早瀬晋三書評ブログ2018年から

紀伊國屋書店「書評空間」https://booklog.kinokuniya.co.jp/archive/category/早瀬晋三に2005~15年に掲載された続きです。2015~18年に掲載されたものはseesaaブログshohyobloghayase.seesaa.net/ で閲覧できます。

2019年08月

太田泰彦『プラナカン-東南アジアを動かす謎の民』日本経済新聞出版社、2018年6月22日、250頁、1800円+税、ISBN978-4-532-17635-8

 数年前にシンガポールのプラナカン博物館に行ってみた。日本語ガイドに案内されていくうちに、ここがかつてアジア文明博物館だったことを思い出した。同じ建物が利用されて、2008年にプラナカン博物館として、生まれ変わったのだ。そして、そこには東南アジア文明とよぶにふさわしい、独自の文化・生活が展示してあった。マラッカにも、ババ・ニョニャ・ヘリテージがあり、プラナカンの暮らしぶりがわかる。
 本書は、「気高い美意識の謎に満ちた人々」であるプラナカンの物語である。表紙見返しでは、つぎのように要約している。「プラナカンと呼ばれる異色の民が、東南アジアの国々にいる。彼らは、華僑とも異なる存在で、アジア経済界で隠然とした勢力を持ち、その気高い美意識を誇る氏族の素顔は、いまなお謎に包まれている。彼らは経済をどのように牛耳り、歴代の先人が残したその伝統を、誰が未来に渡すのか、栄華の痕跡を残すマラッカ、ペナン、シンガポールの街のほか、東南アジアの各地をめぐり、秘められたプラナカンの物語の扉を開く」。
 本書は、プロローグ、全5章、エピローグからなる。第1章「リー・クアンユーの秘密」では、シンガポールの建国の父が、「プラナカン」と呼ばれることを拒否した独立直後の1965年の発言から、それが「華人、マレー人、インド人をめぐる民族問題だけでなく、宗主国だった英国との関係、そして国内での支配と非支配の階級・・・・・・。こうした厄介事のすべて」に絡むことが理解できる。
 第2章「色彩とスパイス」では、「プロローグ」でつぎのようにまとめられたプラナカン文化とその担い手が紹介されている。「鮮やかなパステルカラーの陶磁器。暮らしの隅々まで溶け込んだ数々のスパイスとハーブ。ココナツやパイナップルなど南洋の果実を使うニョニャ料理。インドの影響が感じられる華麗な民族衣装のサロン・ケバヤとバティック。そしてババ・マレーと呼ばれる不思議な言語・・・・・・。プラナカンの伝統と文化は奥が深く、その全容はいまなお厚いベールに包まれている」。
 第3章「日本が破壊したもの・支えたもの」では、日本が「破壊」したものをつぎのように語っている。「日本軍は、教師、弁護士、医師など高い教育を受けた華人も標的にしました。知識層が抗日運動の指導者となることを恐れていたからです。そして、高等教育を受ける層は、裕福なプラナカン家庭と重なります」。「略奪やレイプを怖がり、女性たちは家の奥に隠れました。既婚女性ならレイプされにくいと考え、日本軍が侵攻する直前に若い女性が結婚を急ぎました。こうしてコミュニティーの中でだけ婚姻関係を結ぶプラナカンの伝統が崩れていきました。プラナカンの黄金時代は、日本軍の侵攻によって終止符を打たれたのです」。そして、著者はつぎのように、自分の意見を述べている。「少なくともシンガポール人の間では旧日本軍が残忍な破壊者として記憶に刻まれていることを、私たちは理解しなければならない。歴史書などではソチン[虐殺]事件の被害者は「華人」とだけ記されている。その多くがプラナカンであったことも知らなければならない。プラナカンが世に生み出した美を愛好し、尊ぶのであれば、日本とプラナカンの歴史に思いをはせることもまた、私たち日本人の責務だと私は考える」。
 第4章「通商貴族の地政学」では、ゴム、砂糖、スズなどで成功した人びとの物語が紹介され、そのひとりであったタン・トクセンが慈善家で、シンガポールに病院を建てたこと、その息子のひとりがタイの王室で重用され、孫がASEAN設立の立役者となったタナット・コーマンであることなどが語られている。
 第5章「明日を継ぐ者」では、冒頭つぎのように語られている。「東南アジア各地に散らばったプラナカンたちは、行き着いた先々の土地に溶け込んでいく。絶頂期に海峡植民地で輝いたババ・ニョニャの伝統文化から、どんどん離れていくように見える。プラナカンは希薄化し、やがて歴史の彼方に姿を消していくのだろうか」。「だが、未来に向けて、新しい価値の創造に挑む新世代もいる。この章では、自己の存在意義とアイデンティティーを自問しながら、それぞれの分野で進化するプラナカンの姿を追う」。
 そして、その答えを「エピローグ 消えていく時がきた」で、つぎのように述べている。「だが私は、プラナカンは消えていかないと予感している。グローバル化したこの世界で、変容しながら生きていくだろうと感じている。進化して姿を変えた未来のプラナカンに、私たちは世界のどこかでまた出会えるだろうか」。
 さらに著者は、「あとがき」でつぎのように問いかけている。「東南アジアの社会は、多くの民族、言語、宗教が重なり合ってできています。その歴史の地層に染みこんで伝わる水脈のように、プラナカンたちは国家の枠組みを超えて、国と国、地域と地域をつなぎました。その活躍はいまでも続いています。世界と日本をつなぐ浸透力のある人は、どれだけ日本にいるでしょうか」。「プラナカンが現代の私たちに問いかけるものは何でしょうか。グローバリゼーションの中での国や組織、個人のあり方を考える上で、私の現地報告が、少しでも読者のお役に立てるのであれば幸せです」。
 かれらがプラナカンになり、グローバル化する今日に、新たな活躍の場を見いだしているのも、かれらが生まれ育ったのが海域東南アジアだったからである。ヒトもモノも、さらに価値観までもが流動性の激しいなかで、本国中国や日本にまで活動の舞台を広げていった結果が、新たな民族を生み、文化を育てていったのである。そして、グローバル化とともに、その舞台は世界へと広がっている。本書は、東南アジアから広がる今日、これからの世界を考えるのに大いに役立つ。

琉球新報・山陰中央新報『環(めぐ)りの海-竹島と尖閣 国境地域からの問い』岩波書店、2015年2月25日、202+8頁、1800円+税、ISBN978-4-00-024954-6

 日本の地方紙も捨てたもんじゃないな。明るい気分で、読み終えた。だが、それも一瞬だった。本書の底流に流れていた「「私たちが住む地域を決して紛争の地にはさせまい」との誓いだった」という地方紙の切実な声が、とても中央政府に届くとは思えないからである。
 本書の基となる山陰中央新報と琉球新報の合同連載企画「環(めぐ)りの海」がはじまったのは2013年2月22日、島根「竹島の日」だった。それから同年6月23日の沖縄「慰霊の日」まで、計62回、5部構成で連載された。その背景には、つぎのような共通の思いがあった。「隣国との対立が深まる中、国境地帯に住む私たちは領土問題から「地域の視点」が抜け落ちているとの思いを強くした。歴史をひもとけば、日本政府の外交姿勢はその時々の事情で揺れ動き、最も身近な場所に暮らす島根、沖縄両県民の生活権益を置き去りにしてきた。その印象は拭(ぬぐ)えない」。
 合同企画の基本にあったのは、つぎのふたつのことだった。「両紙の話し合いの中で最初に出たコンセプトは「生活者の視点」であった。領土問題は国と国の境界で起き、「国家間の問題」と捉えられがちだ。だが、その地域に住む者にとっては、漁業者が生活の糧を得るところであり、人やモノが行き交う交流の場である。国と国の対立が先鋭化する今だからこそ、あえて住民の視点にこだわりたい。そういう意見で一致した」。
 「もう一つ、「国境の海を火の海にはしない」という決意もまた、連載を貫く柱だった。領土問題はナショナリズムを強く喚起するだけに、国民の対立感情は高まり、強硬策に傾きがちである。ことに日中間では武力衝突すら懸念されていた。しかし、最終的に紛争に発展すれば、被害に遭うのは国境地域に住む「生活者」である。太平洋戦争で多くの一般住民が犠牲になった沖縄戦はその象徴だ。「沖縄を、日本を、アジアを、再び紛争の地にしてはならない」という思いを、両県の読者だけでなく海を取り巻く人々と共有したいと考えた」。
 その結果、企画はつぎの5部構成になった。「第一部「不穏な漁場」は竹島と尖閣諸島の周辺海域を舞台に漁業者が直面する現実を描いた。第二部「対岸のまなざし」は中国や韓国を取材し、対岸にも多様な考えの生活者がいることを伝えた。第三部「絡み合う歴史」は竹島と尖閣諸島の歴史をたどり、日本側の領有の裏付けや係争の火種となった要因を集約。第四部「世界のアプローチ」は、対立を乗り越えた世界の知恵を求めてヨーロッパやアジアの国境地帯を訪ね、そこに住む人々に話を聞いた。最終の第五部「踏み出す一歩」では、地域に住む人々は領土問題にどう向き合えばいいのか、ということを具体的に提起させてもらった」。
 この企画の成果は、「おわりに」でつぎのようにまとめられた。「領土問題は一朝一夕に解決できる問題でない。だからこそ硬直した思考に陥ることなく、歴史的経緯を見定め、自らの主張の根拠を踏まえながら、相手国の立場に思いをはせる姿勢も求められる。国境を隔てた地域の住民が経済的な結び付きを強め、交流を深められれば、紛争は互いの不利益となる。連載を通じて、世界には、問題を冷静に見つめる視点や平和的な解決を模索する素地があると知った。問題を解決した先行例、平和的な決着を模索する挑戦が世界中にあることを、私たちの目で確かめられたのは成果だった」。
 そして、もうひとつ「別の効用もあった」と、つぎのように述べている。「一県の問題として見ると〝地域の特殊事情〟などと言われがちだが、並べてみると、それは日本の〝構造的問題〟だと気付く」。
 これらの成果から、地方の生活者としてだけでなく、東アジア地域の生活者、世界の生活者としての視点が重要になってきていることがわかる。それなのに領土問題となると、本書でも竹島も尖閣諸島も「日本固有の領土」とする日本政府の見解を大前提として話を進めている。これが、いまの日本の「報道の自由」の限界とみるのか、議論を進めるための方便とみるのか、本書で書けなかった無数の論争があったことが想像される。それを信頼で乗り越えたことが、つぎのように書かれている。「地方紙連携の企画は、両社が共有できるコンセプトをしっかり立て、最後まで貫くことが重要だと感じた。連載中、何度も迷いそうになったとき、「生活者の視点」「紛争の地にさせない」というコンセプトに立ち返り、確かめ合ったことが信頼関係を育てたと思う。編集作業上の困難な局面を乗り切ることができたのは、信頼関係があればこそだった」。
 連載が無事終わり、本書として出版できたことに、こころから敬意を表したい。

