早瀬晋三書評ブログ2018年から

紀伊國屋書店「書評空間」https://booklog.kinokuniya.co.jp/archive/category/早瀬晋三に2005~15年に掲載された続きです。2015~18年に掲載されたものはseesaaブログshohyobloghayase.seesaa.net/ で閲覧できます。

2020年03月

坂野徹編著『帝国を調べる-植民地フィールドワークの科学史』勁草書房、2016年2月15日、232+xiii頁、3400円+税、ISBN978-4-326-20054-2

 「本書は、「帝国日本」「ポスト帝国」時代に東アジア各地で行われたフィールドワークや学術調査を、科学史あるいは学問史の観点から検討しようとするものである」。そしてそれは、以下のような「研究潮流に棹さしつつ、学術活動のなかでも特にフィールドワークに焦点を当て、その歴史的意味を考えることを企図している」。

 まず、歴史研究の大きな潮流として「帝国日本」「ポスト帝国」がある。「一九九〇年代以降、日本では、かつて支配下に置いたアジア各地の植民地・占領地の歴史に関する膨大な研究が積み重ねられてきた。こうした植民地・占領地史研究の進展にくわえ、近年では、日本敗戦=植民地帝国崩壊後におけるアジア各国の「戦後」史に関する研究も盛んになって」きている。

 つぎに、この大きな潮流の「展開と連動して、九〇年代には、科学史家を含むさまざまな領域の研究者によって、アジア各地の植民地・占領地における学術活動に関する歴史研究も本格的にはじまった。その後、生物学、物理学、化学、医学、工学などのいわゆる科学技術の領域から、歴史学、政治学、法学、経済学などの人文社会科学の領域まで、かつて植民地・占領地で行われたさまざまな分野の学術活動についての検討が進められるとともに、現地に設立された研究教育機関、博物館の歴史など、多様な問題系をめぐって「帝国日本」の学知の政治性が(ママ)[を]問う研究が登場するようになった。こうした「帝国日本」時代の学術活動への関心は、かつて日本の支配下に置かれた東アジア諸国にも共有されており、韓国・台湾・中国においても、植民地・占領地時代の学術活動に関する歴史研究が盛んになっている」。

 「本書は、学問領域横断的な形でフィールドワークと「帝国」との関わりを考えようとする、日本ではじめての研究書」で、「カバーする時代は、一九世紀末から戦後、おおむね一九六〇年代までである。基本的には、「帝国日本」時代の植民地・占領地におけるフィールドワークが中心となるが(第一章-第四章)、最後の二章には、「ポスト帝国」時代のフィールドワークに関する論考が置かれる(第五章・第六章)。各章で検討対象となるフィールドワークが実施された地域は、中国大陸および日本国内(第一章)、朝鮮半島(第二章・第三章)、パラオ(第四章)、北海道(第五章)、瀬戸内地方・沖縄・韓国(第六章)だが、フィールド研究者の多くは一ヶ所に留まらず、「帝国」各地を移動しながら調査を実施したので、各章では、必要に応じて彼らの地域間での移動をめぐる問題にも目を向けている」。

 「ただし、各章におけるフィールドワークに対する捉え方は大きく異なっている。第一章が扱うのは文献史学を越える可能性をもつ(と考えられた)方法論としてのフィールドワークであるのに対して、第二章におけるフィールドワークとは、極論すれば文献の記述を再確認するための作業にすぎない。さらに第三章におけるフィールドワークは、実験研究と相補うものであり、第四章においては植民地での生活総体がフィールドワークだということになる。また、第五章が焦点を当てるのは研究者のフィールドノートなどから明らかになるフィールドワークの実態であり、第六章が主題化するのは、フィールドワーカーが各地を移動する姿である」。

 本書は、2005年に組織された「植民地と学知研究会」を母体とし、2012-14年度におこなわれた「帝国日本のアジア地域における人類学・衛生学に関する歴史研究」プロジェクトの最終成果となる論文集である。母体の研究会が「ゆるやかに集まり、自由に議論をする会」であるため、「各章が分析対象とする領域は多種多様だが、それぞれの学問領域のなかでフィールドワークが果たした役割が分析されることになる」。

