早瀬晋三書評ブログ2018年から

紀伊國屋書店「書評空間」https://booklog.kinokuniya.co.jp/archive/category/早瀬晋三に2005~15年に掲載された続きです。2015~18年に掲載されたものはseesaaブログshohyobloghayase.seesaa.net/ で閲覧できます。

2019年12月

落合直之『フィリピン・ミンダナオ平和と開発-信頼がつなぐ和平の道程』佐伯印刷、2019年9月30日、206頁、1500円+税、ISBN978-4-910089-01-0

 本書の概要は、裏表紙につぎのようにまとめられている。「東南アジアに残る数少ない紛争地、フィリピン・ミンダナオ。反政府武装組織と政府との闘争は、50年近く続いた。もはや解決不能とみられたが、2018年7月に「バンサモロ基本法」が成立し、ようやく平和の道筋が確かなものになってきた。ミンダナオ和平の功労者として国際的評価を得ているのが、日本政府とJICAである。和平合意もなく、治安が不安定な現場への長期職員派遣は、JICAの長い平和構築支援の歴史の中でも類を見ない。生命のリスクすらともなう状況下、日本政府/JICAはどのように和平プロセスに貢献したのか。その一部始終を知る著者が、“地べた派”の矜持を胸に回顧する」。

 本書の目的は、「プロローグ」でつぎのように語られている。「本書ではミンダナオの平和と開発のために、日本政府とJICAが1996年から2019年にかけて開発援助の現場で奮闘した軌跡を、地べた派の視点から書いて行こうと思う」。

 本書は、はしがき、プロローグ、全4章、4つのコラム、エピローグ、あとがきと謝辞、などからなる。プロローグの後に「年表」があり便利である。第1章「ミンダナオ島とスールー諸島」では、「ミンダナオにイスラム教が伝来して今に至るフィリピンの歴史の中で、バンサモロの人々が武力闘争をどのように繰り広げてきたかを述べる」。第2章「和平合意に向かって」では「日本政府とJICAによるミンダナオ和平を目指した「ミンダナオ支援パッケージ」と「日本-バンサモロ復興と開発イニシアティブ(J-BIRD)」を」、第3章「和平移行期支援」では「「バンサモロ包括的能力向上プロジェクト(CCDP)」を中心として、開発協力の現場のリアリティを様々なプロジェクトで活躍する関係者の姿を通じて描き出す」。第4章「開発が果たすミンダナオ和平プロセスでの役割」では、「日本政府とJICAによる開発協力がミンダナオの紛争の解決に向けて、どのような意義と特徴があるのかを考察する」。

 そして、「あとがきと謝辞」で、「本書はミンダナオ紛争の歴史と和平プロセスの経緯を縦糸に、日本とJICAの和平プロセス支援を横糸に、その交差する点で活躍した多くの人々と取り巻く風景を、地べた派落合が立体的に描写したものである」と総括している。

 本書を読み終えての素朴な疑問は、これだけ多くの人びとが危険をも顧みず、献身的に「平和構築」に貢献しているにもかかわらず、「ミンダナオ紛争は一進一退と回り道をたどりながらも、確実の歩を進めてきた」いっぽうで、なかなか本格的な解決に至らないのかである。本書の出版をもって、「平和の道筋が確かなものとなってきた」と判断しているようだが、まだまだ予断を許せないだろう。長年、ミンダナオ紛争をみてきた者からすれば、答えは簡単である。解決できないのは、百「家」争鳴でカリスマ的リーダーが出現しないからであり、それにフィリピン社会の根源的問題である麻薬が絡んでいるからである。前者は、本書でも語られているが、東南アジア海域社会は「村落国家」といわれるように、村落あるいはファミリーの独自性、自治制がひじょうに強い。その村落やファミリーを統率するカリスマ的リーダーが出現しないと、対話・交渉の窓口が多すぎてまとまった話しあいができない。そして、後者は、本書でまったく触れられていないが、フィリピン社会の根底にある麻薬シンジケートがこの紛争にも複雑に絡みあっていることである。つまり、この基本的な2つはイスラームの問題ではない、ということをまず理解しなければならないだろう。