伊藤公雄ほか『唱歌の社会史-なつかしさとあやうさと』メディアイランド、2018年6月20日、263頁、2000円+税、ISBN978-4-904678-58-9

 「心にしみわたる唱歌の数々 その陰には歴史の秘密が隠されている・・・」。帯の表にある謎かけの答えの一部は、つぎのように帯の裏にある:「・明治の人には、西洋音楽は歌えなかった!?」「・「蛍の光」には戦後黒塗りにされた3、4番があった!?」「・「われは海の子」は軍艦に乗り込むのが最終目的だった!?」「・「鉄道唱歌」は地理の学習教材だった!?」「・「ふるさと」が歌っているのは中年男の悲哀だった!?」。
 本書は、3つの部分からなる。最初の部分は2014年10月から翌15年9月まで計12回、京都新聞朝刊に連載された「唱歌の社会史」で、解説者の中西光雄は「「蛍の光」をはじめ、「故郷」「春の小川」などを俎上にのぼし、四季を詠い込んだ叙情性とか懐かしさの背後にあるものに迫った。併せて日常生活や個々人の内面に与えた影響などをあぶり出していった」。
 連載終了後の2015年11月、本書のタイトルと同じ「唱歌の社会史 なつかしさとあやうさと」と銘打ったコンサートを兼ねた討論会をおこない、「座談会」として本書に掲載した。最後の部分は、その討論会にパネリストとして参加した3人(中西光雄、河津聖恵、山室信一)が、討論で「語りきれなかったことや、やりとりを通して触発されたことなどについて」書き下ろした。その内容は、つぎのように要約されている。「歌詞が文語から口語に変わっていく意外な経緯、唱歌と童謡の関係、旧満州や植民地時代の朝鮮半島、台湾での唱歌的な存在の受容のされ方-などなどいずれも興味深い論考となっている」。
 最後に、討論会のコーディネーターを務めた伊藤公雄が「むすびに 「うた」のなつかしさとあやうさ 近代日本社会と「国民意識」」を書いている。その冒頭で「三人のトークと論文」を「隠されたナショナリズムの誘惑」という見出しで、つぎのようにまとめている。「詳細な文献渉(しよう)猟(りよう)から、唱歌と国家とのつながりや、国家の名の下でおこなわれた歌詞の改変や削除を論じ、学校唱歌のもつ政治性を明らかにしてくれた中西さん、抒情詩人としてよく知られる北原白秋の否定的な唱歌観という問題を明らかにしつつ、晩年の戦争鼓舞の詩人としての彼の姿を論じ、多くの人が抱いてきた白秋イメージを大きく書き換えてくれた河津さん、さらに、植民地と唱歌の分析から国民国家と地理唱歌という視点を提示され、東アジアにおける日本の唱歌のたどった道筋を思いもかけぬ方法で議論していただいた山室さん。これらの三つの章が、トークでの議論と重なり合いつつ、近代日本と唱歌の社会史を立体的に私たちの前に提示してくれました」。「特に、美しい自然の描写や優しい気持ちの表現の内に、隠されたナショナリズムの誘惑という課題が浮かび上がってきたように思います」。
 京都新聞連載の「唱歌の社会史」を書いた永澄憲史は、「はじめに」で「帝国日本の産物でもある唱歌というフィルターを通して、今という時代を考え直すいい機会ではないだろうか」と問いかけている。あやういメッセージを嗅ぎ取る臭覚が必要なあやうい時代になっているということか。

永松靖典編『歴史的思考力を育てる-歴史学習のアクティブ・ラーリング』山川出版社、2017年6月30日、212頁、2000円+税、ISBN978-4-634-59102-8

 キ-ワードは、「歴史的思考力」である。しかし、この「歴史的思考力」ということばは、1960年の学習指導要領の改訂以来使われ続け、「歴史学習の目標として「歴史的思考力」を培うことが重要である」と「多くの歴史教育に携わる者が共通して認識している」にもかかわらず、現行の学習指導要領にも明確には定義されていない。
 「なぜ、「歴史的思考力」を培うことが、歴史学習の目標となっている」のか、つぎのように説明されている。「そこには「国際社会に主体的に生き平和で民主的な国家・社会を形成する日本国民として必要な自覚と資質を養う」とあり、日本史も世界史も地理歴史科の科目として、「平和で民主的な国家・社会を形成する日本国民として必要な自覚と資質」を育成するために学習するものと位置付けられている。学習指導要領の解説では「「平和で民主的」とは国家・社会が維持・発展させるべき価値を示しており、そうした国家・社会を構成すると同時に自らが責任と自覚をもってその形成に主体的にかかわる存在であることが求められている。国際的な相互依存が進む中で、自らが国際社会の形成者であること、また、自らがよって立つ平和で民主的な国家・社会を維持・発展させることについての日本国民として必要な自覚と資質を養うことが、この教科の最終的な目標である」とされている。「平和的で民主的な国家・社会を形成する日本国民として必要な自覚と資質」とは、「民主主義的な価値観に基づいて平和で民主的な国家・社会を維持発展させるために、一人一人が身に付けなければならない自覚や資質を意味しており、その資質として、「地理的な見方や考え方」とならんで「歴史的思考力」を育てることが位置付けられていると考えられる」。
 本書は、「歴史的思考力」を育てるために、全3部からなる。第Ⅰ部「歴史的思考力とは」は全3章からなり、第1章で「「歴史的思考力」を考える」、第2章で「「歴史的思考力」を育成する指導」、第3章で「「歴史的思考力」をどう評価するか」を検討する。第Ⅱ部「実践事例」で「「主体的・対話的で深い学び」(アクティブ・ラーニング)を実現するための授業の実践事例を紹介し、歴史学習の在り方を考える」。そして、第Ⅲ部「これからの歴史学習に向けて」でまとめている。
 第Ⅰ部第1章を通して、まず「「市民性」に求められる資質・能力と「歴史的思考力」との関係」をつぎのように理解する。「「現代・現在の問題にのみ関与するのではなく、私たちは過去の問題と同時に未来の問題についても関心を持ち、考え、行動しなくてはならない」のであり、「多次元的市民性を考えるときに過去を考えることが必要となる。多次元的市民的資質として、自国のみならず世界の歴史的知識が不可欠となる。それによって人々は複雑なつながりの中に現在があることを知る」。
 つぎに、「現行の学習指導要領の「歴史の見方・考え方」の育成を目指す手立てとして示された「歴史と資料」「歴史の解釈」「歴史の説明」「歴史の論述」を参考に、思考の「道具」(ツール)として「歴史的思考力」をもう一度考え」、つぎの4つを「仮説的に「歴史的思考力」を構成する要素」としてあげている。「(1)過去の社会的事象に関する様々な資料から、その内容を科学的に適切に読み取る力 (2)過去の社会的事象に関して、他の事象との因果関係や、時間の推移に伴う変化などを論理的に考察し、その意義や意味を解釈する力 (3)過去の社会的事象に関して、多面的・多角的に考察し、複数の解釈が成立することに気付き、解釈の根拠や論理を説明する力 (4)過去の社会的事象に関して、その意義や意味を総合的に表現するとともに、新たな課題を見つける力」。そして、4つのうち最初の3つを対象として「現状」調査をおこない、今後の課題を把握して、アクティブ・ラーニングの参考とした。
 第Ⅱ部では、「高等学校における世界史分野5本、日本史分野6本、総合的な学習の時間1本の実践事例について」紹介し、「その内容と特色、実践の意義などについて解説」している。
 そして、第Ⅲ部をつぎのように結んでいる。「21世紀に入って世界はますます分裂の様相を呈しているようにみえる。価値観は多様化し、市民性の概念も揺らぎがちである。政治的ポピュリズムも横行しているようにみえる。宗教的・経済的・政治的対立から、人々の暮らしが破壊されている地域も多い。世界で6500万人以上の難民が生まれ、受け入れる側の悲鳴も聞こえてくる。現在進行形で私たちの前に横たわっている様々な課題は、それぞれの歴史的な過程を経て生まれてきたものであり、歴史的な事象である。その歴史的事象である現代の諸課題を、客観的に分析し、その解決を考えていくためには、過去の類似した事象と比較検討したり、その特性を明らかにしたりすることが不可欠である。歴史的な思考が求められる所以である」。「これからの困難な時代を生きる子どもたちが市民として身に付けるべき市民性を支える道具(ツール)としての「歴史的思考力」を育成することが求められている」。
 第Ⅱ部で紹介された「実践事例」をみると、大いなる可能性を感じる。だが、それは個々の教員の関心と努力、そして熱意に支えられているように感じられる。「普通」の教員が実践するための工夫が必要である。とくにいま起こっているホットな話題について、「歴史的思考力」が必要なことを示す必要がある。そのためには、モデル授業を提供する組織が必要である。個々の教員の善意と熱意だけで、アクティブ・ラーニングを実戦するのは無理である。

