藤原辰史編『歴史書の愉悦』ナカニシヤ出版、2019年7月1日、254頁、3000円+税、ISBN978-4-7795-1397-8
編者、藤原辰史は、「はじめに」の冒頭、本書の趣旨をつぎのように述べている。「歴史書は、単に歴史を学ぶ道具ではない。歴史の授業の延長として視野を広めるための教材という意義もあるが、むろんそれだけではない。文学、絵画、写真、映画などの作品と同様に、鑑賞する者の内面に愉悦を感じさせる作品でもある。単純に、読んで楽しいものでもあったはずだ。愉悦とは、心地よさと同義ではない。五官に刺激を与え、心と体を癒やす、そんな観光ガイドブックの定型句のような感覚ではない。危険と不安に満ちた異世界への時間旅行を、歴史書はもたらすのである。「トリップ」後の読み手は、自分の生きている時代がどんな時代だったかを忘れるような空気にひたり、自分の生きている空間に違和感を覚え、歴史書の世界への郷愁に心を掻き回されることがある。優れた歴史書の持つ力は、読み手を異世界の海にひたらせ、ゆらゆらと漂わせる、そんな領域にまで及んでいた。しかも、大上段に振り構えられた言葉では届かない領域にも踏み込める現状批判の言葉は、史実の正確かつ綿密な把握ばかりでなく、それに伴う歴史書の「愉悦」によっても築かれてきたはずだった」。
「ところが、現在の日本の歴史書の少なからぬものは」、編者のいう「愉悦」とはほど遠いもので、そのうえ「歴史書の読み手も読書時間が削られたり、浩瀚な本を読み抜く忍耐力が衰えたりして、歴史ファンでさえも、読みやすい手頃な本に手を伸ばす傾向がある」。編者は、「何日もかけてじっくりと歯ごたえのある歴史書に取り組むことが、ただ知識を入れるだけの読書よりも悦びに満ちた行為であることを伝える」ため、執筆者にそれぞれの「座右の書」についてエッセイを書いてもらった。
本書の構成は、テーマを設定して、つぎのように配置した。「第Ⅰ章「中心と周縁を揺るがせる」では、宗主国と植民地、都市と農村、支配する側とされる側などを扱っている本が揃っている。第Ⅱ章「声なき声に耳をすます」では、歴史の表舞台からは聞き取りづらい民衆のささやきや動物の声、そういったものに耳を傾けた先人たちの本を扱っている。第Ⅲ章「精神の森に分け入る」では、とらえどころのない精神の動きや時代の空気に挑んだ作品が並ぶ。第Ⅳ章「歴史を叙述する」では、歴史を叙述することへの厳しい自己凝視に堪え、革新を目指した歴史書、あるいは、そういったことを書き手に考えさせる歴史書が挙げられている。いうまでもなく、各章のテーマをまたぐ歴史書も多いことは、編者の能力の限界をあらわすばかりではない。選ばれた本のスケールの大きさの証左でもある」。
もちろん、編者は、ここで取りあげられた「ハードでディープ」な歴史書ばかり読んでいてはつまらないことを知っている。編者が批判としてあげた「生命の短い」歴史書も、その短い期間に読むことによって大いに意義があることがある。「生命の短い」歴史書が、なぜ一瞬異彩放ち、消えていったのかを知ることも、その時代を知る大きな手がかりになる。「生命の長い」ストックな歴史書と「生命の短い」フローな歴史書を読み比べるのも、それぞれの長短がわかっておもしろい。
問題は、「愉悦」を楽しむことができるだけの時間と心のゆとりがあるかどうかだ。日本の大学でもサバティカル制度が導入されて、何年かに数ヶ月間から1年間、授業から解放されるようになった。そのときこそ、「何日もかけてじっくりと歯ごたえのある歴史書に取り組む」絶好の機会だ。
「ところが、現在の日本の歴史書の少なからぬものは」、編者のいう「愉悦」とはほど遠いもので、そのうえ「歴史書の読み手も読書時間が削られたり、浩瀚な本を読み抜く忍耐力が衰えたりして、歴史ファンでさえも、読みやすい手頃な本に手を伸ばす傾向がある」。編者は、「何日もかけてじっくりと歯ごたえのある歴史書に取り組むことが、ただ知識を入れるだけの読書よりも悦びに満ちた行為であることを伝える」ため、執筆者にそれぞれの「座右の書」についてエッセイを書いてもらった。
本書の構成は、テーマを設定して、つぎのように配置した。「第Ⅰ章「中心と周縁を揺るがせる」では、宗主国と植民地、都市と農村、支配する側とされる側などを扱っている本が揃っている。第Ⅱ章「声なき声に耳をすます」では、歴史の表舞台からは聞き取りづらい民衆のささやきや動物の声、そういったものに耳を傾けた先人たちの本を扱っている。第Ⅲ章「精神の森に分け入る」では、とらえどころのない精神の動きや時代の空気に挑んだ作品が並ぶ。第Ⅳ章「歴史を叙述する」では、歴史を叙述することへの厳しい自己凝視に堪え、革新を目指した歴史書、あるいは、そういったことを書き手に考えさせる歴史書が挙げられている。いうまでもなく、各章のテーマをまたぐ歴史書も多いことは、編者の能力の限界をあらわすばかりではない。選ばれた本のスケールの大きさの証左でもある」。
もちろん、編者は、ここで取りあげられた「ハードでディープ」な歴史書ばかり読んでいてはつまらないことを知っている。編者が批判としてあげた「生命の短い」歴史書も、その短い期間に読むことによって大いに意義があることがある。「生命の短い」歴史書が、なぜ一瞬異彩放ち、消えていったのかを知ることも、その時代を知る大きな手がかりになる。「生命の長い」ストックな歴史書と「生命の短い」フローな歴史書を読み比べるのも、それぞれの長短がわかっておもしろい。
問題は、「愉悦」を楽しむことができるだけの時間と心のゆとりがあるかどうかだ。日本の大学でもサバティカル制度が導入されて、何年かに数ヶ月間から1年間、授業から解放されるようになった。そのときこそ、「何日もかけてじっくりと歯ごたえのある歴史書に取り組む」絶好の機会だ。