決議」なのか。その輪郭もあいまいだ。そればかりか文革は中国国内だけでなく世界各地に衝撃を与え、飛び火して変形してさまざまな社会運動や思想をもたらした」。「第三に、社会集団に憑依して制御不能状態に陥れる。そして混乱と無秩序と破壊をもたらす」。
 この「亡霊」の正体に迫るため、著者はつぎのような視点で本書を執筆した。「本書では、文革の後に明らかになった事実からの後追いや後世の評価をなぞって断罪したり評価したりはしない。同時代に生きた当事者の眼で、文革が生起し展開していく実態を追ってみることとしたい。むろん筆者は文革の狭義の当事者でもなければ体験者でもない。文革世代ではないうえに外国人である。とはいえ、文革の影響を顕著に受けた日本に生まれ育った」。「文革は中国という特殊な空間、特殊な歴史条件の下で起こった一度きりの出来事なのだろうか。あるいは、ある条件のもとではどの国どの社会でも起こりうる現象であり、まさしく亡霊のように連鎖し反復して起きることはあるのだろうか」。「文革を外から鳥の眼で俯瞰して眺めることで、文革という現象を照射してみたい」。
 そして、終章を「「革命の亡霊」は、まだ過ぎ去っていないのである」という文章で終え、結論とし、その前につぎのように説明している。「資本主義の暴走を防ぐための構想を立てること。そして、虐げられ、差別され、社会の周辺に追いやられた人びとや民族との共生・共存の道を探ること。その課題に立ち向かわない限りは、時代閉塞のなかでの破壊願望がさまよい、造反のための暴力のマグマはたまっていくことだろう」。「革命は一過性のもので、決して再現しないし再帰しない。革命ははしかのようなもので、いちど罹患すれば免疫ができて再び感染することはない、という見方もありうるだろう」。「しかしながら、革命は疫病のように、風土に応じて少しばかりタイプは違うけれども、ある一定の条件の下では、同じような病理に罹ることもありうるかもしれない。「革命の亡霊」がさまよっているとは、このような発病以前の状態を指す」。「ただし、この疫病はウイルスだけでは発病しない。かりにウイルスの正体をつきとめたとしても、たとえばそれが毛沢東という革命家の「能動的革命実践」の仕業だったことが明らかになったとしても、それは革命の一面の真実でしかない。革命を願望する客体としての人民の側のリアリティに肉迫していかなければならないのである」。
 著者は、先行研究との違いを、「同時多発性の震源を文革の中国におき、インドネシアと日本といったアジアにおける革命的契機の越境性・連鎖制・相互性に着目することにある」と述べている。これまで欧米、日本といった西側諸国からみた「世界史」にたいして、第三世界の一員と自負していたインドネシアの革命運動との連鎖性に眼を向けたことが、その特徴である。著者は、「できるだけ東方の風上に向かって、風圧に身を晒すようにしながら、発生源へと視線を向け、中国大陸周辺の被災地の実況を見分するようにした」と述べている。大国中心の国際関係史のなかの文革から、東アジア史のなかの文革に目を転じることによって、地域としての東アジアの今後が見えてくるかもしれない。

石原俊『硫(い)黄(おう)島(とう)-国策に翻弄された130年』中公新書、2019年1月25日、221頁、820円+税、ISBN978-4-12-102525-8

 本書、終章「硫黄島、戦後零年」は、つぎのパラグラフで終わっている。「総力戦期から冷戦期を経てポスト冷戦期に至るまで、日本と米国が幾重にも軍事利用しつくし、島民に与えた被害を感じることなく、さらには島民の存在そのものさえ忘却し続けてきた島。島民の歴史経験が忘れられているかぎり、硫黄島はいまだ「戦後零年」なのである」。
 近代は、国民国家の時代であり、民族運動やナショナリズムがさかんに語られた。だが、国民国家形成や民族自決・自治に結びつかない運動は、力を持たなかった。それが、冷戦が終わり、国家より大きな地域や小さな地方社会に目が向けられるようになると、それぞれ住民個人の生活を基本とした空間が見直されるようになってきた。国境が閉鎖的な壁ではなくなり、国境の向こうへとつながるゲートウェイと認識され、ボーダーレスなグローバル化時代がはじまった。そのようななかで、取り残されたのが硫黄列島で、島民にとっては著者の石原俊がいう「戦後零年」、さらには「冷戦後零年」「グローバル化零年」状態がつづいている。
 本書の目的は2つある。「一つは、硫黄列島の歴史を従来の「地上戦」一辺倒の言説から解放し、島民とその社会を軸とする近現代史として描き直すことである。もう一つは、日本帝国の典型的な「南洋」植民地として発達し、日米の総力戦の最前線として利用され、冷戦下で米国の軍事利用に差し出された硫黄列島の経験を、現在の日本の国境内部にとどまらないアジア太平洋の近現代史に、きちんと位置づけることである」。
 本書は、「はじめに-そこに社会があった」、全6章、「終章」からなる。全6章は時系列的で、著者は「はじめに」でつぎのようにまとめている。「第1章 発見・領有・入植-一六世紀~一九三〇年頃」では、「一八八〇年代後半に盛り上がった日本帝国初の南進論を背景としながら、明治政府が小笠原群島などに続いて硫黄列島の領有を宣言し、二〇世紀初頭にかけて硫黄島と北硫黄島が農業入植地として発展する過程をみていく。続く」「第2章 プランテーション社会の諸相-一九三〇年頃~四四年」は、一九二〇年代以降、島民の大半を占める拓殖会社の小作人らが、厳しい搾取下に置かれつつ、いかにしたたかに生き抜いていたのかに焦点をあてる」。
 「第3章 強制疎開と軍務動員-一九四四年」では、「一九四四年、硫黄列島が地上戦候補地として要塞化され、島民が強制疎開または軍務動員を強いられていく局面を記述する」。「第4章 地上戦と島民たち-一九四五年」では、「一九四五年の硫黄島地上戦の過程を、軍務動員された島民の視点から再構成する」。
 「第5章 米軍占領と故郷喪失-一九四五~六八年」では、「日本の敗戦後から冷戦期にかけて、硫黄島が米軍の核秘密基地となるなか、帰郷を阻まれた島民が長期「難民」生活に困窮しながら生き抜いていく状況に照準をあてる」。「第6章 施政権返還と自衛隊基地化-一九六八年~現在」は、「施政権返還後も島民が引き続き帰郷を阻まれ、さらにポスト冷戦期に入っても硫黄島が日米の軍事利用下に置かれるなか、島民一世が高齢化し、次々と世を去りつつある現状を描き出す」。
 そして、つぎのように述べて、「はじめに」を締めくくっている。「本書は、忘れられてきた硫黄列島の近現代史を再構成するとともに、硫黄列島民の視点から、日本とアジア太平洋の戦前・戦争・戦後を問い直す作業である。硫黄列島民が近現代の日本とアジア太平洋世界のなかで強いられてきた、激動と苦難に満ちた一三〇年間は、「帝国」「戦争」「冷戦」の世紀であった二〇世紀が何であったのかを、その最前線の地点から鮮烈に照らし出すことになるだろう」。
 「はじめに」で述べられた2つの目的は、「終章」でつぎのようにまとめられている。まず、第一の目的については、つぎのように記している。「硫黄列島民の歴史経験のなかに地上戦を位置づける作業は、凄惨な地上戦の実態を相対化し、希釈することには決してならない。むしろ、反対である。本書がおこなったのは、日本帝国の総力戦の前線として利用された結果、強制疎開または地上戦への動員を強いられた硫黄列島民の経験を、日米本土などから硫黄島に動員された将兵の経験とともに、アジア太平洋戦争の社会史のなかに書き込んでいくことであった」。
 第二の目的については、つぎのようにまとめている。「硫黄列島は一九世紀末、日本帝国の南進論の高まりのなかで、初期「南洋」入植地の一つとして開発が始まった。その後、製糖業を軸とするプランテーション型入植地として発展し、日本帝国の「南洋」における植民地開発モデルとなっていく。さらに一九三〇年代に入ると、硫黄島のプランテーションは、日本帝国屈指のコカの集約的な生産地として、闇市場にもつながる場となった」。「そして硫黄列島は、日本帝国の崩壊・敗戦の過程で、本土防衛の軍事的前線として徹底的に利用された。結果としてこの島々は、北西太平洋の日本帝国の勢力圏を手中にした米国によって、島民を帰還させないまま秘密核基地化されていく。米軍による硫黄列島の排他的軍事利用を追認することと引きかえに、日本は主権回復を認められ、復興そして高度経済成長へと突き進んだ。そのかたわらで、故郷を失った島民の大多数は、拓殖会社の小作人として搾取されていた強制疎開前以上に、困窮を強いられていったのである」。
 そして、つぎのように総括している。「硫黄列島は、日本帝国の最前線で開発のターゲットになり、日米の総力戦の最前線として激烈な地上戦にさらされ、冷戦下で米国の核拠点として秘密基地化された。本書がおこなったのは、「帝国」「戦争」「冷戦」の最前線の島々から、日本とアジア太平洋世界の近現代史を描き直すことであった」。
 1974年生まれの著者にとって、本書は5冊目の単著になるという。2007年が1冊目であるから2~3年に1冊、コンスタントに出版していることになる。それだけ著者には書くことがあり、訴えたいことがあるということだろう。そして、収集した文献資料、口述資料を組み合わせて整然と整理し、まとめていくノウハウを身につけたということだろう。大学に入る前に冷戦の崩壊と「失われた10年」を経験した世代が、国民国家にとらわれることなく人びとの生活に目を向けたのも、自然のことかもしれない。そこには、国家に翻弄された人びとの姿があり、頼るべき組織も制度もない。ひとりひとりの生活と人生を見つめることが、これからの人文学の基本になっていくことだろう。本書が投げかけた問題を契機に、歴史学も社会学も変わっていかなければならない。

立石泰則『戦争体験と経営者』岩波新書、2018年7月20日、179頁、780円+税、ISBN978-4-00-431728-9

 本書を読み終えて、そんなに長く書けないだろうと思った。ところが書いてみると、予想に反して書くことがあった。これも実ある体験を戦中も戦後もしてきたからだろう。そういう人びとから、なにかしら学ぶべきことがある。
 著者、立石泰則は、長年、経済誌や週刊誌の編集者・記者などを務め、「大企業の経営トップから中小企業の創業社長まで様々なタイプの経営者に出会い」、経営幹部まで広げると、一千人をくだらないと思われる経済人にインタビューしてきた。そのなかで、「経営理念も経営手法もまったく異なる、そして様々な個性で彩られた経営者たちであっても、彼らの間には「明確な一線」を引ける何かがあるのではないか、と思える」ようになった。「それは、「戦争体験」の有無である」。
 その例として、まず西友を率いた堤清二とダイエーを率いた中内㓛のふたりを取りあげる。「堤氏は徴兵されず国内に止まり空襲などの「戦時」を経験したものの、中内氏には一兵卒として満州(現・中国東北部)やフィリピンなどの戦地に赴き、死と背中合わせの日々を送ったという違いがある」。
 著者は、戦場に行かなかった堤にたいして、少々厳しい評価を、つぎのようにしている。「戦場での残虐行為の原因を「正常な感覚が麻痺」に求める堤の分析は、あまりにも単純すぎる気がするが、実際の戦場や戦闘行為を経験していない以上はやむを得ないことなのかも知れない」。「堤の九条改憲反対の主張が「経済人」の立場から展開されていることにやや違和感を覚えた。経営者でなくなっているのだから、もっと平和の観点から強く主張してもいいのではないかと思ってしまったのだ」。
 それにたいして、著者は中内のように戦場を体験した人は、生き残ったことへの「後ろめたさ」を感じ、「自分のためにではなく他人のために生きる……これが、戦地から生きて帰ってきた人たちのレゾンデートルになっているように感じた」。「実際に戦場に立ち、食うか食われるかを経験した者でなければ、語れない心から」、中内はつぎのことばを叫びとして発したと紹介している。関西財界の重鎮の、「国民皆兵とか、軍備を強化せよなどという主張」にたいして、「「お国のために死んでよかったなぁ」なんて言えるか!?」と叫んだのである。
 ケーズデンキの創業者、加藤馨は職業軍人の暗号係としての満洲などでの体験から、中内と同じようなつぎの考えをもっていた。「実際に戦争を体験した者として加藤は、戦争を知らない世代から再軍備や徴兵制の復活、海外派兵が「軽く」語られることに強い危機感を覚えたのであろう。そうした雰囲気や流れを、戦争の経験者として黙って見過ごすわけにはいかなかったに違いない。戦争体験は彼の心に、戦争が終わってからも暗い影を落としていたのである」。
 近江商人でワコール創業者の塚本幸一は、インパール作戦に従軍し、その経験がかれの経営理念に強く影響した。塚本の女性観は、「女性が生きることは美しくありたいという願いそのものなのだという。しかし戦争は、その願いを女性に捨てさせるものであり、逆に平和は女性が美しくありたいという願望を謳歌できる時代だというのである」。「女性を美しくする」ことが、塚本にとっての「戦友の死が与えた「生かされている」人生」なのである。
 戦記ものを読んでいて、いつも疑問に思うのは、みな殺されるなど犠牲になることを恐れるばかりだ。殺されることより恐ろしいのは、自分が人を殺すことだ。また、自分の肉親が人を殺さなければならない状況に追い込まれ、平和になってもその「殺人者」といっしょに暮らすことになることだ。「殺人者」といっしょに仕事をすることだって、どこまで平常心でいられるか。いまも戦場となった地域では、「殺人者」が身近にいる社会で暮らしている。戦争終わってもその状況は、寿命が長くなれば100年近くつづく。日本でも、最近までそのような状況がつづいていたのだが、それを知っていても気づかないふりをしてきたのだ。加害者としての恐ろしさはなかなか語られないが、本書ではわが子を殺すことになった例が紹介され、著者はつぎのように怒りをぶちまけている。「私の怒りは、我が子を殺すまで追い詰めた戦争の中での集団心理よりも彼らを置き去りにした日本軍に向かった。国民の生命と財産を守らない軍隊にどんな存在価値があるというのか。そもそも、海外に居留する日本人の生命と財産を守るためという大義名分のもと朝鮮や中国、アジアへ侵攻したのではなかったのか」。
 著者の怒りは、つぎの元関東軍将校の戦後のことばで、打ち消されるどころか怒りを通り越してあきれさせた。この元将校は「記者の不勉強を呆れたと言わんばかりに、そして子供を諭すように」つぎのように答えたという。「日本の軍隊は皇軍と言いますよね。皇軍の意味はご存じですか。皇軍とは、天皇の軍隊という意味です。つまり、天皇を守るのが皇軍の務めです。だから、国民を守るのが日本軍の、皇軍の務めではありません」。戦後になっても、この将校は、まったく疑問も感じていないのである。これが、日本軍の本質というよりは、戦後日本の根本問題である。こういう人間を、なぜ叩き潰せなかったのか。
 この戦後責任のなさにたいして、本書で取りあげた戦場を体験した経済人は戦わなかった。著書は、つぎのように総括している。「先の戦争の総括を国民自らの手で行わなかったからである。結果に対して責任を問い、責任を負うことがなければ、誰も反省もしないし、何も変わりようがない。「個」に無条件に、かつ無制限に「全体」への自己犠牲を強いる体質を社会から、国から一掃出来なかったのである」。
 戦争を体験した経済人は、平和な経済環境を整えるために戦ったのかもしれない。だからこそ、1990年代までは一定の「反戦」があり、どこかで歯止めがかかるとして、塚本が日本会議の初代会長を務めたのかもしれない。だが、その後、首相が靖国神社に参拝するなど、政治家をはじめとする日本の右傾化が顕著になっていった。中内のような「叫び」をあげ、歯止めをかける者がいなくなってしまった。
 その戦後責任のなさは、著者が「取材した経営者や経営幹部たちは、自らの戦争体験を進んで話すようなことはほとんどなかった。むしろ話題になることを避ける傾向にあった」ことから明白である。すでに戦後責任を果たせる世代の多くが、責任を果たせなくなってしまった。この穴を埋めることは、ほんとうに困難である。

吉田裕『日本軍兵士-アジア・太平洋戦争の現実』中公新書、2017年12月25日、228頁、820円+税、ISBN978-4-12-102465-7

 本書は発行半年で、10版を重ね、10万部を突破した。マスコミでさかんに取りあげる戦争月間である8月を前にしてである。本書は、国家と国家との戦争である近代の戦争を、兵士の体験からその現実を見ようとするものである。戦場の兵士たちについて、具体的に書いてあるだけに臨場感が伝わって、戦争体験者にもそうでない人にも受け入れられたのだろう。本書を読むと、総力戦で一般国民を巻き込む近代戦に、日本という国家が参加する資格がいかになかったかがわかってくる。自国の兵士さえまともに対応できなかった国家が、植民地や占領支配下の住民を人道的に扱ったわけがない。強制連行された労働者や従軍慰安婦、捕虜の扱いなどについて、今日までひきつづく問題があるのも当然であると思えてくる。
 本書概要は、表紙見返しにつぎのようにまとめられている。「310万人に及ぶ日本人犠牲者を出した先の大戦。実はその9割が1944年以降と推算される。本書は「兵士の目線・立ち位置」から、特に敗色濃厚になった時期以降のアジア・太平洋戦争の実態を追う。異常に高い餓死率、30万人を超えた海没死、戦場での自殺と「処置」、特攻、体力が劣悪化した補充兵、靴に鮫皮まで使用した物資欠乏・・・・・・。勇猛と語られる日本兵たちが、特異な軍事思想の下、凄惨な体験を強いられた現実を描く」。
 著者、吉田裕は、「はじめに」で、本書の目的をつぎのように述べている。「本書では従来の議論を踏まえた上で、切り口を大きく変えて次の三つの問題意識を重視しながら、凄惨な戦場の現実を歴史学の手法で描き出してみたい。それは、戦後歴史学を問い直すこと、「兵士の目線」で「兵士の立ち位置」から戦場をとらえ直してみること、そして、「帝国陸海軍」の軍事的特性との関連を明らかにすることである」。
 一つ目の問題意識は、「戦後歴史学の原点は、悲惨な敗北に終わった無謀な戦争への反省だった。その限りでは、戦後歴史学は戦争を正当化したり美化することとは無縁の存在だった」。「しかし、戦後の歴史研究を担った第一世代の研究者が戦争の直接体験者であったために、平和意識がひときわ強い反面で、軍事史研究を忌避する傾向も根強かった。その結果、ある時期まで軍事史研究は、防衛庁防衛研修所(現・防衛省防衛研究所)などを中心にした旧陸海軍幕僚将校グループによる「専有物」だった」。「このような状況に変化が現われるのは一九九〇年代に入ってからである。戦争体験をまったく持たない戦後生まれの研究者(私もその一人)が、空白の軍事史に関心を向け、社会史や民衆史の視点から戦争や軍隊をとらえ直す研究に本格的に取り組み始めたからである。その結果、軍事史研究は大きな進展をみせるようになった」。
 二つ目の問題意識は、「「兵士の目線」重視し、「兵士の立ち位置」から、凄惨な戦場の現実、俳人であり、元兵士だった金(かね)子(こ)兜(とう)太(た)のいう「死の現場」を再構成してみることである」。「戦後の代表的な戦史研究としては、防衛庁防衛研修所戦史室が編纂した『戦史叢書』全一〇二巻(一九六六~八〇年)をあげることができる。刊行中に研修所は研究所に戦史室は戦史部に改組されるが、当時は部外者がほとんど見ることができなかった膨大な量の一次史料に基づく大作であり、労作である」。「しかし、この『戦史叢書』は、旧陸海軍の幕僚将校だった戦史編纂官が書いた戦史、軍中央部の立場からみた戦争指導史という性格を色濃く持っている。また、勇敢に戦った「帝国陸海軍」の将兵を顕彰するという性格も否定できない。実際、第一戦で戦った将兵から見れば、同書の叙述には一方的で恣意的なところがあり、戦場の現実を反映していないという批判が刊行中から存在する」。
 「三つ目の問題意識は、「帝国陸海軍」の軍事的特性が「現場」で戦う兵士たちにどのような負荷をかけたのかを具体的に明らかにすることである。兵士たちの置かれた苛酷な状況と「帝国陸海軍」の軍事的特性との関連を明らかにすると言い換えてもいい」。「この問題にこだわるのは、「死の現場」の問題をもう少し大きな歴史的文脈のなかに位置付けてみたいと思うからである。こうした分析を通して、アジア・太平洋戦争における凄惨な戦場の実相、兵士たちが直面した過酷な現実に少しでもせまりたい」。
 本書は、序章、全3章、終章からなり、頻出する「凄惨」「過酷・苛酷」ということばから「現場」の状況がつぶさにわかる。
 そして、終章の最後の見出し「近年の「礼讃」と実際の「死の現場」」で、つぎのように危惧し、本書執筆のきっかけになったと述べている。「端的に言えば、一九九〇年前後から日本社会の一部に、およそ非現実的で戦場の現実とかけ離れた戦争観が台頭してきたからである。その一つが、荒唐無稽な新兵器を登場させることによって戦局を挽回させたり、「もしミッドウェー海戦で日本海軍が勝利していたら」など、さまざまな「イフ」を設定することによって、実際の戦局の展開とは異なるアジア・太平洋戦争を描く「架空戦記」、「仮想戦記」ブームである」。
 これにたいして著者は、「日本軍の戦闘力に対する過大評価とある種の思い入れがある。そして、そんな風潮が根強く残っているからこそ、戦場の凄惨な現実を直視する必要がある」と力説している。
 また、「あとがき」で、つぎのようにもうひとつの本書執筆のきっかけを述べている。「二一世紀に入る前後から、会員の死去や高齢化にともなって全国組織を持つ戦友会の解散が相次いだ。一つの時代の終わりを告げる象徴的な出来事である。その頃から、無残な死を遂げた兵士たちの死のありようを書き残しておきたい気持ちが自分自身のなかで次第に強くなっていった。また、一九九九年に靖国偕行文庫が開室し、多くの部隊史や兵士の回想記を閲覧できるようになったことも、書き残したいという思いをいっそう強くした」。靖国偕行文庫に加えて、昭和館図書室、奈良県立図書情報館戦争体験文庫に、戦記ものがまとまって所蔵されている。各県立図書館にも、地元出身兵士や地元の空襲体験の「死の現場」の証言を集めたものあったりする。「死の現場」が身近であったことがわかる。また、戦争体験者が亡くなったことを契機に、遺品から新たな資料が見つかることがある。捨てるに捨てられなかったものから、われわれはなにを読み解くか。本書の延長線上の歴史はいくらでもある。
 日本は、国民の生命をないがしろにして、近代総力戦を戦う資格がなかった。では、充分な配慮をして万全を期して臨めば、資格があったのか。否である。戦争はゲームではなく、生身の人間が戦うのである。物質的なものだけでなく、こころがある。万全を期すれば、対応できるものではない。戦争をはじめるとき、同時にやめるときのことを考えなければならない。だが、初めはわかっても、終わりのタイミングは誰にもわからない。「勝ったときが終わりだ」などという者は、まさに愚の骨頂である。つまり、誰も戦争をはじめることなどできないということだ。