岩間敏『アジア・太平洋戦争と石油-戦備・戦略・対外政策』吉川弘文館、2018年6月10日、188頁、3000円+税、ISBN978-4-642-03876-8

 本書は、1946年生まれの著者、岩間敏が2016年に認定された博士論文などをもとにまとめたものである。
 本書の目的は、「はじめに」で、つぎのように説明されている。「アジア・太平洋戦争は、具体的には米国の石油禁輸の後、日本が蘭印に石油の代替供給を求めた戦いであった。また、開戦時の真珠湾攻撃が成功するかどうかの最大の懸案は艦隊への石油補給であった。なぜなら、日本の艦隊は長距離渡洋用に設計されていなかったためである。そこで、攻撃の機動部隊は予備油槽を設置し、ドラム缶、石油缶を積載して出撃した。本書では、まず対米英開戦前の日本の戦備を確認し、この機動部隊の航海に着目して真珠湾攻撃を考察する。アジア・太平洋戦争は開戦前、緒戦、戦争中も石油が大きな課題であり、石油を求めた戦争であった。では、なぜ、最重要物資の石油の輸出国、米国と戦争をすることになったのであろうか。また、この事態の急変に対して日本はどのような予測と対処をしたのであろうか。そこには満州事変以来、10年間の日本の対外政策の集積があった。本書は石油と戦備をめぐる国内の動向、さらに外交交渉に焦点を当てて「アジア・太平洋戦争と石油」の関係を明らかにする」。
 本書は、はじめに、全8章、終章、あとがき、からなる。その内容は、裏表紙につぎのように書かれている。「蘭領東インドとの輸入交渉、真珠湾攻撃での洋上給油作戦、石油備蓄と需給の予測、南方からの石油輸送と海上護衛戦の実態、本土空襲と製油工場の被害などを考察」。必ずしも時系列ではなく話が前後するときもあり、また論理的な章別構成になっていないところもあって理解しづらい面があるが、終章のタイトル「石油から見る総力戦の末路」を理解するには充分な内容になっている。
 その終章の冒頭には、つぎのように結論の一端が書かれている。「アジア・太平洋戦争は日本の政治、外交、軍事が行きついた一つの結論であり、日本人の行動、能力、思考、判断そのものの総力戦であった。開戦年、1941年の日米間の物量差は、鉄鋼生産量で米国が日本の11倍、原油生産量は796倍であった。「日本は戦争で米国の物量に敗れた」という戦争専門家が多いが、この差は開戦前から明らかであった。物量の差を敗戦理由とするだけではなく、「なぜ、その物量的な大差を考慮せず無謀な戦争を始めたのか」が問われなくてはならない。物量差の無考慮は無謀そのものであるが、問題は物量以外の政策、外交、戦略、そして、何よりも情報の分析、理解、利用、判断において、日米間には大きな差があったことである。その差は、「こうすれば勝てた」などという問題ではなかった」。
 本書の中心論題の石油については、量だけでなく質も問題であったことを、つぎのように説明している。「本書では、石油の観点から戦争を俯瞰した。石油については量だけでなく質も大きな問題であった。米国は国内産業、大学、研究機関を総動員して高性能航空揮発油の増産法を開発した。戦争後半には、米国の実戦機はほとんどオクタン値100の航空揮発油を使用していた。米国は高オクタン価航空揮発油を日産約45万バレル(約7万kl)生産した(略)。これは年産量で約2600万kl(生産能力は年2900万kl)となる。この量は日本が戦争期間中に消費した重油を含む全石油量の約2000万klより多い。日本は敗戦までオクタン価100の高性能航空揮発油を工業的に製造することができなかった。実戦で使用されたオクタン価92の航空揮発油も、戦争後半には量を稼ぐためにオクタン価87、アルコール混合へと低下した。当然のことに、その分発動機の能力は低下した」。
 物量、質で劣る日本が、精神力を強調した理由がわかる。目先の勝算からはじめることはたやすい。だが、その目論見がはずれ、やがて破綻が来るとわかったとき、一刻も早く軌道修正することが、指導者には求められる。日本の指導者には、それができなかった。そして、いまも「禁じ手」の金融政策を続けている。いったい、だれが責任をとるのか。かつての過ちを繰り返すほどの愚行はない。

小島毅『天皇と儒教思想-伝統はいかに創られたのか?』光文社新書、2018年5月30日、315頁、860円+税、ISBN978-4-334-04354-4

 本書の目的、内容については、「はじめに」のつぎの見出しを見ればわかる:「はじまりは「おことば」」「天皇をめぐる諸制度は明治時代に改変された」「創られた伝統」「「日本」の自明性を疑う」「各章の構成」「本書の立場について」。
 まず、本書執筆の動機は、2016年8月8日に天皇が国民に向けて公開されたビデオメッセージ「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」により、つぎのように説明している。「一部論者によって伝統的な天皇のありかたという、一見学術的・客観的な、しかしそのじつきわめて思想的・主観的な虚像が取り上げられ、「古来そうだったのだから変えてはならない」という自説の根拠に使われた。そうした言説に対する違和感と異論が、私が本書を執筆した動機である」。
 つぎに、「天皇をめぐる諸制度は明治時代に改変された」は、つぎの説明ではじまる。「天皇をめぐる諸制度の多くは、じつは明治維新の前後に新たに創られたものである。本書はこれらのなかから、農耕と養蚕、陵(りよう)墓(ぼ)(皇族の墓。みささぎ)造営、宮中祭(さい)祀(し)、皇統譜、一世一元を取り上げる。また、新しい制度だとすでに広く認識されている太陽暦の採用についても扱う」。「祭祀・儀礼といった、古くからの伝統に由来しているはずの行為も、その多くがやはり明治維新の前後に新しく始まったものだった。洋装・洋館・洋食といった西洋化とは異質ながらも、それらもまた明治時代の近代天皇制を支える装置だった。すなわち、古制という名目によりながら、近代天皇制にあわせて改変されたものだった」。
 「創られた伝統」では、「明治維新で行われた「復古」は、近年普及した表現を借りれば「創られた伝統」」であり、「近代の国民国家(nation state)は自分たち固有の民族文化(national culture)を特徴づけるために過去の記憶を掘り起こす」。それは、中国についてもいえる。
 では、日本はどうだったのか。「「日本」の自明性を疑う」では、つぎのように説明する。「八世紀以来、天皇が君主として連綿と存続しているのは事実だが、その内実は変容してきた。江戸時代末期から明治の初期、いわゆる幕末維新期には、天皇という存在の意味やそのありかたについて、従来とは異なる見解が提起され、それらが採用されて天皇制が変化している。そして、ここでも儒教が思想資源として大きく作用した」。
 「各章の構成」では、全6章にわたって「天皇皇后夫妻の宮中行事、彼らに墓、毎年恒例の祭祀、歴代天皇の系譜、年の数え方という諸事項から、日本の天皇にまつわる「創られた伝統」を紹介していく」。
 そして、最後に「本書の立場について」、つぎのように述べている。「私が問題だと感じるのは、陛下の「おことば」に端を発する今回の一連の議論において、この神道教義を盾に取って皇室の伝統を云々する人たちが、かなりの発言力を持っていることだ」。「私が述べようとしている内容は、神道の信者ではないひとりの思想史研究者が、おのれの学術的良識から披露する「史実はこうだった」という見解である」。
 明治時代に「創られた伝統」は、維新の権力者が天皇制を利用した結果であるともいえる。そこには天皇にたいする神聖さや敬意・畏怖とは違う次元のものがある。いま明治維新以来の系譜を引き継ぐ国家指導者のもとで、「生前退位」がおこなわれようとしている。「おことば」は、本書を読むと、いまの政権の勝手にさせないという意思表示のようにもとれる。考えすぎだろうか。

村山新治『村山新治、上野発五時三五分-私が関わった映画、その時代』新宿書房、2018年5月20日、415頁、3700円+税、ISBN978-4-88008-474-9

 著者でメインタイトルの「村山新治」について知らなくても、帯にあることばを拾えば、どんな人かだいたいの想像がつく。帯の背には、「東映東京の揺籃期から爛熟期まで、つねにこの人の名前があった」とある。帯の表に「待望の書」と大書、「1957年『警視庁物語 上野発五時三五分』で監督デビュー。大泉・東映東京撮影所にエース登場!」「敗戦、占領、映画検閲、レッドパージ。それでも映画を作っていた- いま鮮やかに浮かびあがる、日本映画の青春時代」「村山新治、深作欣二、澤井信一郎、荒井晴彦による解説座談会を特別収録」。帯の裏には、評論家の川本三郎のつぎの推薦文が載っている。「一〇代の時、『故郷(ふるさと)は緑なりき』に感動し、村山新治の名前を知った。そして「警視庁物語」シリーズ、「鉄道映画『旅路』」。「東映の現代劇は村山新治なしには語れない。待望の書」。「戦後の混乱期、『ひめゆりの塔』『大地の侍』など多くの映画で助監督をつとめた。長い助走期間があったことに納得する」。
 本書は、全2部と資料からなる。第一部「私が関わった映画、その時代」は著者自身の執筆による「回想」、その「回想」をもとにした「解説座談会「その時代、その映画」を読み解く」からなる。第二部は「インタビュー 自作を語る」からなる。
 「回想」の執筆について、著者は「はじめに」でつぎのように述べている。「記憶だけで書けることといったら、私の関わった映画の裏話ぐらいのものである。何年何月は、なんという作品をやっていたか、助監督時代からの、グラフのような大ざっぱなメモのようなものがある。それを頼りに、まず助監督時代に現場で使ったボロボロの台本[本、ホン、脚本、シナリオとも]を引っぱり出してきたが、資料としてはそれだけである」。記憶だけでなく、原資料のメモと台本(および書き込み)に基づいて書いている。2年かけて「助監督の最後のところまで」書き、「そこでいちおう打ち切ることにして、第一回監督作品のことを二週間かけて根をつめて書き終えた」のが、1998年12月20日だった。1922年生まれの著者が、74-76歳のときに書いたことになる。
 「解説座談会」は、1999年12月におこなわれ、季刊『映画芸術』2000年夏号、秋号、冬号、そして2001年新春号に連載された。それから10年が過ぎた2011年の夏に本書の出版準備をはじめ、「あらためて村山新治本人にインタビューし、これで一冊の本にしよう、さらに詳細なフィルモグラフィーも入れてと、話はどんどん膨らんで」、それから数年が経ってようやく出版された。出版に尽力したのは、3人の甥たちであった。男6人兄弟(ほかに3姉妹)のうち、4人が映画関係者で、著者の甥の何人かも同じ道に進んだ。
 副題にあるとおり「その時代」を敏感に感じとる現場にいただけ、その時代その社会の生き証人で、その裏話が聞けるのであるから、映画関係者にとって「待望の書」であることは間違いない。原資料をもとに書かれただけに資料価値は高い。たとえば、映画界を襲ったレッドパージや労働争議についても、生き証人の語りになる。戦争映画については、今日の原点となる戦後史観の一端が見えてくる。映画完成記念写真や新聞広告からも、時代や社会を読みとることができそうだ。
 「新作の二本の映画が二週間おきに日本中の町の映画館にかかっていた、昭和戦後の映画黄金時代。それこそたった二十日間ぐらいの短い期間で量産されたいわゆる「プログラム・ピクチャー」。一九五八年には日本の映画人口(全国映画館の入場者数)が一一億二七〇〇万人と史上最高を記録」した時代であるから、映画の社会的影響力はいま想像する以上に大きかった。

