早瀬晋三書評ブログ2018年から

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2019年11月

木畑洋一、小菅信子、フィリップ・トウル編『戦争の記憶と捕虜問題』東京大学出版会、2003年5月26日、262頁、4200円+税、ISBN4-13-021068-8

 イギリスやオーストラリアの戦争博物館を訪ねると、日本軍の下での捕虜の展示が幅をきかせていることに驚く。それほどまでに、この問題は捕虜になった当人にとってだけでなく、家族や社会にとっても大きなことであったことがわかる。もう実際に体験した人がいなくなろうとしているにもかかわらず、語られつづけているのは、第一次世界大戦がもう完全に体験者がいなくなったにもかかわらず、今日まで日々の生活になんらかの影響があると人びとが感じていることと同じだろう。体験者がいなくなっても、日本軍による捕虜にかんする話は終わらないだろう。

 編者のひとり、小菅信子の「あとがき」を読むと、この問題がことばでは表せない「デリケートな問題」であることが、ひしひしと伝わってくる。本書が出版されたきっかけは、「1997年11月にイギリスのケンブリッジ(チャーチル・コレッジ)で開いたシンポジウムである」。まず英語による論文集が2000年に出版され、それにたいする「書評は総じて同論文における学術的な成果を認めたが、その一方で、日本人執筆者は捕虜虐待の実態の凝視を回避し、「言い訳」に専念しているとの批判が散見された。1冊の論文集のなかに国境線が引かれてしまったかのような思いであったが、一方、[編者のひとりである]トウル氏の英語版論集のイントロダクション(本論集では「1 戦争捕虜問題をめぐる西欧と日本」として所収)には捕虜の受けた不当な苦痛についての道義心を欠いた叙述があると、ある知日派でしられる英国人の書評で厳しい批判を受けた」。

 「デリケートな問題」というよりは、学術的研究の意味がわかっていない人びととの闘いのようにさえ見えるが、残念ながら勝ち目はない。第三者の評価を待つしかないのが現実である。

 本書は、すでにきっかけとなったシンポジウムから20年以上が経ち、英語版の出版から20年近く、日本語版の出版からも16年が経ったが、この「デリケートな問題」の基本は変わっていない。本書を日本語でも出版する理由は、編者のひとりの木畑洋一によって、つぎのように説明されている。「日本における戦争の記憶のなかでともすると脇においやられがちな戦争捕虜処遇問題への関心を少しでも広げることにある。ただし本書は、この問題についての包括的な研究をめざしたり、何らかの統一的な結論を導き出すことを目論んだりした論文集ではない。本書は、捕虜処遇の実態そのものを扱った章から、捕虜処遇問題をめぐる法的側面を論じた章、この問題の歴史的背景を検討した章、戦後における和解への道程を探った章などから成り、戦争捕虜問題を考えていく際の視点を定めるにあたって手掛かりとなる多様な議論を提供することを目的としている」。「全体として日本軍が行なったことへの批判的視座に立っている」。

 本書は、まえがき、2部全11章、あとがきからなる。第Ⅰ部「規範と実態」は、つぎの6章からなる:「戦争捕虜問題をめぐる西欧と日本」「国際法からみた捕虜の地位」「ゲリラ戦と捕虜取扱い」「連合軍捕虜と泰緬鉄道」「捕虜の楽園?-チャンギ収容所の実相」「敵を知る-オーストラリアにおける軍事諜報活動・政治戦・日本人捕虜、1942-45年」。

 第Ⅱ部「文脈と波紋」は、つぎの5章からなる:「戦時下の大日本帝国における文化、人種、権力」「第2次世界大戦期における日本人の人種アイデンティティ」「「西欧文明」への挑戦?-日本軍による英軍捕虜虐待の歴史的背景」「赤い十字と異教国-近代日本の<非宗教>とナショナリズムについて」「和解への道程-クワイ河収容所をめぐって」。