バラク・クシュナー著、井形彬訳『思想戦 大日本帝国のプロパガンダ』明石書店、2016年12月25日、417頁、ISBN978-4-7503-4436-2

 帯に「ナチスを凌ぐプロパガンダの正体に迫る!」「「アジアの解放者」日本を内外に宣伝する「思想戦」。その戦士となることを国民は自ら選び加担した。十五年戦争の長期にわたり総動員体制を持続させたプロパガンダのメカニズムと参加した国民の実像を描く」「戦後にも継承された日本的プロパガンダの危うい本質を抉る傑作」「待望の邦訳登場!」とある。
 つまり、戦争責任、戦後責任は国民にもある、ということで、著者は序章「万人の、万人による、万人のためのプロパガンダ」で、つぎのように説明している。「戦時下日本のプロパガンダは、日本との比較でよく挙げられる第二次世界大戦中の他のファシスト政権国家をはるかに凌駕する規模で国家動員を後押ししていた。この人口七千万人の小さな島は、十五年にわたる戦争で中国を侵略し、中国北部に傀儡政権を築きあげ、東南アジアの広域を占領・植民地化し、中国のみならず米国・英国・オーストラリアとの血みどろの戦争を行った。さらに、ドイツやイタリアと異なり、日本では多数の一般人や知識人が国外逃亡することもなく、また、一九三〇、四〇年代の軍事侵攻が政府や軍部に対する大規模な国内反乱を生じさせることもなかった。十五年に及ぶアジアの覇権を巡る戦争で、日本人一般大衆は個人的な不自由と経済的な貧窮に苦しみながらも、大日本帝国の防衛と拡張に全力を注いでいたのだ」。
 著者は、「日本は半世紀にわたり帝国を統治してきたが、現在の学者や日本の一般市民は、帝国とプロパガンダの関係性について十分に検討してきたと言うことはできないだろう」と指摘し、つぎのようにつづけている。「実際、戦争プロパガンダが帝国プロパガンダの延長線上にあるという考えは、一九三〇年代に日本が「非常時」に直面したことが原因で、突如として日本の戦時下プロパガンダ構造が現れたわけではないことの説明となっている。第二次世界大戦中の日本のプロパガンダの起源は、一八九〇年代まで遡る帝国プロパガンダの一部として理解することができる。本書は一九三一~四五年のプロパガンダのみを分析対象としているが、帝国のアイディアとそのプロパガンダは中国との戦争よりはるか以前から、著名な作家、政治家、教育者、ビジネスマンを魅了しており、また、これらの人々は日本の敗北後もこのプロパガンダに関心を持ち続けていた。二十世紀初頭の日本人エリート層は、日本が目指す帝国主義的目標を支持していたが、「アジア人のためのアジア」というメッセージは、より広い一般大衆をも引き付ける魅力を持っていたのだ」。
 本書は、「日本語版への序文」「謝辞」「序章」、全6章、「終章」「訳者あとがき」からなる。「各章が戦時下日本のプロパガンダを構成していた諸要素を取り扱っている」。第一章「「武器なき戦い」-プロパガンダ専門家とその手法」は、「プロパガンダ専門家が日本でどのように進化していったかを対象にしている。プロパガンダ戦略の潜在的理由を詳述することは、日本のプロパガンダ政策の目的を理解することに貢献する」。第二章「「姿なき爆弾」への対処-社会規範の規定」は、「警察や軍部が何を基準に社会的に許容されうる行動の範囲を決定していたのか、また、どのように社会の不平不満の兆候を監視していたのかを分析する」。第三章「軍官民の協力関係-広告とプロパガンダ」は、「広告業界が制作したプロパガンダ製品を検討する」。第四章「娯楽と戦争-プロパガンダに加担した演芸人の軌跡」は、「大衆文化や娯楽産業がどのように戦争支持に貢献していたかを検討する」。第五章「三つ巴の攻防-中国大陸を巡る思想戦」は、「日本のプロパガンダが海外で直面したプロパガンダに対し、どのように対応したかを検討している」。第六章「「精神的武装解除」の実現-敗北に向けた準備」は、「戦時中と戦後のプロパガンダに見られる継続性について分析する」。
 そして、「序章」をつぎのパラグラフで結んでいる。「日本は、事実上地球の半分を巻き込んだ戦争を十五年間にわたり継続してきた。これほどの規模や凶暴性、幅広さを持つ戦争を継続するには、その目的を信じる一般大衆による積極的な参加が必要不可欠であった。確かに「戦時下」という時期には暗いイメージが付きまとう。しかし、当時の日本社会には終始暗雲が垂れ込めていたわけではない。という理解なくして、戦時下の日本社会を正確に捉えることはできないだろう」。
 そして、その「戦時下の日本社会」は、そこだけを切り取って理解できるものではないことを、終章最後でつぎのように述べて、結んでいる。「恐らく、日本が一晩で変わってしまったと信じること自体、歴史的な認識が甘かったのではないだろうか。結局のところ、日本の社会動員は長い歴史を経てきている。内務省の歴史に関する戦後の回顧録では、戦前に道路が舗装される前にはよく、内務省は警察の電話線が引かれたかを確認していたとある高齢となった当時の官僚は思い起こしている。交通網の整備が進んでいないような人里離れた地域においてでさえ、警察は民心の動向の経過を追っていた。プロパガンダは戦前、日本の近代化に向けた努力に対して、日本全体をまとめあげることに役立っていたが、このような行動の重要性は降伏後も消え失せることはなかった。日本は戦争に敗北したものの、その決意とプロパガンダの綿密な運用によって、国家を失うことはなかったのだ」。
 英語の原著が出版されたのが2006年、それから10年たってこの日本語訳が出版された。著者はすでにその先の研究を邁進している。「日本語版への序文」では、まず原著が出版されたときと比べて、「この分野における国内外の研究は大幅に拡大しており、プロパガンダの歴史に関する分野では、新たな重要な研究成果が生み出されている」として、その後の研究史を追っている。つぎに、著者のプロパガンダの歴史研究は、「全く新しい展望を開き、その後の研究は当初の計画とは異なる方向へと進んでいる」とし、つづけてつぎのように説明している。「東アジア史における日本の理解と位置付けから、最近はより中国をその分析対象とすることが多くなっており、最近はこれら二つの分野を結合する試みを行っている。私が大日本帝国の終焉と、日本の敗北が東アジアをどのように再構成したのか、そして、東アジアが内部的にどのように再編成されたのかという問題(すなわち米国を戦後秩序の唯一の設計者として見るのではない視点)に関する研究に着手して以来、この分野の研究が全般的に不足していることを実感し始めている。しかし、現在は世界中の多くの学者が、このトピックを有益な研究課題として取り組み始めている」。
 さらに、著者の視線はヨーロッパにも向けられ、「過去数年においてフランスで起きてきたことを鑑みると、中国、あるいは日本が、過去の歴史と国家の役割をどのように認識しているかについては多くの比較されるべき点がある」と述べている。
 グローバルな視点で、戦争を経験していない世代が相対化して研究課題に取り組んでいることが、新たな研究へと向かう原動力になっているのだろう。だが、ヨーロッパと東アジアで戦争は過去のものになってきているとはいえ、いまなお戦争状態の国ぐにが世界各地に存在している。現在もそのようななかで、「終始暗雲が垂れ込めているわけではないだろう」。いま現実に起こっている戦争下に暮らす人びとの日常に目を向けることによって、相対化される戦争にかんする研究をよりリアルに理解し、現代の問題と相涉することができるだろう。

豊下楢彦『「尖閣問題」とは何か』岩波現代文庫、2012年11月16日、290+5頁、1100円+税、ISBN978-4-00-600273-2

 「日々激変する内外情勢と洪水のように溢れてくる情報をフォローし整理をして本文に組み込んでいくという、文字通り神経のすり減る執筆作業を強いられ」た成果が、本書である。議論の内容は、裏表紙につぎのようにまとめられている。「尖閣諸島問題についてのメディア報道には重大な欠落がある。日中両国の主張を歴史的にどう評価すべきなのか。最も注目すべきは、アメリカが曖昧な姿勢を取り続けていること。アメリカの戦略を解明する点で本書は独自性を持っている。国有化では解決できず、「固有の領土」論が説得力を欠く理由も明らかにする。さらに「北方領土」や竹島問題の解決策も踏まえ、日本外交を転換することで「尖閣問題」を打開する道筋を指し示す渾身の書き下ろし」。
 本書は、序章、全6章、「あとがき」からなる。比較的長い序章「「領土問題」の歴史的構図」の最後の見出しは「「中国の脅威」という問題」で、つぎのように述べている。「本書では、問題の「米国ファクター」を抉りだすとともに、この「中国の脅威」にいかに対処するかという問題をも重要な軸に据えていきたい。なぜなら、「中国の脅威」の問題は、単に領土問題のレベルをこえて、日本外交の今後のあり方を規定するであろう、最も重要な問題に他ならないからである」。
 つづけて、章ごとに本書の内容を素描している。第一章「忘れられた島々」では、「尖閣諸島の領有権をめぐる日本、中国、台湾の主張を再検討し、歴史的にも国際法の上からも同諸島が日本の領土であることを明らかにしていく」。
 第二章「米国の「あいまい」戦略」では、「にもかかわらず、なぜ米国は尖閣諸島の領有権のありかについて「中立の立場」をとってきたのか、その政治的な背景を詳しく分析し、この米国の「あいまい」戦略こそが、「尖閣問題」においてきわめて重要な意味をもっていることを抉りだす」。
 第三章「「尖閣購入」問題の陥穽」では、「石原氏の「尖閣購入」問題について改めて検討を加える。野田政権が本年[2012年]九月一一日に尖閣諸島の「国有化」を決定したことによって、「東京都による購入」については〝一件落着〟をみたようである。しかし、同氏による購入方針のうちあげ以来の〝狂騒曲〟を深く検証しておくことは、「尖閣問題」の今後を考える際に、決定的とも言える重要性を有しているのである」。
 第四章「領土問題の「戦略的解決」を」では、「北方領土」と竹島という、他の二つの領土問題について考察する。それらの歴史的背景と、それらをめぐる諸論争を再検討したうえで、「中国の脅威」に対処するためにも、これら二つの領土問題の「戦略的な解決」を急ぎ、日本外交が「呪縛」から脱するべきことを論ずる」。
 第五章「「無益な試み」を越えて」では、「「尖閣問題」で攻勢を強める中国と、同問題で「中立の立場」をとっている米国との両国関係を分析する。その上で、「尖閣問題」にとって決定的なことは、唯一無二の同盟国たる米国でさえ「領土問題は存在する」という立場をとっていることであり、そうである以上、日本も従来の立場に固執することなく、直ちに中国や台湾との間で資源問題や漁業問題などで実務的な協議に入り、軍事衝突といった最悪のシナリオを避けるべきことを説く」。
 第六章「日本外交の「第三の道」を求めて」では、「領土問題と日米同盟のあり方が密接に関係していることを踏まえ、日本外交の今後の方向性について、より大きな視野から抜本的な検討を加える。具体的には、日米同盟を軍事的に強化していく道か、日本の核武装の道か、という二つの選択肢をこえた日本外交の「第三の道」の可能性を、「安全保障のジレンマ」の概念を軸に据え、深刻きわまりない基地問題に直面している沖縄の地政学上の立ち位置を根底から見直すことを通して探っていく」。
 そして、第六章最後の見出し「「尖閣問題」とは何か」を、つぎのように結んで、結論としている。「米国がその一部を管理下におく無人の島々をめぐって、世界第二位と第三位の経済大国同士が、軍事衝突の危険性を孕みつつ対峙しあうという今日の状況は、まさに「日米関係とは中国問題に他ならない」といわれる本質的な問題が凝縮的に表現されているのである。とすれば、「尖閣問題」とは何かという課題は、つまるところ、戦後日本外交のあり方を根底から見直す必要性を提起している、と言えるのである」。
 著者が強調するのは「抉りだす」ことであるが、本書を読むと政治的解決はないと読めてしまう。社会科学的な考えでいけば、こちらを立てればあちらが立たずで、おさまりどころがない。ならば政治的問題はすべて棚上げにして、今後どうすればいいかを考えざるをえない。石油資源があるならどのように開発するか利益分配をどうするか、漁業その他の資源を持続可能なものにするにはどうすればいいか、環境問題はどうするのか、などなどは、どれも1ヶ国だけで判断、解決できることではない。関係する国ぐにに第三国が加わって、地域、地球の財産としてどう考えるかが重要になるはずだ。そのとき、排他的な考えはどうでもよくなるだろう。なにもしない、させない、サンクチュアリにするのも選択肢のひとつだ。

高嶋航『帝国日本とスポーツ』塙書房、2012年3月25日、287+16頁、3800円+税、ISBN978-4-8273-1253-9

 本書の概要は、帯につぎのように記されている。「帝国内の明治神宮大会と帝国外の極東大会の系譜をたどり、帝国内外のスポーツを結集して大東亜会議に連動して催された第一四回明治神宮国民錬成大会の実態を明らかにし、近代国家に翻弄されたスポーツの歴史をふりかえる」。本書のキーワードのひとつは、背に「スポーツから錬磨育成へ」とあるように、明治神宮国民錬成大会の「錬成」である。たんなる「大会」でも「競技大会」でも「スポーツ大会」でもなく、「錬成大会」となったところに、本書の論点のひとつがある。
 まず、「スポーツ」とはなにかを考えなければならない。著者、高嶋航は「序章」でつぎのように述べている。「スポーツそのものを厳密に定義するのは難しい。本書では当時の人びとが漠然とスポーツと呼んでいたもの、たとえば野球、陸上競技、テニスなどオリンピックや極東選手権競技大会(以下、極東大会)に採用されていた競技を指すことにする。スポーツは外来のもの、西洋のものであると意識され、それゆえ戦時、とくに太平洋戦争勃発後の英米文化排撃の風潮のなかで批判の矢面に立たされた。同じ外来のものでも、体操や軍事訓練はそのような扱いを受けることはなかった」。
 排撃の対象となったスポーツと対象にならなかった体操の境界は曖昧で、「戦争への直接的貢献を重視した「錬成」」ということばに置き換わっていった。「錬成」とは、鄭根埴によると、「錬磨育成の意味で、体力、思想、感情、意志など、人間のすべての能力を包括する言葉である」。「スポーツは英米的、自由主義的、個人主義的という言葉を冠せられ、錬成から排除されていった」。
 排除された理由を、「単なる戦時体制の強化とかたづけることは可能であろう。しかし、なぜ大東亜各国の指導者が第一四回明治神宮国民錬成大会を参観し、彼らの息子たちを含む大東亜各地の青年が体操をしたのか、そもそもなぜ彼らはそこにいたのか、明治神宮国民錬成大会と大東亜体育協会の関係はどうなのか、等々の問題に答えるには、いわゆる「明治神宮大会」(以下、通称として用いる)の変化を追うだけでは不十分である」。
 本書は、「序章」、3部全11章、「あとがき」からなる。第Ⅰ部「極東選手権競技大会の系譜」で「帝国日本の外部の状況を、極東選手権競技大会の系譜をたどりつつ、明らかにしていく。その系譜は大東亜体育協会につながるはずである」。第Ⅱ部「明治神宮大会の系譜」では、「帝国日本の内部の状況を、明治神宮大会の系譜をたどりつつ、跡づけていく。そして、第一四回明治神宮国民錬成大会を、この二つの系譜が交わるところに位置したものと考え」、第Ⅲ部「大東亜会議と明治神宮大会」で「詳細に検討して」いく。
 明治神宮大会は、1944年2月に冬季大会を開催し、4ヶ月後厚生省は全面的に中止することを決めた。敗戦後、「軍事教練の廃止、銃剣道、射撃の禁止、大日本武徳会の解散など」と平行して、「体育・スポーツの民主化が推進される」。「しかし、フィリピンでスポーツが民主主義を育てるのに必ずしも成功しなかったように、日本でもそれは掛け声だけに終わった」。
 明治神宮大会は、国民体育大会として、早くも1946年8月に夏季大会、11月に秋季大会、翌年1月に冬季大会を開催して「復活」した。「国体は回を追うごとに明治神宮大会に近づいていった。第二回大会にははやくも天皇が出席して、当時は禁止されていた日の丸が掲揚され、君が代が斉唱され、競技場を「感激と歓喜の渦」に巻き込んだ。第三回大会には天皇杯、皇后杯が創設され、第六回大会には開会式にマスゲームが導入される。東京オリンピックの翌年に開かれた岐阜国体では明治神宮大会をはるかに凌駕する総動員体制が構築された。「岐阜方式」と呼ばれる選手強化策は、勝利のためにすべてを犠牲にすることを正当化した」。「国体には国籍条項があり、一九七〇年まで日本国籍が参加の条件となっていた」。国体は、各県持ち回りで開催され、県のスポーツ施設の充実に貢献したが、開催県が優勝するのが常で、著者が実際に参加し、その「不正」を経験したことを「あとがき」で告白している。
 スポーツ大会には、得体の知れない時代と社会がまとわりつく。本書から、「帝国日本」という時代だけでかたづけられない日本社会の基層が垣間見えてくる。それは、今日でも国際大会を通じて、国際関係だけでなく、ナショナリズムを通じた国内事情がみえてくることを意味する。スポーツを通した歴史、社会、文化、国際関係などいろいろな切り口から、今日のグローバル社会もみえてきそうだ。

薩摩真介『<海賊>の大英帝国-掠奪と交易の四百年史』講談社選書メチエ、2018年11月9日、317頁、1950円+税、ISBN978-4-06-513732-1

 「海賊」と聞くと「掠奪」をともなう犯罪行為と捉える者が多いかもしれない。あるいは、法にとらわれないロマンスを感じる者もいるかもしれない。いずれにせよ、近代法治国家に暮らすわれわれの社会とは縁遠いものに思えるだろう。本書は、そんな「海賊」が社会の一員として、一定の役割を担っていたことを明らかにする。別のことばでいえば、たんに害をもたらす私的掠奪ではなく、公共に利益をもたらしていた側面があったということだ。
 本書の要約は、帯の裏につぎのようにまとめられている。「十八世紀以前の時代には、戦争、とりわけ海での戦いは、広い意味での経済的な利益を得る期待と直接的間接的に結びついていた。(中略)前近代のヨーロッパでは、より直接的な形での経済的利益の獲得も戦争の重要な一部分を構成していた。(中略)それどころか海での戦いは、むしろこのような掠奪を通じて富を蓄える機会とみなされていた面もあったのである。このような利益獲得の側面は、長らくイギリスを含むヨーロッパの、(そして、おそらくは人類の)戦争の重要な一側面を構成していたものであった。そのひとつである海上での掠奪の歴史を見ることは、前近代の戦争について我々が持つイメージを塗り替えることにもつながるのである」。
 本書は、序章、全7章、終章、あとがきからなる。終章「第一次世界大戦の勃発とパリ宣言体制の崩壊」「3 エピローグ」では、「イギリスと掠奪の関係の変遷の歴史」を振り返り、合法から犯罪行為になる過程をつぎのようにまとめている。「人々のこのような利益獲得の期待と、戦時における敵国の経済の弱体化を狙う政府の思惑に支えられ、掠奪は海軍や私掠者による戦時の拿捕行為という形で十八世紀を通して続いていく。しかし、掠奪の管理化は大規模な海賊行為の発生は防いでも、私掠者や海軍による臨検や拿捕が戦時の中立通商に従事する国との間に摩擦を引き起こすことまでは防げなかった。この交戦国と中立国の利害の衝突は、十八世紀後半から台頭してきた自由貿易思想の追い風も受け、拿捕行為、とくに私掠者による拿捕への批判を生み出す一因となる。この批判は十九世紀半ばの列強の外交的駆け引きとも結びつき、やがて一八五六年のパリ宣言における世界の大半の国での私掠の禁止をもたらした」。
 第一次世界大戦後の国際自由貿易の急速な拡大は、安全な通商路としての海上交通が、個々人、国家に利益をもたらすと考えられたことから、「海洋はもはや掠奪を通じて富を奪取する場ではなく」なっていった。だが、私的な利益や自国のみの利益を追求しようとする者が現れたとき、非合法な掠奪がおこることになる。とくに慣習法である国際法に罰則がなく、国内法によってのみ取り締まることができるため、ソマリヤのような破綻国家では無法状態になる。海洋の安全が、グローバル社会の利益につながり、それが国益につながるとわかったとき、非合法な「海賊」はいなくなるはずだが・・・。
 本書では、帝国が海を支配するという観点で書かれており、陸から海への視点しかない。海から陸を視る視点は、本書で扱った帝国のヨーロッパ中心史観の400年間では難しいであろう。そのヨーロッパ世界が、海を主体とする海域世界に進出したとき、この陸から海への視点だけで語ることができるだろうか。本国から離れ、私的にアジア貿易などに従事したカントリートレーダーやビーチコーマ-とよばれた人びとの視点で見ると、「海賊」もまた違ったものに見えてくるかもしれない。

今井昭彦『対外戦争戦没者の慰霊-敗戦までの展開』御茶の水書房、2018年5月25日、485+xxiii頁、8800円+税、ISBN978-4-275-02072-7

 神社やお寺、小学校や城跡、公園に行けば、いろいろな名のついた記念碑を見かけることがある。戦争にかんするものでは、「忠魂碑」「招魂碑」「弔魂碑」「彰忠碑」「表忠碑」「誠忠碑」などなどがあるが、どう違うのかさっぱりわからない。著者、今井昭彦は、序章「招魂・靖国・忠魂・忠霊-カミとホトケ」のなかで、つぎのように説明している。「忠魂碑等の当初の建立場所は、神社境内よりも村役場や小学校敷地内が中心であり、その建設には大正期から帝国在郷軍人会(明治四三年一一月三日発足)が関わり始めていった。一方、既述のように戦役紀念碑の建立場所は神社境内が中心で、建立者は主として町村あるいは町村民であり、帝国在郷軍人会による建立は少なかったことがわかる。つまり建立主体の棲み分けがあったようである。ただし明治期の建立に限っていえば、建立主体の明らかな相違を読み取ることはできないのである。このように建碑の全体像は今だにぼやけた部分を有している」。
 本書のタイトルにある「慰霊」ということばも、問題があることが「はしがき」に書かれている。本書は、同著者の『近代日本と戦死者祭祀』(2005年)、『反政府軍戦没者の慰霊』(2013年)につづく3冊目の本格的学術書であるが、2冊目の書評で、「「慰霊」というのは日本独特の伝統的な観念であり、国際的な基準で言い表せる語ではなく、国際的な交流の場では「追悼」という語が理解されやすい」と指摘されたという。
 本書は、はしがき、序章、全4章からなる。第四章「結語-戦没者はカミかホトケか」は短い「終章」に相当する部分で、実質は第一章「明治期の戦役と戦没者慰霊」、第二章「満州・「支那」事変と戦没者慰霊」、第三章「群馬県における戦没者慰霊」の3章からなる。その目次を見ると「忠霊塔」がキーワードであることがわかる。著者は、つぎのように説明している。「内地では昭和期に一般化することになる忠霊塔には納骨が前提とされ、「墳墓」あるいは「墓碑」と規定された。その建設のスローガンとして、「国に靖国、府県に護国、市町村には忠霊塔」が挙げられる。忠霊塔が戦没者の墳墓ということになれば、遺骨を納めぬ忠魂碑とは「大イニ其ノ実感カ違フ」ということになり、当然仏教との関わりが想定され、戦没者は国家が意図・強制したカミであるよりも「ホトケ」として人々に認識されるようになろう。そうすると、スローガンでは忠霊塔が靖国(国家)祭祀体系のなかに包摂されているように見えても、実態としては忠霊塔がこの祭祀体系から逸脱していく可能性を有することになる。また墳墓であるなら、忠霊塔と陸軍墓地や海軍墓地との関係も検討されなければならないだろう。このように忠霊塔は、従来の靖国・護国神社の神式による祭祀体系には含まれない、新たな別枠の慰霊施設ということになるのである」。
 「本書が分析の対象とするのは、こうした屋外での公的な慰霊・祭祀にあり、「家(イエ)」での私的な慰霊・祭祀に関しては殆ど視野に入れていない。戦没者慰霊に関して、先祖祭祀とも絡むイエでの祭祀が欠落していては片手落ちともいえようが、この部分に関しては今後の宿題とし、とりあえず公的な領域における戦没者慰霊のささやかな研究成果として、世に提示するものである」。
 本書で出そうとしている「解答」のひとつは、序章の副題と第4章の主題からカミとホトケの問題であることがわかる。それにたいして、著者は、第4章でつぎのように答えている。「昔から戦没者はカミではなくホトケとして祀るのだという、大多数の国民の根強い信仰を証明するものと考えられよう。民俗学の佐野賢治によれば、現在でも多くの遺族は「忠霊塔にお参りすると、ほっとする」と答えているという。それは戦没者の魂だけを祀り、かつ居住地から遠隔の地にある「巨大な忠魂碑」たる靖国神社とは異なって、戦没者の氏名が明確に刻まれ、あるいは遺骨(遺品)が納められた「共同祭祀の場」である忠霊塔は、日常の生活圏であるムラ社会のなかに建設された。忠霊塔においては、戦没者の魂は遥か遠い「イエ(家)」の先祖まで繋がっていくと考えられ、同時に記憶に新たな戦没者の魂と肉体の双方を祀った「ムラの墓地・聖地」として、人々に認識されていたからであろう。既述のように、村人の本心は何よりも戦没者の「身近での祭祀」を望んでいたのである」。
 その「ムラ」「村人」がいなくなりつつあることを述べて、本書は終わっている。海外に戦友会や遺族が建立したおびただしい数の碑も、無縁化している。靖国神社など顕彰施設としての戦争記念碑だけが残り、慰霊施設が朽ち果てていくなかで、戦争はどう語り継がれていくのだろうか。戦争のことを考え、二度と起こさないようにするためにも、戦没者慰霊・祭祀の問題は重要な問題である。まずは、その認識が必要だろう。