本田善彦『台湾と尖閣ナショナリズム-中華民族主義の実像』岩波書店、2016年4月21日、208頁、2400円+税、ISBN978-4-00-061114-5

 2010年に中国漁船が日本の海上保安庁巡視船と「衝突」して、中国が尖閣諸島の領有権を主張したとき、なぜ台湾や香港の人びとが尖閣諸島上陸を目指して行動を起こしたのか、よく理解できず、たんにこと領土問題になると意見が一致するのか、くらいにしか考えていなかった。1970年代にアメリカではじまった尖閣諸島(釣魚台)の領有権を主張する台湾人の「保釣」運動が、「すべての始まり」だったことなど、まったく知らなかった。
 そのはじまりからについて、表紙見返しでつぎのように説明している。「その源流は、一九七〇年代のアメリカでベトナム反戦運動の影響を受けた、台湾人留学生らの学生運動にあった。単なる「抗日」や「愛国」とも言い切れぬ、運動の担い手たちの真意と、時代や国境を越えて通底する思潮とは何か。保釣運動の発生から一九九〇年代の再燃を経て今に至る経緯をたどり、関係者への丹念なインタビューをもとに、香港や中国本土とも絡み合う実像を活写する、渾身のルポ」。
 本書は全3部で、「北米」「台湾」「香港 中国大陸 華人世界」の3つの地域などを時代ごとに追っている。著者、本田善彦の目的は、帯の裏につぎのようにまとめられている。「本書は、台湾の住民や香港、さらには中国大陸をふくむ中華圏の人々が、尖閣問題にどのような目を向けているのか、そして尖閣問題を通じて意識される日本という他者の存在が、時にナショナリズムとして発露される彼らの思潮にどのような作用を及ぼしているか、という興味・関心を出発点とする。……「保釣」運動に携わった人物へのインタビューを通じて、「保釣」運動の発生と発展を追うとともに、それらを切り口に運動の背後に横たわる社会心理の一端に触れてみたい」。
 本書から、尖閣諸島の領有権をめぐる政治的な動きを理解することができた。いっぽうで、最初のほうに出てきた2013年の台日漁業協定にかんする台湾漁民の訴えが気になっていた。日本では、日本政府が台湾に譲歩した結果、沖縄漁民に不満が残ったようなことが報道されていた。これにかんして、ようやく最後の数頁で語られていた。
 「保釣」運動とは関係がないという漁業関係者は、つぎのように訴えている。「大陸や韓国は日本と交わした漁業協定に基づいて、一二海里以遠での操業が認められている。しかし台湾にはそれがなく不公平だ。台湾だけ優遇してほしいのではなく、他の漁民と一視同仁であるべき」「取り決めで当面の改善を見た。双方それぞれ不満もあるが、話し合いを経て一歩ずつ解決したい」。
 具体的な問題については、つぎのように語っている。「技術面の課題も残る。彼らによると、現在最大の懸案は、操業中に不可抗力で切れてしまった延縄ロープの回収だという」。「切れたロープが境界線を越えた場合、回収のため越境すると巨額の罰金を喰らうので回収を断念する。結果、海上を漂流した延縄が沖縄側のブイなどに巻きつき、〝台湾漁船が廃棄物を海上投棄した〟と告発される」。「人為的な行為でない場合、回収のための柔軟な措置も必要だ」。
 台湾人の日本にたいする不満の基底には、つぎの「あとがき」冒頭の活動家のことばがある。「台湾人を親日と決め込み、領土問題でも自分の都合のいい対応を期待すること自体、台湾人を馬鹿にして舐めた話だと思わないか。いくら日本と関係が深く日本に好意的な人々でも、自分の領土や財産を喜んで差し出すと思うか」。さらに、著者の「日本側が台湾を馬鹿にしている、と感じているのか」という問いにたいし、この活動家はつぎのように答えた。「そう感じているのは、私だけではない。実際の経験を通じてそう感じている台湾人は多い。日本は過去に五〇年間にわたって植民地として統治したから、台湾に対して民族的な優越感を持っており、それが無意識に台湾を軽視する様々な仕打ちや言動となって出てくるのだろう。ただ台湾人はそう感じても、日本の方が台湾よりも強くて大きいし、それに大陸との関係もあるから、結局いろいろあって日本人には言わないのだ」。
 台湾漁業は、日本の植民地時代に日本人とくに沖縄の漁民と台湾の漁民がともに開発した。戦後も、協力しあっていたのが、領有権争いが表面に出てくるようになって、「衝突」するようになった。「日本側には、台湾の漁民が求めているのは生活と生存のための漁業権の確保だと正確に認識してほしい」と強調している。台湾と沖縄の人びとの「生活と生存」について、もっと語ってほしかった。

三尾裕子・遠藤央・植野弘子編『帝国日本の記憶-台湾・旧南洋群島における外来政権の重層化と脱植民地化』慶應義塾大学出版会、2016年10月22日、291+8頁、6000円+税、ISBN978-4-7664-2359-4

 本書は、かつて日本の支配を受けた台湾と旧南洋群島の比較研究をすることを目的としている。3人の編者のひとり、三尾裕子は序章にあたる「台湾と旧南洋群島におけるポストコロニアルな歴史人類学の可能性-重層する外来政権のもとでの脱植民地化と歴史認識-」の冒頭の「問題の所在」で、つぎのようにその目的を説明している。「周知のように台湾は、日本の植民地統治を受けた経験がある。他方、旧南洋群島(国際連盟委任統治領)も、第一次世界大戦後から第二次世界大戦まで、日本の支配を受けたが、このことは、私たちは意外と普段意識することが少ない」。「本論集は、これら日本支配を受けたことがある二つの地域が対象である。具体的には、彼ら自身の植民地経験や、戦後の日本からの支配離脱後の生活過程の中で、日本に統治されたことや、日本を通して取り込まざるを得なかった「日本語」「日本文化」などが、彼らの歴史認識形成や、現在の文化の構築にどのように関係しているのかを明らかにし、両地域の比較研究を行うことを目的としている」。
 「両地域の比較研究の論点は、大まかに次の二点に集約されると考えている」。キーワードは、「文明化の使命」と「外来政権の重層性」である。
 「第一は、従来の植民地主義研究が、欧米の人類学の議論を基底にしてなされてきたことと関係している。植民地主義は、帝国による文化的なヘゲモニーの確立による、被支配者への文化的な抑圧、破壊、変容をもたらした。西洋の植民地研究をベースに発展した人類学では、帝国主義に基づく植民地支配が「文明化の使命」という美名のもとに被支配者の文化にもたらした暴力的な変化、また、文化の表象のあり方について、これまで議論を行ってきた」。「しかし、日本が統治した諸地域では、日本統治以前に「文明」を未経験であったというケースは稀であった」。「本論集では、日本統治以前、文化的に「文明」を経験した度合いが異なる人々において、「日本」に対する認識が如何に生まれ、それが植民地期以後の歩みの中で如何なる姿を見せたのかを一つ目の主要な論点としたい」。
 「第二は、台湾と旧南洋群島が、日本の敗戦後、新たな外来権力により統治されたことが、これら地域の人々の歴史認識形成や文化の構築に如何なる影響を及ぼしているか、という点である」。本論集では、「特に台湾と旧南洋群島に注目した。その最大の理由は、この二地域が、戦後、日本の退去に伴って、新たな外来政権に統治されることになったからである」。「この二つの地域の人々が、戦後の新しい統治者のもとで生を営んでいくにあたって、外来の統治者が日本の残した文化、制度などをどのように取り扱ったか、また戦後の当該地域と日本との間にいかなる経済関係や人的交流があったかなどに留意しながら、人々が「日本」をどのように他者化したり、排除したり、あるいは自らの文化の中に内在化させたりしていったのかを具体的事例に基づいて論じていく」。
 本書は、「序章」にあたる論文以下、全3部からなり、それぞれの部には3つの論文がある。「第1部 日本の植民地支配と国際環境」では、「台湾や旧南洋群島地域を支配する側に軸足をおいて、支配者側がそれぞれの地域をどのようにまなざし、また統治しようとしてきたのかという点を取り上げている」。「第2部 複数の文明・政権を跨ぐ記憶」では、「日本と中華民国、あるいは日本とドイツ、アメリカ、儒教を中心とする中華文明と日本を介した西洋近代文明、日本教育とキリスト教等、異質な文明、文化を跨ぐように経験してきたパラオ、台湾の人々の経験を取り扱っている」。「第3部 脱植民地化の試み」では、「戦後、新たに外から入ってきた政権のもとで、脱植民地化が代行された台湾とパラオにおいて、住民自身が、如何に脱植民地化を試みたのかを論じている」。
 本書の特色は、帯にあるように「ポストコロニアルな歴史人類学の可能性をひらく」ことにある。そのことは、「まえがき」で編者のひとり、遠藤央が、つぎのように説明している。「オセアニアの島嶼国家は人口も領土も小さいため、日本では存在感が薄いが、文化人類学の世界では、植民地主義研究、ポストコロニアル研究の成果が続々と発表されてきているという点で最先端を走っている。植民地主義の影響が大きく社会のあり方を変えたため、その研究が盛んになったという皮肉な側面もある」。
 もうひとつ、本書の執筆者たちが気にしたのは、「台湾とミクロネシアは日本ではしばしば「親日」ということばで語られる」ことだった。「研究会の場でも「親日」とはどういう語りから生ずるのかが何度も話題になった」。そのことは、帯の裏でつぎのようにまとめられている。「今日、日本人は、「親日」的に見える旧植民地の人々と出会ったときに、彼らの好意的な発言の背後に隠された旧植民地の人々の「脱植民地化」の苦悩への想像力を持てなくなってしまい、ノスタルジーに浸り、自らに心地よい解釈に酔うという落とし穴にはまってしまいがちになったのではないか。……私たちに求められているのは、彼らの声に耳を傾けることによる今更ながらの自らの「脱帝国化」ではないだろうか」。
 画期的な比較研究は、残念ながら「まえがき」にあるように「地域を越えた交流は刺激的であった」に留まり、「あとがき」での編者のひとり、植野弘子による「本書の結び」は「このプロジェクトで行ったミクロネシアにおける共同調査での出来事を記す」ことでおわった。台湾と朝鮮との比較研究でも、同じように芳しい成果は期待できない。すべてが「本国」日本を介しての交流であり、支配を受けたもの同士の直接の交流はあまりなかった。それでも、比較研究の可能性について挑戦したプロジェクト、その成果の一部としての本書は、表面に出ないところで大きな意義があっただろう。