 この「デリケートな問題」が解決に向かわないのは、どの国も程度の差はあれ、充分に対処しなかった事実があり、相手を責めれば、その矛先が自分に向かわないとも限らないからである。しかも、少なくはない金額がともない、場合によっては国家財政に影響しかねない可能性があるからである。しかし、ここで強調しておかなければならないのは、日本軍の捕虜にたいする処遇は最低最悪の部類に属すること、戦後の日本政府の対応にも問題があったことを、まずは素直に認めなければ、先へ進めないことである。

山口二郎『民主主義は終わるのか-瀬戸際に立つ日本』岩波新書、2019年10月18日、242頁、840円+税、ISBN978-4-00-431800-2

 著者、山口二郎は、「はじめに」で、つぎのように問うている。「今までの日本政治の常識を当てはめれば、これらの政治腐敗や不正あるいは強権的立法の一つでもあれば選挙で政府与党は敗北を強いられたはずである。そして、政権交代に至らないまでも、自民党内で権力の交代が起きたはずである。なぜそうならないのか」。

 つづけて、つぎのように「一つの説明」をしている。「虚偽や不正、多数の専制が余りに頻発して、国民もそれに慣れてしまい、怒りの世論が盛り上がらないというものであろう。今や日本人は、安倍政権の不正・腐敗が次々と重なることを許容し、一つ一つの問題を受け止め、批判する能力を失っているのではないか」。

 そして、「さらに疑問は残る」として、「なぜ人々は不正や腐敗に対して慣れてしまい、怒らなくなったのか。様々な問題が相次ぐにもかかわらず、なぜ安倍政権はほとんど常に四〇%以上の支持率を保持しているのか」と問いかけ、つぎのように本書の目的を述べて「はじめに」を終えている。

 「戦後日本の民主主義がどの程度まともなものだったかについては、いろいろと議論はあるだろう。しかし、政治家は国会答弁で嘘をついてはならない、権力を利用して私的利益を図ったことが明るみに出れば責任を取って辞めるなど、最低限の常識が働いていたということはできるだろう。これに対し、安倍政治の七年間で今までの政治に関する常識が通用しなくなった。常識の崩壊を放置すれば、我々が当たり前の存在だと思ってきた自由や民主主義は失われる危険がある。政治の常識とは自由を守るために長い歳月をかけて多くの人々が政治権力と闘い、培ったものである。政治の常識を守るためにも、常識を溶解、崩壊させている要因は何なのかを考えることが、政治学の課題である。本書では、自由と民主主義の擁護という観点から、この崩壊現象について考察し、批判の視座を構築することを試みたい」。

 本書は、はじめに、全6章、終章からなる。全6章は、「集団的自衛権の行使容認や安保法制に反対する運動、さらには国政選挙における野党共闘の運動など、実践に身を投じて」きた経験を活かし、具体的に「瀬戸際に立つ民主主義」「集中し暴走する権力」「分裂し迷走する野党」「民主主義の土台を崩した市場主義」「個人の抑圧、崩れゆく自由」「「戦後」はこのまま終わるのか」を論じ、終章で「民主主義を終わらせないために-五つの提言」をしている。「あとがき」の前に、「読書案内」がある。

 終章では、まず、本書をつぎのようにまとめている。「これまで述べてきた政治の危機は、戦争や軍事クーデターなど外からの力で引き起こされたものではない。むしろ、従来の民主主義の制度を通して、内側から生じている。そして一部の邪悪な権力者の陰謀で民主主義が危機に瀕しているわけではない。強権政治を積極的に支持するとまでいかなくても、強権政治を黙認する国民の意思によって政治の危機がもたらされている。であれば、内側から立て直すことができるはずである。そのような課題を解決するために何をすべきか、考えてみたい」。

 そして、「政治が解決すべき課題」を、まず「今必要なことは、安倍政権が放置している長期的、構造的な問題についてまじめに考察することである」と述べ、「問題の構図を明らかにできれば、自分の責任が及ばない理由によって苦しめられている人々と、そのような理不尽な苦しみを他者に押しつけることによって利益を得ている人々の存在が明らかになる。これから、犠牲と受益の著しい不均衡を是正するための政策に関する合意を作り出すことこそ、政治の課題である」と結論している。