増原綾子・鈴木絢女・片岡樹・宮脇聡史・古屋博子『はじめての東南アジア政治』有斐閣、2018年11月30日、302頁、2200円+税、ISBN978-4-641-15058-4

 「本書は、大学に入って初めて東南アジア政治を学ぶ学生を主な読者としてつくられたテキストである」。つまり、東南アジアについてなにも知らないことを前提として、執筆されている。
 本書の特色は、「各国政治史」「比較政治」「国際政治」の3部構成になっていることである。「第Ⅰ部では、第1章が古代から独立前までの東南アジアの国家と国際関係を扱っており、第2章から第7章までは国家形成と国民統合に注目して各国の政治史が記述されている。植民地化以前にはこの地域に存在しなかった近代的な国家がどのように成立し、国民国家形成と国民統合がどのように行われていったのかをめぐる議論が、それぞれの章で展開されている」。
 「比較政治をテーマとする第Ⅱ部では、独立後から現在に至るまでの国内政治に焦点をあて、国家間を比較しながら当該国が抱える政治問題を浮き彫りにしている。第8章(国民国家建設)では国民国家がつくられる過程で生み出される多数派と少数派の関係について、第9章(政治体制と体制変動)では権威主義体制の成立とその支配の仕組みについて論じられ、第10章(成長・分配)では開発に伴う経済成長とその分配をめぐる対立が、第11章(模索する民主主義)では民主化に伴って拡大する汚職や政治家不信が社会に分断をもたらすなど東南アジアの民主主義が直面する問題が議論されている」。
 「国際政治を扱う第Ⅲ部では、大国との国家間関係、地域統合、国境を越える人の移動から東南アジア政治を考えようとしている。第12章では冷戦期からポスト冷戦期にかけての、特にアメリカや中国と東南アジア諸国との関わりを、第13章ではASEANの成立から共同体設立に至る50年間の地域統合の歩みを学ぶ。越境をテーマとする第14章は、麻薬密輸やテロ・ネットワークといった非合法活動から合法的な労働移動、難民まで、人々の国境を越える多様な営みに注目する。最後に、終章では日本と東南アジアの関係史を概観しながら、私たち日本人の東南アジアとの関わりの深化を考えていきたい」。
 このように本書は3部構成になっているが、「読者はどこから読み始めても構わない」よう配慮されている。そのメリットは大きいが、当然のことながら、重複する記述が増える。2年半にわたって10回以上の打ち合わせをし、査読会を開いてほかの人の助言を得ても、分担執筆は専門性に優れているが、どうしても整合性に問題が出てくる。第Ⅱ部、第Ⅲ部は東南アジアの「多様性の中の統一」を理解するにはいいが、「初めて東南アジアを学ぶ」学生にとっては各国ごとの違いがわからず混乱する。実際、その日の授業では1つの国のことしか話さないようにしたほうがいい。比較の話をした授業後のレポートを読むと、混乱したことがわかる。このように、テキストや概説書は、ケチをつけはじめたらきりがないほど問題が出てくる。また、優れたものができても、それを教室でどう使うかが肝要である。
 さらに、学生や一般読者向けといっても、専門家の目に適う最新の研究成果を取りいれたものでなければならない。大学入試センター試験によく出る「1623年のアンボイナ事件」は、イギリスが「オランダに敗れて東南アジア海域から駆逐された」契機となったわけではないことを、わたしはイギリス東インド会社文書を使って、学会でも発表したのだが改まる様子はない。イギリスのインドを含むアジアの中心は、1680年ころまで西部ジャワのバンテンにあった。また、1667年の英蘭の条約で香料諸島のバンダ諸島のイギリス領ルン島とオランダ領マンハッタン島(現ニューヨーク市)が交換されたことから、イギリスは香料諸島海域から完全に駆逐されたわけではない。なにより、ヨーロッパ勢力が香料貿易に進出して1世紀になり、砦を築いて貿易の根拠地とする費用のかかるものから自由貿易に変わって砦の重要性は低下していた。実際、イギリスの香料貿易は事件後増加している。この事件については、これまでだれも原資料に基づいて研究していないにもかかわらず、高校教科書に書かれつづけてきたようだ。
 本書の「引用・参考文献」は5人の執筆者のうち、だれかが読んだことがあるもののはずだが、「GHQ連合国軍最高司令官総司令部」をなんども「CHQ」と表記するなど夥しい数の、誤植では済まされない誤りのある書籍が含まれている。また、なんども書き直したためだろう、参考文献には該当しない箇所に挿入されているものがある。
 テキストを書くのは、ほんとうに難しい。わたしも出版後に、恥ずかしい思いを何度もした。訂正をしたいのだが、初版をすぐに売り切らなければ、それもできない。本書が、版を重ねて、よりよいテキストになることを願っている。

高嶋航『軍隊とスポーツの近代』青弓社、2015年8月20日、440頁、3400円+税、ISBN978-4-7872-2062-2

 軍隊とスポーツとの関係について、戦場で死んだスポーツ選手を思い浮かべる人は、よくなかったと考えるだろう。だが、一時期ではあるが、「民間スポーツ界と軍隊の関係はきわめて密接であった」。
 そのことが、「いまや完全に忘れられ、日本体育史から抹殺されている」理由を、著者は「序論」でつぎのように説明している。「スポーツ史の側からすれば、軍隊とはひとえにスポーツの弾圧者であり、軍隊そのものをスポーツ史の対象と見ることができなかった。一方、軍隊史の側からすれば、スポーツは取り上げるに値しない、あるいはふさわしくないテーマであった。それは軍隊の本質とは何の関係もない、些末な問題にすぎなかった。いや「問題」でさえなかった。この問題は軍事史とスポーツ史のはざまにあって顧みられることがなかったのだ」。
 ところが、「欧米では近年、軍隊スポーツの研究が盛んになりつつある」。そして、「軍隊スポーツを意義づけるためによく用いられる概念が男性性である」。本書の議論のひとつがこの「男性性」で、著者は、議論を先取りしてつぎのように結論している。「社会の男性性の変化が軍隊のあり方を変え、スポーツの興隆を生み、よき兵士がよきスポーツマンであるとみなされるようになったとき、軍隊でスポーツが花開くことになる」。
 本書のふたつ目の議論は、「鍛錬/娯楽」である。陸軍が「スポーツを弾圧する主体となってしまった」原因として、「「娯楽」に対する考え方の違いにあるのではないか」と著者は「本書の仮説」とし、つぎのような議論を試みている。「日本軍がスポーツの鍛錬的側面と娯楽的側面をそれぞれどのように評価したか、そのようなスポーツ評価は軍隊内部でおこなわれるスポーツに対する場合と民間社会のスポーツに対する場合で違いがあったのか、軍隊のスポーツに対する評価は時代によって、また陸・海軍によって違いがあったのか、違いがあったとするならばどのような違いだったのか、そのような違いをきたした原因は何だったのか、などの点に着目し、整合的な説明を試みたい」。
 そして、3つ目の議論が、「皇室・軍隊・スポーツのトライアングル」で、「明治以降の皇室男子は基本的に陸・海軍に所属したので、皇室と軍隊の関係は明瞭」、そして「皇室とスポーツの関係については、二〇年代のスポーツの発展に皇室が大きな役割を果たしたことが最近の研究で明らかになってきている」ので、残るは「軍隊とスポーツの関係である」。「若い皇族たちのなかにはスポーツの愛好家が多かった」。「皇族、軍人、スポーツマンを兼ね備える存在だった彼らの動向に本書は注目する」。
 これら3つの議論が、「本書で軍隊とスポーツを分析する際の基本的な枠組みとなる」。本書は、序論、2部全7章からなる。1部「戦前の軍隊とスポーツ」と2部「戦時下の軍隊とスポーツ」で時代を分けて論じ、それぞれの部で海軍と陸軍の違いを論じている。それらに加えて、1部には「第3章 デモクラシー時代の軍民関係」「第4章 欧米の軍隊とスポーツ」があり、第2部には「第7章 軍隊とスポーツの日米比較」がある。3つの議論をあわせて、本書の結論とするような「終章」はない。
 本書を著者に代わってまとめるようなことはできないが、気づいたことをいくつか拾ってみる。まず、「男性性」について、つぎのように論じている。「一九三〇年代に軍隊の男性性が大きく変化した結果、二〇年代に一時盛んだった陸軍のスポーツは衰退していった。そして戦争が始まると、陸軍は総力戦の要請からスポーツ界、とりわけ学生スポーツ界への干渉を強めていった。いわゆるスポーツの「弾圧」」をおこなった。そこには、スポーツと「男性性」の関係がある。「男性性」は海軍と陸軍では異なっていた。「イギリスの影響を強く受けた海軍では、スポーツに象徴されるイギリス的な男性性も基本的に肯定されていた。しかし、同じスポーツではあっても、ラグビーやサッカーは士官にふさわしいものとして、バレーボールやバスケットボールは下士官兵や職工にふさわしいものとして区別して扱われた。前者は士官にふさわしい資質を養成する鍛錬としての側面が評価され、後者は気晴らし、思想善導、安全弁といった役割、すなわち娯楽的な効果が期待された。両者の男性性は区別され、後者は前者の引き立て役の地位に置かれた」。
 いっぽう、「陸軍はスポーツと無縁なまま男性性を形成した」。「陸軍はスポーツを採用したが、その男性性を否認した」。「一九二〇年代の日本軍のスポーツ熱は、大戦後の欧米の軍隊における新しい男性性に触発されて生じたものだった」。「結局のところ、陸軍にとってスポーツは単なる娯楽にすぎなかった。そのため軍隊教育のなかにスポーツの痕跡を見いだすことは難しい。逆にいうと、軍人としての男らしさを要求されない人たちは、スポーツを許されていた」。「陸軍幼年学校は将校の卵を養成する学校ではあったが」、「軍人としての男らしさはまだ強く要求されなかった」。
 皇室との関係は、つぎのようにまとめられた。「皇室が一九二〇年代の軍隊スポーツに大きな役割を果たしたことは第1部で論じた。三〇年代後半以降、皇室とスポーツ界の関係はそれ以前と比べるとかなり希薄になっていた。皇族が総裁をつとめた明治神宮大会と東亜大会はその数少ない例外だが、その明治神宮大会も軍事化され、スポーツが排除されていった。二〇年代、自らスポーツを実践していた昭和天皇、秩父宮、高松宮もこのころには四十歳前後になっていて、皇族として軍人として多忙な日々を送っていた」。「二〇年代の平民的な皇室が媒介となって結び付いた軍隊とスポーツは、天皇が神格化されるなかでつながりを失い、「皇軍」とスポーツは対極の男性性をなすにいたった。菊と星と五輪のトライアングルは、星と五輪のあいだだけでなく菊と五輪のあいだでも切断されてしまったのだ」。
 そして、最終章となった第7章を、つぎのように結んでいる。本間雅晴は「第一次世界大戦のドイツ軍を「硬性軍隊」と呼び、平素は強いが逆境に弱いと分析していた。その本間が軍隊のスポーツを奨励したのは、軍隊をより柔軟な組織にしようとしたからである。大正末期の陸軍は本間の目指す方向に進み、そしてスポーツが花開いた。しかし、それは一時的な脱線に終わり、日本軍はかつて以上に「硬性」な軍隊になった。イギリスのスポーツマンシップを称賛し、兵士の人格と自由に基づく軍紀を主張していた将校=スポーツマンの本間が、太平洋戦争で「硬性軍隊」を率い、バターン死の行進の責任を問われて処刑されたことは、日本の軍隊とスポーツの近代を象徴する出来事だったのではないだろうか」。
 表紙にもなっているように、本書には多くの写真が掲載されている。それだけ宣伝材料になったということである。そのいっぽうで、「弾圧と抑圧」のイメージが強い。平和な時代においては「柔軟な組織」としての軍隊が求められるが、戦時においては「硬性」な軍隊が求められ、皇室も民間スポーツ界もそれに同調したということだろう。「スポーツの戦争化」である。つまり、「奨励」と「弾圧」はそれほど遠いものではなく、表裏一体と言っていいかもしれない。スポーツに目を向けることによって、戦争への「黄信号」を読みとり、事前に対策がとれるかもしれない。

李鍾元・木宮正史編『朝鮮半島 危機から対話へ-変動する東アジアの地政図』岩波書店、2018年10月12日、155頁、1900円+税、ISBN978-4-00-023897-7

 編者による「まえがき」も「あとがき」もなにもない。どういう意図で、本書が出版され、どういう構成になっているのか、さっぱりわからない。全体を示すものは、表紙見返しのつぎのものしかない。「電撃的な南北・米朝首脳会談の実現により、朝鮮半島をめぐる国際情勢は激動を迎えている。金正恩の北朝鮮、文在寅の韓国、トランプのアメリカ、習近平の中国は何を考えているのか。そして日本外交は今後どうすべきなのか。今起こっている大転換の意味とは。世界を「現実的」に見つめ直すために不可欠な論点を提示する」。
 本書は、全7章からなる。「1 「戦争の危機」から「平和のための対話」へ-東アジアの構造変動をよみとく」は、2人の編者の論説からなる。「2 金正恩体制は何を目指すか-「権力の確立」から「体制の保証」へ」(平井久志)、「4 「追い込まれた米国」が解凍した二五年の先送り-トランプと金正恩を繋いだインテリジェンスルート」(尾形聡彦)、「5 朝鮮半島「非核化」の先を見据える習近平」(朱建栄)、「7 日朝国交正常化はなぜ必要か」(太田修)の出所はわからないが、「3朝鮮半島の非核化と文在寅政権の戦略」(文正仁)、「6 米朝核交渉と日本外交」(田中均・太田昌克)は、雑誌『世界』にそれぞれ2018年5月号、同7月号に掲載されたものだ。
 2018年6月12日にシンガポールでおこなわれた米朝首脳会談後を見据えた議論が展開されていることはわかるが、当然のことだが、決定的なものはない。そのあたりが、「まえがき」も「あとがき」もなく、読者の理解に任せているということだろう。「棚上げ」は当座の問題解決のひとつの手段であるが、いつまでもつづけるわけにはいかない。朝鮮半島問題も、そのときが来たのかもしれない。

川島浩平・竹沢泰子編『人種神話を解体する3 「血」の政治学を越えて』東京大学出版会、2016年9月30日、359+9頁、5000円+税、ISBN978-4-13-054143-5

 本書は、共同研究「人種表象の日本型グローバル研究」の成果で、3巻からなるシリーズの第3巻である。共同研究では、「生物学的実体をもたないはずの人種が、いかに創られ、再生産されるのか、そのプロセスを検証することこそいま必要とされる作業であるという信念から、人種神話の解体に挑んできた」。
 第1巻『可視性と不可視性のはざまで』、第2巻『科学と社会の知』につづく本書第3巻『「血」の政治学を越えて』の目的は、つぎのように「刊行のことば」のなかでまとめられている。「「ハーフ」「ダブル」「ミックスレイス」と呼ばれている人びとや歴史的に「混血」と名指されてきた人びとの表象がいかに生成され変化してきたか、加えて、当事者たちがそうした表象に抗いながらいかなる自分らしい生き方を見出してきたかを吟味する。これらの分析を通して、今日の「ハーフ・ブーム」が何を可視化させ何を不可視化させているのか、またそれが帝国・植民地主義・国民国家の歴史とどのように接合しているのかについても問い直す」。
 本書は、「序章 混血神話の解体と自分らしく生きる権利」につづいて、3部全11章からなる。「第一部 表象と帝国・占領・植民地主義」は、「四つの章ともに、近現代日本の「混血児」「混血」「ハーフ」をめぐる表象の連続性と非連続性を考察しながら、戦前の帝国、GHQによる占領、沖縄に対する植民地主義というさまざまな支配構造やその変化の問題に迫る」。「第二部 「混血」「ミックスレイス」から歴史を読み直す」の3論文は、「他集団、とりわけ白人との関係性を射程に含めつつ、マルチレイシャルな人びとの個人や集団、あるいは社会的位置をめぐる変化のプロセスを歴史学的に検証する」。「第三部 自分らしい生き方を求めて」の「四論文に登場する主体は、現代のアメリカ、日本、沖縄を生きる複数のルーツをもつ若者たちである」
 本書で、まず問題となるのが呼称で、「序章」でつぎのように指摘している。「本書には、「混血児」「混血」「ハーフ」「ダブル」「ミックスレイス(mixed race)」「マルチレイシャル(multiracial)」など、多種多様な呼称が登場する。当事者たちが幼少期から経験してきたあらゆる差別は第三者による呼称の発話を介してなされ、それらは時に刃物のように多くの人びとを傷つけてきた。そのため本共同研究は当初より、対象を日本語でいかに表現するかという重い課題を抱えてきた」。
 つぎに「序章」では、つぎのように問題提起している。「まず呼称につきまとう問題を指摘したうえで、日本社会において異集団混淆を生み出してきたと思われる五つの構造的要因と、それらと交錯することによって複数のルーツをもつ人びとの表象や序列を形作る四つの社会的カテゴリを試論として提示する。続いて日本と海外の事例を接続させることにより、表象と自己定義をめぐる新たな研究課題の可能性を提起することとする」。
 その5つの構造的要因とは、「帝国主義・国外植民地主義」「先住民支配・国内植民地支配」「占領期から今日に至る米軍などの軍隊・基地の存在」「国外における婚姻外の混淆」「一般的な移住・移住労働」で、つぎの「四つの社会的カテゴリが交錯することによって、その婚姻や混淆によって生まれた人びとの表象が社会的価値観や序列のイデオロギーを伴い生成されると考えられる」という:「人種(とくに①社会通念上の人種カテゴリ・皮膚の色、②「血」のイデオロギー)」「ジェンダー・セクシュアリティ」「階級・社会的地位」「他の社会的・文化的差異(国籍、言語、宗教など)や行為・価値観など」。
 「同じこと」と「違うこと」、それはその時々や場所場所によって、捉え方が違ってくる。違うことが当たり前と捉える東南アジアでは、「多様性のなかの統一」ということばが、近代国民国家の形成や、なんらかのまとまりのあることを論じるときに、しばしば使われる。それは、統一しようとするのではなく、違いを認めあうことを意味することが多い。たとえば、ASEAN共同体では、全会一致を原則とし、違いを認めあうまで非公式会談を繰り返し、なんらかの合意ができたときにはじめて議題になる。だが、いつまでも議題にしないですますことができるか。本書で取りあげられた議論でも、議論しないほうがいいといわれることもしばしばある。「神話」をつくることはたやすいが、いったん「常識化」された「神話」を解体することは至難である。

福岡まどか・福岡正太編著『東南アジアのポピュラーカルチャー-アイデンティティ・国家・グローバル化』スタイルノート、2018年3月26日、478頁、4000円+税、ISBN978-4-7998-0167-3

 「東南アジアの息吹とパワーとエネルギー!」と、帯に大書してある。経済成長を肌で感じたことのない日本の若者に比べ、東南アジアには発展への期待があり、個々人を発展へと駆り立てるポピュラーカルチャーがある。本書3部全13章と20のコラムから、その一端が具体的にわかってくる。
 「本書は、東南アジアの人々が文化に関わる多様な価値観とどのように向き合っているのか、文化実践を通して自分をどのような存在として位置づけていくのか、という問題を人類学・地域研究の立場から考察した論文集である」。
 本書は、書名と同じタイトルの序章につづいて、「せめぎあう価値観の中で」「メディアに描かれる自画像」「近代化・グローバル化社会における文化実践」の3部に分けて、「20世紀初頭以降現在までという比較的長い時代設定を視野に入れて」考察している。
 「17名の執筆者はそれぞれの専門分野の立場からフィールドへ長年にわたって通い続けてきた」成果が本論文集であり、それをつぎのようにまとめている。「ここに見られる論考の数々は、長期にわたって芸術活動や表象文化を調査し現地の人々との対話を重ねることを通して、アイデンティティ形成をめぐる批評や論争を分析し価値観の相克や規範の揺らぎが起こるプロセスに分け入った成果である。文化表現や身体表象が生み出され社会に広まって受け入れられていくプロセスに着目し、人々の文化実践や価値観の葛藤や論争など[を]通して現代東南アジア社会におけるアイデンティティ形成の多様なプロセスをとらえることを目指している。地域的には東南アジアの事例を主とするが、地域横断的なトピックとして東南アジアにおける華人文化の歴史や華人の文化人の活動、東南アジアにおけるインド文化を中心とする南アジアの文化の普及、東南アジアにおける韓国を中心とする東アジア文化の流行などの現象も含めて考察を行う」。
 3部は、それぞれつぎのように要約されている。「第一部「せめぎあう価値観の中で」においては、文化表現をめぐって人々が多様な価値観と交渉しつつ自らの位置づけを模索し変化させていく状況を取り上げた。社会に根強く偏在する道徳規範、国家による規制、居住地域や世代による価値観の違いをめぐって、人々が文化表現を通して自らを位置づけていく現状を視野に入れた」。
 「第二部「メディアに描かれた自画像」においては、メディアを通して模索される自画像を取り上げた。音楽や映画などを通して、文化表現・表象に対する新たな価値観を生み出そうと試みる人々の姿に焦点を当てた」。
 「第三部「近代化・グローバル化社会における文化実践」においては、植民地化や国民国家の成立、資本主義の影響などを背景としたメディアの発展や社会の変化、進みつつある情報のグローバル化に焦点を当てた。また文化が地域的枠組みを越えて拡散していく状況にも着目し、人々の文化実践の多様化について考察した」。
 そして、序章の最後で、つぎのようにまとめている。「本書の記述を通してみえてくるものは、多様な価値観と向き合いつつ社会における自らの位置づけを模索し続ける東南アジアの人々の姿である。そしてその姿からは、文化的表現が社会におけるさまざまな問題と決して無関係ではないということが示される。人々が日常的に経験する文化は、生活の中に深く入り込み、価値観や思想に多大な影響を与え、社会における多様な論争に何らかの展望やカタリシスをもたらすものでもある」。
 「東南アジアの人々に対して多くの人々が抱くイメージは、自然と共存し伝統文化を守り深い信仰心に支えられた生活をする人々というものが一般的かもしれない。だがその一方で東南アジアの人々はまた、メディアを駆使し、物質文化を謳歌し、論争に参加し、多様な面で創造性を発揮していく人々でもある。文化の持つ力がどのように、人々に、社会に、そして世界に影響を及ぼしていくのかという問題に、現代東南アジアのポピュラーカルチャーをめぐる研究は一つの鮮明なイメージをもたらしてくれるのではないだろうか」。
 「あとがき」に書かれているとおり、「対象とするポピュラーカルチャーは、茫(ぼう)洋(よう)としてつかみがたい」。だが、「そこに新しい文化的表現を生み出す人々の大きなエネルギーがある」。そのエネルギーを受けとめることによって、経済成長が鈍化した日本の若者もグローバル化する東南アジアを含む東アジアという地域社会のなかで「再生」できる。日本という国家の経済成長が鈍くなっても、日本が属している東アジアはこれからも文化的発展が期待できる。