佐谷眞木人『民俗学・台湾・国際連盟-柳田國男と新渡戸稲造』講談社選書メチエ、2015年1月10日、222頁、1550円+税、ISBN978-4--6-258594-1

 国立台湾博物館の展示を観ると、つぎつぎに日本人研究者の名前が出てくる。1908年に「公共建築物の代表傑作」のひとつとして建てられた台湾総督府博物館は、いまも博物館として利用され植民地支配の負の遺産としてではなく、その展示内容から正の遺産として受け継がれているように感じられる。しかし、本書の主題となっている3つのキーワードとのつながりはわからず、ましてや柳田國男と新渡戸稲造とのかかわりはまったくわからない。
 柳田と新渡戸の関係が知られていない理由を、著者、佐谷眞木人は「はじめに」でつぎのように説明している。「ひとつは、新渡戸が主として国際政治の分野で活躍したのにたいして、柳田は主に日本国内に民俗学を確立するという仕事に従事したことにあろう。二人が活躍したフィールドが異なりすぎていたために、その関係が見えにくかった、ということがある。いまひとつの理由は、両者が互いに相手について、まとまった文章を残していないということである。おそらくはたびたび往来したであろう書簡の類いもほとんど残されていない。このような資料の少なさが、関係の究明を困難にしてきた」。
 本書執筆のきっかけのひとつとなったのは、柳田の『遠野物語』の英訳者として知られるロナルド・A・モースの「柳田は新渡戸の背中を見て歩いていたのです」ということばで、著者は両者の関係の重要性をつぎのように述べている。「今日に続く日本の民俗学は日露戦争後の二十世紀初頭に、新渡戸と柳田という二人の農政学者によって創始されたといえるのだが、このとき学問の大きな枠組みを示したのが新渡戸であり、その枠組みにしたがって内容を実際化していったのが柳田だった。柳田の、ひいては日本における民俗学の成立を考えるうえで、新渡戸と柳田の関係を丁寧にみていくことが不可欠だと私は考える」。
 本書のもうひとつの目的は、「柳田民俗学はその基底において台湾や国際連盟体験が強い影響を与えている」ということを明らかにすることであり、つぎのように説明している。「台湾は日本にとって最初に獲得した植民地であり、日本が国内に抱えこんだ異文化であった。日本の国内に台湾をどのように位置づけるかは、政治的であるとともに文化的な問題でもあった。「台湾とはなにか」という問いは、「日本とはなにか」という問いを必然的に照らし返している。このとき、近代日本は内なる異文化としての植民地と向きあうことで、自己像を形成していったともいえるのである。言語も宗教も、生活習慣も価値規範も大きく異なる異文化のもたらしたインパクトは、「民俗学」という学問の成立に深くかかわっている」。「また、二人は国際連盟での仕事を通して西洋と向きあったことも、同じく重要な問題である」。「国際連盟との関係においても「日本とはなにか」という問いがあらためて立ちあらわれることになる」。「したがって、アジアの植民地といかに向きあうかという問いは、西洋といかに向きあうかという問いとも背中あわせに深く結びついている。柳田はアジアと西洋という二つの異文化と向きあうことで、日本の民俗学を生み出していくが、それは新渡戸の導きのもとに彼がたどったコースを反映しているのである」。
 本書は、「はじめに」、全7章、「むすびに」からなる。日本が台湾を領有してから年代順に新渡戸と柳田の足跡を追いながら、日本民俗学誕生までをたどる。本書裏表紙では、つぎのようにまとめられている。「農政学を修めた二人の男。新渡戸が植民地台湾で培った「治者」の視線に若き柳田は触発され、新たな「郷土」をめぐる学が胚胎する。だが、国際連盟(ジユネーブ)での「西洋」体験が、不幸にも二人のあいだを遠ざけ、ことばの壁に苦しむ柳田のまなざしは「常民」へと反転する……。近代にたいする切実な応答としての、日本民俗学誕生の過程を追う」。
 そして、つぎのように結論した。「柳田は挫折した官僚だった。政治の世界に生きつづけることができず、大臣にも、貴族院議員にもなれなかった。その後、転身した新聞社にも柳田の居場所はなく、経営幹部として残ることはなかった。それは柳田にとっては人生における「敗北」だったのかもしれない」。「しかし、そのような敗北が民俗学という学問を生んだのである。柳田の仕事が日本社会に与えた影響の大きさを考えるとき、この敗北は同時に鮮やかな勝利だったと言ってよいのではないだろうか」。「柳田は民俗学を既存の学問体系の外側に、民間の学として構築することによって、中央を頂点とした階層的な知のありかたを批判し、中央集権的な国家像とは異なる「日本」を作り上げようとした。官僚から逸脱した研究者という、柳田の立場によってはじめて成し遂げられた仕事であったといえよう。柳田の学問は、文化の政治性にたいして明確に意識的であり、ヨーロッパに対抗しうるオリジナルな文化としての日本というイメージを作り上げることを目指していた。それは国際連盟体験を介して世界的な文化潮流としての文化相対主義を引き受けたものであり、同時に民族自決による植民地の解放という理念とも強く結びついていた。また一方では、日本の国内においては近代的な都市の文化を規範とし、地方が近代化することを文化的発展と捉える価値観にたいする強烈な異議申し立てでもあり、地方文化の独自性と多様性の尊重を目指してもいた」。
 日本民俗学の地方性によって、中央集権的ではない多様な文化を尊重する地方文化が発展した。いっぽう、台湾はどうだろうか。国立台湾博物館の展示を観る限り、日本の研究者による初期の調査を踏まえて発展した形跡はあまりみられない。それは、日本の植民支配から「解放」された後の歴史ともかかわってくる。植民支配した当事国として、台湾の文化的発展について、台湾の人びととともに考えてみることも必要だろう。

鷲田清一編著、佐々木幹郎・山室信一・渡辺裕著『大正=歴史の踊り場とは何か-現代の起点を探る』講談社選書メチエ、2018年5月10日、268頁、1700円+税、ISBN978-4-06-511639-5

 なにやら不思議な本である。「編著」者がひとり、「著」者が3人、そしてこの4人のほかに「執筆者」が8人いる。これら計12人の執筆部分は目次でわかるが、表紙見返しのほうがわかりやすい。そして、本文のそれぞれの論考の冒頭には執筆者名はなく、末尾に添えられているので、目次や表紙見返しをわざわざ見返さなければ、だれの執筆か読み終わるまでわからない。8人の「執筆者」は、どういう経緯で本書に寄稿することになったのかもわからない。
 「本書は平成一二年四月に立ち上がったサントリー文化財団の研究会「可能性としての「日本」」の中間総括というべき書物」で、「まる六年、計二八回にわたり続けたわれわれの研究会「可能性としての「日本」」が、その途中で摑んだ感触であった」ということから、さらに混乱は深まる。「平成一二年」が「二〇一二年」の誤植だとわかって、やっと納得がいき、落ち着いて読後感を楽しむことができる。
 8人の「執筆者」も、編著者の「結びにかえて」のつぎの説明で、なんとなくわかった。「歌人から劇作家まで、政治学者から宗教社会学者、音楽学者まで、民俗学者からメディア研究者まで、いちいちお名前をあげることはしないが、さまざまな世代のこだわりの作家・研究者たちのレクチャーを受けえたことも幸運であった。この方々の緻密な報告が、ありがたいことにわれわれの知と想像力のふくらし粉のようなものとなった」。
 これで、ようやく本題に入ることができる。本書のキーワードは、なんといっても「踊り場」である。編著者は、つぎのように説明している。「昇りゆく人と降りゆく人が交差する場、降りかけてまた上へと踵(きびす)を返す人もその逆もまた行き交う場、それを階段でいえば《踊り場》となる。われわれにとっての「大正」という時代、それもまた高揚と沈降が行き交う、そんな《踊り場》だったのではないか」。さらに、大正という時代に注目した理由を、帯の裏でつぎのように説明している。「ぼくらが大正と言うときに着目していたのは、ある意味では現代の社会生活あるいは社会のあり方の原型がこの時期に出てきたのではないか、そう思うからでしょう。明治期は庶民の生活からすれば近世の遺産のようなもので、社会生活の仕組みとして近世を引きずっているものにまだ力がありましたが、それが途切れて、個人が漂流するような社会の最初の表れを、ぼくらはここに見ようとしたのです」。
 そして、その《踊り場》を説明するのにふさわしいことばが、それぞれの論考のタイトルになり、表紙見返しにつぎのように並べられた。「学区」「自由・責任」(鷲田清一)「民生」「サラリーマン・職業婦人・専業主婦の登場」(山室信一)「地(ぢ)方(かた)学(がく)」「ガール」「文化生活と生活改善」(〃)「震災」「民衆と詩」「化粧・衣裳」「人形」(佐々木幹郎)「趣味・娯楽」「校歌」「正調」「公園」(渡辺裕)「公設市場」(新 雅史)「二重国籍」(堀まどか)「観衆」(五十殿利治)「鎮守の森」(畔上直樹)「1924年の海戦」(やなぎみわ)「結社」(佐佐木幸綱)「ミュージックスに託す夢」(徳丸吉彦)「座談」(鶴見太郎)。
 編著者は、研究会の中間総括として、つぎのようにまとめている。「「歴史の虚点」を定点に歴史をまとめるのではなく、生まれるも開花せず、したたかに統制をすり抜けつつもやがて抑圧され、制止され、封殺されていったもろもろの「可能性」、それらの蝟(い)集(しゆう)が、歴史のなかでさまざまのすきまをつくりだしていたはずで、それら諸「可能性」が交錯する領野のそこかしこにあったあそびの間-ドイツ語でも歯車のあいだの微かなあそびの間を文字どおりSpielraum(遊動空間)という-こそ、われわれのいう《歴史の踊り場》を特徴づけるものにほかならない」。
 さらに、つぎのように今後の研究会での成果の発展を述べている。「先にわたしは、大正期には「現代」生活の祖型ともいえるものがおびただしく出現すると言ったが、その大正期の諸「可能性」のSpielraumを現代からの関心でまとめないよう注意しなければならないのも、またおなじ理由による。それらは散乱状態のままで、いわば微視的に、そしてことさら整合性に気遣うことなしに、《生まれいずる状態において》とらえられねばならない。そうでなければ「現代」の関心をも超える諸「可能性」の連結、つまりは未来の星座を描きだすこともできないだろう。思い起こせば、われわれの議論が最終段階をむかえようとしていたとき、佐々木がしみじみとこう口にした。「ぼくにとってもっとも新鮮だったのは、当時の日本人がいかに第一次世界大戦の現状を知らなかったかということです」、と。あるいは、山室は研究会を終えたいま、「第四人称」などという特異な言葉もそうだが、大正期のキーワードでもあった「民・声」「公・衆」「生・存」など、諸「可能性」の挑文(あやとり)を思想史の方法へと鍛え上げるべく「思詞学」というプロジェクトを立ち上げようとしている。われわれはまだ始点に立ったばかりなのだ」。
 そのみちを究めたと思われるような4人の編著者・著者が、「われわれはまだ始点に立ったばかりなのだ」ということができたのが、この研究会の最大の成果だろう。それだけ、「四人で集中討議をくり返した」ことが、まだまだやるべきことがあることを自覚させたのだろう。60代後半の4人のこれからの仕事に、目が離せなくなった。