 そのうえで、つぎの5つの提言をおこなっている。【提言1】「野党の立て直し」では、まず「民主主義の再建のためには、権力を抑止する大きさと、明確な政策的方向性を兼ね備えた野党を再構築することが不可欠である」とし、【提言2】「国会の再建」では、「国会論戦における言葉を破壊し、無意味にしたことは最大の罪の一つである。問われたことに答えない、言葉の意味を勝手にねじ曲げるなど、首相や閣僚のせいで、日本語の通じない国会が当たり前になった」ことを指摘し、「政治において言葉を取り戻すことが民主主義再建の第一歩である」とした。

 【提言3】「官僚制を改革する」では「民主主義を立て直す際の課題として、政治と行政、政治家と官僚の関係を見直すことも不可欠である」、【提言4】「民主主義のためのメディア」では「権力に対する監視機能を持つメディアを回復することも、民主主義の再生には必要である」、【提言5】「市民の課題」では「民主主義を担う市民に必要な美徳は、正義感、正確な認識、楽観と持続性である」と指摘した。

 つまり、著者は、市民に副題の「瀬戸際に立つ日本」を意識させることが本書の目的で、「あとがき」で「日本でも、民主主義を死なせないための思考と行動のガイドブックが必要だと思い、この数年の実戦経験を踏まえてこの本を書いた次第である」と述べている。そして、「いつまで続くかわからない泥濘のような政治の危機状況の中で、疲れを感じることもしばしばである」と吐露している。香港のように危機を身近に感じている市民もいれば、じり貧がわかっていても、いまの生活をそこそこ維持できれば、大きな変化を求めないという日本や台湾の市民もいる。とくに日本では、2009-12年の民主党政権があまりにひどかったことが大きく影響している。ならば、著者の5つの提言に加えて、「自民党の内部改革」をあげることができるだろう。「野党の立て直し」より現実的であるかもしれない、と書くことがほんとうに情けない。

増田弘『南方からの帰還-日本軍兵士の抑留と復員』慶應義塾大学出版会、2019年7月30日、262頁、2700円+税、ISBN978-4-7664-2609-0

 「一九四五(昭和二〇)年八月十五日、この終戦の日をもって長い戦争が終わり、日本に平和が訪れたと誰もが考える。しかし、はたしてそれは正しい理解であろうか。決してそうとは思われない」という文章から、本書ははじまる。

 そして、つぎのようにつづいている。「なぜなら当時外地にあった邦人、陸海軍軍人約三五〇万名、一般民間人約三〇〇万名、併せて約六五〇万名にとって、この日はいわば第二の戦争開始に等しかったからである。連合軍に降伏した日本軍将兵にとっては、この日を境に、フェンスに囲まれた捕虜生活と重労働が始まったわけであり、また〝棄民〟とされた民間人は、祖国をめざした命がけの逃避行を余儀なくされたからである。その数は当時の国民総人口のほぼ一割にも達した」。さらに、その「ほぼ一割」を待つ家族がいたことを考えると、本書で語ろうとしていることが、いかに戦後の人びとの生活に大きく関わっていたかがわかる。だが、その実態はほとんど明らかになっていないという。

 本書の内容は、表紙見返しのつぎの文章からわかる。「南方日本軍兵士の復員への道のりはなぜ遠かったのか?抑留や強制労働の実態は、イギリス、オランダ、オーストラリア、アメリカなどのそれぞれの国軍の管轄下で大きく異なっていた」。「これまで個人の手記のかたちで広く伝えられてきた未だ謎の多い南方日本軍兵士の抑留と復員について、本書では、当時の外交史料も用いながら、抑留・強制労働・復員の全体像を明らかにしていく」。