 原因はわかっていても解決策が見つからないのが、ミンダナオ紛争が多くの人びとの努力にもかかわらず、「一進一退」を半世紀以上もつづけている基本である。だから、その根本的社会を理解するために、基礎研究に従事してきた者たちがいる。だが、本書巻末の「参考文献・資料」を見る限り、その基礎研究、とくに人文学の成果は充分に取り入れられていないようだ。本書を読むと、そんな悠長なことを言っている余裕はないことが伝わってくる。働き改革が実現できない職場環境なら、大学の研究者が数年に半年あるいは1年間サバティカルをとるように、JICAの職員も充電期間が必要だ。ミンダナオ紛争のように理屈ではなく、現場が重視され、著者のような「地べた派」を必要とするところでは、人文学を基本とした地域研究が参考になるだろう。社会科学を英語で学ぶ修士課程だけでは充分でないだろう。

 また、本書のような国の政策にかかわるようなものは、いくら著者が「本書の記述に誤りがあれば、それは全て筆者の責任である」といっても、筆者すべてに責任を負わせるわけにはいかないだろう。すくなくとも学術書を扱い慣れている出版社の編集者に、原稿をチェックしてもらうことは必要だろう。本「プロジェクト・ヒストリー」シリーズの目的が、「JICAが協力したプロジェクトの歴史を、個別具体的な事実を丁寧に追いながら、大局的な観点も失わないように再構築することを狙い」とするなら、質の高いものであってほしい。

 本プロジェクトが、なにより貧困から脱出する経済開発を進めることに重きを置いていることは正しい理解だろう。フィリピン全体の貧困率が20%程度であるのにたいして、ミンダナオは50%にものぼっている。豊かになることで、守るべき財産ができ、平和へ向かおうとする意欲が高まることは確かである。近年フィリピンは年6%の経済成長をつづけており、強引さが批判されるがドゥテルテ大統領による麻薬撲滅作戦が功を奏すれば、フィリピン国内での自治を目指す「バンサモロ」も直接恩恵を受けることになる。フィリピンの政治的安定、経済的発展も、ミンダナオ和平にとって大きな要素である。

宮脇聡史『フィリピン・カトリック教会の政治関与-国民を監督する「公共宗教」』大阪大学出版会、2019年9月30日、345頁、6300円+税、ISBN978-4-87259-695-3

 学術書を出版する岩波書店や東京大学出版会、教科書を出版する山川出版社などで、本や論文、概説書などを出版する機会があり、そのたびに原稿が真っ赤になって返ってきて、出版社の編集者の能力に圧倒され感謝した。それでもその教訓が活かせず、いまだに真っ赤になって原稿が返ってくる。編集者は編集のプロであって、優れた編集者と二人三脚でないと良質の学術書は出版できない。

 とくに学術書は、「目次」をみて全体を概観してから読みはじめる。「はじめに」があり、序章、本文の何章かがあって、終章へという流れをつかむためだ。ところが、本書はいきなり「第1章」がはじまり、わずか本文7頁ほどの「第7章」でおわっている。読む心づもりができないまま、「第1章」から読むことになった。読み終えて、「第1章」は「序章」、「第7章」は「終章」であることがわかった。索引は、「人名索引」に参考文献の著者名まで入っている。プロの編集者の助言はあったのだろうか。

 本書の目的は、第1章「「公共宗教」は政治にどう関わるか」「5 本書の構成」の最後で、つぎのようにまとめられている。「本書は、「公共宗教」一般に関わる大きな主題を念頭に置きつつも、基本的にはフィリピン地域研究の立場から、現代フィリピン・カトリック教会と政治・社会との関わりを解明する試みである。特に1986年民主化以降の時期に、司教層を中心に教会が政治関与と動員努力を深めていった過程とその特徴を、その公文書を中心とした言説分析を中心に据えて把握することで、この時期の教会の努力の焦点が「政治関与の深化」及びその背後にある「国民と教会の同時的刷新」にあるという点を明らかにする。そして、1980年代以降の政治過程、及びフィリピン社会の中の「宗教覚醒」的なダイナミズムに照らしつつ、その社会的な意味、特に教会がそのように政治に関わる形を制度化していくと、社会全体にとってどう影響するのかを探る」。

 「第1章」では、まず「「公共宗教の政治への参加」という問題が宗教と社会との歴史的な関わりの積み重ねの中で生じてきた問題であることを踏まえ」、「解明すべき問題をいくつか挙げ」ている。つぎに「フィリピンの民主化とカトリック教会の政治関与に関するこれまでの研究の特徴を整理し、その限界と課題を挙げ」、さらに依拠する資料を紹介、最後に「フィリピンにおける制度的教会の概要」を示して、「本書の構成」へと繋げている。

