早瀬晋三書評ブログ2018年から

紀伊國屋書店「書評空間」https://booklog.kinokuniya.co.jp/archive/category/早瀬晋三に2005~15年に掲載された続きです。2015~18年に掲載されたものはseesaaブログshohyobloghayase.seesaa.net/ で閲覧できます。

2019年10月

大沼保昭『国際法』ちくま新書、2018年12月10日、413頁、1100円+税、ISBN978-4-480-07165-1

 本書に「あとがき」はない。「亡くなる前日まで」、「ペンを握り、病床で命を削りながら仕上げた」遺作だからである。

 本書の最終章「第9章 戦争と平和」を、つぎの文章で結んでいる。「国際法は本書でそれを解説しているわたし自身が情けなくなるほど弱く、欠陥だらけで、限界を抱えた法である。しかし、弱肉強食のルールが支配する国際社会で諸国の行動を規律する法が国際法しかない以上、わたしたちはそれに賭けるしかない。またそれは注(19)で述べたように、日本国民にとってこそ賭けるに値するものである」。「マハトマ・ガンディーがいみじくも言ったように、善きことはカタツムリの速さでしか進まない。しかし、たとえカタツムリの速さであれ、それは一歩一歩前に進んでいるのである」。

 その注(19)は、「最終章についてコメントを求められた」娘が「国際法の未来への可能性、夢をもう少し語ってほしい」と話したことにたいするもので、娘は「未来へのメッセージ」と捉えた。

 「序でも述べたように、幕末以来日本にとって重要な出来事にはほぼ例外なく国際法がかかわっている。わたしたちの先人たちは条約改正、日清・日露戦争、サンフランシスコ条約による講和と独立の回復など、こうした重大事に直面して必死に国際法を学び活用してそうした重大事を乗り切ってきたのである。これに反して国際法を軽視し、その活用を怠った第二次世界大戦では日本は、約七〇〇〇万の人口のうち三〇〇万以上の犠牲を出し、国家滅亡の危機に瀕したのである。この教訓は重要である。その教訓とは、国際法とは日本国民が身につけ、活用すべきものだということにほかならない」。

 「誰にでもわかる「生きた国際法」の新書を最後に書きたい」という難しいチャレンジに、著者は果敢に挑み、多くの人びとの協力を得たとはいえ、成し遂げた。「弱く、欠陥だらけで、限界を抱えた法」の重要性を「誰にでもわかる」ように語り、これまで国際法の知識を武器に、「従軍慰安婦」問題などに取り組んできた悪戦苦闘の日々を総括した。

 その挑戦への意気込みは、つぎの「はじめに」の最後のパラグラフにあらわれている。「国際社会は、弱肉強食、駆け引きと暴力が跋扈する不条理の世界である。そこで国際法という「法」のはたらく余地があるのか。あるとしたら、どういう条件の下で、いかなる限度で、法は機能するのか。以下、ひとまず著者を機長とする「スペースシップ・国際法号」の乗客として、著者とともにこうした問題を考え、悩み、読者なりの判断を下していただきたい。機長の操船能力にはたえず疑いの目を投げかけながら」。

 本書は、はじめに、序、3部全9章からなる。第一部「国際法のはたらき」は、「国際社会と法」「国家とその他の国際法主体」「国際法のありかた」「国際違法行為への対応」の4章からなる。第二部「共存と協力の国際法」は、「領域と国籍」「人権」「経済と環境の国際法」の3章からなる。そして、第三部「不条理の世界の法」は、「国際紛争と国際法」「戦争と平和」の2章からなり、戦争を回避できない「情けなるほど弱」い国際法にたどり着く。「国際法の未来への可能性、夢をもう少し語ってほしい」という「コメント」も頷ける結末になっている。

 だが、それも注(19)によって一掃された。「最後の最後に父が渾身の思いでペンを握り伝えたかった内容がこの注の六行に凝縮されていると思いました」というのも頷ける。問題は、この「未来へのメッセージ」をどう「生きた国際法」へとつなげていくかである。「従軍慰安婦問題」も「領土問題」も、解決の糸口さえつかめないままである。国際法の知識のうえに、なにが必要なのか、本書からもわからなかったが、著者はそれを日本人に託した。

櫻井義秀・外川昌彦・矢野秀武編著『アジアの社会参加仏教-政教関係の視座から』北海道大学出版会、2015年3月31日、390+10頁、6400円+税、ISBN978-4-8329-6812-7