剣持久木編『越境する歴史認識-ヨーロッパにおける「公共史」の試み』岩波書店、2018年3月27日、213頁、3600円+税、ISBN978-4-00-022301-0

 本書では、「国際的には広く認知されてきた」が、「わが国ではほとんど馴染みがない」「公共史」を、歴史認識という「テーマに取り組む際のアプローチからまず提案していきたい」という。
 「公共史Public History」は、「少なくとも北米では一九七〇年代にはひんぱんに登場するカテゴリーとなり、一九八〇年代には、NCPH(全米公共史評議会)という学術団体も立ち上がっている。同評議会が二〇〇七年に掲げた公共史の定義は、「公共史とは、共同研究や歴史の実践を促進する運動、方法論そしてアプローチであり、実践者は、その専門的洞察を大衆にとって身近で有益なものとする使命をすすんで引き受ける」とある。また、最新の同評議会のホームページでは、公共史と言い換え可能な用語として応用史Applied history、つまり歴史を役立てる様々な方法、と規定している」。
 本書では、「さしあたり厳密な定義を棚上げして、公共史の領域の最大公約数として、書物、博物館、歴史記念館、映画、テレビ番組など、大衆と歴史学を橋渡しするメディアということにしておこう。ただし、いずれのメディアにおいても、専門歴史家の関与が担保されていることが、「公共史」の要件であるとしたい」。
 編者は、「本書では、公共史を、タテとヨコの二つの軸から構成されるものとして考えていきたい」と述べ、「まずタテについては、基本的には国内における専門家と大衆の関係性、そしてヨコについては、地域同士の関係性、とりわけ国境を越える関係性を想定している。もちろん、タテとヨコが交錯するケースが存在するのは、国境を越える歴史博物館や歴史教科書からも明らかであるが、ここでは、最初にタテとヨコそれぞれについて、公共史の射程を整理しておこう」。編者は、タテの公共史として、まず書物でとくに概説書、学術一般書、つぎに映像メディア、最後に歴史博物館を、ヨコの公共史として、国境を越える歴史教科書をとりあげ、タテとヨコが交差するものとして、とくに国境を越える歴史博物館に注目している。
 本書は、序章「歴史認識問題から公共史へ」につづいて、2部、全7章からなる。第Ⅰ部「タテの公共史」全4章および「補章 日本における博物館展示と戦争の痕跡」では、「タテの公共史の視点をメインにすえた論考から構成されている。国内において、歴史の専門研究の成果を一般の人々に伝えるメディア、とくにテレビドラマと歴史博物館に注目する」。第1章「映像の中での公共史-「フランスの村」にみる占領期表象の現在」(剣持久木)が扱うのは、「フランスのテレビドラマ「フランスの村」である」。第2章「ドイツ現代史の記述と表象-「ジェネレーション・ウォー」から考える歴史認識の越境化の諸相」(川喜田敦子)は、「ドイツのテレビドラマ「ジェネレーション・ウォー」の分析を通してドイツにおけるタテの公共史の姿を考察する」。第3章「証言と歴史を書き記すこと(エクリチユール)-ショアーの表象をめぐって」(アネット・ヴィヴィオルカ)は、「第1章でも言及したホロコーストの表象を、映画のみならずすべての表現手段を通じて検討している」。第4章「ポーランド現代史における被害と加害-歴史認識の収斂・乖離と歴史政策」(吉岡潤)は、「冷戦後のポーランドにおけるタテの公共史を、歴史認識「パッケージ」の競合という視点で分析する」。
 第Ⅱ部「ヨコの公共史」全3章では、「ヨコの公共史に軸足をおいたテーマに取り組んでいる。国境を越えた公共史に注目するが、いずれの場合においても、程度の差はあれ、それぞれの国内における専門家と一般の間のタテの公共史にも関わってくる」。第5章「第一次世界大戦の博物館展示-ペロンヌ大戦歴史博物館(ソンム県)の事例」(ステファン・オードワン=ルゾー)は、「タテとヨコの公共史が交錯する、国境を越える歴史博物館、ペロンヌ大戦歴史博物館、通称ペロンヌ歴史博物館に注目する」。第6章「ヨーロッパ国境地域における戦争の記憶と博物館-アルザス・モーゼル記念館を例に」(西山暁義)は、「地方の歴史博物館に注目する。国境を越える歴史博物館、タテとヨコの公共史が交錯するのは、大規模な歴史博物館だけではない」。第7章「ドイツにおける対外文化政策としての歴史対話-一九七〇年代の国際教科書研究所をめぐって」(近藤孝弘)は、「ヨコの公共史のもっとも目に見える実践である、ヨーロッパの歴史対話に注目する」。
 編者が最初に注目したのは、共通教科書であったが、「公共史」にターゲットを広げた理由を、「おわりに」でつぎのように説明している。「直接的な理由としては、実地調査の過程で、独仏共通歴史教科書の使用状況が、アビバック学級などの特殊な二言語学級に限られるなど、当初の見通しとは異なりかなり限定的であることが判明したこと、そして独仏共通歴史教科書に引き続き刊行が予定されていたドイツ=ポーランド共同歴史教科書の刊行が遅れに遅れたことがある。後者の背景には、本書で吉岡氏が[第4章「ポーランド現代史における被害と加害-歴史認識の収斂・乖離と歴史政策」で]指摘しているポーランドの国内事情があるが、いずれにせよ、共通歴史教科書が国境を越える歴史認識へと道を切り開くという当初の私の予測は、少々楽観的にすぎることが判明した。しかし他方で、ヨーロッパでの調査を通じて、歴史教科書だけではなく、書籍や映像、博物館などの様々なメディアによる国境を越える歴史認識の試みが始まっていることもわかってきた。それらを総合的に把握するキーワードとして浮上したのが「公共史」という概念であった」。
 そして、編者は「歴史博物館に対して大きな希望を見いだしている」と述べているが、「補章 日本における博物館展示と戦争の痕跡」を読むと、それも楽観的すぎるように思えてくる。帯にある「歴史学はどのように現実にコミットしうるのか」、本書で紹介されたヨーロッパ諸国の試みが、日本、中国、韓国など東アジア諸国で、どのように応用が利くのか、応用史として考えていきたい。

橋本伸也編著『せめぎあう中東欧・ロシアの歴史認識問題-ナチズムと社会主義の過去をめぐる葛藤-』ミネルヴァ書房、2017年12月10日、303+9頁、5000円+税、ISBN978-4-623-08094-6

 目次の後、4頁にわたって「中東欧・ロシアの歴史・記憶政策関連国家機関」が掲載されており、その多くが1990年代、2000年代に設置されたことがわかる。歴史が国家の問題となったのだ。本書のキーワードは、帯にある「ホロコースト、共産主義、体制転換、歴史教科書、民族浄化」である。
 本書の内容は、表紙見返しにつぎのようにまとめられている。「冷戦後の世界において歴史認識と記憶がアイデンティティ・ポリティクスの焦点として浮上し、国内のみならず、諸国家・国民間の紛争要因に転じている。そうした紛争化が深刻な形で進行したのが、中東欧とロシアをはじめとしたポスト共産主義諸国である。本書では、中東欧諸国・ロシアにおける歴史政治の展開過程を広域的に捉え、欧州統合の進展と同時進行したナショナルな利害に沿った歴史政治が紛争化する局面を描く」。
 本書の主目的は、「社会主義からの体制転換以降の中東欧諸国(ここではバルト諸国も含めて中東欧諸国と呼ぶ)とロシアで歴史と記憶が政治化され、紛争化させられる構図と、その特質の提示」をすることである。
 本書は、序章、2部全17章からなる。第Ⅰ部「歴史・記憶政治の制度化-政策と組織」全9章では、「中東欧・ロシアで相次いで設置された、第二次世界大戦と社会主義時代の歴史と記憶に関わる国家機関の紹介を通じて、各国が展開する歴史・記憶政治の概要や争点を提示する。歴史と記憶が政治化され紛争化させられる制度的基盤の解明である」。取りあげられた国家は、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、ポーランド、チェコ、スロヴァキア、ハンガリー、ルーマニア、ロシアである。
 第Ⅱ部「歴史の政治化と紛争化」全8章では、「歴史と記憶に関わる政治が展開され、しばしば紛争化させられる様相をより具体的で個性的・特徴的な事例や事象、あるいは政治的な争点に即して論ずることとした。そこで浮き彫りにされるのは、中東欧・ロシアにおける歴史と記憶をめぐる政治が、国際関係上の争点であるだけでなく、むしろそれ以上に、各国の国家的なアイデンティティや国民統合の手段として作動させられ、あるいは各国内の政治的な対立構図のなかに組み込まれた様相であり、あるいは専門的な歴史研究者コミュニティ内部の対立としても現象しうるということである」。取りあげられた国家は、ルーマニア、ロシア、リトアニア、ハンガリー、スロヴァキア、エストニアとラトヴィア、再度ルーマニア、セルビアである。
 中東欧・ロシアという地域を取りあげるにあたって、キーワードの最初に取りあげられるように「ホロコースト」が「参照点」となる。その理由は、つぎのように説明されている。「犠牲者的な語りの前景化と主流化にもかかわらず、中東欧諸国は深刻なジレンマのなかにあった。ティモシー・スナイダーの言う「ブラッドランヅ」、すなわち、ヒトラーとスターリンのはざまにあった一九三三年から四五年にかけて、幾百千万もの生命が政治的に奪われたこれら地域は、体制犯罪の被害者であるはずの人々が、しばしば同時にナチによる人道犯罪の実行者/協力者でもあったという捻れた過去を有していた。枢軸国側諸国やナチによる被占領地域で大規模に見られた対独協力とホロコースト関与がそれである」。
 編者の橋本伸也は、序章「中東欧・ロシアにおける歴史と記憶の政治化と紛争化」の最後で、東アジアの歴史認識紛争にも、つぎのように触れている。「第二次世界大戦と社会主義時代の歴史と記憶をめぐる近年の中東欧・ロシアの動向が示しているのは、近い過去の扱いに関わる政治的構図が、およそ一筋縄では理解できないような複雑さを呈しているということである。そのことは、解き難い混迷のなかに沈み込んだ東アジアの歴史認識紛争も同様である。ヨーロッパにおける状況の複雑化とアジアの混迷とは、構図自体には大きな隔たりがあるとはいえ、それらが生起させられる文脈自体は共通とみなすべきであろう。そうであれば、中東欧・ロシアの経験について知ることは、もつれにもつれたアジアの歴史認識紛争を解くための糸口になる可能性がある。本書の各章がそのためのヒントをなんらかの形で提供できればと思う。そしてその次に私たちが挑むべき課題は、ユーラシアの東西で生起した歴史と記憶をめぐる紛争を、比較と関係の観点から改めて読み解き、その土台をなした現代世界における過去をめぐる政治という共通の文脈の性格を適切に捉えることである」。
 人びとは、家族とともに生き延びるために「実行者/協力者」になったのであり、それもまた「被害者」であるという考えが成り立つかどうか、また、どちらの側につこうが、それぞれみな、国家のために尽くそうとしたのだという考えが通用するかどうか、が紛争化するかしないかの分かれ道である。海域世界に属する東南アジア諸国からなるASEANは、人間中心の思いやりのある社会をめざし、紛争化しないように全会一致を原則とする。紛争化する要因を考えることと同時に、紛争化しない要因にも目を向けることによって、紛争化することを避けることができるが、問題は紛争化しない要因がないか、極めて少ないことである。というより、紛争化しない要因は通常気づかないことである。

藤原辰史『給食の歴史』岩波新書、2018年11月20日、268+17頁、880円+税、ISBN978-4-00-431748-7

 本書を読んで確認できたことが、2点。ひとつは、外部からの圧力があっても、取捨選択、取り入れ方は最終的には自由で、強制されただけのものはそれほど長くつづくわけがないこと。もうひとつは、取り入れたものは、突然取り入れたわけではなく、それには前史があって、受け入れる基盤ができていたことである。さらにあげるとすれば、定着農耕民社会は、いったん取り入れると、すぐにやめたりしないことだろう。流動性の激しい海域社会だと、ちょっと不都合がでると、簡単にやめてしまうような気がする。
 本書で取りあげた学校給食については、戦後1946年に来日したフーヴァー(後に大統領)が進言して導入されてから70年以上のあいだにさまざまな論争があった。だから著者、藤原辰史は、「給食史を運動史ととらえた」と「運動」を強調している。その捉え方を、著者は大まかにつぎのように2つにわけた。
 「まず、給食を、アメリカ、政治、企業や学校の、子どもに対する直接的かつ集団的な権力行使ととらえること。将来の人材育成と市場開拓のための強制的な食生活の改造とまとめてもよいだろう。敗戦後、日本がアメリカの勢力圏に置かれなければこれほどまでに日本にコッペパン、脱脂粉乳、牛乳、バター、ラーメン、パスタ、ケーキは広まらなかったし、そもそも製粉業者がここまで発展しなかっただろう。食品産業や食品の卸業が給食市場を寡占しなければ、こんなにも冷凍食品が給食で提供されなかっただろう。国会や地方議会がもっと給食の価値を議論し、もっと補助金を計上し、もっと自校方式の給食を増やしていれば、給食はもっとおいしくなっただろうし、弁当を持参できず惨めな思いに至った子どもたちを救えただろう。食べ切るまで席を立つことが禁止されるのは、先生の児童に対する最も分かりやすい権力の発現と言える。そのうえ、一九五一年に締結されたサンフランシスコ講和条約後のアメリカの小麦生産者や商社にとって、日本の子どもの味覚を変える給食は、現在と未来のアメリカ産農作物のお得意先作りに役立った」。
 「他方で、給食を、未来を構想する魅力的な舞台ととらえること。「食を通じた自治空間創出の実験」と言ってもよい。スポンサーは自治体と保護者、脚本は給食の献立を考えたり、調理をしたりする人たち、演出家は教師、そして、その主役は子どもたち。国語・算数が嫌いでも、給食のために学校に通うと公言する子どもたちは、昔もいまも存在する。実は、給食を食べるのが楽しみで働いているとこっそり漏らした教師も数人知っている。給食は学校の時間に潤いのようなものをもたらしてもいた」。
 このような両面を背景にしながら、著者は本書をつぎのような意図で書いた。「給食はどのような場であったのか。そして、これからどのような場になりうるのか。この問題を考えるために、本書は給食の制度だけでなく理念や思想にも力点を置く。思想なき実践は羅針盤なき航海と同じだからである。大人が子どもに行使する権力の温床である現実、大人の経済的欲望の在(あ)り処(か)である現実、そして、子どもの生を開花させ、命をつなぐ現実。給食はヤヌスの顔を持っている。だが、本書は、なによりも給食の可能性のために書かれるだろう。これから見ていくとおり、原理的かつ原初的には、給食は子どもたちの生を明日につなぐ行為であり、そのありさまがにじみ出る場所である。授業中にはなかなか見せない子どもたちの生の躍動を拾いあげ、授業の雰囲気作りにつなげる教師もたしかに存在したし、いまも存在する」。
 「子どもがしっかり学習し、充実した学校生活を送れるよう尽力するという学校教育の原点さえ見失わなければ、虐待のような矯正指導にはもはや復活の道は残されていない。農薬や化学肥料を極力使っていない地産の野菜を用いた温かくて味の豊かな給食が毎日学校で提供され、調理をしてくれた人たちに感想とお礼を直接言えて、いつのまにか食べられるものが増え、残菜がほとんどないという理想は夢物語では決してなく、一部地域でもう実現されている。たとえどれほど外国の小麦生産者や、政治家と結託した食品卸売業者の圧力が強くても、食の解放区を学校に打ち立てた先人たちは少なくない。この意味では、給食の歴史は、政策構想を担う大人たちの怠慢の記録でもあり、それに敢えて対抗した大人たちの勇敢さの記録でもある」。
 本書は、「まえがき-給食という舞台」、全6章、「あとがき」からなる。「第1章 舞台の構図」の後、「萌芽期」(第2章 禍転じて福へ)、「占領期」(第3章 黒船到来)、「発展期」(第4章 置土産の意味)、「行革期」(第5章 新自由主義と現場の抗争)にわけ、以上の「日本の給食史の検証を踏まえたうえで、第6章[見果てぬ舞台]では、来たるべき時代の給食のあり方を探って」いく。
 著者は「給食の定義」で「給食の特徴は「強制」であり、選択肢の少なさである」と述べ、「主として、工場給食、病院給食、学校給食の三形態に分類される」なかでも、本書では「日本で最も経験者が多い学校給食、とくに小学校の給食を中心に扱」うとしている。
 「給食の基本的性格」は、「第一に、家族以外の人たちと食べること」、「第二に、家が貧しいことのスティグマを子どもに刻印しないという鉄則」、「第三に、給食は食品関連企業の市場であること」で、「家族以外の人びとと、貧富の差を棚上げして、食品産業のビジネスの場で、不思議な雰囲気を醸し出しつつ、同じ時間に同じ場所で同じものを子どもたちが一緒に食べる。給食を囲む基本的条件」がある。
 「給食史の視角」として、「第一に、子どもの貧困対策という視角」、「第二に、「災害大国の給食」という視角」、「第三に、運動史からの視角」、「第四に、教育史からの視角」をとりあげ、最後に「第五に、日本の給食史を世界史のなかに位置づけ直しながら考え」、「世界の給食史概観」をしている。
 そして、「それら五つの視点が、教育の現場で焦点を結ぶことについて考え」、最後の第6章で「過去に眠る未来」の見出しの下で、つぎのようにまとめている。「給食の歴史を眺めると学校と家庭、福祉と教育のはざまにある曖昧さが、縦割り行政を打破し、教育の理念そのものを変えていく潜在的能力を有していたが、他方で、教師や学校栄養職員や調理員を忙しくし、疲弊させてもいる。国や地方自治体の財政難は給食に資金を投じることを渋る」。
 「航海図は描きにくい。波は相変わらず高く、激しい。その対処を誤れば、逆効果の威力も甚だしい。給食の歴史には苦しみ、痛み、不快といった感覚がつきまとっていた。食中毒はその最たるものであり、被害者の立場にたてば安易な給食擁護を叫ぶのには躊躇せざるをえない。けれども、給食は、教育政策、貧困対策、災害対策、健康政策、食料自給、地域の発展、地域の活性化、すべてについて持続的かつ効果的な力をもたらすものであった。子どもの貧困が許されざるほど深刻化し、小中学校の先生が心身の過労でつぎつぎに倒れ、地方の疲弊が止まらず、地域の紐帯が緩み、地震と水害が絶えない災害大国である日本を根本から立て直すには、ある意味日本の「お家芸」でもある給食は、その原動力に位置するといっても過言ではないだろう」。
 最後に、「給食は、役割を終えた旧時代の遺物ではない。世界史を歩み始めたばかりの新時代のプロジェクトなのである」と結んでいる。
 著者は、給食にまつわるさまざまな問題を取りあげ、絶望して廃止を主張しているわけではない。逆に、本書を通して、給食がもたらす効用をどのように現場に伝えればいいのかを考えている。そのためには、奥底に潜む問題をみていかなければならない。そのひとつを、「あとがき」でつぎのように述べている。「今後の課題も残されました。たとえば、植民地統治との関係です。いろいろな文献にあたってみたのですが、管見の及ぶかぎり、給食についてまとまった言及はありませんでした。植民地期の給食政策はどうだったのか、もし本当にほとんどなかったのだとしたらなぜなのか、英仏など他の国の植民地ではどうだったのか、というテーマは依然として未解決のままです」。「史料は膨大で、ノートはたまる一方なのに、巨人の全体像はなかなか見えて」こないなかで、著者が「深く広がりのある世界に何度の足をすくわれそうに」なったことが、給食という問題の「可能性」と「危険性」を示している。
 本書を読むと、日本の給食がいかにアメリカ占領の影響を受けたかがわかる。だが、アメリカの影響をもっとも大きく受けたフィリピンには、学校給食はない。フィリピンは台風や地震などの自然災害が頻繁に起こるところであるから「災害対策」として導入されても不思議ではない。貧富の差が激しいところだから、「貧困対策」としても有効なはずである。答えのひとつは、カトリック教会を中心としたチャリティーがあるからだろう。こうしてフィリピンと比較して考えてみると、日本の給食はアメリカだけでなく、日本の「政治、企業や学校」という「権力」が絡み、全体像がなかなかみえてこない、とてつもない巨人に成長したことがわかる。
 ちなみに、わたしは給食を完食した。「篤農家」といわれた祖父と一緒に稲刈りし、味噌や醤油、番茶も祖父の家で作るのを「手伝った」ことがある。生産してみると、残す気にはならない。また、刺身といえば冷凍の鯨肉で、山陰からの行商人が塩乾魚を自宅に売りに来た盆地に住んでいた子どもにとってシチューなど洋風料理ははじめてで、家庭ではまだ一般的ではなかった。目新しく、未知のおいしさがあった。たしかに、給食は時代、場所、環境などによって、捉え方がずいぶん違う。