 第2章「カトリック教会の政治関与・動員形成過程」では、「カトリック教会とフィリピン政治社会との関係が形成されてきた過程とその歴史背景を概観し、教会がどのように政治・社会への関与・動員に関して一定の方向性を確立した経緯をたどる」。

 第3章「政治・社会司牧の制度と主流教説の確立」では、「教会の制度枠組、特に政治・社会関与に関わる特徴を整理すると共に、聖職者の社会的位置を考察する。また、教会の公文書等において明らかにされてきた政治・社会関与に関する言説の特徴を分析する」。

 第4章「要理教育刷新の展開」では、「政治・社会関与と並行して形成されてきた要理教育刷新プログラムの形成過程及びその実態について叙述する」。

 第5章「教会刷新ビジョンとフィリピン社会」では、「まず政治・社会関与プログラム構築及び要理教育刷新の土台となってきた教会指導者層による教会刷新ビジョンの形成過程を追う。次いでその背後にあるフィリピン社会についての教会側の見方とその知識社会学的背景を見る。またこれと対照しつつ、「草の根」の教会の実際の姿、及びより広い社会における諸霊性のダイナミクスの問題を扱う」。

 第6章「矛盾の露呈」では、「以上の経緯を踏まえ、カトリック教会の政治・社会関与論と政治・社会・教会の実体とのひずみが大きく露呈したと見られる、2001年のエストラーダ大統領放逐に至る過程とそれに続く政治変動の経緯を追うことで、政治過程の中での教会の位置づけ、教会の主張の展開、そして矛盾の露呈状況とその合意を明らかにする」。

 そして、第7章「「公共宗教」の模索」では、各章を要約した後、「政教関係の研究を深めるために」、「「公共宗教」の政治参加における宗教的社会観の重要性」「教会の教会論と社会論の間にある緊張関係の政治性」「国民国家の政治を解明する研究の問題性」を論じ、「「ピープルパワー」のその後をめぐって」概説した後、「多数派教会であるフィリピン・カトリック教会の政治関与は、国民社会とのねじれた関係をなおはらむがゆえに、引き続き大きな問題であり続けている」と述べて、「第7章」を終えている。

 本書は、「研究の中心となる時期を1980年代以降の約20年と設定」している。その理由は、「カトリック教会の制度・神学上の主流派形成が1980年代に進み、教育刷新と政治関与に関する一連の公文書が1990年代に活発に出され、それに伴う行動計画の策定と実務努力が見られたからである」。

 本書は、著者が2006年に書き上げた博士論文に基づいている。本書各章の冒頭の写真も、ほとんどが2006-07年に著者が撮影したものである。著者は、「その後の10数年の状況の展開を観察し続けながら、教会の主流派確立の経緯と性格について博士論文に記したことの多くが、その観点から今も十分な意義があることを再認識」し、「博士論文を土台としつつ、現在の時点で改めて検討の上、書き上げた」。今後、「世界教会、グローバル化、世代交代の中で」議論を深めていきたいという。期待したい。

上田信『死体は誰のものか-比較文化史の視点から』ちくま新書、2019年5月10日、233頁、800円+税、ISBN978-4-480-07224-5

 著者の上田信より年上であるが、両親が死んでからも著者のように「自分自身の死に方を思い、そして死後に残される「死体」について考えるようになった」ということは、わたしにはなかった。二男の気楽さ故、また妻が5歳下故、自分が喪主になることを想定したことがない。自分がこの世に生きた証は、著書が何冊か図書館にあり、永久に存在すると勝手に思い込んでいる。死体も、妻が勝手に決めればいいと思っている。つまり、著者が、「はじめに-日常のなかの死体」の最後で述べている「本書が、誰もが頭を悩ませる「死」の問題を考える際の一助となれば幸いである」があてはまらず、頭を悩ませることにならないことを願う。でも、もしそのときがきたら、本書を思い出すだろう。

 本書の目的は、表紙につぎのように書かれている。「価値が多様化する時代において、死後の自らの身体の処理のあり方を、慣習の枠、社会通念、伝統的習俗の枠を越えて考えなければならないだろう。本書では比較文化史という視点から、私たちは死体にどのように向かい合ったらよいのか、その手がかりを探っていきたい」。

