宮田俊行『林芙美子が見た大東亜戦争』ハート出版、2019年1月29日、269頁、1600円+税、ISBN978-4-8024-0072-5
副題に「『放浪記』の作家は、なぜ「南京大虐殺」を書かなかったのか」とある。著者、宮田俊行は、「悲惨な現場そのものがなく、本当に平穏だったからだ。南京で大虐殺などなかった」と結論している。
著者は、「戦後、戦勝国の都合で作り上げられた「日本悪玉論」」を、「東京裁判史観(二次史料による通説)」と「終戦直後からアメリカによって行われた「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」WGIP(War Guilt Information Program)によったためとしている。そして、「自身の反省を込めて、本書は大東亜戦争の戦死者・戦没者はもちろん、伯父のように祖国日本を守ろうと命をかけたすべての人に捧げたい」「この人たちを、同じ日本人が否定し、貶めることがあってはならない」と述べている。
著者は、1957年鹿児島生まれ、鶴丸高校、早稲田大学を卒業後、南日本新聞社に26年余り勤め、早期退職した。
林芙美子の足跡を追った本書は、帯のつぎの文章からその内容がわかる。「「朝日新聞」「毎日新聞」の“従軍作家”となった林芙美子は、母国の兵士たちと寝食を共にしながら、過酷な戦地を駆けめぐった。彼女が自分の目で確かめたかった“本当の戦争”とは何なのか。残された貴重な記録をもとに、その足跡を辿る。樺太・朝鮮・満州・中国・台湾・仏印・蘭印・・・広漠たる大東亜共栄圏を旅した稀代の女流作家は激戦の地で、いったい何を“見た”のか-」。
著者が、林芙美子を選んだ理由は、帯の裏にある「はじめに」から引用したつぎの文章からわかる。「「林芙美子ほど“戦線”を広く踏破した作家はいないだろう。幸い、作家だから多くの記録を残している。これは、宝の山が手つかずに目の前にあるようなものだ。なにしろ、彼女が当時書いたものは、後世の『東京裁判史観』とは何ら関係のない『一次史料』だから、読むだけで面白い」。「また、どんな戦争の概説書よりも、とっつきやすいし読みやすい」。「それがそのまま、大東亜戦争とは何だったのかを知り、考える機会になる」。
著者は、戦後、朝日新聞なども「洗脳工作」の「手先にされた」という本などを参考にして、「自虐史観」から解き放たれ、「日本がいかに正しい、誇れる国か確信」して、本書を執筆した。戦後、70年以上経って、なお「東京裁判史観」「占領軍による洗脳工作」の影響が日本人の歴史観を支配していることを前提に、「南京大虐殺」はなかったことを立証するために、最高の「一次史料」である林芙美子が「書いていない」ことを根拠にした。林芙美子については、戦後「戦争協力作家」という烙印が押されたために、「林芙美子研究には大きな弱点・空白があった」という。
著者のいう一次史料を丹念の読んだ戦後史研究は、「東京裁判史観」とは無縁と思える戦後生まれ世代によっても多くの成果がだされている。ここで注目されるのは、戦争責任論ではなく、林芙美子や藤田嗣治などの「戦争協力者」の戦後の生き方である。日本が敗戦したため、これらの「協力者」は否定的に語られるが、勝っていればまったく逆の評価になったはずである。人はその時どきによって、どういう戦略を立てて生きていったのか。林芙美子は新聞社をうまく利用したが、新聞社も軍も林芙美子をうまく利用した。まったく逆のことを語っていながら、「時代」の文脈に照らしてみれば、同じことを語っているのだとわかることもある。林芙美子の場合、その時どきを懸命に生きた人びとに届くメッセージを送りつづけていたことは、1951年に47歳で急逝した葬儀に参列した一般庶民の大行列を見ればよくわかることである。
その「時どき」のことを考えれば、参考文献に発行年が記されていないのは残念である。
著者は、「戦後、戦勝国の都合で作り上げられた「日本悪玉論」」を、「東京裁判史観(二次史料による通説)」と「終戦直後からアメリカによって行われた「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」WGIP(War Guilt Information Program)によったためとしている。そして、「自身の反省を込めて、本書は大東亜戦争の戦死者・戦没者はもちろん、伯父のように祖国日本を守ろうと命をかけたすべての人に捧げたい」「この人たちを、同じ日本人が否定し、貶めることがあってはならない」と述べている。
著者は、1957年鹿児島生まれ、鶴丸高校、早稲田大学を卒業後、南日本新聞社に26年余り勤め、早期退職した。
林芙美子の足跡を追った本書は、帯のつぎの文章からその内容がわかる。「「朝日新聞」「毎日新聞」の“従軍作家”となった林芙美子は、母国の兵士たちと寝食を共にしながら、過酷な戦地を駆けめぐった。彼女が自分の目で確かめたかった“本当の戦争”とは何なのか。残された貴重な記録をもとに、その足跡を辿る。樺太・朝鮮・満州・中国・台湾・仏印・蘭印・・・広漠たる大東亜共栄圏を旅した稀代の女流作家は激戦の地で、いったい何を“見た”のか-」。
著者が、林芙美子を選んだ理由は、帯の裏にある「はじめに」から引用したつぎの文章からわかる。「「林芙美子ほど“戦線”を広く踏破した作家はいないだろう。幸い、作家だから多くの記録を残している。これは、宝の山が手つかずに目の前にあるようなものだ。なにしろ、彼女が当時書いたものは、後世の『東京裁判史観』とは何ら関係のない『一次史料』だから、読むだけで面白い」。「また、どんな戦争の概説書よりも、とっつきやすいし読みやすい」。「それがそのまま、大東亜戦争とは何だったのかを知り、考える機会になる」。
著者は、戦後、朝日新聞なども「洗脳工作」の「手先にされた」という本などを参考にして、「自虐史観」から解き放たれ、「日本がいかに正しい、誇れる国か確信」して、本書を執筆した。戦後、70年以上経って、なお「東京裁判史観」「占領軍による洗脳工作」の影響が日本人の歴史観を支配していることを前提に、「南京大虐殺」はなかったことを立証するために、最高の「一次史料」である林芙美子が「書いていない」ことを根拠にした。林芙美子については、戦後「戦争協力作家」という烙印が押されたために、「林芙美子研究には大きな弱点・空白があった」という。
著者のいう一次史料を丹念の読んだ戦後史研究は、「東京裁判史観」とは無縁と思える戦後生まれ世代によっても多くの成果がだされている。ここで注目されるのは、戦争責任論ではなく、林芙美子や藤田嗣治などの「戦争協力者」の戦後の生き方である。日本が敗戦したため、これらの「協力者」は否定的に語られるが、勝っていればまったく逆の評価になったはずである。人はその時どきによって、どういう戦略を立てて生きていったのか。林芙美子は新聞社をうまく利用したが、新聞社も軍も林芙美子をうまく利用した。まったく逆のことを語っていながら、「時代」の文脈に照らしてみれば、同じことを語っているのだとわかることもある。林芙美子の場合、その時どきを懸命に生きた人びとに届くメッセージを送りつづけていたことは、1951年に47歳で急逝した葬儀に参列した一般庶民の大行列を見ればよくわかることである。
その「時どき」のことを考えれば、参考文献に発行年が記されていないのは残念である。