蔀勇造『物語 アラビアの歴史-知られざる3000年の興亡』中公新書、2018年7月25日、386頁、1100円+税、ISBN978-4-12-102496-1

 副題に「知られざる」、帯の背に「はじめての本格的通史」とある。なにが「知られざる」で「はじめて」なのか。著者、蔀勇造は、「おわりに」冒頭で、つぎのように説明している。「アラビアの約三千年にわたる歴史を通観してきたが、大きな節目となるイスラームの勃興は、その半ばをやや過ぎたころに起こっている。わが国ではそれ以前のアラビア史について概説した書がないという情況に鑑み、その時代についてより詳しく記述した。イスラーム時代については時代別・地域別の記述はそれぞれの専門家によって行われているが、アラビア全体を俯瞰した著作は、特に近年は見受けられないように思う。アラブ・イスラーム史の専門家はいても、アラビア史プロパーの研究者はいないと言ってよいのではないか」。
 しかし、これまでに書かれなかったことには、それなりの理由がある。容易に想像できるのは、資料がないということだ。だが、砂漠地域は、高温多湿な熱帯地域に比べれば、遺物の保存状態がはるかによく、まだまだ宝が埋まっている可能性があり、いまわからなくても、将来わかる可能性がある。著者が本書を書けたのも、近年の考古学的発掘の成果を利用できたからともいえるが、その偏在について、つぎのように説明している。「先イスラーム期の記述が南アラビア中心になったのは、ひとえに史料の偏在のゆえである。同時代にアラビアの他の地域でも、当然それぞれの歴史が展開・進行しているのであるが、その実態を我々に教えてくれる確かな史料が乏しい。したがってそれらの地域で記述するに足る事柄がある場合でも、何故それが起こったのかを示唆する史料が欠けているために、事実のみを記して因果関係の説明はないか、あっても憶測の域を出ていない場合が多くなった」。
 そして、書き上げたものを「シェバの女王伝説から「アラブの春」まで」のタイトルの下に、200字にまとめると、表紙見返し、帯の裏のようになる。「アラブについて記された最初の石碑は紀元前九世紀に遡る。メソポタミア・エジプト両文明の影響を受けた地に誕生した諸国家は交易と遊牧と農業で栄え、互いにしのぎを削り、エチオピアやインドとも交渉を持った。西暦七世紀にはこの地にイスラームが誕生し、世界史に大きな影響を与える。二十世紀以降は石油資源をもとに近代化を進めるが、政治的安定からはほど遠い。古代文明から現代まで、中東の核心地域の三千年を追う」。
 通史では、自らの研究を踏まえて独自の仮説を提示できるものはほんのわずかで、多くはその分野分野で第一人者が書いた「通説」を参考に書くことになる。だが、この第一人者が書いた「通説」も、すべて原資料にあたって書いたわけではないので、結構間違いがあり、それを参照して書いた「通史」は「間違いだらけ」ということになる。出版するやいなや、「自らの研究を踏まえ」た専門家から、明らかな間違いから不適切な表現まで、いろいろ指摘される。だが、そういう欠点はあっても、ひとりの研究者が通史を書く意義は大きい。その分野の第一人者が書いた「通説」が間違う原因のひとつは、より広い視野で「自らの研究を踏まえ」た成果を、ほかの研究成果とあわせて「相互に関連づけて整合的に理解するのはむずかしい」からである。
 本書のハイライトとして、読者が期待するのは7世紀のイスラームの誕生であろう。そして、それがいかにアラビアだけでなく世界に大きな影響を及ぼしたかであろう。だから、これまでのアラビアの通史は、イスラームの誕生以降に重点を置いてきた。だが、本書では、全8章のなかでイスラームが登場するのは、本書全体の半ばを過ぎた第5章である。その結果、従来の通史とどこが変わったのか。
 著者は、まずイスラームの誕生をつぎのように評価している。「中東史に限らず世界史的に見ても、イスラームの勃興が歴史の大きな画期となったことは間違いない。アラビア史にとってもそれは自明の理であることに疑いを差し挟む者はほとんどいないであろう。ただもう少し子細に見ていくと、アラビア史の場合には地域や分野によってイスラーム化の影響に濃淡のあることに気付かされる」。「宗教や文化の面においてイスラームの勃興が大きな革命であったことは論を俟たない。それ以前からユダヤ教とキリスト教の普及で、アラビアの住民の一神教化が進んでいたことは確かであるが、それでも「アラブのための一神教」としてのイスラームの誕生は画期的であった。政治の舞台でもこれ以降の改革運動や反体制活動は、内実はともかくいずれもイスラームの衣を纏って行われている」。
 「一方で、アラビアの社会や経済がイスラーム化によってどの程度の変化を被ったかは、そう簡単には判断を下せない」として、つぎのように説明している。「家畜の遊牧を生活基盤とするベドウィンの暮らしがイスラーム化によってどう変わったかというと、ほとんど変化はなかったと言えるのではないか。交易活動の盛衰についても、半島周辺の政治情況や交易ルートの変動に左右されることに、イスラーム化の前と後で変わりはなかった。農業もイスラーム暦ではなく、季節の推移に応じた伝統的な農事暦に従って行われている」。
 さらに、つぎのように続けている。「イスラーム誕生の舞台となり一時は新時代到来かと思われたアラビア半島は、大征服の進展により有用人口の多くが北へ流出してしまったため空洞化し、再び過疎の田舎に逆戻りしてしまった。メッカとメディナが位置するヒジャーズ地方だけはイスラーム化の恩恵を被り、巡礼者の増加やイスラーム政権の保護によってそれなりに潤ったものの、それ以外の地の経済や社会はイスラーム化後もそれ以前とほとんど変わらぬ状況が続いた。つまりアラビア半島に限って言えば、イスラームの勃興と普及によっても住民の暮らしや社会のあり方にそれほど本質的な変化は起こらなかったのではないかというのが、本書の原稿を書きながら強く受けた印象である」。イスラーム誕生以前から考察すると、異なったアラビア通史がみえてくるということである。
 3000年というあまりに長く、アラブというあまりに広い地域を扱うため、正確をきすことを考えれば、当然、より専門に近い時代、地域、分野の研究者による分担執筆をしたほうがいいに決まっている。だが、そうすれば、このようにイスラームを相対化することはできなかっただろう。通史を「間違いだらけ」という批判者は、まず自分自身が通史を書くことによって、通史の意義を理解し、より建設的な批判ができるようになるだろう。だが、通史を書くことの難しさを知っている者は、批判すること自体がおのれの未熟さを世間に知らしめることになることに気づいており、建設的でない批判などしない。

小島毅『増補 靖国史観 日本思想を読みなおす』ちくま学術文庫、2014年7月10日、254頁、1000円+税、ISBN978-4-480-09627-2

 本書は、「靖国問題をその歴史的・思想的根源の地点から再考する必要を訴えた檄文である」。この文庫版の原版は、2007年4月10日に「ちくま新書として刊行された。文庫化にあたり「第四章 大義」を加え、副題を改めた」。
 本書原版が、つぎのような時代背景のもとで書かれたことを、著者小島毅は「文庫版はしがき」で述べている。「折から、第一次安倍晋三内閣の時代で、私は日中歴史共同研究の委員として、微力ながら日中両国民の相互理解、特に歴史認識をめぐる誤解の解消(理解し合うということではなく、他者として違いがあることを認め合う関係の構築)に役立つことを念じていた」。「これに先立つ、二〇〇五年十月十七日、小泉純一郎首相(当時)は靖国神社への参拝を行い、中国や韓国からの批判を招いていた。小泉内閣の継承政権である安倍内閣は、しかし、こうした閉塞状況を打開するため、首相の靖国参拝を封印し、日中・日韓の歴史共同研究事業を進めることで東アジアの緊張緩和を目指していた」。
 著者は、本書執筆動機について、つぎのように説明している。「靖国問題が昭和の御代の「不幸な歴史」にのみ結びつけて語られること、そして、それが東アジアにおける国際問題として論じられることに対する、私の異議申し立てとして書かれた。「中国や韓国にとやかく言われる以前に、そもそも、この神社創建の由来は偏った日本史の認識に基づいているのだ」。
 また、原版「はじめに」では、「同じちくま新書から出た高橋哲哉氏の『靖国問題』(二〇〇五年)」を意識して書いたことを、つぎのように説明している。「高橋氏の議論-そして、同様にほとんどの靖国関連本が-「このあいだの戦争」、人によって十五年戦争・日中戦争・アジア太平洋戦争・大東亜戦争を名称を異にして呼ばれている、あの戦争の問題をもっぱら扱っている。たしかに靖国に祭られている「英霊」のほとんどは、「あの戦争」での戦死者・刑死者だ。しかし、靖国神社の歴史は「あの戦争」で始まったわけではない。問題の本質を見失わないためには、「哲学」だけでなく、「歴史」への目が必要なのである。本書はあえて高橋氏の著書を意識し、『靖国史観』と題してその問題を論じていく」。
 著者は、「おわりに」の冒頭で、本書原版の3つの章のタイトルとなったキーワードを絡めて、つぎのように説明している。「本来あるべき正しい「国体」の回復。それが「維新」の事業であった。その過程で命を落としたのが「英霊」である」。「こうして復古した「国体」は護持せられねばならぬ。「維新」の大業を継承するために。そのために、新たな「英霊」が生じていく」。そして、加筆された「大義」とのかかわりを、「第四章 大義」の最後で、つぎのように述べている。「靖国の「英霊」は「国体」を護り輝かせるべく、「大義」のために死んだ戦士たちである。しかし、そもそも「維新」とそれ以降の歴史に「大義」はあったのだろうか」。「靖国神社とは、近代日本がたどった「不幸な歴史」を象徴する宗教施設なのである」。
 そして、「史観」からつぎのようにまとめて、「おわりに」を結んでいる。「百四十年前の戦争を、その勝者の立場から捉えることによって成立した施設と私が個人的に和解するのはかなり難しい。近代西洋的な言説で-それが法理論であれ政治学であれ-「彼ら」を納得させることができないのと同様、「維新」を歴史の道理に適うものとみなして疑わない感性には、私は納得できない。ただそれだけである」。「しかし、「それだけ」の事柄の重要性を、声を大にして言いたいのだ。その施設が創建される前からすでに問題なのだということを。「前史」を見ること無くして議論しても上滑りになってしまうことを。これまで「モダンな人」たちがしてきたのとは違う次元で議論していく必要があるということを」。
 文庫化にさいし、与那覇潤による「解説 靖国なき「国体」は可能か-戦後言論史のなかの「小島史観」」が加わり、裏表紙につぎのようにまとめられている。「司馬遼太郎をはじめ、今や誰もが1867年の「革命」(=明治維新)を肯定的に語る。けれども、そうした歴史評価は価値中立的ではない。なぜか。内戦の勝者である薩長の立場から近代をとらえた歴史観にすぎないからだ。「靖国史観」もそのひとつで、天皇中心の日本国家を前提にしている。本書は靖国神社創設の経緯をひもときながら、文明開化で儒教が果たした役割に光をあて、明治維新の独善性を暴きだす。気鋭の歴史学者が「日本」の近代史観に一石を投じる檄文。「国体」「英霊」「維新」の三章に、文庫化に際して新章「大義」を増補。今日的課題に切り込む!」。
 今年は、明治維新150年にあたる。内閣官房「明治150年」関連施策推進室なるものもあり、全国各地でおこなわれているイベントを紹介している。また、NHK大河ドラマでは「西郷どん」が放送されているが、元号が慶応から明治に改められた10月23日におこなわれた政府の記念式典が永田町の憲政記念館で開かれたことを知る国民は少ないだろう。出席者は、国会議員や各界の代表者ら、わずか350人ほどだった。長州出身で維新の英雄のひとり、高杉晋作の「晋」の字を父とともに名にもつ安倍首相は、朝日新聞デジタルによると、式辞で「明治の人々が勇気と英断、たゆまぬ努力、奮闘によって、世界に向けて大きく胸を開き、新しい時代の扉を開けた」と強調し、「若い世代の方々にはこの機会に、我が国の近代化に向けて生じた出来事に触れ、光と影、様々な側面を貴重な経験として学びとって欲しい」と述べたという。安倍の祖父岸信介の弟、佐藤栄作内閣のもとで開かれた明治100年のときは昭和天皇と香淳皇后が出席したが、「政府からお声がけがなかった」として今回は天皇、皇后は出席しなかった。近代日本の基礎を築いたとされる「明治維新」とはいったいなんだったのだろうか。曖昧なまま、そのときに創建された神社が東アジアの国際関係の火種になっている。

椙本歩美『森を守るのは誰か-フィリピンの参加型森林政策と地域社会』新泉社、2018年7月20日、321+xviii頁、3000円+税、ISBN978-4-7877-1811-2

 本研究は、大成功である。それは、「あとがき」の「一つの問いに取り組むと、いくつもの新たな問いが生まれてくる」という文章からわかる。ひとつの問いにたいして解決の糸口が見えてくると、新たな問いがつぎつぎと生まれ、考察が深まっていく。それが、学術研究というものだ。
 本書は、序章、全6章、終章と3つのフィールドエッセイからなる。「序章 森林政策をめぐる「対立」を問い直す」の最後で、本書の構成がつぎのように整理されている。「第1章[フィリピンの森林政策と地域住民]では、フィリピンにおける森林政策史を振り返り、森林をめぐる国家と住民の関係をまとめる。森林史のなかで、近年の参加型森林政策が、住民の森林利用にどのような影響を与えるものであったのかも言及する。第2章[森をめぐる現場の制度を捉える視点]では、本書の課題に取り組むための概念枠組みを提示する。森林政策と地域社会を論じるうえで、関連する概念を整理した後、形式知と暗黙知の交流という概念枠組みや調査地選定など、本書の独自性を提示する」。「第3章から第6章は、フィリピンでのフィールドワークをもとにしたM村の事例研究である」。
 第2章「4 本書の枠組み」冒頭で、本書の課題がつぎのように書かれている。「フィリピンの参加型森林政策の現場で、政策の意図とは異なる制度が生成されるメカニズムを分析する」。「現場の制度生成を捉えるために、本書では「形式知と暗黙知」と「ストリート・レベルの官僚制」の概念を用いる」。
 この第2章は、つぎの文章で終わっている。「住民の生業のあり方は多様だが、多くの住民の暮らしにとって、森林・低地・農地・居住地は一体的な存在として認識されている。そうなると、森と人との関係だけに焦点を当てることは、かえって住民や地域社会にとっての森林政策の位置づけから離れてしまう」。「そこで、高地森林と低地農地が交わる立地にあるタルラック州M村を調査地に選んだ。第3章から第6章はフィールドワークによる事例分析である。M村の詳細については次章に譲るが、低地農業や居住地での生業活動や住民関係を含めて、より多面的、包括的に地域社会を捉えるなかで、森林政策の議論を展開していく。この点も概念枠組みに加えて、本書の独自性と考えている」。
 2つのキー概念「形式知と暗黙知」と「ストリート・レベルの官僚制」については、まず「形式知と暗黙知」について、つぎのように説明されている。「国家と住民(または政策と地域社会の制度)が出あい、混じり合うなかで、どのように地域に固有の森林管理制度が生まれるのか。インタラクティブな制度のあり方を捉えるために、本書では、両者の異なる制度の背景にある「知」という概念に着目する。表2-2は、政策に関わる主体や制度の違いを知の概念に基づいて整理した。一般的に、国家と形式知、住民と暗黙知の結びつきが強いとされ、両者の差異や対立を生み出す要因と考えられてきた。形式知とは、客観的、論理的で言語によって他者と共有できる知識である。対して暗黙知は、主観的、身体的で言語化できない経験知である。両者の間で異なる知に着目することで、誰がどのように関わり、制度を生み出されていくのか、制度生成の多様性、複雑性、混沌性を捉えることができる」。
 つぎに「ストリート・レベルの官僚制」については、つぎのように説明されている。「現場の行政職員たちの行動は、どのような要因によって規定されていくのだろうか。リプスキーは、現場の行政職員に特徴的な組織行動をストリート・レベルの官僚制(第一線の官僚制)として理論化した」(略)。これは、警察官、教師、ケースワーカーなど対象者と直に接しながら、日々の職務を遂行している行政職員を指す。現場の職員たちは、住民の日常的な福利に関するサービスをつくり出しているため、クライエントである住民よりも強い立場になるがゆえに、むしろクライエントの依存を強制させるクライエント支配がみられるという(略)。行政職員は、限られた時間と資源のなかで業務を遂行しなければならず、常に優先順位を決めて、限りある資源を振り分ける。役割や責任が増すにつれ、現場の職員たちは自らの仕事の決定に関して自由な裁量を持つことができるようになるという。このような環境にいる現場の職員は、広い裁量の余地と組織的権威からの自律性を持ち、必ずしも中央行政の指示どおりには行動していない。このように現場の第一線にいる行政職員が、住民の個別事情や自身を取り巻く状況に合わせて法適用の範囲を変えることを、リプスキーは法適用の裁量と呼ぶ(略)」。
 本書の結論は、「あとがき」の冒頭につぎのように書かれている。「『森を守るのは誰か』と題した本書は、フィリピンの住民参加型森林政策において、現場レベルで新たな制度が生み出されるメカニズムとその可能性について分析したものである。参加型森林政策は、住民による共同森林管理を目指すものであるが、実際に現場を訪れてみるとその実態はつかみにくい。政策は住民主体を掲げているものの、住民とは誰のことなのか、どこをどのように管理・利用しているのかなど、森林管理の実態がよくわからないのである。書類上の権利者や計画書は存在しても、実際は異なる人物が個別に利用していることもある。政策が国家戦略に位置づけられ、多くの国際援助が投入されてきたことと、政策不在にも見える現場の温度差はあまりに大きい。そこで現場での政策実施の実態を理解するために、権利の主体は誰か、管理・利用できる空間はどこか、どのように利用されているのかという点について、それらの決定プロセスを分析した。したがって本書は、「誰が森を守るべきなのか」を問うものではなく、それを誰がどのように問うているのかを議論するものである」。
 本書で書かれている暗黙知は、流動性が激しく臨機応変に対応する海域世界の論理と結びつき、思いやりのある社会共同体をめざすアセアンウェイにも通じる。問題は、各国政府、援助機関などが、そのことを充分に認識しているかどうかである。また、暗黙知が悪用されないかということである。
 本書は、博士学位論文を「大幅に加筆修正」したものであるが、もうひとつ「索引」を加筆してほしかった。索引を作成することで、文章の整理ができ、より洗練された議論ができる学術書になる。

濱下武志『華僑・華人と中華網-移民・交易・送金ネットワークの構造と展開』岩波書店、2013年11月27日、331頁、5500円+税、ISBN978-4-00-025929-3

 本書は、著者、濱下武志がこれまで進めてきた「東アジア・アジア広域地域史を考える主要な三つの領域の研究」、「朝貢システム」「海域アジア」そして「華僑ネットワーク」の3つ目にあたる。
 本書は、序章、総論、全9章、終章からなる。もっとも古い論考の初出は1984年で、80年代3、90年代5、2000年代3、もっとも新しいものが2010年である。1997年の香港の中華人民共和国への返還前のことがでてきて戸惑ったりするが、本書が今日でも充分に役立つのは、つぎの説明からわかる。「本書は一九七〇年代後半から二〇一〇年代初めまでのおよそ三〇年間に及ぶ、中国東南沿岸、香港、東南アジアとりわけマレーシア・シンガポール・タイにおける訪問調査並びに資料調査の過程で発表した論文を中心とし、それらを改訂しつつ新たな文章を加えて編集したものである。刊行の契機は、これまでの華僑・華人に関する歴史サイクルがこの三〇年間において一巡したと感じ、これからのいわゆる新華僑の研究とは一線を画する切り替えが必要であると感じたからである」。
 「まえがき」冒頭で、「これまで華僑・華人・華裔という三世代転換論によって議論されてきた」のが、「一九九〇年代以降はいわゆる新華僑と呼ばれる新たな移民潮流が加わ」ったことで変わったことを、つぎのように説明している。「これまでの華人世代のネットワークと華人世界のグローバル性とが結合し、両者が重層的に複合した世界として「中華網」「中華ネットワーク」と呼ぶに相応しい状況を示している。本書を通底する主題のひとつにこの「中華網」があり、この概念を本書の表題に用いた理由もここにある。また、この中華は、それがグローバルであることによって、あるいはそのように位置づけられることによって、一方ではこれまでの華人ナショナリズムが拡延されてグローバル化する側面を持つと同時に、他方では「世界市民」としての華人を形成する可能性を包含するという課題も提起している。あるいは少なくともそのような要素と可能性を強く伏在させているといえる」。「ひとりひとりの「華僑」「華人」から見て、「華」であり同時に「僑」であるという結合は、現在ますます成り立ち難い状況にある」。
 「いまひとつ本書の各章に跨って特徴的な点は、華僑・華人に関する分析をネットワーク概念を多用することによって分析しようとしていることである。分析の過程で使用されるネットワーク概念が含む範囲は、現在では大きく広がっており、今後一方ではこのネットワーク概念をより分析的にまた機能的に検証可能な方法的視点としていくことが求められていると同時に、さらに概念的に位置づけ、制度・組織・契約などにおけるネットワーク概念の応用と比較などを進める必要があると考えられる。そこにおける基本的な視点は、従来不確定・不安定・過渡的・融通無碍など、否定的なまた消極的な側面が強調されてきたことに対して、グローバル化した世界ならびに社会において、ネットワークならびにネットワーク化が発揮する作用は、むしろ、組織や制度などよりもより一層関係性を形成・維持したり、時には強制するという作用を発揮する場合があるという条件が増大することが予想される。その意味でネットワークは、ある概念や関係性の体系として、相対的に独自の役割を果たすことがより本格的に検討される必要があると考えられる」。
 方法的には、つぎの4つのネットワーク概念を使用している。「第一に、交通概念transportationとしてのネットワークは、道路・鉄道・航運などのものやひとが動く手段としての交通・運輸である。第二に、情報の往来communicationに関するネットワークである。電信電話や郵便などによる情報の往来のネットワークは、情報化社会においてはより重要な役割を果たしている。第三には、モノや人の移動circulationに関連するネットワークがある。ものの移動・流通やひとの移動・移民に関するネットワークである。第四に、社会的な紐帯とその変容transformationを意味するネットワークである」。
 また、ネットワーク概念が重要になってきたことにかんして、つぎのように説明している。「いわゆる近代主権国家の枠の中でのみ経済を見るのではなく、いわばそこを越えた領域としても考えられる。さらに、いわば国の下位にある小さな地域としてそれらが複数の国に跨って相互に結びつくという地域連関も考えることが必要であろう」。「このような、グローバリゼーションとローカリゼーションの両方向への分岐という問題が、すなわち、これまで国家の中に組み込まれていた部分が両方向に分岐しているところに、現在改めてアジア経済をどのように考えるかという課題が出されている」。
 なお、著者が、このようなネットワーク概念に注目した背景について、「あとがき」冒頭で、つぎのように述べている。「筆者がいわゆる華僑問題に触れたきっかけは、中華街への訪問や苦力貿易に記される華僑移民資料ではなく、香港上海銀行の送金資料の中から浮かび上がる華僑像からである。しかも、これは、華僑・華人そのものが登場するのではなく、華僑送金をめぐって登場した華僑像からであった。その後、香港・シンガポール・マレーシア・タイを絶えず訪問することになるが、ある意味では、送金業務をめぐる様々な活動や地域間のつながりを実際に追いながらも、香港上海銀行資料に現れた送金網や華僑像を各地の華人送金業者である銀信業の観察を通して検証することに重きが置かれてきたと言える」。
 このように国家を越えたり、国家の下位を結ぶネットワークを形成してきたのは、東南アジア側からみれば近世以来、現地化した中国をオリジンとする人びと、プラナカンであると考えられるのだが、本書にプラナカンということばは登場しない。別のことばで言えば、定着農耕民社会であった中国を離れ、流動性の激しい海域社会である東南アジアに適応し、その流動性を利用してネットワークを築いてきた人びとである。このネットワークに、イギリスが近代的なヒト、モノ、カネ、情報などを載せてきたということがいえるかもしれない。そのネットワークのなかで生活してきた人びとの視点でみると、また違った「華僑像」があらわれてくる。

貫洞欣寛『沸騰インド-超大国をめざす巨象と日本』白水社、2018年6月5日、268頁、2200円+税、ISBN978-4-560-09624-6

 「インドを一言でくくるとすれば、「多様性」という言葉しか思い浮かばない」という著者、貫洞欣寛の「あとがき」冒頭のことばに、一度でもインドを自分の目で観た者は賛同するだろう。著者が本書を書く動機も「自分の手でインドの持つさまざまな顔を一つの場でご紹介し、読者の方々の包括的なインド理解を深めることに、少しでも寄与できないだろうか」ということだった。インドとつきあうとき、どの顔を思い浮かべてつきあえばいいのかわからなくなるからである。
 「一三億近い人びとと二二の公用語。そしてヒマラヤの氷河から砂漠、密林、珊瑚礁の島まで広がる広大な国土が織りなす多様性は、一冊の本で伝えきれるものではない」が、著者は「「本格的な経済成長を遂げようとするインド「外交・軍事面で広がろうとするインド」「英語とITの大国インド」という日本をはじめ各国で注目を浴びている面と、「世界最大級の格差とカースト差別を抱え、それがなかなか解消の方向には進まないインド」「物事が決して計画どおりには進まないインド」という国内の課題面に切り分けて取材した内容をまとめ」て、本書を仕上げた。
 著者は、「欧米中心の「大西洋の時代」からアジアが台頭した「太平洋の時代」となり、そこからさらに「太平洋・インド洋の時代」へと移り変わってゆく」、その根拠はインド洋地域が、2030年に「今後世界のGDPの一二パーセントと人口の三〇パーセントを握る巨大な経済圏に成長する」と見込まれているからである。著者は、「はじめに」をつぎのことばで結んでいる。「インドが日本を追い越す日、インドは日本にどんな顔を見せるのだろうか」。「日本の私たちはどのような影響を受け、世界はどう変わるのか。本書を通じ、読者のみなさんとともに考えたい」。
 さらに「終章 日印関係とインドの将来」では、つぎのように述べている。「インドがさらに影響力を拡大し、世界的な大国となったとき、国際舞台で、アジアで、どう振る舞うのだろうか。日本とインドの経済力、技術力の差が縮まったとき、日本は何をもってインドとの交渉力を維持するのか。今から真剣に考えておく必要があるだろう」。
 そして、これらの著者の回答を、終章の最後でつぎのように述べている。「したたかなインドと付き合い、上から目線で技術を教えるだけではなく、学ぶべき点は学び、GDP総額が伸びずとも「パー・キャピタ」のクオリティーの高さに胸を張る、したたかな日本になる。それが、インドと関係を強化するなかで日本が得られる、最大のメリットではないだろうか」。
 安倍首相が中国を訪問(2018年10月25~27日)し、帰国した夜、インドのモディ首相が来日(10月27~29日)した。安倍首相は、自身の別荘に招く異例の待遇で、モディ首相をもてなした。安倍首相は、2007年、14年、15年、17年と4度インドを首相として訪問しており、モディ首相も2014年の就任以来3度目である。これだけ日印首脳が往き来している理由は、あきらかに中国の存在である。
 5章からなる本書で1章を割いて、「第2章 モディとは何者か」でモディを紹介し、さらに「第5章 分断社会の今」で「ヒンドゥー・ナショナリズム」との関連で説明している。第2章は、安倍首相と比較し、つぎのように結んでいる。「アベノミクスを前面に押し出す一方で復古調の主張で知られる日本会議に支えられ、天皇退位や憲法改正などの問題でその部分を垣間見せる安倍政権とモディ政権の構造には、似たところがある。安倍とモディは、日印の外交関係者が一致して「お互いにウマが合う」と認める関係にある。ナショナリスト同士が通じ合う、何かがあるのかもしれない」。
 「インドが日本を追い抜く日、どう振る舞うか」。安倍首相はじめ、追い抜かれる前に、日本がどう振る舞うかにかかっている。