 具体的に問うことについては、表紙見返しにつぎようにまとめられている。「死体を忌み嫌い、人の目に触れないようにする現代日本の文化は果たして普遍的なものなのだろうか。中国での死体を使った民衆の抵抗運動、白骨化できない死体「キョンシー」、チベットの「鳥葬」や悪魔祓い、ユダヤ・キリスト教の「復活」「最後の審判」、日本の古典落語に登場する死体、臓器移植をめぐる裁判。様々な時代、地域の例を取り上げ、私たちの死体観を相対化し、来るべき多死社会に向けて、死体といかに向き合うべきかを問い直す」。

 本書は、はじめに、全5章、おわりに「私の死後に残される死体」、あとがき、からなる。第一章「武器としての死体-中国」では、「中国貴州省甕安(おうあん)県で二〇〇八年六月に起こった、「甕安騒乱」と呼ばれる、死体をめぐる公権力と民衆との衝突をきっかけとし、中国における死体による恐喝や抗議行動などから見えてくる独特の死体観について考える」。

 第二章「滞留する死体-漢族」では、「中国の死体をめぐる儀礼に注目する。ここでは儒教の伝統に基づいた儀式を分析し、その儀式が誤った形で行われた際、死体が恐ろしい存在となることを示す。その例として、「キョンシー」というキャラクターで有名な映画『霊幻道士(れいげんどうし)』などを取り上げる」。

 第三章「布施される死体-チベット族」では、「チベットにおける「天葬」と「水葬」という二つの特徴的な葬儀、そしてチベットに古来伝わるポン教の悪魔祓いの儀式「チャム」を取り上げ、生の循環を大切にするチベットの人々の死生観を浮き彫りにする」。

 第四章「よみがえる死体-ユダヤ教とキリスト教」では、「ユダヤ教とキリスト教の死体観について考える。ユダヤ教独特の死体の洗い方や、キリスト教に見られる「復活」の奇跡、「最後の審判」のときに死体がどうなるかなど、この二つの宗教の根幹にある死体観を読み解く」。

 第五章「浄化される死体-日本」では、「日本人がどのように死体を扱ってきたかを問いなおす。『古事記』に記されたイザナミのゾンビ化に始まり、各地に見られる「もがり」と呼ばれる風習。古典落語での死体の扱い方など、様々な例をもとに、日本人の死体観を考える。また、本章の後半では、死体をめぐる様々な裁判の判例を紹介し、死体が誰の「もの」なのか、という本書のタイトルにもなった問いを追求する」。

 そして、著者は身近に考えてもらうために、「父の死」「母の死」と身内を俎上にあげ、最後は自分自身の死後について考える。60歳を超えた著者が臓器移植できるのは腎臓、肺、肝臓くらいで、「残った遺骨は、できれば自然葬を希望する」と「おわりに」を結んでいる。

国籍問題研究会編『二重国籍と日本』ちくま新書、2019年10月10日、234頁、820円+税、ISBN978-4-480-07257-3

 びっくりした。日本がこんないい加減な国で、国籍を管轄する法務省がこんな無責任な人たちで対応していたとは。問題が起きたときに、こんな国のこんな人たちに対応されるなんて、まっぴらごめんだと思う。つまり、この少子高齢化のなかで、日本に住みたくなる人が減るということである。

 本書は、2018年4月28日に日本プレスセンターでおこなわれた「『二重国籍』と日本」と題するシンポジウムでの発表をベースとしたものである。編者の国籍問題研究会は、「国籍問題や台湾問題に関心を有していたジャーナリストや弁護士らが、蓮舫氏の国籍を巡る問題が注目を集めていたころから意見交換を始めたことに端を発し、二〇一八年二月、公益財団法人日弁連法務研究財団の助成を得て、正式に発足した」。シンポジウムは、「台湾国籍問題における当事者的立場にある方たちや現在国籍を巡る訴訟を扱っている弁護士、研究者などにもかかわってもらい」開催された。

 この研究会が発足したきっかけについて、「あとがき」の冒頭で、鈴木雅子(弁護士)は、つぎのように述べている。「国籍の問題には、それなりに関心や知識を持っているつもりだった。二重国籍を正面から認めようとしない政府や裁判所の論拠はおよそ説得的でなく、世界的な趨勢をみても、日本でも二重国籍は容認の方向にいずれは行くであろうと楽観してもいた」。「ところが、蓮舫氏の国籍の問題が生じたとき、台湾の歴史的経緯や外交関係が複雑に絡み、メディアの記事は一向に要領を得ず、正直に言えば、私自身はリアルタイムではついていけなかった。そうこうしているうちに、二重国籍が悪であるかのような論調がどんどん高まり、蓮舫氏がついに戸籍謄本まで公開し、二重国籍ではないと「潔白を証明」して、そのまま議論は尻すぼみになった」。「あの騒ぎはいったい何だったのか? あのままでよいのか? という疑問が、私たちが国籍問題研究会として活動を始めるきっかけとなった」。