 抑留といえば、シベリアが有名だが、シベリア抑留者約六〇万にたいして、南方抑留者は軍人・民間人を含めて一二〇万以上に及ぶ。にもかかわらず、これまで等閑視されてきた理由を、著者増田弘は「資料上の制約にあった」として、つぎのように説明している。「東南アジアのほぼ全域を占領管理して日本人の抑留を主導したのはイギリスであり、ほかには蘭印(現インドネシア)に戻ったオランダ、東部ニューギニアおよび豪北地域を管轄したオーストラリア、そしてフィリピンを奪回したアメリカの計四カ国が深く関与した。それゆえ、これら四連合国の一次資料に基づく抑留研究が不可欠であったが、これまでほとんど実施されてこなかった」。「つまり、一体どのように英・蘭・豪・米の各軍が降伏時に日本軍人や民間人を拘束したのか、またどのような方法で強制労働や戦犯裁判を行ったのか、さらに一体どのように日本への帰還を進めたのか、といった主体者側の基本政策や方針や姿勢など、まったく不透明であった」。

 本書は、序章「抑留・復員問題にどう向きあうか」、四連合国それぞれの4章、終章「双方向からとらえた抑留・復員・帰還」からなる。第一章「ビルマ・タイ・マレー・シンガポールでの抑留と復員-イギリス軍管轄下」では、「イギリスが終戦後に管轄したビルマ、マレー、シンガポール、タイにおける日本人の抑留から帰還までを描く。現地の英軍側は、日本軍を「戦争捕虜(POW=Prisoner of War)」とは認めず、単なる「日本[人]降伏者(JSP=Japanese Surrender[e]d Personnel)」と見なして無賃金・無報酬労働を強要し、しかも南方軍七〇余万名の八割強を帰還させる一方で、二割弱の一〇万名を残留させ、現地の多様な再建事業に従事させた」。

 第二章「インドネシアでの抑留と復員-オランダ軍管轄下」では、「オランダが管轄したインドネシア(当時は蘭印)における二三万余名の日本人の抑留から帰還までを明らかにする。オランダは第二次世界大戦の終結から半年後に現地に復帰し、イギリスから管轄権を継承したものの、すでに現地ではオランダからの独立機運が高揚していた。降伏した日本軍の中にも、部隊を離脱してスカルノ(Sukaruno [Sukarno])らの現地民族軍に参加する将兵も現れ、それが日本人の抑留全体に多大な影響を及ぼした」。

 第三章「東部ニューギニア・豪北での抑留と復員-オーストラリア軍管轄下」では、「オーストラリアが管轄した東部ニューギニアと豪北にいた日本人、約二〇万名の抑留から帰還までを明らかにする。ニューギニア戦線では日本軍は敗退を続け、ジャングル地帯で倒れる将兵が続出したが、他方、ラバウルを拠点とするニューブリテン島周辺の豪北地域では、すでに戦闘が終結していたために比較的平穏な終戦を迎えた」。

 第四章「フィリピンでの抑留と復員-アメリカ軍管轄下」では、「アメリカが管轄したフィリピンにおける日本人一二万余名の抑留から帰還までを対象とする。イギリスと比較して、日本軍人の復員ばかりでなく民間人の引揚にも熱心に取り組んだアメリカではあったが、激戦地フィリピンでは日米両軍はもとより、フィリピン人にも甚大な犠牲と被害をもたらしたため、現地での日本人に対する憎悪や反発は激しいものがあった」。

 本書は、各章の「おわりに」でまとめ、「終章」で本書全体をまとめてくれているので、理解の助けになり、たいへんありがたい。「終章」では、以下の6点にまとめている。「第一に、これまで終戦史における日本人抑留といえば、まず北方のシベリア抑留に焦点が当てられがちであったが、今回の研究を通じて、東南アジア地域(ビルマ、タイ、マレー、シンガポール、インドネシア、ニューギニア・豪北、フィリピン)の南方抑留も、北方のそれに劣らず、深刻な状況に置かれていたという点である」。

 「第二に、日本人を抑留した連合国側には、捕虜への処遇や収容所生活の運営方法、あるいは強制労働に対する方針にかなりの相違があった点である。概して英国やオランダは日本人に対して厳しい姿勢で臨んだ」。