 共同研究は、代表者の強いリーダーシップのもとで、焦点を絞って議論されることもあるが、本書のテーマのように大きな潮流のなかで議論されても、個別に議論されていないものは、「ゆるやかに」議論するほうが生産的だろう。その場合、共同研究の成果としての論文集は、個々の共同研究員が単著単行本を出すことで、より意義をもつことになる。編著者は、3年後の2019年に『島の科学者-パラオ熱帯生物研究所と帝国日本の南洋研究』(勁草書房)を上梓している。

小林勉『スポーツで挑む社会貢献』創文企画、2016年10月28日、271頁、2800円+税、ISBN978-4-86413-086-8

 2013年9月に2020年の夏季オリンピック・パラリンピックの開催地に東京が決まったとき、安倍晋三首相は、「2014年から2020年までの7年間で開発途上国をはじめとする100か国以上および1000万人以上を対象に、日本国政府がスポーツを通じた国際貢献事業を推進」することを国際公約として明言した。この「途上国の存在を視野に置いた首相によるプレゼンテーションがより強い説得力をもって訴えかけ、東京オリンピック・パラリンピック招致成功を後押しした」。「このように、スポーツの世界から国際貢献活動にいかに寄与できるのかが注目され、それをどのように実践していくのかという議論が、近年急速に活発化してきている」。

 本書の目的は、つぎのように「はじめに:Sport ✕ Developmentという公式の登場」で記されている。「「開発」の領域と「スポーツ」の領域とが連携し、途上国の発展を支える体制作りへ向け、その底辺を広げる組織的取り組みが始まった時勢の中、スポーツと開発の問題がいかに繋がり始め、スポーツを通じた国際貢献活動がどのように展開されてきているのかについて検討する。安倍首相によるプレゼンテーションに代表されるように、日本で本格的に始動したスポーツによる国際貢献活動の展開に焦点を当てながら、「Sport for Development and Peace :以下SDPと表記」という言葉をキーワードに、スポーツ界が発信する国際貢献活動の近年の動向について明らかにしようと思う」。

 本書は、はじめに、3部全10章、おわりに、からなる。第Ⅰ部「SDP発展の経緯」は5章からなり、第1章「東京オリンピック・パラリンピックにより誘引された新たなベクトル:Sport for Tomorrowプログラムの開始」、第2章「スポーツによる援助協力の歴史的変遷:1990年代までの動向」、第3章「本格化するスポーツを通じた開発:21世紀初頭に台頭するSDPの潮流」、第4章「世界規模で拡大するSDP:2005年「スポーツ・体育の国際年」の制定」、第5章「SDPへ向かう時代の色調:相次ぐSDP文書の発刊」で具体的経緯が論じられている。

 第Ⅱ部「SDPが隆盛する現代世界」は3章からなり、第6章「SDPの中心的なアクター」、第7章「現場で展開されるSDPの具体的な実践コンテンツ:Right to PlayによるLive Safe, Play Safeの事例から」、第8章「変容する途上国のスポーツ振興体制:南太平洋の事例から」、「SDPの主要なアクターとその実践内容について概説しながら、SDPの具体的な中身について明らかにする」。

 第Ⅲ部「SDPはどこへ向かうのか?」は2章からなり、第9章「途上国に押し寄せるSDPの波」、第10章「問い直される「スポーツの力」:Sport for Tomorrowの課題」で、「SDPは現地に何をもたらしたのかについて検討し、問い直される「スポーツの力」について論じる」。

 そして、最終章の第10章の最後の節「3.スポーツで貧困を救えるか?:Sport for tomorrowのこれから」で、「これまでの議論の範囲と限界を再確認し」、「近年のSDPの動向に着目し、援助の新たなアプローチとしてのスポーツに関してここで明らかになったのは、次の五点である」とまとめている。

 「1つめは、SDPに関する日本と欧米との議論の間に大きなタイムラグがみられた点である。日本では、第三世界とスポーツを対象にした研究などがみられたが、全般的に限られたものであった」。「とりわけSDPをめぐる問題性について、欧米圏で議論されてきた現場での実践と経験知の蓄積の大きさに比べて、日本におけるSDPの議論の幅の狭小さは、両者の間に大きなタイムラグを生じさせてきた」。