 本書は、序章「大坂なおみ選手が直面する国籍問題」、2部全7章、終章「国籍に向き合う私たち」、あとがき、からなる。第Ⅰ部「蓮舫氏問題を考える」では、「蓮舫氏の二重国籍問題をめぐる議論から浮かび上がった状況を、メディア、法制度、台湾の地位などの観点から整理した」、つぎの4章からなる:「メディアの迷走」「あらわになった国籍法の矛盾」「国際結婚と国籍」「「日台ハーフ」の中華民国国籍」。

 第Ⅱ部「国籍と日本人」では、「より広く問題を捉えて、国籍問題と国籍法をめぐって日本社会が直面する問題点や、日本より先に重国籍の問題に直面しているヨーロッパの事例を紹介」した、つぎの3章からなる:「日本国籍の剥奪は正当なのか」「国籍をめぐる世界の潮流」「国籍法の読み方、考え方」。この第Ⅱ部では、「大坂選手のように生来の二重国籍とは異なるケースとして、結婚や仕事などを理由に自己の意思で外国籍を取得したとき、日本国籍を失うというケースがある(国籍法一一条一項)。これについても賛否両論があり、昨年、当事者による違法訴訟が起こされた」点についても詳述している。

 そして、終章「国籍に向き合う私たち」では、「二重国籍問題を含めた国籍法のあり方について、執筆関係者と国籍問題研究会メンバーの間でコンセンサスが得られた「提言」をとりまとめている。

 わたしの身近に、二重国籍者が何人もいる。わたしの所属しているアジア・太平洋研究科の修士課程の8割以上が外国籍で、2割に満たない日本国籍者のなかにも二重国籍者がいる。台湾人学生のなかには日本生まれの「ハーフ」もおり、外国籍のなかには3国籍以上を選択できた者もいる。これらの重国籍者である学生が、犯罪者とみられることに、教師として堪えられない。法務省の役人、メディア関係者ばかりでなく、一般日本国民も重国籍者のことを充分に理解していないことが、なんとも歯がゆい。これらの学生が、日本に嫌気をさして、日本を見限らないことを願うばかりである。大坂なおみ選手だけでなく、重国籍者は日本や世界をよくしていく潜在力を秘めている。それを充分に活かせる日本社会でありたい。

荒木映子『祖国のために死ぬこと-第一次世界大戦の<英国>の文学と文化』溪水社、2019年10月1日、273頁、ISBN978-4-86327-486-0

 「戦死は美しいか?」という問いかけの見出しで、本書「はじめに」ははじまる。答えは、本書の主題になっている「祖国のために死ぬこと」は美しい、になるのだろうか。

 その「祖国」とはなにか。本書の「はじめに」のつぎの見出しは、「変遷する「祖国」、持続する「名誉」」で、つぎのようにまとめている。「「祖国」の観念は、古代、中世、近代においてそれぞれ異なり、戦士が自己犠牲を捧げる対象も、「祖国」の意味の変遷とともに変化している。古代ギリシャ、ローマの人々は、「祖国」に対して、今日言うような意味での「集団が信奉する抽象的なイデオロギー」としての「愛国主義(パトリオティズム)」を持たなかったかもしれないが、父祖の土地である「祖国」のために生命を投げ出すことは当然のことであり、「美しくかつ誉れなること」であると信じていた。祖国への愛と「名誉」の感覚が男たちをつき動かし戦争へ向かわせ、戦死をも選ばせた」。

 つづけて、本書の目的をつぎのように述べている。「第一次世界大戦の英文学と戦後の大戦文化を「祖国」、「愛国心」、「名誉」そして「顕彰」「追悼」という観点から読むことである。イギリスと、大戦当時まだイギリスの一部であったアイルランドにおいて、大戦はどういう意味を持ち、詩にどう表現されたであろうか。また、大戦後の死者の顕彰はどのように行われ、それまでの戦争の場合とどのように違ったであろうか。英文学や英文化を専門とする人達だけでなく、戦争、文学に関心を持つ一般の読者にも読んでもらえることを目指して書いている」。