清水一史・田村慶子・横山豪志編著『東南アジア現代政治入門[改訂版]』 ミネルヴァ書房、2018年4月30日、320頁、3000円+税、ISBN978-4-623-08326-8

 2015年に、ASEAN共同体の設立が宣言された。本書の「東南アジア関連年表」でも2015年12月31日に「ASEAN経済共同体(AEC)を含めた3つの共同体によるASEAN共同体(AC)を創設」とある。だが、Wikipediaには「ASEAN経済共同体」の項目はあっても「ASEAN共同体」の項目はない。当時の新聞等をみても、ASEAN経済共同体成立の見出しで報道されている。東南アジアを専門としている研究者のあいだでも、ASEANを専門にしていなければASEAN共同体が成立した意識は低い。
 本書は、「各国の基礎知識から、政治体制の変容、多文化社会の実像、経済発展の光と影までを明快に解説する待望のテキスト」で、「序章 東南アジアを学ぶあなたへ」、東南アジア11カ国それぞれの章(全11章)と「第12章 ASEAN-世界政治経済の構造変化と地域協力の深化」からなる。つまり、東南アジア各国現代政治の寄せ集めとASEANからなる。各国の章で、とくにASEANとの関係を扱ったものはない。
 1967年に創設されたASEANは、1999年にASEAN10になって東南アジア10カ国(東チモールの独立は2001年)とASEAN加盟国が一致するまで、あまり実態はなかった。ASEANの実質はなにかと問われれば、山影進の2冊の著書・編著の副題で語ることができる。1991年に出版された書名は『ASEAN-シンボルからシステムへ』(東京大学出版会)で、2011年のは『新しいASEAN-地域共同体とアジアの中心性を目指して』(アジア経済研究所)だった。東南アジアは、各国ごととともに、地域として、さらにアジアを牽引していく共同体として語る必要性が出てきた。
 だが、現実として、各国にとってのASEANの存在・位置づけ、地域共同体として認識にはばらつきがあり、全会一致を原則とする運営方法では、「何も決められない」と揶揄されても反論できないものがある。そのようななかで、「東南アジア現代政治」をどう理解し、大学の教室で講義するのか。まずは、各国の基礎知識から理解するしかない。本書は、その要請に応えたものである。将来的には、ひとりの執筆者が、地域としての東南アジア現代政治を語り、さらに東南アジアをアジアのなかに位置づけることによって、日本や中国、韓国の現代政治を語るときに東南アジアを無視できない存在として認識することになるようなものが書けるといいだろう。本書によって、東南アジア研究への理解者が増え、アジア研究にとって東南アジアの重要性か高まることを願う。

桜田美津夫『物語 オランダの歴史-大航海時代から「寛容」国家の現代まで』中公新書、2017年5月25日、322頁、900円+税、ISBN978-4-12-102434-3

 「本書では、小国でありながらもしばしば世界の注目を集めるいまのオランダという国が、いったいどのようにして形づけられてきたのかを、努めて事実本意に描き出していく」。
 「はじめに」で著者、桜田美津夫は、「最も偉大なオランダ人」に選ばれた上位10人の顔ぶれから、つぎの2つの特徴を読みとっている。「第一に、一九世紀の画家ファン・ゴッホを別にすれば、オランダ人が最も偉大と感じる歴史上の人物は、独立戦争前夜から黄金時代の繁栄に至る一六~一七世紀と、国難を乗り越え新たな国づくりに成功した二〇世紀以降、という二つの時代から選ばれていることだ」。「前者に含まれるのが、オランダ人気質を語る際必ず引き合いに出される人文主義者エラスムス、独立戦争の指導者オランイェ公、一七世紀の海軍提督デ・ライテル、微生物研究者のファン・レーウェンフック、そして多芸多才の画家レンブラントである」。「二〇世紀以降に含まれるのは、ドイツ占領政府によるユダヤ人迫害の犠牲者アンネ・フランク、第二次世界大戦後の困難な戦後復興に尽力したドレース元首相、最近亡くなったばかりの元サッカー選手クライフ、そして移民排斥を唱え、二〇〇二年の総選挙目前に殺害された異色の政治家フォルタインである」。
 「第二の特徴は、現代の特異な政治家一名、軍人一名、科学者一名、スポーツ選手一名、画家二名に対して、専制政治との闘いや寛容ないし共生の理想と結びついた人物が四名ランクインしていることである(エラスムス、オランイェ公、アンネ・フランク、ドレース)。この四人が選ばれたのは、オランダという国のあり方の根本と多かれ少なかれ関わりがあると見なされたためであろう」。
 本書は、ほぼ時代順に全7章からなる。「第1章[「反スペインと低地諸州の結集-16世紀後半」]では、一六世紀のオランダ独立戦争を扱い、第2章[「共和国の黄金時代-17世紀」]および第3章[「英仏との戦争、国制の変転-17世紀後半~19世紀初頭」]では、一七、一八世紀のオランダ共和国の興隆と衰退を見ていく。第4章[「オランダ人の海外進出と日本」]では視点を変えて、オランダ人の海外進出およびアジア・日本との関係に焦点を合わせる。第5章からは再び時代順の概観に戻り、第5章[「ナポレオン失脚後の王国成立-19世紀前半」]は一九世紀オランダ史、第6章[「母と娘、二つの世界大戦-19世紀後半~1945年」]および第7章[「オランダ再生へ-1945年~21世紀」]は二〇世紀以降の歴史となる」。
 その500年をまとめると、帯の裏に書かれているように、「世界最有力の共和国から、仏への併合、そして王国へ」という見出しのもと、つぎのようになる。「16世紀、スペイン王権との戦いから「低地諸州(ネーデルランデン)」北部であるオランダは独立。商機を求めてアジアや新大陸へ進出し、17世紀、新教徒中心の共和国は、世界でも最有力の国家となった。だが四次にわたる英蘭戦争、フランス革命の余波により没落。ナポレオン失脚後は王国として復活し、20世紀以降、寛容を貴(とうと)ぶ先進国として異彩を放つ。本書は、大航海時代から現代まで、人物を中心に政治、経済、絵画、日本との交流などを描く」。
 「世界でも最有力国家となった」といわれながらも、オランダにたいして「帝国」ということばはあまり使われない。本書の目次を見ても、第7章「1 インドネシア独立問題-植民地帝国の終焉」で節の副題に使われているにすぎない。物語として読むだけなら、本書に登場した人物を中心にその盛衰を楽しむことができるが、学問的にみるとオランダを通して、ヨーロッパや世界、時代がわかってきそうな気がする。ことばもおもしろい。著者が、「おわりに」でオランダ語の学習を勧め、辞書を紹介しているのも、ことばから広がる世界を楽しんでほしいということだろう。