 「第三に、米国は戦犯裁判にきわめて熱心であり、フィリピンにおける日本人戦犯の調査・摘発や裁判に積極的姿勢を示した」。

 「第四に」、「復員政策や帰還方針にも連合国間に明らかな差異が生まれた。現地英軍は、米国政府と軍部、とくにマッカーサーからの圧力を再三受けながらも、執拗に日本人残留にこだわり、強制労働の使役に力を注いだ。ロンドンの英国政府も外務省を例外として、現地側の主張や要望を追認した。インドネシアの蘭国政府もまた英国側に同調した」。

 「第五に、国際情勢がこの抑留・復員問題に様々な影響を及ぼした点である」。「米国とマッカーサーが早期復員に取り組んだ背後にはヒューマニズムがあったが、他面、戦後まもなく発生した米ソ冷戦が深く影を落としていた」。「英国は、数世紀に及ぶ東南アジア支配によって現地社会に深く根を下ろしており、旧宗主国の立場から米国のような明白な方針に与することができなかった。オーストラリアもオランダもその点では共通していた」。

 「最後に、被抑留者という弱い立場にあった日本は、様々な労苦と苛酷な経験を通じて多くの教訓を学んだ。戦時当初に東南アジアを席捲して占領行政を開始した日本ではあったが、結局インドネシアを例外としてすべて失敗に終わった」。「英蘭両国のような植民地支配の習熟ぶりと比較して、未熟さを露呈したのである。最悪の事例がフィリピン統治であり、その不備が現地民衆の離反をもたらし、敗戦後、日本人は現地側からの激しい怒りにさらされた」。

 そして、つぎのように、「終章」を結んだ。「総じて、戦後の抑留・復員問題は、日本側の視点だけではなく、勝者の連合国側からの視点を双方併せることで、初めて客観的事実を生み出せることが明らかになった。それに加えて、今こそ終戦史を戦後史から分離独立させて、抑留・復員・帰還という特異な時代を昭和史に刻む時ではなかろうか、と改めて実感する」。

 戦後の抑留・復員問題が注目されなかった理由は、敗戦後処理で、敗残の兵に関心がなかったからだろう。そして、管轄国だけでなく、抑留場所、責任者、現地の人びとの対応など、千差万別で、まとめて語ることができなかったからだろう。その点で、本書で大枠がつかめ、個々の研究がしやすい状況になったことは、大いに評価すべきである。

 捕虜の「強制労働」ひとつとっても、日本人捕虜が労働している同じ現場に、いつでもやめられる一般の労働者だけでなく、日本軍についてきて戦後行き場を失った者など、さまざまな人びとが入り乱れていた。戦時、戦後の「労働者」は、朝鮮人徴用工や従軍慰安婦などのように、強制かどうかひじょうにあいまいな部分がある。また、賃金の支払いについても、戦後に改めて請求できるものかどうかはっきりしない。本書で取り上げられた日本人捕虜の「強制労働」も請求できるのだろうか。とくに敗戦後処理では、弱い立場から当時は請求できなかった可能性が高い。いろいろ考えていくと、戦争をはじめる者は、このような敗戦後処理を含めて、すべてを考えてからしろ!、と叫びたくなる。すべてを考えれば、だれも戦争をはじめることに賛同などしない。

長友淳編『オーストラリアの日本人-過去そして現在』法律文化社、2016年7月1日、242頁、4800円+税、ISBN978-4-589-03782-4

 「移民」ということばには、しばしば「 」がつく。なぜなら、時代、移住元、移住先などの状況によって、その意味が大きく異なるからである。したがって、オーストラリアの日本人「移民」研究には、歴史研究、日本研究、オーストラリア研究など、いずれに軸足をおくかによって、その方法も違えば、目的も違い、自ずから結論も違ってくる。

 本書では、「戦前・戦後の経済的苦境から逃れるための農業移民あるいは故郷を去らざるを得なかった残酷物語的な響きがある」ものから、「日本社会においては特に90年代以降、海外に留学やワーキングホリデーで渡る者、退職後に海外に暮らす者」まで、「移住の多様化の中で、移住そのものの概念が多様化」したことを踏まえて考察している。