 本書は、はじめに、序章、3部全7章、おわりに、あとがき、からなる。序章「『戦争詩』の歴史」では、「古代から大戦に至るまでの戦争詩の歴史を概観する」。

 第一部「祖国のために戦った詩人たち」は3章からなり、「イギリスの第一次世界大戦の詩を検討する。大戦は「文学的戦争」と呼ばれるくらい多くの詩を生み出したが、ほぼソンムの戦いを境目に、愛国的もしくは好戦的な詩から、戦争を糾弾し呪詛するシニカルな詩へ変化している。しかし、これに当てはまらない兵士詩人達の詩があることにも言及する」。第1章「祖国を愛する-ジュリアン・グレンフェル、ルーパート・ブルック、エドワード・トマス」では、「戦争初期の、「名誉」や「栄光」を求める愛国的な詩や、イギリスの田舎への愛着を示す詩という観点から、三人の詩を比較検討する」。第2章「戦争を憎む-シーグフリード・サスーン、ウィルフレッド・オーウェン、ロバート・グレイヴズ」では、「ソンムの戦い以後も詩を書き続けた詩人たちの詩を取り上げる」。第3章「『血と音と数限りない詩』-もう一つの大戦文学『ワイパーズ・タイムズ』は、第2章で挙げたような反戦文学とは異なり、最後まで大戦の大義を信じて戦おうとした兵士たちが書き、仲間うちで読んでいたトレンチ・ジャーナルを紹介する」。

 第二部「アイルランドと『祖国』」は2章からなり、「前世紀末までほとんど語られることのなかったアイルランドと大戦との関係を扱う」。第1章「一九一六年-復活祭蜂起とソンムの戦い」では、「大戦前のイギリスとアイルランドとの関係を述べた後、第一次世界大戦における対英協力と、北アイルランドと南との思惑の違い、大戦最中のイースター蜂起の勃発、ソンムの戦いに始まる北と南の協力と反目、矛盾をはらんだ一九一六年の出来事が今日のアイルランドと北アイルランドにどのような影響をおよぼしているかを述べる」。第2章「アイルランドの『戦争詩人たち』」では、「イギリスの戦争詩人たちと比べて、あまり知られていないアイルランドの戦争詩人たちを取り上げる」。

 第三部「祖国のために死んだ人たちを弔う」は2章からなり、「最初に、「戦争文化」という概念について、近年の大戦研究に立脚した説明を加えている。「戦争文化」として、戦後の追悼のあり方(戦争墓地・記念碑、慰霊の旅・戦場ツアー)を取り上げる」。第1章「死者の顕彰-戦争墓地と戦争記念碑をつくる」では、「膨大な死者を出した大戦の後、「祖国」のために死んだ戦争英雄を民主化する試みが始まったことについて述べる」。第2章「なぜ戦場ツアーか?-追悼、ゴシック、サブライム」では、「もう一つの「戦争文化」として、かつての戦場への巡礼/ツアーを取り上げる」。

 「第一次世界大戦は、ヨーロッパにおいて大戦以前と以後とを決定的に断絶させてしまい、文学においても文化においても大きな変化をもたらした」。著者は、「そのことを作品からだけではなく、実際に自分の足で歩いて確かめてみたい」と思い、戦争墓地を訪ね歩いた。本書は、『第一次世界大戦とモダニズム-数の衝撃』(世界思想社、2008年)、『ナイチンゲールの末裔たち-<看護>から読みなおす第一次世界大戦』(岩波書店、2014年)につづく、著者の「大戦関係の本の最後の三冊目として刊行」された。

 イギリスだけでなく、アイルランドを描くことによって、多様な「祖国」の実相が明らかになった。さらに、第一次世界大戦に参加した海外からの「イギリス国民」がいた。たとえば、オーストラリアでは1948年に国籍・市民権法が成立し、翌49年1月26日(オーストラリア・デー)に施行されるまで、オーストラリア人はイギリス国民でもあり、第一次世界大戦にはイギリス国民として参加した。オーストラリアは、ニュージーランドとともに1915年4月25日にトルコのガリポリに上陸したのを記念して、アンザック・デーとして祝日にしている。死に値する「祖国」とはいったい何だったのだろうか。「祖国」のために、無駄死にする人がでないことを願う。

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