 「2つめは、SDPの実際の現場にてドナー側のニーズが優先されるという、SDPを投げかける側の論理が浮かび上がってきたという事態である」。「SDPの議論では、各々のプロジェクトにおけるSDPを「投げかける側の意図」と「投げかけられる側のニーズ」との間に大きなギャップや微妙なすれ違いを生じさせる点についても論じられつつある」。

 「3つめは、SDPをめぐりいくつもの非対称的な関係性が構築されているという点である」。「スポーツ援助の課題を「リソース欠如」の問題として捉え、これに対して外部主導の資源移転による「リソース補填」によって解決しようとするのではなく、そうした外部リソースに浸らせてしまう援助のやり方が、しばしば人々の主体性を損ない、当事者意識を希薄[に]する受動的な気構えを形成させうるという視点を持つことが、今後のスポーツ援助を考える要点のひとつとなってこよう」。

 「4つめは、グローバルなガバナンスの構築にいち早く成功した「スポーツ・ドメイン」の特性を、いかに開発イシューと結びつけるのかという問題である」。「グローバル化を遂げた「スポーツ・ドメイン」の歴史的意義とその限界を、レベルの異なる領域や方面においてもう少し突き止めておかなければならない」。

 「5つめは、日本のSDPを推進する背後に交錯するポリティクスに焦点を当てた批判的な視点が手薄であるという問題である。格差問題の是正などなかなか出口が見えない状況で、スポーツに大きな注目が集まるのもわからなくはないが、それを「スポーツの持つ力」などという心を引く語り口に安易にすり替えてしまうのではなく、重要なのは、国際開発とSDPの領域で蓄積してきたとされる議論の限界と範囲を認識しつつ、スポーツと開発の「継ぎ目」を慎重に見定めていくことである」。

 そして、「スポーツと開発問題をリンクさせ、活用するのにそれがポジティブなインパクトをもたらすのかといった問いへの解答は意外に見えにくい」とし、最後に「今後取り組まれるべきSDPの課題とは一体何なのか」という問いにたいして、つぎのように「重要な示唆を与えるSDPの評価をめぐる課題についてふれて」いる。「スポーツ援助によって活気づいたSDPの展開は、先進国の体制化したスポーツによって成し遂げられてきたが、スポーツの領域から南北問題を是正しようとするなら、そこにはスポーツが本来的に有していたコロニアリズム的要素に対する壮大な挑戦が待ち受けていることを常に視野に入れておかなければならない。「終わらない植民地主義」というポストコロニアリズムが問うべき課題とも共鳴し合う状況のもと、そうしたアンビバレントな局面を横断してSDPの課題が存立することを認識するとき、コールターが示すSDPの評価をめぐる課題[スポーツ自体には原因となる力や魔法のような力はなく、スポーツとは参加のプロセスなのである]が、反省的に捉え直されて我々に問いかけてくることになる」。

 さらに、著者は「おわりに」で、日本の政府事業である「Sport for Tomorrow」が「実態はほとんど継続性のない「単発的な」スポーツ援助またスポーツ交流であり、貧困削減との因果関係は間接的なものに留まっている」と厳しく指摘し、「昔からのスポーツ用品供与や指導者派遣中心の日本のスポーツ援助・交流そのままであり、そのことは実施レベルでの日本スポーツ政策の実姿を映し出している」と旧態依然とした政策を批判している。

 つまり、安倍首相が東京オリンピック・パラリンピック招致のために明言した国際公約を、果たしていないということだ。「スポーツの世界から国際貢献活動にいかに寄与できるのかが注目され、それをどのように実践していくのかという議論が、近年急速に活発化してきている」と言われながら、日本ではスポーツにたいする予算はそれほど伸びておらず、あまり重要視されていない。プラスのイメージだけが先行し、その実態があまり明らかにされていなかった日本の「スポーツによる社会貢献」が、世界的な動きのなかで、また欧米豪との比較のなかで明らかにされた。オリンピックという華やかな面の下に隠された「陰」にも注目する必要がある。