 近年、オーストラリアの日本人永住者・長期滞在者数が顕著に伸び、2015年現在約8万5000人になっている。「オーストラリアへの日本人移住の流れは、第二次世界大戦時の強制収容および戦後の強制送還によって「分断」しているため、現在のオーストラリアにおける日本人社会は「一世」が大半を占めている。しかし、近年、彼らの高齢化、国際結婚の増加や二世および三世の急増、また「戦争花嫁」や「リタイアメント移住」の移住者の高齢化が顕著になり、オーストラリアの日本人社会は、大きな転換点を迎えつつある」。

 「以上のような状況を踏まえ、本書は「転換期にあるオーストラリアの日本人社会の過去と現在」を描き出す。時代の転換期を迎えつつある現在、日本人コミュニティがどのような歴史を経験し、いかなる歴史を背負った人々から構成され、今日どのような姿にあるのか、本書はオーストラリアの日本人の過去と現在を「移住者の語り」を中心としながら考察する。また、今日の日本人コミュニティが、多文化主義の進展をめぐるポリティクスや非白人系住民の増加がみられるオーストラリア社会において、どのように位置づけられるのかという点も論じる」。

 「本書が焦点をあてるオーストラリアの日本人の考察は、単にオーストラリア社会の研究に留まるのではなく、それを通して「多文化化する日本」を考えることにもつながる」。したがって、「日本社会に存在する数多くの文化的他者を考察するときにマイノリティにしかみえない社会の姿や視点、あるいは今後の日本の移民政策や多文化主義社会のあり方を考える上で」役に立つかもしれない。

 本書は、序章、それぞれ6章からなる2部全12章からなる。時代的に、白豪主義の時代「第1部 白豪主義そして多文化主義を生きる-日本人移住者の記録と記憶からひも解く-」と1970年代の多文化主義の導入以降「第2部 日本人コミュニティの現在-多文化主義、移民の女性化・新移民-」の2つに分けて考察している。

 第1部では、「真珠貝ダイバー、砂糖黍プランテーション労働者、からゆきさん」から、戦争中、在豪日本人ほぼ全員が強制収容所に送られ、戦後日本へ強制移送されたこと、太平洋戦線から送られてきた日本兵が捕虜収容所から集団脱走を試みた悲劇、戦後広島などに駐留したオーストラリア兵と結婚した「戦争花嫁」までが描かれ、オーストラリア人、アボリジニーとのあいだに生まれた日系人についても論じている。

 第2部では、ワーキングホリデーで渡豪しオーストラリア人男性と結婚した者、1980年代から90年代初期の移住者、1990年以降の移住者、ビジネスビザ保有者、リタイアメント滞在者、学生ビザ滞在者に大別される、多様化・女性化が進展した日本人社会を論じている。その結果、つぎの3つの特徴を、編者は「序章」で指摘している。「第1に、人口の地理的集中がみられない点」、「第2に、日本人コミュニティの組織型からネットワーク型への移行」、「第3に、「エスニック・グループ」としての新たな連帯の模索」。

 最終章の「第12章 遠隔地多文化主義-オーストラリアの日系移民と<いまここ>に根付いたトランスナショナリズム-」(岩渕功一)では、博士論文に基づいた研究成果が単著単行本として出版されているものの、「日本からの移民の研究は一世が圧倒的に中心となっており、二世以降の研究はいまだ多くされていない」点、「オーストラリアにおける他の(特にアジア系)移民との比較研究」がおこなわれていない点を指摘している。

 往復10万円もかからない飛行機代で頻繁に往き来でき、年齢、家族、仕事などの状況によって世界中どこに住むかわからない状況で、「オーストラリアの日本人」と限定する意味はどこにあるのか。本書の「過去そして現在」から未来はみえるのか。第2部で論じたことの先が見えなくなっているのが、問題のひとつだろう。

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