田村慶子編著『マラッカ海峡-シンガポール、マレーシア、インドネシアの国境を行く』国境地域研究センター(北海道大学出版会)、2018年8月25日、67頁、900円+税、ISBN978-4-8329-6842-4

 2018年10月24日、香港、マカオ、広東省珠海市を結ぶ、全長55キロメートルの世界最長の海上橋が開通した。多島海の東南アジアにあっても、橋の建設によって島と島が結ばれるようになってきている。本書で取り上げるシンガポールとマレーシア、インドネシアの島じまのなかには、橋で結ばれているところがあり、ヒトもモノも国境で隔てられていることを感じないことがある。
 本書は、民間の研究所として2014年に設立された国境地域研究センター発行の「ブックレット・ボーダーズ」の5冊目で、はじめて海外のボーダーに焦点をあてたものである。岩下明裕は「はしがき」で、目的をつぎのように述べている。「本ブックレットはこれまでのシリーズ同様、なによりも地域に存在し、絶えず揺れ動いているボーダーを真正面からとりあげている。そもそも東南アジアは人種、宗教、言語、歴史など極めて多様性に富み、ひとくくりで議論できないエリアとしてよく知られる。ブックレットではそのなかでも中世ではマレー王国という共通性を有していた地域が、植民地支配の分断や移民の流入により変貌していくなかで、第二次世界大戦や戦後において作り出された関係を歴史と現在のスケールで描こうとする。一見、私たちから遠くに見えるこの地域だが、そこには日本の影が色濃く刻印しており、重層的に構築されたボーダーの意味がブックレットのなかではひとつひとつ読み解かれている」。
 いっぽう、本書の編者である田村慶子は、「はじめに」でつぎのように全体、さらに章別に紹介している。「本書は、シンガポール、ジョホール州、リアウ諸島州というマラッカ海峡を挟む三カ国(地域)の、人とモノの交流と交錯、協力を主にシンガポールを中心に綴り、さらに、リアウ諸島に残る二つの大きな戦争の記憶、現代のマラッカ海峡について述べている。もちろん日本の関わりについてもクローズアップしてみよう」。
 「Ⅰ章は、シンガポールの道路や丘の地名から、一九世紀末には「世界で最もコスモポリタンな都市」といわれたシンガポールの歴史と現在を辿る。Ⅱ章は、マラッカ海峡安全航行のために日本が一九六九年に民間ベースで設立した公益財団法人「マラッカ海峡協議会」が、沿岸三ヶ国と行ってきた国際協力の貴重な現場からの報告である。なぜ民間ベースだったかというと、当時は日本軍政の記憶が生々しく、日本政府が直接表に立つことに各国が否定的だったからである。Ⅲ章は、同じ国家だった時代の方が長いゆえに紛争が絶えなかった、マレーシアとシンガポールの競争と共存の試行錯誤を、Ⅳ章は、東南アジアにおける日本軍政とその記憶を、シンガポールを中心に描く。Ⅴ章は、リアウ諸島州のガランとレンバン島に抑留された日本軍人、さらにレンバン島に抑留されたベトナム難民という知られざる歴史を探る」。
 ヒトとモノが自由に動けるようになったと思いきや、まだまだ国境という壁が立ちはだかっていることが、つぎのように語られている。「実は筆者[佐々木生治]は、この異なる三国の所管する航路標識の維持管理支援を任務としている仕事をしているのだが、活動の効率化を阻む目に見えない壁にしばしばぶち当たる。国境線だ」。「標識には、国境を挟んで近接して設置されているものも少なくない。その場合、直接目の前の他国の標識に行けないため、わざわざ船を乗り換えて、例えば東京・大阪間に匹敵する区間を往復しなければならない」。このような国際的に安全を守るためのものは、真っ先にボーダーレスになっているのかと思ったら、こと領土・領域にかかわるとそう簡単ではないようだ。
 このような理不尽とも思えるボーダーは、なにも国境だけではない。ヒトの心のなかにも巣くっている。そのボーダーを取り除く一歩は、体験することだろう。2018年12月に「福岡発でこのマラッカ海峡の国境を越える旅を企画している」という。
 編著を読むとき、だれが書いたのか気になる。というより、だれが書いたのかがわからなければ、読みようがないことがある。本書は、目次を見なければ、だれが書いたのかわからない。ひじょうに不親切である。

津田浩司・櫻田涼子・伏木香織編『「華人」という描線 行為実践の場からの人類学的アプローチ』東京外国大学アジア・アフリカ言語文化研究所(風響社)、2016年3月20日、386頁、ISBN978-4-86337-223-8

 「まえがき」の冒頭で、「本書は「華人学」という枠組み、あるいはその根底にある「華人」という枠組みそのものについて問うことを目的としている」と述べながら、編者を代表して伏木香織は、このパラグラフを「筆者には当初から「華人学」という学問分野が成立していること自体が不思議であった」で終えている。
 「筆者」は、つぎの「永遠に続く循環論的な罠」に気づいていたのである。「目の前の人を「ある種/地域の人々」として括ったとき、その人はすでにその「種/地域」的属性を背負った主体としてそこに厳然として立ち現われてしまったかのような様相を見せてしまい、そこからは当の「種/属性」をめぐる問いと答えしか得られない。せいぜい、その枠組みから幾分はみでるような事態を、さも重大事であるかのように報告するのが関の山だろう」。この罠から逃れるために、「とんでもない難題」に格闘した成果が本書である。
 なにが問題なのか、編者のひとり津田浩司が、「第一章 序論-「華人学」の循環論を超えて」の冒頭で、つぎのように説明している。「「華人学」(ethnic Chinese studies)」という学問は、いま大きく行き詰まっている。それは一言でいえば、学問の論理構成が循環論に陥っているということに起因している。本論集の執筆者たちは、この行き詰まりから脱するための方途を、具体的な事例記述を通して探ることを共通の課題として掲げている。続く章で櫻田は、研究者にせよ当の研究対象の人々にせよ、「華人をどのように認識・解釈するか」という類の議論に替えて、「どのように行為する限りにおいて華人は立ち現れるか」という行為中心的アプローチにより存在論的に記述する方途の可能性を、理論的に踏み込んで論じている。だが、この序論ではその一歩を踏み込む前の下準備として、現場において何らかの現象を「華人にまつわる」と判断し記述する研究者の認識が、いかに循環論を招来するかを改めて図式的に描き出すことで、本書の問題意識を明確にしようと思う。この作業を通じて、ある人たちを「華人」と主体(subject)化した記述の限界を示した上で、そのような主体の物語から解き放たれた地平に至るための手掛かりを、試みに提示してみたい」。
 本書で、乗り越えようとしているのは、つぎのような手順の論立てである。「課題-○○における華人(社会)を研究する」「方法-彼らの「華人性/華人らしさ」を具体的に検証する」「結論-彼らは(このような)「華人性/華人らしさ」を保持(/持続/残存/変容/利用・・・・・・)している」。本書は、「「華人-あるいは華僑、漢族等々-なるものを整除しつつそれ自体を説明・解明することを究極の目的とする学問としての「華人学」とは、一線を画そう」としている。
 本書は、まえがき、4部、全9章、あとがき、からなる。本書の構成は第一章の最後にあるが、「まえがき」でもつぎのようにまとめている。「議論の骨格となる理論については、第一部の津田と櫻田の両章で展開されているが、その先では人々の様々な実践、現象が具体的に語られていく。タイの「華人廟」とそれを見つめる研究者、「英語で上座仏教を実践する人々」、インドネシアからオランダへ移住した「プラナカン」たち、マレー半島の「コピティアム」という現象、ミャンマー出身の「帰国華僑」と呼ばれる人々、シンガポールの中元普度儀礼とそれを取り巻く人々、そしてインドネシアにおける「華人国家英雄」の実現というプロセスの捉え方、といった具合に並ぶ諸論考は、それぞれに「華人」の香りを色濃く示すものばかりであるかのように見えるかもしれない。しかしながら、それらを丁寧に読んでいただくと、いかに「華人」と呼ばれるものが一枚岩でないのかは無論のこと、そもそも「華人」という括りを設定することがいかほどに難しいのかを示す事例になっていることが、お分かりいただけるのではないかと思う。もしかしたら本書のいくつかの章については、語りが小難しかったり、章としてボリュームが大き過ぎたりして、読む気力がわかない、という読者もいるかもしれないが、そうした方々には、たとえば第二部、第三部のコンパクトな論考から読んでいただくとよいかと思う。その上で理論編に戻っていただければ理解が一層深まると思うし、第四部の長大さと情報量の多さにも納得していただけるのではないかと思う」。
 そして、「あとがき」で、編者のひとり津田浩司は、つぎのようにまとめている。「論集全体として、果たして冒頭で大風呂敷を広げるように掲げた問いに対し明確な答えを示し得るものになったかどうかについては、議論の余地があるとも思う。ただ少なくとも、全執筆者が、ある対象や事象を論じる際に、「華人だから」、「華人の文化・伝統だから」などといった具合に、エスニックと目される事柄を専らエスニシティでもって説明するような論法とは慎重に距離を置いていることは、読み取っていただけただろうと思う。これに代わる方法として、本書内である者は、対象のそれ以外の要素や側面、事象のそれ以外のロジックや背景に十全に目配りをしようと努めただろうし、またある者は、エスニックやエスニシティのロジックなるものに基づく結論めいたものに安易に飛びつくのではなく、その一歩手前に留まり、現場で生起している現象を実直に微細に見ていく、という態度に徹したことだろう。それら個々の記述を通して、本書を手に取った皆さんがどのようなインスピレーションを得られたか。そして、それら論文の集積としての本書を通して、皆さんが「華人学」をヴァージョンアップするためのどのような展望や着想を得られたか。これについては、読者からのご批判とともに建設的なフィードバックを待つことにしたいと思う」。
 本書で気になったのは、各章のタイトル、副題に国民国家名が残っていることだ。「華人学」が「大きく行き詰まっている」原因のひとつは、これまでおもに国民国家のなかで考察されてきた「華人学」が、グローバル化のなかで意味をなさなくなってきているからではないのか。「移動と同化」が底流にある国民国家内の「華人」が、グローバル化のなかで華人以外のだれにでも、グローバル市民としてあてはまるようになったからではないのか。にもかかわらず、国民国家を念頭に置いて議論することは、これまでの「華人学」とどう違うのか。それを語ることができれば、これまでの「華人学」を超えることができるのはないか。これにたいして、本書で語ろうとしているものもあるし、それがわかったうえで国民国家を意識して議論するものもある。「中間報告集」からどのように脱皮していくのか、楽しみである。

金時鐘『朝鮮と日本に生きる-済州島から猪飼野へ』岩波新書、2015年2月20日、291頁、860円+税、ISBN978-4-00-431532-2

                                    ごあいさつ
    略啓
     小生この度、外国人登録[証明]書名の「林」でもつて韓国の済州島に本籍を取籍しました。父、母の死後四十余年を経てようやく探し当てた親の墓をこれ以上放置するわけにもいかず、せめて年一、二度の墓参りぐらいはつづけようと、思い余った決断をしました。
     それでも総称としての〝朝鮮〟にこだわって生きることには、いささかの揺らぎもありません。あくまでも小生は在日朝鮮人としての韓国籍の者であり、〝朝鮮〟という総称の中の、同族のひとりとしての「林」であります。変わらぬご交情を賜りますよう、謹んでお知らせ申し上げます。                   敬白
     ’03年十二月十日
これで著者の「四・三事件」は、終わったのだろうか。著者は、自らを「四・三事件に関わりのある者にならざるをえなくなって親を捨て、故郷を捨て、日本に流れ着いて在日朝鮮人になってしまった者」とし、「残す何かがあっての「回想記」なのかと、今更ながら思いはやはり晴れない私です」と、「はじめに」の最後で書いている。
 この「四・三事件」について、「はじめに」でつぎのように説明している。「ソ連との話し合いに見切りをつけたアメリカは、一九四八年、南朝鮮だけの分断国家樹立にむけた総選挙を実施しようとするが、「四・三事件」は、直接的には、この「単独選挙」に反対する済州島での四月三日の武装蜂起に端を発し、その武力鎮圧の過程で三万人を超える島民が犠牲となる。この血なまぐさい弾圧に投入された警察・軍・右翼団体は、おおむね、植民地期に日本がつくり育てた機構や人員を引き継ぐ存在であったことを忘れてはならない。つまりそれは、ほかならぬ日本の朝鮮支配の申し子たちであった」。その後、南朝鮮の人びとは1948年の大韓民国樹立宣言後も、1953年の朝鮮戦争休戦後も、アメリカ駐留軍の下で暮らし、「四・三事件」の難を逃れた著者は植民地宗主国であった日本に暮らすことになった。思いが晴れるわけがない。
 本書の内容は、表紙見返しに、つぎのようにまとめられている。「日本統治下の済州島で育った著者(一九二九~ )は、天皇を崇拝する典型的な皇国少年だった。一九四五年の「解放」を機に朝鮮人として目覚め、自主独立運動に飛びこむ。単独選挙に反対して起こった武装蜂起(四・三事件)の体験、来日後の猪飼野[コリアンタウン]での生活など波乱万丈の半生を語る詩人の自伝的回想」。
 書き終えて、「あとがき」で著者は、「気が晴れる「回想記」ではありませんが、思いいっぱい感謝しています」と述べ、つぎのようにまとめている。「この連載を機に私はどのような関わりから「四・三事件」の渦中に巻き込まれ、私はどのような状況下で動いていたのか、〝共産暴徒〟のはしくれの一人であった私が、明かしうる事実はどの程度のものか、を改めて見つめ直すことに注力しました。今更ながら、植民地統治の業の深さに歯がみしました。反共の大義を殺戮の暴圧で実証した中心勢力はすべて、植民地統治下で名を成し、その下で成長をとげた親日派の人たちであり、その勢力を全的に支えたアメリカの、赫々たる民主主義でした」。「具体的にはまだまだ明かせないことをかかえている私ですが、四・三事件の負い目をこれからも背負って生きつづけねばならない者として、私はなおなお己に深く言い聞かせています。記憶せよ、和合せよと」。
 今年になって、済州島に内戦から逃れてきた中東イエメンの人たちが、難民申請に殺到した。住民とのトラブルがある一方、支援を申し出ている人たちもいる。70年前に起こった「四・三事件」から、他人事ではないからである。

日本植民地研究会編『日本植民地研究の論点』岩波書店、2018年7月11日、288頁、3800円+税、ISBN978-4-00-061279-1

 本書の挑戦は、帝国主義研究とポスト帝国主義研究の乖離と対話回路の乏しさを補うため、「研究視角や問題意識の間に対話の回路をリレーさせ、どのような対話可能性を展望できるか」を示すことにある。その背景として、本書「はじめに」で、帝国主義研究として1992-93年に刊行された『岩波講座 近代日本と植民地』、ポスト帝国主義研究として2006年に刊行された『岩波講座 「帝国」日本の学知』を例に比較、検討をおこない、両研究の相違と乖離を確認している。
 本書は、両研究の対話のために、「多様化する日本植民地研究の現在的地平とそこに内在する課題を可能な限り包括的に提示することを通じて、新たな研究プラットフォームの構築に向けた礎石を提供することを目的としている」。
 本書は、1986年に設立された日本植民地研究会、設立30周年記念の2016年全国大会共通論題「日本植民地研究の論点」がもとになり、2008年に発行された『日本植民地研究の現状と課題』(アテネ社)の更新・補完を目的として出版された。2008年発行のものとの大きな違いは、「研究の細分化と研究者間の相互不理解が地域分断的に進展しつつあるという積年の問題に対応して、従来のような地域別の編成ではなく、テーマ別の編成とした」ことである。
 本書は、はじめに、3部、22章、13コラムからなる。「はじめに」では、本書の構成をつぎのように説明している。「第Ⅰ部「植民地支配の基盤」では政治や経済を中心に取り上げ、第Ⅱ部「植民地の社会と文化」では主に社会や文化を取り扱う」。「第Ⅰ部と第Ⅱ部は、「分断から分業へ」という本書のメイン・テーマを体現する役割を担っている」。つまり「「帝国」の構造や植民地支配のあり方を総体として把握するためには、政治・経済の制度と文化的側面の双方に目を配る必要」があり、「双方の研究動向をワンストップで把握しうる本書の意義は大きい」。そして、「第Ⅲ部「視角と方法」では、研究を進めるために必要な視角や方法論を紹介」し、「これまでに示されてきた研究の視角や方法論を整理しつつ、隣接分野との関連性や研究を進めるうえで必要となる具体的な手法について言及する」。
 個々の章、コラムの執筆に際しては、つぎの3点に留意している。「第1に、執筆者はテーマごとに専門性を強く意識して選定した」。「第2に、紙幅の制限がある本書では、「回顧と展望」(『史学雑誌』)のような研究成果を悉皆的に掲げる形式は採らず、研究の到達点と論点を示すことに叙述の力点を置いた」。「第3に本書は、日本植民地研究の専門研究者だけでなく、植民地研究の動向や課題に関心を持つ学生や教員・研究者および一般読者にもお読みいただけるよう、できる限り平易な記述に努めた。また、歴史用語や専門用語は可能な範囲で統一した」。
 本書は、30年にわたる学術研究団体の活動の成果で、10年前に刊行したものを補う意味で出版されたことから、よく整理され、洗練された論点をわかりやすく解説している。
 問題のひとつは、「あとがき」で指摘しているように「台湾・朝鮮および満洲以外の地域を対象とする研究の多くが本書から欠落」したことである。引き続く過去としての日本植民地研究を考えたとき、日中韓を中心とする狭い意味での「東アジア」を枠組みとするのか、東南アジアまで含めた広い意味での「東アジア」にするのか、さらに南洋群島まで含めるのかでは、議論の方向性がずいぶん違ってくる。「台湾・朝鮮および満洲」だけではおさまりきらない問題が多々ある。それは、大国主導の視角や方法論だけではなく、流動性の激しい海域世界の論理などをも考慮に入れた地域社会を総体として把握しなければならないことを意味する。支配した側の論理ではなく、支配された側を主体的にみる論理である。今後の展望を示すなら、どの地域枠組みで考えるのかが重要になってくる。
 もうひとつは、「日本植民地研究」の担い手がだれであるかが、今後問題になってくるだろう。すでに本書の「参考文献一覧」が「日・韓・中文」になっているように、日本語による植民地研究ではおさまりきらなく、植民地支配・占領された韓国、台湾、中国の研究者の視点で、議論が進められている。さらに、東南アジアや南洋群島などの研究者が加わったとき、「「帝国」の構造や支配のあり方」はどのような分析対象となって、日本人研究者の前に立ち現れるのだろうか。支配・被支配をこえた第三者を加えたときや植民地支配を経験した世代がいなくなったときの新たな研究視座に備えなけばならなくなる。そのときのためにも、本書で論点を整理した意義は大きい。

井口由布『マレーシアにおける国民的「主体」形成-地域研究批判序説』彩流社、2018年6月30日、327+36頁、3700円+税、ISBN978-4-7791-2491-4

 副題の「地域研究批判序説」を見て、ドキッとした。こんな大きなテーマを、どうやって扱うのだろうか。研究の「終活」としてならわかるが、博士論文に手を加えた本書では、あまりに大きすぎるテーマに思えた。だが、本書を読み終えて、マレーシア研究だから、この大きなテーマを語らずに、議論がはじめられないことがわかった。
 まず、「序章 マレーシアの自画像」で、著者は冒頭、「現代のマレーシアにかんする論文や書物は、多くの場合において以下の三つの共通了解を前提としている」と述べている。「一つ目は、マレーシアが「マレー人」、「華人」、「インド人」などのさまざまなエスニック・グループからなる「多民族社会multi-ethnic society」であるということである」。「二つ目の共通了解は、一つ目の特殊な人口構成の要因が一九世紀に、植民地経済の要請から移民を受け入れたことに起因するということである」。「三つ目の共通了解は、ゴメズとジョモが指摘するように「多民族社会=マレーシア」がなんらかの問題の源泉であるというものである」。
 本書は、「これらの三つの了解はいつごろどのようにして成立した」のかを、「多民族社会マレーシアを言説として考えてみることを目的とし」、「「マレーシアは多民族社会である」といういいかたがはっきり定着した時期を、第二次世界大戦後のイギリスによる植民地最終期である」とみている。
 その最終期に至る過程を、つまり「マレー、マラヤ、マレーシアといった主題が学問を中心とした知として確立する過程を」、つぎのようにたどっている。「本書は、これらの主題がどのようにみなされているのかという観点から、一八世紀から現在までを大まかに三つの時期に区切る。第一の時期は、一八世紀末から十九世紀半ばまでの領域支配以前の植民地時代である。この時期にはオランダやイギリスの支配域が錯綜していたのにくわえて、ヨーロッパ諸国は港を中心とする拠点支配を行っていた。そのため、現在の国民共同体につながるような空間的な認識枠組みは形成されていなかった。第二の時期は拠点支配へと変化する一九世紀中頃から第二次世界大戦期までである。イギリスがマレー半島を中心とした植民地支配を進展させ、植民政策学が花開いた。このときにマレー半島という空間的広がりとその居住者であるマレー人の共同体が重ねあって想像されるようになった。第三は第二次世界大戦以降である。アメリカ合衆国を中心とした地域研究の成立とともに、多民族社会としてのマラヤ/マレーシアというイメージが形成される時代である」。
 この3つの時期を念頭に、本書は序章、2部全9章、終章「「地域」の不可能性」からなり、つぎのように「序章」の終わりでまとめている。「第1章 学問分野の成立と「主体」形成-植民政策学から地域研究へ-」で、「本書における問題の所在を理論的に説明」した後、「第1部 植民政策学の時代」として、「第2章 植民地時代のマレー研究」「第3章 失われたマレー的なもの」「第4章 アブドゥッラーとザッバにみるマレー論」で、それぞれ「第一の時期と第二の時期においてまなざしが異なっていること」「第二の時期における植民者のまなざし」「第一の時期と第二の時期における「現地」の側の視点を検討する」。
 「第2部 地域研究の時代」の「第五章から第九章までは、第二次世界大戦以降の第三の時期について、地域研究の成立の時代としてみていく。第五章から第七章[「第5章 ファーニヴァルのプルーラル・ソサエティ論」「第6章 東南アジア地域研究の成立」「第7章 多民族社会マラヤの誕生」]まではアメリカ合衆国を中心とした地域研究的な知の成立という視点からみる」。「第八章[「独立期マラヤにおける国語論」]と第九章[「マレー化、多文化主義、構築主義」]は自国研究の成立という視点から、マラヤ/マレーシアという「主体」がどのように形成していったのかをたどっていく」。
 そして、ヘディングから第2部に属すらしい「終章」では、「マレーシアの自画像の参照項となった地域研究を再度検討する。矢野暢の「ファルマコンとしての地域研究」、レイ・チョウの「標的化する世界」、アダーソン(ママ)[アンダーソン]の「比較のスペクターspectre of comparison」、スピヴァクの「惑星的思考planetary thought」など、地域研究を批判しつつ再考した言説を参照しながら、地域研究を内破する可能性をさぐる」。
 終章では、第2章から第9章までの考察を踏まえて総合的な議論をしているが、本書の結論らしきものはみあたらない。同じように、各章においても「まとめ」のようなものがほとんどないため、読み終えてすっきりしないものがあった。独立戦争のような大きな変化をともなわずに国家が成立したために、国家像や国民像がみえにくいということなのか。また、「「マレーシアは多民族社会である」といういいかたがはっきり定着した時期を、第二次世界大戦後のイギリスによる植民地最終期である」とするなら、日本占領期の「マラヤとスマトラ」が同じ軍政下に入ったことや、マラヤ北部4州が1943年8月からタイ領になったことは影響しなかったのか。「多民族社会」だけでは語れないものが、背後に潜んでいる。それが、本書の副題の「序説」につながるのだろう。「序説」から発展した議論を期待したい。