 本書のキーワードは、「社会参加仏教」であり、「はじめに」冒頭で説明してある。英語のEngaged Buddhismの訳で、つぎのような定義がある。「仏教者が布教・教化などのいわゆる宗教活動にとどまらず、様々な社会活動も行い、それを仏教教義の実践化とみなし、その活動の影響が仏教界に限らず、一般社会にも及ぶという仏教の対社会的姿勢を示す用語」である。

 本書では、地域研究を専門とする研究者の視点を通して、つぎの3つの観点から各国・地域の事例を考察する。「①地域社会や政治状況における社会参加の過程として位置づけ、②その影響の広がりを多様な社会的文脈を通して検証し、③それを通して宗教の社会参加の可能性を明らかにする」。そして、編著者の3人は、宗教の社会参加に関わる近年の議論から、つぎの3つの論点「近代と仏教」「「宗教」の境界」「市民社会と社会参加仏教」を通して、「本書が仏教の社会参加に注目する意図を整理」している。

 本書は、3部全18章からなる。3部は「東アジア」「東南アジア」「南アジア」からなり、アジア圏のこれら3つの地域の「政教関係」を整理した章の後、各国・地域別に「宗教と社会の関わりや、その多様性について」概観し、入門書としても活用できるようにしている。

 本書は、「宗教と社会」学会創立20周年記念企画の2つのセッションがもとになっている。2012年の「社会参加を志向する宗教の比較研究-エンゲイジド・ブディズム(社会参加仏教)を考える-」と13年の「国家介入的な政教関係の近代-アジア諸国における宗教と政治の比較研究-」である。これらのセッションの位置づけについて、「あとがき」でつぎのように説明している。「この二つのテーマセッションは、日本宗教の研究者と、世界各地の諸宗教を研究している文化人類学者や地域研究者が、それぞれの専門領域を超えて議論を交わせる場として企画された。各地域の既存の研究枠に限定されず、相互につながり合い、新たな発想を持った宗教研究を生み出す」。重視してきたのは、「世界を均一には見ないといった人類学や地域研究の姿勢を保ちつつも、いくつかの限定的な共通性や接点を見いだすといった点である」。

 だが、それは簡単なことではなく、それぞれのセッションで異なるアプローチで挑んだ。ひとつめのセッションでは、「世俗化した社会においても、その可能性が注目されている宗教の社会貢献、とりわけエンゲイジド・ブディズム(社会参加仏教)という観点から、日本を含むアジア諸国の事例を比較し、諸地域をつなぐ研究を試みた」。ふたつめのセッションでは「仏教ならびに他の宗教が、政治・福祉・教育などの領域において強いコミットメントを求められる(つまり社会参加する)、そういった社会のあり方自体に注目した。つまり宗教の概念や特性、および宗教の参加のあり方に大きな影響を与えている。各国の政教関係といった制度レベルからの比較である」。

 「はじめに」では、「1 社会参加仏教(Engaged Buddihism)について」説明した後、「2 宗教の社会活動と政治」「3 アジアの政教関係と国家の介入」で、本書で議論すべき核心部分について触れて、つぎのようにまとめている。まず、2では、「宗教が社会参加をなすという問題設定は極めて現代的なものであるが、宗教運動と政治、制度としての政教関係において社会参加の内実が規定されていることを社会関係・制度論の水準で理解しておくことが必要である」とし、「政教関係の制度」「宗教運動と政治的機会構造」「比較制度・比較宗教論」を論じ、「宗教の社会的活動を比較するためには、当該の宗教運動がその社会でどのような社会的機能を担うことが政治的機会構造で許容され、一般市民に期待されてきたのかを比較検討することも重要である」と結んでいる。

 3では、「アジアの国々の多くには、市民社会の形成過程や政教分離のあり方にも、西欧近代とは異なる多様なかたちがあるという点」に注目して、「国家が掲げる宗教的理念」「世俗主義による宗教への介入」「宗教の公的役割をめぐる諸解釈」について論じ、つぎのように結んでいる。「社会参加仏教の可能性を問うには、アジア社会の現実から問いを発し、論を組み立てねばならない。そこでは政教分離と世俗化、およびその帰結である宗教の私事化だけでなく、脱私事化(少なくともカサノヴァの公共宗教論が規範的に重視するような、宗教者や宗教団体が国家や政党と結託せずに公的討議の場に参入するといった種類の理想的な脱私事化)にも、ストレートに結びつかない場合を想定しておくことが、必要ではないだろうか」。