佐々木剛『日本の海洋資源-なぜ、世界が目をつけるのか』祥伝社新書、2014年9月10日、248頁、800円+税、ISBN978-4-396-11382-7

 「本書は、豊かな海に囲まれた島国に住みながら、海のありがたさを知らない日本人のための「海洋の啓発書」でもある」。著者は、つづけてつぎのように訴えている。「海洋は日本を守り続け、恩恵を与えてくれることだろう。そしていずれは、資源輸入大国から資源輸出大国へと変貌していくかもしれない」。「そのためには、自律的な「海洋環境(資源開発)」「海洋インフラ(技術開発・整備)」「海洋制度資本(法制度・人材育成)」というハード・ソフト両面における社会的仕組みの確立が必要なのである。長期的な戦略を持って取り組んでいけば、必ずや海洋を活用した平和国家として、世界をリードしていくことだろう」。
 本書は、「序章 海洋国家日本のサバイバル」、全6章、「終章 海洋の活用こそが、国土を守る」からなる。全6章のタイトルから、本書の全体像がみえてくる:「第一章 激化する海洋資源争奪戦争」「第二章 魚を脅(おびや)かす海洋・河川環境の危機」「第三章 崩壊の危機にある日本の海洋水産」「第四章 期待がふくらむ海洋再生エネルギー」「第五章 世界中が狙う海底鉱物資源」「第六章 日本の海を再生させる社会的仕組み」。
 そして、終章の見出しから、日本の進むべき方向性がみえてくる:「内(うち)村(むら)鑑(かん)三(ぞう)の海洋を想う心」「海洋資源大国日本の可能性に言及した内村」「内村鑑三の孫弟子だった鈴(すず)木(き)善(ぜん)幸(こう)元首相」「北方四島を守るために立法化された二〇〇海里」「創造性を育(はぐく)む水圏環境の喪失」「臨海学校が学校教育から消えていく」「食べてみてはじめてわかる魚のおいしさ、大切さ」「海洋を活用することは、すなわち陸地を守ること」「海洋資源の活用こそ、これからの日本の生命線」。
 内村鑑三の心とは、100年前に言及した「学ぶべきものは天然である。人の編みし法律ではない。その作りし制度ではない。社会の習慣ではない。教会の教条ではない。ありのままの天然である」。その意味するところは、つぎのふたつである。「一つは、日本は海に囲まれており、海を最大限に活用することが必要で、そのためには天然を良く理解することが必要不可欠であること」。「もう一つは、当時の日本政府が大陸に進出し領土拡大を目(もく)論(ろ)むなかで、大陸進出よりも、わが国が持つ海洋に目を向けようと訴えたことである」。
 そして、この「海洋の啓発書」は、つぎの文章で終えている。「世界は今、競うように海洋におけるエネルギー開発を模索している。開発には資源の減少や、環境汚染の問題がつきまとう。海とともに生活し、海の恩恵を受けて国家、文化を育んできた日本人だからこそ、世界に先がけて、自律的海洋資本を柱とし、海洋に関するリテラシーを高め。海洋環境を守りつつ海洋インフラを整備すべきなのである。創造性を発揮できる天然教育の体制を整えること、そして単に技術教育としてではなくリテラシー教育として一般市民にも門戸を開く必要がある」。「このことは、私たちに子孫から、そして世界から課せられた重要な課題である」。「今こそ、すべての国民が議論に加わり、自律的海洋資本を充実させようではないか。必ずや、日本の陸は守られ、世界を救うことにつながるのだ」。
 本書では、何度も「日本の国土面積は世界61位、でも海洋面積は世界6位」「その海は、世界でも例をみない水産資源、鉱物資源の宝庫」を強調している。この「限りない「富」を、いかに活(い)かすか」「他国に奪(と)られる前に、いま日本がなすべきことは?」、それは日本・日本人のみが排他的にその「富」を独占するのではなく、地域のため世界のために「いかに活かすか」であろう。そうすることによって、「富」は持続可能なものになる。

小関隆『アイルランド革命 1913-23-第一次世界大戦と二つの国家の誕生』岩波書店、2018年4月10日、327+31頁、3200円+税、ISBN978-4-00-061253-1

 「国家」とは「領土、国民、主権」の3要素からなり、領土と国民にたいして排他的な主権を有するはずだ。だが、世界には排他的ではなく、さまざまな外部からの圧力によって成り立っている「国家」がある。台湾のように国連に加盟していなくても事実上国家と同等に扱われているものもあれば、独立を宣言しても国際的に認められていないものもある。分離独立や自治権の要求などを主張していなくても、国内の「差別」と闘っている人びとや地域社会もある。沖縄も、そのひとつだ。そのような今日の状況を考える意味でも、本書で語られていることは、遠い国の昔話ではない。
 本書の要約は、表紙見返しに要領よく、つぎのようにまとめられている。「アイルランド共和国と北アイルランド、南北分断の直接的起源はアイルランド革命期(一九一三-二三年)にある。第一次世界大戦の勃発を受けてイギリスの戦争に協力する賭けに出た自治運動は行き詰まり、ナショナリズムの主導権は戦時にイースター蜂起を決行した共和主義に移る。しかし、凄惨な独立戦争を通じて勝ちとられたのはイギリス帝国内自治領のステータス、しかも、南北へのアイルランドの分割を伴っていた。この決着を受けいれることの是非をめぐる対立から、ともに独立戦争を戦った者たちは内戦へと突入する・・・・・・。さまざまな思惑が交錯する革命の激動の中で「二つのアイルランド」が成立する過程をダイナミックに描き出す本格的通史」。
 まず、本書の表題である「革命」について理解する必要がある。著者、小関隆は、その理由を「序章」でつぎのように説明している。「アイルランドが経験した変化は革命と評されるに値する。内戦の危機(一九一三-一四年)、大戦(一九一四-一八年)、イースター蜂起(一九一六年)、独立戦争(一九一九-二一年)を経て、アイルランドの全三二州のうち二六州は自由国のステータスを与えられ、内戦(一九二二-二三年)を通じてその正統性を確認した。連合王国から離脱した自由国は一九二三年には国際連盟への加盟を果たし、主権国家として国際的に認知される。イギリスによる統治を暴力的性格が濃厚な手法で覆し、アイルランドの主権=自決権を獲得してゆく過程を革命と呼ぶことは妥当だろう。大戦後には敗戦国となって崩壊する帝国から離脱して新たな国家を樹立した事例が多いが、自由国の場合、大戦の戦勝国から離脱している(イギリス帝国内には残留するが)点も特筆されるべきである。残る六州は連合王国に残ったが、自治議会と自治政府をもつ北アイルランドという新たなステータスを得る。これもまた重大な変化である」。
 本書の特徴を、著者は「あとがき」で、つぎの3つをあげ、さらに「三人に焦点を合わせながらアイルランド革命を跡づけてゆく」理由を説明している。3つの特徴は、「第一に、一九一三年から二三年までを一続きの革命のプロセスとして把握していること。イースター蜂起や独立戦争、内戦については、日本でも先達の研究成果が公刊されているが、しかし、これらの出来事の意味を十全に理解するには各々を一〇年間にわたる革命の流れの中に置くことが必要だ、というのが本書の主張である。第二に、革命と第一次世界大戦の絡み合いを強調していること。アイルランド史を語る際にイギリスとの関係が重視されるべきなのは当然だが、大戦のコンテクストに引き寄せ、ドイツやアメリカ、西部戦線やパリ講和会議、といったファクターをも考察対象とすることで、より大きく複合的な視野において革命を捉えることが可能になるはずである。第三に、「南部」だけでなくアルスターの動向にも注意を払っていること。革命の主たる舞台はたしかに「南部」であったが、「南部」で進展する事態を受けてアルスターでも情勢が激動し、結果的に自治国家としての北アイルランドの成立という重大な変化が生じた。アルスターもまた革命の渦中にあったのであり、アルスターを射程に収めてはじめて革命の全貌が浮かび上がってくると思われる」。
 「本書では概説的な叙述と三人の人物に関する評伝的な叙述とを組み合わせた。革命のドラマに刻まれた深い陰影をよりヴィヴィッドに伝え、概説書がどうしても陥りやすい平板さを免れようと考えてのことである。もちろん、どんな人物を中心に据えて革命を描くか、選択は多様でありうる。本書の場合、コリンズ、デ・ヴァレラ、ピアーズ、コノリ、といった著名な指導者はあえて避けた。ウィリー・レドモンド、ロジャー・ケイスメント、そしてアースキン・チルダーズを選んだ最大の理由は、各々まったく違った意味合いにおいてではあるが、大戦が彼らの人生を決定的に転換させ、革命とのかかわり方を大きく左右したことである。革命のコンテクストとしての大戦を重視する本書にとって、三人は是非とも注目を促したい人物なのである。加えて、コワモテの軍人や辣腕の政治家から文筆の人まで、著名とはいえないものの私に強い印象を残した六人についてのコラムを設けた」。
 本書を読み終えて、著者が「卒業論文で青年アイルランド派をとりあげた」後、「アイルランド史を正面から扱う」ことをしなかった理由が、なんとなくわかった。著者が、「アイルランド史そのものよりもアイルランド問題を抱え込んだイギリス史の方に向かっていたせいではないかと思う」と述べているように、イギリス史がわからないと「アイルランド問題」はわからないような気がした。なぜなら、アイルランドにとっての「イギリス問題」からでは、書きにくいからである。

土佐林慶太『二〇世紀前半インドネシアのイスラーム運動-ミアイとインドネシア・ムスリムの連携』風響社、2017年12月25日、68頁、800円+税、ISBN978-4-89489-795-3