髙嶋伸欣・関口竜一・鈴木晶『旅行ガイドにないアジアを歩く 増補改訂版 マレーシア』梨の木舎、2018年2月15日(初版、2010年)、190頁、2000円+税、ISBN978-4-8166-1801-7

 こんな本が欲しかった! 日本軍の戦跡を訪ねる旅をしている人は、だれもがそう思うだろう。この本は、1983年以来2017年8月で43回目となった「東南アジアに戦争の傷跡を訪ねる旅」で得た知識と情報にあふれている。教育関係者を主とする旅は、その成果が教育現場にフィードバックされることから、本書の記述にも細心の注意が払われ、正確で信頼できる。また、主著者、髙嶋伸欣が自ら運転してまわった経験から、運転手の目線で現場にたどり着けるよう微に入り細に入り説明されている部分がある。
 本書の執筆を可能にしたのは、なによりも主著者の強い問題意識とそれに応えた現地の人びとの協力があったからで、2010年の初版「はじめに」では、つぎのように書かれている。「これまで100回以上訪問したが、その中でで(ママ)さまざまなことがあった。遺族や目撃者たちからののしられたり、殴られそうになったり、石を投げられたり、数時間のつるしあげにあったりした。でも必ず、「こんな日本人もいるのだから」と、とりなしてくれる人がいて、ことなきを得てきた」。
 この43回の旅の発端と、その成果と意味は、つぎのように語られている。「私たちの取り組みの発端は、日本軍(皇軍)による東南アジアでの加害の事実について、日本人は無関心すぎる、との批判を現地の人びとから受けたことだった。以来、私たちはそうした事実の掘り起こしや関連情報の拡散と定着を主要なテーマとしてきた」。
 「その結果『マレーシア』編で示した住民虐殺の事実が、今では中学・高校の歴史教科書の大半に記述されるに至っている。これに対して日本の侵略や加害の事実を追及することに批判的な側からの反論は、ほとんどない」。
 「私たちの取り組みを批判する側は、苦しまぎれに「自虐史観」などの造語によるレッテル貼りを試みてもいる。だがそこには、事実と人権思想に基づいた論理はほとんど見当たらないことを、本書が証明している。そのことがまた教科書に東南アジアでの加害記述を定着させ、初版本の販売を後押しする反面教師的効果を生み出してきた」。
 本書は、「批判する側」のことも充分承知していて、日本軍による虐殺の根拠を示す証言も現地側から得ている。これは、長年の著者たちと現地側の証言者の信頼関係を示すもので、「批判する側」に「有利」な証言を含めて総合的に理解しようとしていることをあらわしている。証言者のひとりは、つぎのように語っている。「「これまで村の長老たちから口止めされていたが、あなた方は信頼できるので、本当のことを言う。確かに日本軍が来る直前、抗日軍が山から降りて来て、父たちと接触したのを目撃している」。「同氏と初めて会ったのは1984年8月だった。以来20年目にようやく聞くことができた証言だった」。
 総合的に考えるという点では、「戦跡を訪ねる旅」ではわからない現地の事情も考える必要があるだろう。マレーシアにはクアラ・ルンプルはじめ各地にイギリス植民地政府が建てた第一次世界大戦で犠牲になった人びとを追悼する記念碑や墓地がある。これらに第二次世界大戦の犠牲者が加わり、さらに独立後祖国のために犠牲になった人びとが加わっている。泰緬鉄道の犠牲者を加えているものもある。これらのなかには、いまでもイギリスやオーストラリアなどからの参列者を迎えて、式典がおこなわれているところがある。
 多民族国家マレーシアでは、民族による考えかた、意見も違い、日本の占領期を語ることは民族分断を助長する恐れがあると危惧する見方もあり、統一した歴史認識には至っていない。シンガポールのように、占領当時民族を超えて団結しなかったことから、歴史を団結にいかそうとする動きに、マレーシアは至っていない。本書に登場する中国系の人びとの動きを止めることはしないが、賛同もしない人びとがいる。マレーシアの歴史教科書では、対日協力者と抗日指導者をともに、「ナショナリスト」として好意的に描いている。積極的に若い世代に戦争を伝えようとしている中国系の人びとだけでなく、日本占領期をやや「好意的」にみたり、無関心であったりする中国系以外のマレーシア人を含めて、マレーシア社会のなかでの日本の占領を考える必要があるだろう。泰緬鉄道工事に従事し犠牲となったインド系の人びとなどを語る記念碑はあまりみかけない。なにより外国人として、マレーシアの国情を理解し、尊重しなければならない。地方の歴史として、あるいは特定の集団の歴史として語る自由はあるが、国の歴史として語ることは許されない「マレーシア・ジレンマ」がある。
 旧日本軍側にも、とくに中国人を虐殺した理由として、それまで中国戦線で戦い多くの戦友を失った日本兵が、中国本土を支援していた華僑・華人に強い敵意をもっていたことがある。それでも、多くの女性や子どもを含む市民を虐殺したことから、戦後償いに努めてきた旧日本兵やその気持ちはあってもどうしていいかわからず今日まで苦しみ続けていつ人びともいる。
 広い視野でみようとすると、充分に理解できないこともでてくる。しかし、細部に正確であろうとすることと、同様にあるいはそれ以上に重要なことに気づくようになる。それは自分たちと違う考えの人からも学ぼうという姿勢につながり、「仲間」を増やすことになる。教育の現場でも、戦争についてさまざまな考えかたがある。本書のタイトルだけをみて読みはじめて、自分たちが求めていたものと違うと感じ、反発した人もいるだろう。そういう人たちの理解を得るために、さまざまなことをしてきただろうが、これからも地道にするしかない。

ヘレン・N・メンドーサ著、澤田公伸訳『戦争の思い出 日本占領下で生き抜いたフィリピン少女の物語』メディアイランド、2018年4月20日、190頁、1800円+税、ISBN978-4-904678-86-2

 顔も名前も、フィリピン大学などで見かけたなじみのある人が、少女時代にこんな体験をしていたのかを知り、あらためてフィリピン人との付きあいを考えさせられた。口に出さなくても、わたしが日本人とわかると、それぞれ個人として、家族の一員として、地域社会の一員として、そしてフィリピン国民として、日本人のわたしを見ているのだろう。わたしの知っていたかの女は、フィリピン大学で英文学・比較文学を専門とする研究者・教育者としてだけであった。
 著者は、「はじめに」でつぎのように述べている。「この本には、日本がフィリピンを侵略した時に私の家族が経験したことや、日本の占領下、そして第二次世界大戦の末期に送った生活について書きました。フィリピンの歴史の重要な時期に、フィリピン人が経験したことのほんの一部でも垣間見てもらいたかったからです。それ以上に、本書を通じて、戦争という「諸国家の崩壊」〔イギリスの詩人・作家であるトーマス・ハーディの詩 "In Time of 'The Breaking of The Nations'" からの引用と思われる〕の時代にあった、人類の違った一辺から見た物語を伝えたかったからです」。「戦争とは、一体何なのでしょう。犠牲者と侵略した側の双方にもたらされた破壊、戦争が引き起こす非人間性をぜひ知っていただきたく思います」。
 「日本占領下のフィリピン」研究の第一人者のフィリピン大学のリカルド・トロタ・ホセが、「本書によせて」で本書の特徴をつぎのように述べている。「ヘレンさんは感受性の強い、まだ希望と好奇心にあふれた、若い少女の時に戦争を体験したからです。「無秩序」の真ん中で暴力の恐ろしさに囲まれながら成長していく少女の姿が物語になっているからです。ヘレンさんの記憶は鮮明で、語り口もさわやかです。登場人物は無表情の人物ではなく、名前を持つ実際の人物として生き生きと描かれています。日本人も典型的な「敵」としてではなく、「人間」として描かれています。ヘレンさんの友達の何人かは(そして彼女自身も)ハンサムで礼儀正しい数人の日本人に恋心を抱きました。ヘレンさんの回想は、自分を取り巻く世界が瓦解してゆく時代にあっても、正しい行動や人の誠実さを見ることができる、そんな若者の記録なのです」。
 そして、日本を代表する「日本占領下のフィリピン」研究者のひとり、永井均は「解説 日本占領下の「日常」と「非日常」-フィリピンのティーンエイジャーが見た戦争-」で、つぎのように「本書が持つ魅力や意義」を3つあげている。「第一に本書の刊行によって、日本人には見えにくいフィリピンの一般市民、家族の戦争体験を知る手がかりが与えられた」。「ヘレンの回想録は、パナイ島とルソン島という複数の島を転々としつつ、子供、そして家族の視点から日本占領時代を描いたユニークなものだ。ヘレンが過ごした戦前の自由な生活環境は、戦争を境に一変した。本書からは、戦争によって日常生活が突然遮断され、自由が浸食されていく様子が読み取れる。同時に、そんな「非日常」の中でもパーティーを開き、ダンスや音楽などで自分たちの「日常」を少しでも取り戻し、豊かにしようとするフィリピン人のたくましさも感じられる」。
 「第二に、本書により、戦争中、フィリピン人が直面した厳しい現実が改めて浮き彫りになった。日本軍の占領下はフィリピン人にとって概して統制と抑圧という窮屈な時代であった。しかも、多くのフィリピン人が日本軍への「協力」と「抵抗」の狭間で厳しい選択を迫られた。日本軍から抗日的、あるいは親米的と疑われてしまうと、命さえ脅かされた」。「逆に、日本軍に過度に接近し、交流を深めてしまうと、今度はゲリラから「対日協力者」として襲われる危険性もあった」。
 「第三に、本書において、多くのフィリピン人に恐れられた日本兵の人間的な側面にもまなざしが向けられ、戦時下の他者像の多様性を認識する回路が開かれている点も重要である。ヘレンは日本人を顔と名前を持った個人として描いており、これらの心の内を理解しようとさえした」。「彼女の柔軟性、しなやかさが、善悪の二分法を超える戦時下の日本人像を記録に残させたのかもしれない。こうした点でも、本書はフィリピン人の戦争経験の多様さ、奥深さを理解する上で貴重な資料となるだろう」。
 日本人が書いたいわゆる「戦記もの」は、フィリピン関係だけで千数百ある。だが、ヘレンが日本人を見たように、フィリピン人を見ることができた日本人は、はたして何人いただろうか。本書を読んだだけでも、フィリピン人が「戦争が引き起こす非人間性」を理解し、戦争中の「日常」を生き抜く術をもっていたことがわかってくる。日本占領下を生き抜いたフィリピン人から、日本人が学ぶことは実に多い。

岡田慶治原著、田中秀雄編『スマラン慰安所事件の真実-BC級戦犯岡田慶治の獄中手記-』芙蓉書房出版、2018年4月10日、268頁、2300円+税、ISBN978-4-8295-0736-0

 本書をどう読めばいいのだろうか。帯に「慰安婦問題の「強制性」を考え直す手がかりとなる手記」とある。
 「本書は、大日本帝国陸軍軍人だった岡田慶治の獄中手記である。彼は戦後昭和二十二~二十四年にかけて蘭領インドネシアで行われたバタビア軍事裁判において、オランダ人女性を慰安婦にした、いわゆる「スマラン事件」の主謀者として唯一死刑になった人物である」。「彼は死刑判決が出てから処刑されるまでの八か月間に膨大な獄中手記を書き残した。陸軍士官学校を卒業してから死刑直前までの自伝である。それを「青春日記」、「青壮日記」二冊の自筆稿本(計一〇八九頁)に残した。本書はその後半の三分の一であり、英米との戦争が始まった直後の昭和十七年以降の部分である」。
 「手記」ではあるが、主語は「小(お)方(がた)」であり、解説者の田中秀雄は「栄光と苦難の一大叙事詩の感がある」と述べている。獄中で思い出すままに書いたため、正確を期すことができなかったためであろうか、「小方」という人物に仮託した。それを正確さに欠けるとして資料的価値が低いとみるわけにはいかない。かといって、ここに書かれていることをそのまま信じて「冤罪」だと主張することもできない。要は、人ひとりが戦犯容疑で銃殺刑に処せられた是非を問う判断材料になるかどうかであるが、わたしの結論を述べれば、このような時期に、このような状況で、いかなる「証拠」が示されようが、死刑の根拠になるはずがないということである。
 この「スマラン事件」が注目を集めるようになったのは、つぎの理由による。「一九九一~一九九三年にかけて、韓国在住の元慰安婦たちが日本政府に賠償を求めて提訴し、宮澤喜一首相が訪韓中に何度も謝罪し、河野洋平官房長官(村山富市内閣)が、日本軍の慰安婦強制連行を認めた「河野談話」を出すという一連の流れの中で、スマラン事件も日本軍の慰安婦強制連行の具体的事例として、注目を集めるようになった」。宮澤のような戦争体験者は、慰安婦の強制性を示す確固たる証拠がなくても、日本の植民支配下に置かれた朝鮮の状況を総合的に考えれば、日本軍・政府に責任があることは明白だと肌で感じていたのだろう。
 しかし、本書を読む限り、その「強制」性はみあたらない。それが、「強制」と裁判で主張された理由を、解説者はつぎのように理解している。「英米の多大な協力を得たにせよ、オランダは戦勝国であった。彼らが〝黄色い猿ども〟[日本人]への復讐の念を持ってインドネシアに凱旋して来たことは言うまでもない。降伏した日本人に対して、彼らは戦犯裁判という名の復讐劇を敢行したのである。おまけに裁判官や検察官は抑留されていた軍人や行政官が多かった」。
 戦犯を擁護するのによく使われるのが、「良き夫であり、良き父であった」というフレーズである。だが、岡田慶治は、妻もふたりの娘もいる身で「毎日酒を飲むだけでなく、フランス人女性や娼婦と次々に関係する」ことが手記で赤裸々に語られている。解説者は、解説のタイトルを「フェミニスト岡田慶治」として、つぎのように結論した。「岡田慶治は女性に優しく、その心理によく通じた人物で、また自分の男性としての欲望にも極めて忠実な生き方をした人物だったということである。岡田はその当時の日本人としては百七十センチ超、八十キロ超の大柄な体格であった。そしていつも楽天的で朗らかな性格、正義感が強く頼りがいがある。頭が良くて弁舌もさわやか、歌もうまいとなれば、女性にもてないはずがないだろう。彼が女に近づくというよりは、女が寄ってくるという艶福家であった」。
 そして、解説の最後の見出しは「岡田慶治の立派さ」で、つぎのようにまとめている。「本書を読めば分かるように、岡田は勝ち戦でも負け戦でも戦争巧者で、部下に尊敬され、現地人を味方につける名人であった。彼は現地人を知らずして、何が戦争かと考えていた。現地人を味方にすれば、自分の部隊の被害も少ないのだ。満洲国での治安維持のために取った方略もそうだった。結果的に皆岡田の人柄や治安維持能力に感謝したのである」。
 「岡田の銃殺刑は昭和二十三年十一月二十七日に執行された」。これをくい止め、真実を追究するために生き残すという考えは、軍事裁判を主導した「戦勝国」側にもなかった。戦争をなくすために戦争を語るのが「戦犯」の責任であるという意識があれば、つぎへの戦争の抑止力のひとつになるだろう。その意味で、戦犯の死刑には反対である。

猪口孝『データから読む アジアの幸福度 生活の質の国際比較』岩波現代全書、2014年8月21日、167+74頁、2100円+税、ISBN978-4-00-029140-8

 「本書は生活の質という概念に導かれて、アジアの日常生活を分析したものである」。そのデータは、「世界で無比のアジア・バロメーター世論調査が三二の社会-二九個のアジア社会と三個のアジア近隣社会(米国、ロシア、豪州)-で生活の質を焦点として二〇〇三年から二〇〇八年までの期間で実施された」のものに基づいている。
 「生活の質」をとりあげた理由について、著者は、「まえがき」の最後でつぎのように述べている。「政治学者として、長い間、政治行動や国際関係を実証的に分析することを生業としてきた筆者が、この時点で、なぜ「生活の質」を掘り下げようと思ったか? それは、人間の生活を明らかにするのが科学の基本であるという認識を強くしたからである。政治学では、自由、平和、民主主義、人権、福利・権力など抽象的な概念の分析がややもすれば多くなる。筆者自身も、その分野での著作が少なくない。実際、二〇〇〇年代の「生活の質」調査の直前には、「民主主義」政治調査の一環として、アジア八カ国、ヨーロッパ八カ国の「民主主義」を市民がどのように認識しているかを調査した[略]。民主主義の実証研究は、政治文化やグローバリゼーションを科学的に体系化し、比類ない成果を出したという達成感と同時に、ときに隔靴掻痒感も残り、「生活の質」の分野に進出することを決意させた。人間の生活そのものについてあらたにデータをつくり、分析することの必要性と重要性を再認識したのである。とりわけ、欧米の科学では手薄になりがちであったアジア大陸の「生活の質」は、今日も体系的に科学的に纏めたデータもなく、分析もない。そのようにして、筆者が開拓し、分析のメスを入れるべきであると思うに至ったのである」。
 本書は、まえがき、全9章、付論、方法論的あとがき、からなる。各章のはじめに、わかりやすくポイントが書かれており、導いてくれる。たとえば、「第8章 日常生活満足度」では、つぎのように述べている。「日常生活の満足度について一二のアジア社会で世論調査をしました。住居、所得、健康、家族、食事、人間関係、仕事について満足度をひとつひとつ聞きました。一二の社会の相違性が大きく出ると同時に、多くの社会では家族や人間関係に焦点が当たった回答をしています。先行投資を必要とする項目(所得、住居など)と毎日こなす個人を中心とした項目(食事、家族など)は別な次元として区別されているようです。この世論調査はアジア世論調査ネットワーク(ANPOR)を使って、費用は各国ごとに負担しました。世論調査の方法で少しバラツキが出ますが、単純な共通質問票の場合には、問題度は低くなるようです」。
 そのバラツキについて、著者は「3 国際比較世論調査は比較可能か」で問い、「国別に世論調査を実施するのが理論的には絶対でないことは明らかである」と結論している。また、「6 「平均の下層を(Beneath Average)」と「国境を越えて」(Beyond Border)」」では、「国際比較世論調査には二つの顕著な傾向がある」と延べ、つぎのように説明している。「第一、母集団と標本を国単位で考えているために、一つ以上の社会で世論調査がなされると、ややもすると国別平均をみるだけで足れりとする誘惑に駆られる。第二に、同じような理由で、国別平均からはなれて国を越えた比較を考えなくなる誘惑に駆られる。本世論調査の二つの目標は「平均の下層を」と「国境を越えて」である」。
 本書で利用した国際世論調査結果は、これをもとにさまざまな考察と今後の研究を可能にする。本書が、その一例を示したことで、さらにやりやすくなった。質的調査によって、本格的に「平均の下層を」と「国境を越えて」分析することになる。そこでは、想像を超える問題点が指摘されるかもしれない。地域研究の可能性を広げた意味でも、本書が示唆した数々の論点は貴重である。

湖中真哉・太田至・孫暁剛編『地域研究からみた人道支援-アフリカ遊牧民の現場から問い直す』昭和堂、2018年3月30日、290+v頁、6400円+税、ISBN978-4-8122-1711-5