 「宗教と社会」との関わりは、地域、社会などによって刻一刻と変化し、人びとが求めるものも違ってくる。学会では、ある一定の節目ごとに整理し、論題を共有して、つぎの段階に進んでいかなければならない。それを実践した成果をまとめて出版することも大切である。この「宗教と社会」学会は、会員個々人が単著単行本を出版していることから、こういった企画の議論も深まる。また、本書で明らかなように国・地域的にも網羅的に把握していることから、議論を相対化することもできる。いい学会だ。

西原大輔『日本人のシンガポール体験-幕末明治から日本占領下・戦後まで』人文書院、2017年3月30日、310頁、3800円+税、ISBN978-4-409-51074-2

 巻末に文献目録がほしかった。でも、それをするともう数十頁増えて、定価が4000円を超えるために断念したのだろう。出版年順の文献目録があると、だれがいつシンガポールを訪れ書いたのか、一目瞭然となる。本書は、基本的に副題にある通り、「幕末明治から日本占領下・戦後まで」、年代順に追っているが、それでも時代が前後するときがある。

 詩人でもある著者、西原大輔は、「主に幕末から戦後に至る百年あまりの間に、日本人が旅行記に記録し、絵画に描き、文学の舞台とし、音楽や映画の題材としたシンガポールのイメージを論じたものである。日本人の眼に映ったシンガポールの姿を日本文化史の中に探り、その全体像を描こうと試みた」。

 さらに具体的に、帯でつぎのように紹介されている。「かつて欧州航路の寄港地であったシンガポール」。「文学者の二葉亭四迷、夏目漱石、永井荷風、井伏鱒二、画家の藤田嗣治、映画監督小津安二郎、春をひさぐ「からゆきさん」から暗躍するスパイまで、ここには多くの日本人が降りたった」。「幕末から明治、シンガポール陥落後の昭南島といわれた日本軍の占領下から戦後に日本人戦犯が処刑されたチャンギー監獄、現在の経済発展まで、日本人はどう南洋都市シンガポールをみつめ表象してきたのか」。

 本書は、1992年にシンガポール国立大学日本研究学科助教として日本語を教えることをなった当時25歳の著者が、帰国後数年経った2000年から日本シンガポール協会の機関誌に2011年まで12年間にわたって50回連載した「日本人のシンガポール体験」が基になっている。

 著者は、「日本人がシンガポールについて書いた文章や絵画を論じることに」、「どのような意義がある」のか、つぎのように語っている。「もちろん、シンガポールに興味のある読者は、きっと本書に関心を持って下さるだろうと思う。しかし、もう少し視野を広げるならば、『日本人のシンガポール体験』は、日本人が世界をどのように見てきたのかという、地球規模の比較文化的探求の一部をなしている」。本書は、「比較文化研究の流れの中に位置づけることができるだろう」。「一方、『日本人のシンガポール体験』は、戦後の日本で盛んになった「文学散歩」の海外版でもある。文学散歩は、野(の)田(だ)宇(う)太(た)郎(ろう)(一九〇九~一九八四)に始まるとされる。文学者の足跡を日本各地に訪ね、町を歩くのは非常に楽しい。シンガポールの街も全く同じである。ブギス・ジャンクションのショッピング・センターは、夏目漱石が昼食をとった日本人町の跡地に建っている。ロイド・ロードには井伏鱒二が住んでいた。カトン海岸は金子光晴や斎藤茂吉ゆかりの地。二葉亭四迷が火葬されたのは、ケント・リッジ公園の近く。ドービー・ゴート駅前のキャセイは、徴用作家らが勤務し、小津安二郎が住んでいた場所。高浜虚子と横光利一は、植物園で吟行を行った。シンガポールと日本人とのかかわりは、地球大の巨視的な比較文化の眼で論じることもでき、また、微視的な街歩きによって知ることもできるのである」。この文学散歩のイラスト付きの地図があったら、さらに本書を愉しむことができただろう。

 「欧州航路の寄港地」で「大英帝国」の東洋の基点になったシンガポールを通して、「地球大の巨視的な比較文化」が見えたが、それを日本人も愉しむことができたのは、本書でも語られている「南洋日日新聞」が1914年から41年まで発行されていたことと無縁ではないだろう。日本人の眼を通して、シンガポールに集まる「地球大の巨視的な」情報が、日本語にまとめられ、日本人読むことができたことで、シンガポールに長期滞在した者も、寄港しただけのトランジットの乗客も、シンガポールのもつ魅力を共有することができた。「南洋日日新聞」を通読して語ることのできる「日本人のシンガポール体験」もあるだろう。

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