 イスラームは、著者土佐林慶太が述べるように、「日本人にとって、時代的にも、距離的にも、分野的にも遠い存在である」。「世界には約一六億人のムスリム(イスラーム教徒)」がおり、「それは世界人口の四分の一に当たる」。「本書で取り上げるインドネシアは、世界最大のムスリム人口(約二億人)を抱える」。イスラームを日本人にとって身近な存在にするために、距離的にも近く交流の長さと密度においても関係が深いインドネシアのイスラームについて理解することが有効な方法のひとつだというのは納得できる。とくに、終戦時に30万近い日本兵が駐留していた日本の占領期(1942-45年)を含めて考察することは、さらに有効だろう。
 本書では、「オランダの統治から日本の軍政期、外来の支配者に服従と抵抗で対応するムスリムたちの動き。独立を準備した時代の精神を活写」するため、「二〇世紀前半、特に一九三〇年代~四〇年代のインドネシア・ムスリムの連携活動に焦点を当てる。具体的には、インドネシアで設立したイスラーム諸団体の連合体ミアイ(一九三七~一九四三年)を中心に、その後継組織と言われるマシュミ(一九四三~一九四五年)、またそれらの組織設立以前のイスラーム諸団体の連携活動を取り上げ、それらの設立背景やインドネシア社会に果たした役割を検討する」。
 その理由を、著者はつぎのようにふたつあげている。「一つ目の理由として、インドネシア・ナショナリズム運動の展開を扱った従来の研究は、オランダの弾圧により運動が後退した一九三〇年代以降のイスラーム運動を、充分に検討してこなかった。しかし、こうした運動は、その後インドネシアでイスラーム勢力が社会的、政治的に大きな影響力を行使する発端となった。本研究では、そうした運動を担った指導者達に焦点を当て、彼らのムスリムとしての意識とインドネシア人としての意識の連関を探る」。
 「二つ目の理由として、インドネシアにとってこの時代が持つ意義とインドネシア人、日本人双方によるこの時代の捉え方のギャップ(隔たり)である。インドネシアにとってこの時代は、社会の転換期であった。長きにわたるオランダ植民地期から日本軍政期を経て、インドネシア国家が成立する直前の時代である。独立記念日の八月一七日には、毎年各地で独立を祝う式典やイヴェントが開催され、政府による国家レヴェルのものから、学校や職場、町内会といった地域の末端レヴェルのものまで存在する。それは、インドネシア国外においても同様である。この原稿を執筆しているオランダのライデンでも、先日、インドネシア人学生による独立記念日を祝うイヴェントが開催されていた。植民地からの独立とその闘争の歴史であるこの時代は、インドネシアの人々にとって七〇年以上経った現在でも毎年回顧され、彼らのアイデンティティ形成において重要な意義を持っている」。
 本ブックレットは、「はじめに」、全4節、「おわりに」からなる。全4節では、時代ごとに「植民地期末期のインドネシアにおけるムスリムの連携活動に焦点をあて、それらの目的や活動内容」をつぎの4つに分類して論じている:「①一九二二年から開催された東インド・イスラーム会議、②一九三七年に設立されたオランダ植民地期のミアイ、③日本軍政期に再編されたミアイ、④その解散によって設立されたマシュミ」。
 この分類を通して、「組織の目的や構成が大きく異なる」いっぽうで、宗教行政などで共通点もみられ、「オランダ植民地期からの継続性が独立インドネシアにおいて、イスラームを社会的に無視できない原理として浮上させた」と結論し、「連携が常に海外ムスリムの動向と連動して進められていたことも、重要である」と指摘している。
 そして、つぎのように国家とイスラームの問題について述べて、本書を終えている。「独立インドネシアは、オランダ植民地期のミアイが主張したような「イスラームに基づく」国家としては成立しなかった。しかし、インドネシア独立後もムスリムのほとんどは、イスラームも包括する唯一神への信仰を国是とするインドネシアの枠組に立脚している。インドネシアの枠組形成において、オランダ植民地期の国家とイスラームに関する議論は、今日まで問題となっている国民統合とイスラームの関係を考える出発点と言える。こうした問題について、オランダ植民地期、日本軍政期及び独立以降も含めてより詳細な考察を行うことは、今後の課題である。世界最大のムスリム人口を抱えるインドネシアの事例は、ムスリムが多数をしめる他の国民国家との比較研究にも、貴重な題材を提供するように思われる」。

櫻田智恵『タイ国王を支えた人々-プーミポン国王の行幸と映画を巡る奮闘記』風響社、2017年12月25日、64頁、800円+税、ISBN978-4-89489-794-6

 プーミポン国王といえば、晩年カメラを首にぶら下げて車椅子に座っている姿が、印象に残っている。キヤノン製の一眼レフカメラを愛用し、本書の主題のひとつである行幸時にも必ず首にかけていた。カメラだけでなく、多才で好奇心旺盛なことは国民に広く知られ、親しみをもたれていた。ジャズが好きで、サクソフォンを演奏し、作曲をした。マリンスポーツやウィンタースポーツも楽しみ、1967年の東南アジア競技大会ではヨット競技に出場し、金メダルを獲得した。アマチュア無線のコールサインももっていた。本書のもうひとつの主題である映画も、趣味の域を超えていた。
 本書は、そんな国王自身ではなく、「プーミポン前国王のイメージ形成に寄与した側近や役人の働きに焦点を当て、プーミポン前国王の絶大な権威確立までの奮闘の様子を描き出す」。「前国王の権威は、一九七三年に初めて政治に介入し、その混乱を収めたことで確立したとされる」。「六〇年代は、その前段階として前国王の存在感を民衆の間に根付かせるために重要な時期であり、そのイメージ形成に向けた模索期でもあった。この時期に着目することは、プーミポン前国王の最も初期のイメージ戦略を知る上で不可欠である」。
 本書は、「はじめに」、全5節と「おわりに」からなる。その構成は、「はじめに」で、つぎのようにまとめられている。「まず、はじめにでは基本知識をおさえる。プーミポン国王の略歴や、一九五〇年代のタイを取り巻く国際情勢を概観する。第一節と第二節は、プーミポン国王の治世を特徴づけた、地方行幸が主題である。まず第一節では、タイ各地で国王の行幸がどのように演出され、君主と大勢の民衆が相対する美しく華やかな奉迎の場が完成していく過程を見ていく。第二節では、華やかな行幸の舞台裏を支えた役人たちに焦点をあて、その苦闘ぶりを描き出す。第三節では、行幸と並び国王イメージの流布に決定的な役割を担った「陛下の映画」を取り上げる。内容や宣伝方法、そしてプーミポン国王の宣伝部長ともいえる人物の活躍についてみていくこととする」。
 1950年代の「美しき奉迎風景」は、つぎのように説明されている。「県庁の前にあつらえた立派な舞台。巨大なタイ国旗がはためき、美しく重厚なカーテンが舞台を彩る。御料車から降りた若き国王夫妻は、ブラスバンド隊による国王賛歌を背に、群衆の波を優しくかき分けるように舞台に向かっていく。演奏が終了すると、どこからか「国王陛下、王妃陛下、栄光あれ!」の声がし、民衆が「チャイヨーChaiyo(万歳)」を叫ぶ。国王夫妻は、歓喜の声の中を舞台に上がる。しかし、国王がマイクの前に立つと、群衆は沈黙し、固唾を飲んで発声を待つ。「ここを訪れることができて、大変嬉しく思います・・・・・・」という定型句通りの国王の言葉が終わると同時に、感極まった民衆たちの間から、再び「チャイヨー」の大合唱が湧き上がる。「チャイヨー」の連呼は、国王夫妻の姿が見えなくなるまで続いた」。「御料車で移動中の国王夫妻は、道端で奉迎する民衆を見かけると車を降りて声をかけた。何時間も路上で待ち続けた九〇歳の老婆は、一輪の花を国王に献上した。長時間握りしめられて萎えてしまったその花を、陛下は腰をかがめて両手で大切そうに受け取った・・・・・・」。「こうした様子は公文書に記録され、新聞で報道されただけでなく、ラジオによる生中継でも伝えられた」。
 しかし、「奉迎セレモニーの演出だけでは、その印象は一瞬のうちに過ぎ去ってしまう。では、美しい奉迎セレモニーの様子を広く拡散し、また後世に伝えるには、どうしたらよいのだろうか。結論から言えば、写真や映像でそれを広め、残すのが最も効果的である。写真や映像を使えば、実際に奉迎に参加できない民衆も国王の姿を見ることができる。遠方にいる民衆とも、奉迎セレモニーの様子を共有できるというメリットがある」。「「陛下の映画」は、国王の存在を人々に知らしめ、王室に対する民衆の関心を喚起し、現在まで何度も再生産されたことで、崩御の後もプーミポン国王を「永遠」の存在にしているのである」。
 喪が明けても、プーミポン前国王の巨大な写真は、新国王に勝るとも劣らぬ「力」があるのだろうか、バンコクの至るところにある。1946年に、額を銃で撃たれた不可解な死を遂げた兄の後を継ぎ、またその兄の死とのかかわりが取り沙汰されるなかで、18歳で即位し、50年に戴冠式を挙行して正式に王位に就いたときには、想像も及ばなかった「権威」が備わった。その舞台裏には、「膨大な費用の工面や奉迎準備、そして実際に随行する際のプレッシャーに打ち勝ち、激務に奔走する役人たちの存在があった。彼らは、舞台にいる国王を効果的に演出する黒子として、また国王と民衆を繋ぎ合わせる楔として、重大な役目を果たした。彼らの働きによって、「民衆と親しく触れ合う」「身近な国王」「慈悲深い国王」といったプーミポン国王をとりまく様々なイメージが生み出されていった」。「生み出された国王のイメージは、「陛下の映画」という映像を使って爆発的に拡散した」。
 イギリスや日本をはじめとする近代立憲君主制の王の生き残り戦術として、プーミポン国王はたしかに成功した。だが、これがプーミポン国王個人についてだけいえるのか、タイ王室一般についてもいえるのか、いましばらく様子をみることにしたい。

早瀬晋三の書評ブログで、2018~19年にヤフーブログに掲載されたものを再録し、ヤフーブログ終了後に新たに書いたものを掲載します。

紀伊國屋書店「書評空間」https://booklog.kinokuniya.co.jp/archive/category/早瀬晋三に2005~15年に掲載されていた書評ブログの続きです。2015~18年のものはseesaaブログshohyobloghayase.seesaa.net/ で閲覧できます
 

1955年岡山県津山市生まれ。東京大学卒業。西豪州マードック大学Ph.D.。 現在、早稲田大学大学院アジア太平洋研究科 教授。

主要著書 『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、Japanese in Modern Philippine History, Waseda University Institute of Asia-Pacific Studies, Research Series No. 5, 2014、『フィリピン近現代史のなかの日本人:植民地社会の形成と移民・商品』(東京大学出版会,2012年)、 『マンダラ国家から国民国家へ:東南アジア史のなかの第一次世界大戦』(人文書院,2012年)、『フィリピン関係文献目録:戦前・戦中、「戦記もの」』(龍溪書舎,2009年)、『未完のフィリピン革命と植民地化』(山川出版社,2009年)、『歴史空間としての海域を歩く』(法政大学出版局,2008年)、『未来と対話する歴史』(法政大学出版局,2008年)、『戦争の記憶を歩く 東南アジアのいま』 (岩波書店,2007年,英語版:A Walk Through War Memories in Southeast Asia, Quezon City: New Day Publishers, 2010、 『歴史研究と地域研究のはざまで』 (法政大学出版局,2004年)、『海域イスラーム社会の歴史:ミンダナオ・エスノヒストリー』 (岩波書店,2003年,第20回「大平正芳記念賞」受賞,英語版:Mindanao Ethnohistory beyond Nations, Quezon City: Ateneo de Manila University Press, 2007、 『復刻版 比律賓情報 解説・総目録・索引』 (龍溪書舎,2003年)、『フィリピンの事典』 (共編,同朋舎,1992年)、『「ベンゲット移民」の虚像と実像:近代日本・東南アジア関係史の一考察』 (同文舘,1989年)

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