齊藤一彦・岡田千あき・鈴木直文編著『スポーツと国際協力-スポーツに秘められた豊かな可能性』大修館書店、2015年3月20日、231頁、2400円+税、978-4-469-26773-0

 2013年に2020年の東京オリンピック・パラリンピックの開催が決まってから、学術的にもスポーツ分野が脚光を浴びるようになってきている。だが、その全貌がわかるようなものはなかった。本書は、つぎのような経緯で企画されたことを、「はじめに」で述べている。

 「なぜスポーツを通じた国際協力が求められているのか、そこにどのような意義があるのか、そしてそれは国内外では実際にどのように展開されているのか、等々これらを体系的に捉えなおした書籍は見当たらないのが現状である。そこで、前述した十数年来の研究仲間、さらには新進気鋭の若手・中堅研究者や国際協力の現場でご活躍の方々にも執筆者となって頂き、スポーツを通じた国際協力の意義と役割、またその豊かな可能性を整理・体系化しようと挑戦したのが本書である。

 本書の内容は、表紙見返しに、つぎのようにまとめられている。「世界には、開発途上国を中心として、紛争、犯罪、貧困、人権侵害、HIV/AIDSなど、地球規模の課題(Global Issue)が存在している。スポーツは、こうした課題の解決の有効な手段として国際的に認知されつつある。しかし残念ながら、今の日本には、「スポーツを通じた国際協力」という考え方はまだ一般的ではなく、学問分野としても市民権を得ているとは言い難い。そこで本書では、スポーツを通じた国際協力がなぜ求められているのか、どのような意義があるのか、その実際はどう展開されているのか、という観点から解説する」。

 本書は、はじめに、全4章16節、10のコラム、1つの事例研究からなる。「第1章 国際協力としてのスポーツの可能性」は3節、1コラム、「第2章 スポーツを通じた国際協力の世界的動向」は3節、1コラム、「第3章 スポーツを通じた国際協力の分野」は7節、8コラム、1事例研究、「第4章 スポーツを通じた国際協力の将来展望」は3節からなる。

 残念ながら、本書には序章も終章もない。「あとがき」もない。本書が「出版構想から完成に至るまでに数年もの年月を要してしまった」のも、学問的分野として歴史が浅い領域だからだろう。

 本書では、それぞれの節のはじめに数行の「概要」があり、節を理解するのに役立っている。最後の節「スポーツを通じた国際協力に携わるには」は、筆頭編著者によるもので、本書の「結論」にかわるものとして読むことができる。つぎのように、まとめられている。「スポーツを通じた国際協力に携わるにはどうしたらよいのか。そのためには、JICAボランティアなどで開発途上国に赴き、国際協力活動に直接携わるのも一つの方法である。また、国連など国際機関での業務遂行に備えて、大学などで高い専門性を養っておくことも重要である」。

 本書で目立つのは、「スポーツを通じた」という表現である。つまり、スポーツそのものが学問として成り立たず、事例として参考にされるに留まっているということである。本書編集過程で、「用語の定義やその使い方に始まり、さまざまな箇所で議論が勃発した」のも、新しい学問領域の産みの苦しみといえる。このような議論の積み重ねによって、まず「序論」が書けるようになるだろう。「終章」が書けるようになるのは、まだまだ先のようだ。

田辺明生・竹沢泰子・成田龍一編『環太平洋地域の移動と人種-統治から管理へ、遭遇から連帯へ』京都大学学術出版会、2020年1月20日、422頁、3600円+税、ISBN978-4-8140-0248-1

 重い課題を突き付けた本である。帯の表に、つぎのように書かれている。「移民・難民への排外主義の横行…… 肌の色ではない、目に見えない特徴から排除する「人種化」に、私たちはどう抗い、希望を見出すか?」。