 本書の概要は、表紙見返しにつぎのようにまとめられている。「世界最貧困地帯の一つ、東アフリカ遊牧民社会。飢餓・紛争・テロなど絶え間ない人道的危機に直面する人々に国際社会は支援の手を差し伸べてきた。その現場では何が起こっていて今何が求められているのか。地域研究者と援助の実務家が協働し人道支援のあり方に根源的な転回を迫る」。
 本書は、5年間の共同研究の「最終成果」である。この研究が目指したものは、つぎのように説明されている。「まず遊牧社会に焦点を当てた従来の研究から、人道的支援と在来の遊牧文化の両者が組み合わさる領域(接合領域)に視点を移行させる試みを始めた。それによって、遊牧民が受動的に人道支援や開発・援助を受け入れ社会変容しているのではなく、自分たちの社会・文化に適合できるように人道支援を利用・改変し、危機からの脱出と生活の再建を試みている実情が見えてきた。そのうえ、各研究者は現地調査によるひとつひとつの事例の積み上げを通して、人道支援の現場での適用可能性を考慮したより具体性をともなった提言を目指した。さらに、より広い視野で比較研究を行うために、構成メンバーにアフリカの狩猟採集民や農耕民を研究対象とする研究者も参加している」。
 本書のねらいは、「地域研究の立場から、同じ人間として、ただし、実際には大きく異なる多様な人間の問題として、人道支援の問題に新たな光を当てること」とし、つぎのように説明している。「通常、日本に暮らす私たちの多くは、支援の向こう側にある世界を十分に想像することなく、いつの間にか当たり前のように支援する側に立ち、支援する側からしかものごとをみなくなってしまう。かくいう私も恥ずかしながら現場に身を置く以前にはそうであった。しかし、ここで必要なのはコペルニクス的転回である。それとは反対側の、支援を受ける側の地域住民の側から、人道支援をもう一度とらえ直してみることはできないだろうか。人間を考えるにあたって私たち地域研究者は、無色透明な人間ではなく、常にある特定の地域の特定の環境の中で生きる具体的な人間を想定し、さまざまな顔を思い浮かべる。私が今これを書きながら思い浮かべているのは、東アフリカ遊牧社会で人道的危機に直面した一人ひとりの顔だ。本書は人道支援のローカライゼーションという課題を扱うが、ここでの「ローカライゼーション」とはたんに普遍的なものを各地域に適合するように改良する機械的作業を意味しない。具体的な特定の地域の脈略の中で特定の生を営んできた人びとの観点から、私たちのものの見方の前提を問い直すことなのである」。
 本書のキーワードのひとつに「接合領域」がある。その概念は「古典的な文化の概念とは異なって」おり、つぎのように説明している。「古典的な文化の概念においては、文化は純粋で、伝統的で、首尾一貫していて、変化がなく、明確な境界を持ち、常に同質的な特徴を持つとされてきた。これに対して、接合領域の概念は、混成的で、不連続的で、首尾一貫しておらず、常に変化し、明確な境界をもたず、異質性を特徴としている。それゆえ、私たちがここでいう文化的多様性へのローカライゼーションとは、あくまで、こうした意味における異質性を含み混んだ不定形な文化の多様性へのローカライゼーションであり、決して、古典的な文化概念がいうような確固たる同質的な体系性を備えた文化の多様性へのローカライゼーションのことではない」。
 本書は、まえがき、序章「人道支援におけるグローバルとローカルの接合」、2部各部6章全12章、終章「東アフリカ遊牧社会の現場からみた新しい人道支援モデルに向けて」、あとがき、からなる。第Ⅰ部「支援の現場から人道支援を再考する-食糧・物資・医療・教育」では、「人道支援を考えるにあたって不可欠な構成要素である食糧・物資・医療・教育について、東アフリカ遊牧民を対象とした臨地地調査成果に基づく六本の論考が収められている」。第Ⅱ部「政治的・文化的・社会的脈略のなかで人道支援を再考する」では、「第Ⅰ部のような人道支援の基礎的構成要素別の取り上げ方ではなく、政治的・文化的・社会的等の多岐にわたる諸側面から人道支援のあり方を掘り下げていく」。そして、終章では、「東アフリカ遊牧民に対する人道支援のローカライゼーションに関して、人的、時間的、空間的な三つの枠組みからなるモデルが提示される。そして、湖中は、本書の各議論を総括した到達点から「内的シェルター支援モデル」を打ち出すことを試みている。最後に、地域研究の立場から、「普遍的普遍主義」に基づく人道支援のあり方を展望することで本書を締め括っている」。
 「内的シェルター」とは、「救援食糧のトウモロコシの袋やテントや緊急医薬品のようにはっきりと目に見えるわけではない」。「非常に儚く、壊れやすく、柔軟な特徴を持っているが、その一方で危機には強く、その意味でまさにレジリエントである。それは古典的な人類学者が好んで使いがちな伝統文化や社会構造ではなく、それらが被災後の変化によって生み出した変異体で」ある。それは、たとえば編者のひとり、湖中が「発見」した「最小限のもののセット」で、「家畜の乳容器、家畜の皮の敷物、椅子など、貨幣価値に換算すると決して高価とはいえないものばかりで」、「たとえ全家畜が失われても」、「人びとはそれを起点として身体イメージの広がりを回復させ、やがて自尊心を取り戻すことができるかもしれない。その役割は決して人道支援によって配給されるテントや鍋が代替することのできないものなのである」。
 そして、つぎのように結論している。「本書が試みた接合領域接近法による人道支援のローカライゼーションの研究は、まさに、この「普遍的普遍主義」への具体的なステップとして位置づけられる。この意味において、地域研究の立場からそれぞれの地域に即した人道的支援のローカライズを模索する本書の試みは、各地域の伝統文化に回帰することを主張する偏狭な党派主義とは異なる。逆説的に聞こえるかも知れないが、本書が試みたことは、人道支援という普遍的とされてきたもののローカライゼーションを検討することによって、西洋的な規範を唯一正しい規範とみるような現在の普遍主義のあり方を、非西洋地域も包摂できるような、真の意味で普遍的なものの考え方へと解き放っていくことなのである。そのなかでは、西洋的な規範はもちろんあってよいが、あくまで世界各地に存在する多様な規範の一つとして理解されなければならない」。
 要は、人間中心の生活者の目線で考えるということだろう。だが、それは容易に実現できるわけではない。制度が有効に働く農耕民社会と違い、移動性の激しい遊牧民社会は流動性のなかでどう臨機応変に対処するかが問題となる。あるところで成功したことが、別のところで成功するとは限らない。そんな現場で、最終的結論は「人道支援」を必要とする事態にならないように未然に対応するしかない。しかし、現実には「人道支援」が必要な事態が起こる。本書は、5年間の共同研究の「最終成果」であるが、けっして「最終報告」ではない。ほんの出だしの「中間報告」にすぎないことが、本書を通じて伝わってくる。
 人道支援を受ける側を主体に考えるということは、植民支配下の人びとを無力な存在ではなく主体的に生きた人びとと考えることと、相通ずるものがあるように感じた。だが、「西洋的な規範」で教育を受けた者は、上から目線で、なかなか「下」の人びとが主体的に生きてきたことに気づかない。本書で、それに気づく人が増えることを期待する。

平井肇編『スポーツで読むアジア』世界思想社、2000年9月30日、258頁、1900円+税、ISBN4-7907-0837-3

 前世紀最後の年の2000年に出版された20年近く前の本なので、新刊が購入できるかどうか疑問であったが、購入できた。やはり新品はいい。図書館の本だと書き込みはできないし、古本はだれかのマークや書き込みがあるのを見つけると興ざめして読む気がなくなってしまう。最近は、在庫に税金がかかるのですぐに裁断処分されて、2~3年前に出版されたものでも手に入らず、古本で定価の数倍の値がつけられていることもある。新品を自分のものにして、書き込みをし、内容を理解することがどれだけ重要で、なにものにもかえがたいことだとをわかる人が少なくなったので、本が売れないのだろう。書き込みだけでなく、書評を書くともっと理解力は高まる。
 国交のない国同士でもスポーツを通して交流があったり、逆に国際スポーツ大会をボイコットすることで国交が断絶したり、スポーツは国際政治にとっても重要な意味をもつことがある。ことばを交わさなくてもルールさえ知っていれば、交流の手段になることから、国家間だけでなく個人・団体などのあいだでもいろいろと利用されてきた。それをスポーツ社会学として、学問的に議論しようとするのも当然のことだ。
 編者の平井肇は、スポーツ社会学、なかでもアジアを取りあげることについて、つぎのように説明している。「このスポーツ社会学の分野では、スポーツの制度化・組織化、およびその背景にある社会・文化的要因との関係は大きなテーマのひとつである。とくにグローバル化が急速に進む今日、一九世紀以来続いてきたスポーツの伝播と普及の従来型のパターンが大きく変化している。スポーツは文化・社会的活動であると同時に、経済的な活動でもあるが、今日では後者の占める比重がますます大きくなってきている。今日のスポーツは、それがトップ選手の世界であれ、草の根レベルであれ、「するスポーツ」であれ、「見るスポーツ」であれ、グローバルな情報や経済活動のネットワークの中にしっかりと組み込まれているのである」。
 「アジア諸国は、近代化の過程で、欧米のスポーツを積極的に受け入れてきた。その結果、スポーツは今日、アジアのほとんどの国でもっとも重要な大衆文化と位置づけられている。また、外交や政治、貿易、産業の分野でも、スポーツは重要な役割を担ってきている。しかし、スポーツと他の社会制度との関係は、かならずしもいつも円滑で良好であるとは限らない。むしろ、いろいろな緊張関係が生じて、その結果、さまざまな問題が生じてきているのが常である。「スポーツは社会を映しだす鏡である」としたら、今日のアジアのスポーツについて知ることは、すなわち、その社会や文化全般について知るひとつの手がかりになるのではないだろうか」。
 本書は、はじめに、Ⅱ部全11章からなる。「関心のあるテーマ、とりあげている国や地域、アプローチの仕方など十人十色、見事なくらいバラバラである」。それを、「Ⅰ 世界のなかのアジア、アジアのなかの世界」と「Ⅱ アジアのなかの日本、日本のなかのアジア」の2つに括り、それぞれ6章と5章からなる。「まだひとつの研究として完結していない段階で、あえて成果(途中経過)を公表することにした」「最大の理由は、アジアのスポーツへの関心をもつ人が増えるなかで、彼らの知的好奇心に応えることができるような学問的な蓄積がほとんど見あたらないことである」。
 その後、アジアのスポーツをテーマとして博士論文を書いた人がいたり、単著単行本が出版されたりしている。本書が期待した目的の一部が、果たされつつあるといえるかもしれない。いっぽう、本書で書かれた内容と違うことが、その後に起こった国もある。本書第4章「スポーツ小国ゆえの可能性-シンガポール的ニュー・スポーツライフ-」では、つぎのようにスポーツがナショナリズムと結びつかなかった例としてシンガポールが取りあげられている。「シンガポールでは、英国からの独立後も、経済や行政、教育などのあらゆる面で宗主国の影響を色濃く残してきた。また、この国のような、国家としての歴史も新しく、しかも多民族・多文化社会では、スポーツは国家統一の格好のシンボルとなるはずである。実際に似たような状況にある国々では、スポーツはナショナル・アイデンティティの確立のために一定の役割を果たしてきたケースが多い。ところが、シンガポールでは、スポーツがそのような形で展開しなかった。少なくとも、この国では、スポーツは国家全体に大きな影響を及ぼすような社会制度として確固たる地位を築くことはなかった」。
 ところが、1993年の東南アジア競技大会で、競泳女子15種目のうち9種目で金メダルに輝くスーパーヒロインが誕生し、ASEAN10に向かって地域統合が進むなど、グローバル化(国際化)、地域主義の進展のなかでナショナリズムが高揚し、そのひとつの場が国際スポーツ大会になっていった。「社会を映し出す鏡」としてのスポーツは、「その社会や文化全般について知るひとつの手がかり」として目が離せない存在になっている。

五十嵐誠一『東アジアの新しい地域主義と市民社会-ヘゲモニーと規範の批判的地域主義アプローチ』勁草書房、2018年1月20日、407頁、5200円+税、ISBN978-4-326-30264-2

 「既存研究の欠落に真っ向から挑む」という威勢のいい宣言の後、つぎのように問題意識を説明している。「市民社会アクターは、東アジア、あるいはその下位地域である東南アジアや東北アジアという地域の形成過程において、いかなる理念と目標を掲げて活動を展開し、地域のアジェンダや政策にいかなる影響を与えているのか。この疑問を、理論的・実証的に分析することを本書は最大の狙いとする。かような課題に体系的に取り組んだ研究は、国内外を問わず皆無に等しい。そればかりか、地域主義と市民社会との関係性自体が、既存の地域主義研究では半ば等閑に付されてきた。このような先行研究の現状を打破し、市民社会アクターの可能性と限界をより正確に把握するには、二次資料のみならず一次資料をも渉猟しながら、その活動の実態を丹念に読み解く作業が欠かせない。同時に、従来の国家中心的な分析概念や理論枠組みの限界を認識し、市民社会をより重視した新たな理論アプローチを彫琢することが要求されよう」。
 既存の研究を批判するためには、用意周到に既存の研究成果を分析する必要がある。著者は、つぎのような手順で議論を進めることを説明している。「本書に入る前に、ここでは本研究の背景、本研究の位置づけ、本書の構成を提示する。まず、研究の背景を捉えるために、東アジアの地域主義の発展の軌跡を素描し、そこで半ば等閑視されてきた市民社会の視座を掘り起こす。その上で、先行研究の整理を行いながら、本書の分析視座を国際関係論と地域主義研究の中に位置づけて確認する。最後に、本書の構成を示す」。
 本書は、序章「本書の課題と分析視角」、全6章、終章「東アジアにおける共同体の隘路と活路」からなる。第1章「批判的地域主義アプローチに向けて」では、「理論的考察を行い、本書の理論的枠組みを提示する。ここでの主たる作業は4つある。第1に、リベラルとラディカル双方の思想的潮流を下敷きに、市民社会が持つ多様な位相を地域(主義)という文脈に引き寄せながら探り出す。第2に、市民社会の成長を踏まえて、国家中心的なきらいがある地域に関わる諸概念を脱構築し、市民社会アクターによる「下」からの地域主義という分析視角を導入する。第3に、既存の理論アプローチを合理主義、省察主義、社会構成主義に分けて整理し、それぞれの分析の死角を明らかにする。以上の作業を踏まえて第4に、地域の形成に関わる市民社会の独自の志向性と影響力を捉えた分析を行うために、批判的国際関係論のヘゲモニーと批判的社会主義構成主義の規範という概念に注目したCRA[批判的地域主義アプローチ]を提示する」。
 「第2章からは事例編となる。第2章[ASEAN共同体と市民社会]ではASEAN共同体の形成過程を取り上げる。第3章[人権と市民社会]では人権、第4章[移民労働と市民社会]では移民労働に注目する。両章は、東アジアを分析対象とするが、地域レベルの市民社会アクターの関与については東南アジアのASEANに注目する。第5章[持続可能な発展と市民社会]では持続可能な発展、第6章[紛争予防と市民社会]では紛争予防をそれぞれ取り上げる。両章では、東北アジアが主たる分析対象となる」。
 そして、「終章では、本書全体の考察を通観し、各章の内容に若干の考察を加えながら全体の整理を行う。また、「上」からの地域主義と「下」からの地域主義との志向性の違いをまとめ、規範の地域適合化の見取り図を示す。最後に、東アジアの地域主義と共同体の展望に関する知見を述べる」。
 終章「1.本書のまとめ」の最後では、「東アジアにおけるグローバル規範の地域適合化と異種系統入力パターン」と題して、以上の考察を表にしてまとめ、つぎの3点が導き出されたと結論している。「第1に、東アジアでは、いずれのイシュー(人権、移民労働、持続可能な発展、紛争予防)においても、ハードローの形成は困難であり、せいぜい宣言か共同声明が採択されているにすぎない。欧州と異なり「上」からの地域主義では、拘束力を付与することへの強い抵抗が依然として存在する。地域機構が存在する東南アジアでは、ASEAN方式としての主権規範が堅持されている」。
 「第2に、「上」からの「国家中心的地域主義」とそこで支持される「新自由主義型地域主義」とは異なる志向性を持つ「下」からの市民社会による地域主義の発達が、いずれの分野においても著しい。市民社会による「オルタナティブ地域主義」が実体化しつつある。このような「下」からの地域主義の成長が、規範の内容をめぐるヘゲモニー闘争を惹起している。市民社会を分析に含めることで、地域主義の新たな位相が浮かび上がった」。
 「第3に、東アジアではグローバルな規範の独自な解釈、すなわち規範の地域適合化が各イシューで観察される。しかも、地域適合化の内容は、主体によって異なりうる。各主体による多様な解釈を通じて、グローバルな規範の地域流の受容と構築が進められている」。
 本書は、「序章」「終章」で議論の内容とまとめがよく整理されているので、ひじょうにわかりやすい。終章では「1.本書のまとめ」につづいて、「2.本書の課題と今後の研究」がまとめられている。課題の最後に、つぎのように指摘している。「以上の課題が、分析対象の「水平方向」への拡大に関わるものであるとすれば、「垂直方向」への研究対象の拡張も課題として残された。東アジアでは、市民社会による「下」からの地域主義に加えて、もう1つ看過できない現象が進んでいる。サブ・リージョナリズム(下位地域主義)あるいはミクロ・リージョナリズム(小地域主義)と呼ばれる現象である」。そして、この節をつぎのようなパラグラフで終えている。「こうしたサブ/ミクロ・リージョナリズムの発展は、国境を跨いだ新たな社会・政治・文化・経済空間の出現による国家の再編と解体を意味する。新しい社会単位としてのサブ/ミクロ地域の出現は、国家中心的な既存の主流理論では十分に捉えきれない現象である。サブ/ミクロ地域は、CRAを提示する本書にとって格好の素材ともなりうる。多様なサブ/ミクロ地域の形成は、より上位の東南アジアと東北アジア、さらには広義の東アジアの地域主義と関わりながら発展を遂げていく。こうした東アジアの地域主義の動態は、地域主義の重層化の分析という新たな研究課題をわれわれに突き付ける」。
 著者は、「あとがき」で政治学に対してだけでなく、地域研究への批判と重要性を、つぎのように述べている。「「まずは現地に行こう」という地域研究者にありがちな発想を、本書をまとめる過程で見直さなければならないこともわかった。今ある大量の材料で政治学的に「分析」する。そこで課題を明らかにし、明確な目的を持った上で、満を持して現地に赴く。時には禁欲的にあえて現地に赴かない期間を設けることも必要であろう」。いっぽうで、「相変わらず現地調査は、私たちの知的好奇心を掻き立て、本や論文を読むだけでは捉えきれない現地の実像を露にし、時には既存の理論アプローチに修正を迫るような知見をわれわれに与えてくれる。とりわけ市民社会の実証研究は、巷間広く流布した文献に依存するだけではなしえないところに難しさとやりがいがある。現地に赴き、関係者に聞き取り調査を行わなければ、市民社会の多様な主体の活動を正確に把握することは困難である」。
 果敢に既存の研究に挑み、文献を渉猟してまとめた本書は、今後の研究の礎となるだろう。それは、著者が文献にこだわりながらも、その限界を理解し、地域研究的手法を取り入れた成果でもあるからである。これを礎に、地域研究の限界から政治学的手法を取り入れたら、どのような研究が可能になるだろうか。「下」からの意味も、ずいぶん違って見えてくるだろう。

篠崎香織『プラナカンの誕生-海峡植民地ペナンの華人と政治参加』九州大学出版会、2017年9月25日、484頁、5400円+税、ISBN978-4-7985-0211-3

 マレーシアという国は、不思議な国である。まず、正式な国名が「マレーシア」で、連邦立憲君主国家とみなされているが、連邦、王国、共和国などはつかない。1957年に、植民地宗主国のイギリスとの独立戦争や革命といった大きな社会変動をともなうこともなく、マラヤ連邦として独立し、主要3民族の政党が連盟党(1974年に国民戦線に改組)を構成して、今年(2018年)5月まで政権を担ってきた。63年にボルネオ島の一部を加えマレーシアになったが、半島部とボルネオ島とでは多くの面でずいぶん違う。半島部からボルネオ島に行くと、空港でパスポートを提示する通常外国に入いるときと同じ「入国審査」がおこなわれる(入国スタンプはないが)。これらの謎は、その社会と国家の成り立ちから理解するしかないのだが、それがよくわからない。本書を読むと、謎の一端が解ける。
 それをひと言で言えば、つぎの帯のことばになるだろう。「越境性と混成性を資源に根を張って生きるプラナカン」「文化的な固有性を維持し、提示することで、海峡植民地ペナンへの帰属が認知された華人。その歴史と構造を明らかにする」。
 本書は、はじめに、序章、3部全11章、終章、あとがきからなる。「はじめに」で本書の目的が、2つ示されている。「一つは、ペナンの外部に出自を持つ人たちがペナン社会に対してどのように関わろうとしたのかを、海峡植民地の時代にさかのぼり、華人の事例を中心に明らかにすることである。より具体的には、海峡植民地期のペナンにおいて、華人がどのようにペナンおよび海峡植民地において政治に参加し、秩序の構築に参与しようとしたのかを、ペナン華人商業会議所および華人公会堂を中心に明らかにする」。
 もう一つは、つぎのように説明されている。「本書が海峡植民地期のペナンに着目するのは、東南アジアの華人をとらえる従来の視点を相対化するためでもある。本書は、海峡植民地期のペナンの華人が海峡植民地ペナンにおいても中国においても積極的に政治に参加し、秩序の構築に参与しようとしたことを示していく。そのうえで、自分がいま生きている場で認知を得るための政治や秩序への働きかけと、外部世界と関係を維持するための政治や秩序への働きかけとがどのように両立していたかに着目する」。
 第Ⅰ部「海峡植民地の制度とペナン社会」は3章からなり、「ペナンがイギリス東インド会社の拠点となって以降、そこにどのような社会が形成されたのかを明らかにする」。第Ⅱ部「海峡植民地の秩序構築への積極的関与」は4章からなり、「海峡植民地の制度を単に利用するだけでなく、自らにとってより使いやすい制度にすべく、ペナンの華人が海峡植民地において積極的に政治参加を試み、秩序構築に参与しようとした側面をとらえる」。第Ⅲ部「秩序転換期の中国との関係構築」は4章からなり、「体制維持を図る清朝政府とその打倒を目指す勢力とが財源や人材の調達を中国国外に居住する富裕な華人に期待し、彼らとの関係構築を積極的に図るなかで、ペナンの華人は中国における安全確保を目的とし、政治情勢が流動的ななかでそれぞれの勢力と多元的に関係構築を図ったことを論じる」。
 そして、以上の議論を踏まえて終章「越境を生きるための政治参加」で、「「華僑から華人へ」という視点が持つ四つの問題点、すなわち、一元的にとらえられるアイデンティティ、一人の個人に一つの国籍、常に中国との関係で規定される華人性、固定化される華僑イメージを、本書がどのように相対化することができるのか、また相対化することの意義は何かについて論じる」。
 その終章では、まず「ペナン華人商業会議所および華人公会堂は、それぞれの国家におけるルールや秩序を踏まえ、それぞれの国家において自らが享受しうる権利を認識し、自らの権利の拡大を主張しながら、それぞれの国家を統治する公権力とその国家を構成する社会との関係構築に努めていた」ことから、「多元的な関係性とアイデンティティ」が存在したと結論した。
 つぎに、国籍を超えて権利を主張したことを、つぎのように説明している。「華僑はもともと中国国内の出自地で選挙権と被選挙権を持っていたが、これに加えて、中国国外の居住地で代表者を選び、その代表者の互選により議員を送る権利を認められた。華僑は、中華民国の政治に参加するうえで、中国を経由せず、海外から中央に直結する特別な経路を使う資格を持つこととなった」。
 3つめに、ペナンの華人の事例から「華人としての集団性が意識される契機が東南アジアでは歴史的にかつ日常的に存在し」、「東南アジアの文脈で規定される華人性」が生まれたことを示し、さらにつぎのように解釈した。「文化的に同化しない華人を東南アジア社会に統合されない存在として見る視点があり、そうした視点への批判として文化的な同化の度合いではなく当事者の意志を重視する「華僑から華人へ」という視点が生まれた。しかしこれらの視点はそもそも、文化的な固有性を維持することが社会への統合を保証しうる場合もあったという、東南アジア史に内在する諸相の一つを見落としていたと言えるだろう」。
 このような議論を経て、4つめの「固定化される華僑イメージ」では説明がつかないことが多々あることがわかった。とくに、居住した地域・社会によって違うものになっていた。そして、それは今日にも通用することだと、つぎのように説明している。「海峡植民地期のペナンで外部に出自を持つ人たち(華人も含む)が実践したプラナカン的生き方は、人の移動が著しい今日の世界において多くの人が参照可能な生き方であるだろう。今日の世界では、国境は越えないにしても、生まれ育った場所だけで生涯を終える人はきわめて少なく、生活や事業の構築・発展のために移動を経験する人がほとんどであり、新たな土地で自らの居場所をどのように作っていくかという課題に向き合うことになる。そうしたなかで、自らの出自をたどりうる土地との関係性を維持し、参照点をいくつか持ちながら、新たな土地の社会のあり方の理解に努め、その土地の人たちと関係を構築し、自らにとっても居心地のよい社会のあり方を作っていこうとした海峡植民地期ペナンのプラナカンたちの生き方は、現代社会に生きる人びとが参照しうる生き方であるだろうし、プラナカンは時代や地域を超えて誕生し続けていると言える」。
 冒頭で投げかけた民族の代表を通じての政治参加については、つぎのように説明している。「マレーシア半島部では、一九四〇年代末から一九五〇年代にかけて「民族の政治」が制度化していった。「民族の政治」は、社会の構成員はマレー人、華人、インド人のいずれかに所属することを前提とし、民族の代表者を通じて政治に参加し、資源の公的分配や行政サービスを受けるという制度である」。「ペナンの華人の戦略が現在に至るまで引き継がれ」、「マレーシア半島部における政治参加の基本設定である「民族の政治」に見ることができる」。だが、著者は、「「民族の政治」は今日、新たな局面にさしかかっているように思える」と述べている。
 本書において、イギリス本国と中国本国とを結ぶ関係性のなかで、海峡植民地の地域社会のひとつであるペナンに居心地のよさを求めた華人の戦略が浮かびあがってきた。そして、そのなかでプラナカンがもつ東南アジア全域、あるいはそれを超えたネットワークが存在したことがうかがえた。東南アジアという海域社会がこのような人びとを受け入れた結果が「プラナカンの誕生」につながるなら、海域東南アジアという枠組みで理解することが重要になる。また、南アジアとの関係も、今日につながる問題として考える必要があろう。本書を通じて、ひとつの答えがでただけに、さらなる課題に取り組んでいけそうである。

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