 そして、帯の裏には、つぎのように本書の目的が書かれている。「西欧の帝国主義・国民国家は肌の色など身体的特徴を「人種」としてカテゴリー化した。しかし今やさらに先鋭化した人種化が席捲している。文化や生活習慣など見えない差異で線をひく厄介な人種化は、人が複雑に移動し交錯してきた「環太平洋型」といえる」。「本書は環太平洋型の人種化の史的起源と現状を示し、さらに芸術や対話の場を通してオルタナティブなグローバル化の道を探る」。

 本書は、序論、4部全10章、あとがき、からなる。編者3名による「序論」の最後で「本書の構成と内容の紹介」をしている。「Ⅰ 拡大する帝国・国民国家」は、2章からなる。「第1章の平野克弥「遭遇としての植民地主義」は、近代の北海道開拓によって引き起こされる「アイヌの近代的経験」を考察する」。「第2章の鬼丸武士「植民地統治と「カテゴリー」」は、植民地期シンガポールで治安秩序維持のために用いられた民族カテゴリーについて論じる」。

 「Ⅱ マイノリティたちの遭遇・共感・連帯」は2章からなる。「第3章の関口寛「アメリカに渡った被差別部落民」は、環大西洋と環太平洋のふたつの「人種化」の論理が重なり合う対象として、アメリカに移民・移住した被差別部落民の受けた差別と、そこでの活動をあきらかにする」。「第4章「排日から排墨へ」は、一九二〇年代のカリフォルニアにおける日本人移民・メキシコ人移民の関係性を人種化経験の連鎖という角度から捉える徳永悠による論考である」。

 「Ⅲ 政治実践としての記憶と表象」は、3章からなる。「第5章の吉村智博「博物館におけるマイノリティ表象の可能性」は、博物館展示に携わる立場から「他者」を展示表象する行為に内在する論理の検討を行う」。「第6章において内野クリスタル「日系アメリカ人の原爆批評」は、その展示を機に蘇った日系「ヒバクシャ」たちの記憶と原爆をめぐる議論を追う」。「第7章の土屋和代「一九九二年ロスアンジェルス蜂起をめぐる表象の政治」は、LA蜂起の歴史理解を批判的に再検討し、その多元的で重層的な記憶をいかに描けるかについて論じる」。

 「Ⅳ グローバル化時代の管理と抵抗」は、3章からなる。「第8章に掲げた成田龍一「巡礼する人種主義のためのノート」の議論は、人種を構成する文化的要素に着目し、人種概念のしぶとさを論じたものである」。「第9章の田辺明生「ヴァーチャル化する「人種」」は、近現代インドの人種を論じる」。「最終章で竹沢泰子「「ほどく」「つなぐ」が生み出すマイナー・トランスナショナリズム」は、芸術が生み出す情動が、いかに人種主義や性差別に抗う営みとなりうるかを論じる」。

 そして、本書が挑んだことを「あとがき」で、つぎのように述べている。「本書は、さまざまな事例を通して、どのような人びとがいつどこになぜ移動したのか、移住先でどのような人びとと遭遇し、そこでどのような人種差別を経験したのか、あるいは遭遇した人びととの間にどのような共感や連帯が生まれたのかを明らかにすることを試みた。また二一世紀の現在、どのような新たな形態の人種主義が台頭しているのか、現代の人種主義に抗う日常的実践の糸口はどこに見いだせるのか、本書の後半ではこうした問いにも挑んでいる」。

 本書は、京都大学人文科学研究所の共同研究プロジェクトで、大型科学研究費の助成を受けて進められ、多くの良質な研究成果を内外に出している。そして、「研究者コミュニティ内外と研究成果を共有するために、公開セミナーやシンポジウム」を積極的に開催してきた。「そうした機会における対話からも、さまざまな形で立ち現れる人種主義・排外主義の背景と原理を理解し、それらに抗う術をともに考え続けたい」という。

 環太平洋研究といえば、これまでは日米関係が基本にあった。だが、「日米関係にとどまらない太平洋へのまなざし」が必要であり、本書で「実際に扱えたのはそのなかのごく一部の地域に過ぎない」と編者らは認めている。環大西洋研究に比べて、環太平洋研究の蓄積は微々たるものである。本書での議論を踏まえ、ひとつひとつ事例を積みあげていくしかない。

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