早瀬晋三書評ブログ2018年から

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2020年05月

平川均・町田一兵・真家陽一・石川幸一編著『一帯一路の政治経済学-中国は新たなフロンティアを創出するか』文眞堂、2019年9月25日、254頁、3400円+税、ISBN978-4-8309-5046-9

 「はしがき」冒頭、いきなり「中国の「一帯一路」構想は、日本のメディアで批判的に報じられている」と、本書は中国批判ではじまる。「「商業主義」、「滞る一帯一路」、「一帯一路に懸念」などのような見出しをみることが少なくない」とつづく。しかし、本書「第6章 ASEANにおける「一帯一路」構想の現況と課題」の最後のパラグラフでは、「日本の経済協力は初期の時期には日本企業への利益を優先するひも付き援助と批判された」と述べ、「日本のアジアへの投資は、日本から資本財中間財を輸入し、現地の人材を登用せず、技術移転を行わないため、受入国に利益をもたらさないと批判された歴史がある」。「1973年、74年には、タイとインドネシアで激しい反日運動が起きている。BRI[一帯一路構想]への批判は、こうした半世紀前のアジアでの日本批判を思い出させる」とある。半世紀前の日本のことを知らずに、中国批判をすれば、日本にも批判の矛先が向かってくることになる。

 本書の概要は、帯の裏に、つぎのようにまとめられている。「中国の提唱する「一帯一路」構想は参加国が70を超え、マレーシアは中止プロジェクトを再開し、EUからはイタリアが参加を決めた。だが「債務の罠」など強い批判もある。壮大な「一帯一路」構想の全体像を、ASEAN、南アジア、欧州、アフリカなどの沿線国の現状、課題を含めて総合的に把握する。新たなフロンティであるインド太平洋構想も考察」。

 本書の問題意識、目的は、「はしがき」でつぎのように述べられている。「「一帯一路」構想は多様な要因や目的を背景につくられている。従って、一面のみを取り上げ、評価を行うべきでない。規模の巨大さ、時間軸の長さ、沿線諸国の多さとその経済社会へのインパクトの大きさ、実施している事業の多様性などを考えると、「一帯一路」構想の評価は多面的に行わねばならない。そのためには、「一帯一路」構想自体を多角的に考察し、主要な沿線諸国での一帯一路事業の内容(とくに交通インフラ整備と物流)とその評価、政治経済学的な視点での国際的な意義、開発戦略としての評価、「一帯一路」構想批判とその妥当性など多くの観点から総合的な判断を行うべきである」。

 「本書はこうした問題意識にもとづいて、「一帯一路」構想について、一次資料をはじめデータに基づき、全体像を正確かつ総合的に把握し、沿線国を含め「一帯一路」構想の現状を客観的かつ判りやすく示し、問題点および課題を論じることを狙いとしている」。

 本書は、2部、全10章からなる。「「一帯一路」構想を考察している」「第1部 「一帯一路」構想とその意義」は4章からなる。「第1章 「一帯一路」構想とアジア経済-新たなフロンティアとその課題-」は、「中国の「一帯一路」構想の誕生の経緯と背景、構想とその特徴、さらに沿線国の対応を考察し、次いで中国の発展をアジアの地域経済の発展の中に位置づける」。「第2章 中国の対外経済戦略と「一帯一路」構想」は、「2000年代以降の「貿易大国化」と「走出去」の加速化、およびFTAネットワークの構築といった「一帯一路」構想の経済的背景並びに歴史的意義を分析する」。

 「第3章 「一帯一路」構想で進展するアジア・ユーラシアの物流」は、「交通の視点から、「一帯一路」政策の前提となる国内広域交通幹線の整備の経緯に注目し、各輸送モードや関連する分野の現況を分析する」。「第4章 「一帯一路」構想を巡るファイナンス」では、「「一帯一路」構想の推進が莫大なインフラ投資資金を必要とし、それに応える意味でもファイナンスが極めて重要な役割を担うことを分析している」。

 「主要な沿線国・地域の「一帯一路」構想の現状と課題を検討した」「第2部 「一帯一路」構想と世界」は、6章からなる。「第5章 「一帯一路」構想とASEAN連結性-ASEANとしての取り組みと中国への期待-」では、「「一帯一路」構想にとって、東南アジア地域の占める意味は大きく、BRIの経済協力に対してはASEAN加盟国の多くが期待していると評価している」。「第6章 ASEANにおける「一帯一路」構想の現況と課題」では、「ASEANの全加盟国が「一帯一路」構想に参加しており、その狙いはインフラ整備のための資金獲得であるとしている」。

 「第7章 「一帯一路」構想と南アジア」では、「南アジア地域の政治経済は中国の進出で大きく揺れ動いていると分析している」。「第8章 「一帯一路」構想と欧州-中国への警戒感と今後の行方-」は、「「一帯一路」構想を掲げる中国がEUで攻勢を強めていることを指摘している」。

 「第9章 「一帯一路」構想とアフリカ」では、「「一帯一路」構想がアフリカ諸国にまで延伸しており、既にアフリカ各地で港湾整備や鉄道建設が進められていることを確認している」。「第10章 自由で開かれたインド太平洋構想-その意義、内容、課題-」では、「同構想は、経済成長の極がインド洋周辺国に移動しつつあることへの戦略的対応であることをまず指摘している」。

 1997年のアジア通貨危機、2008年のリーマン・ショックなど、先進国などが経済不況になるなか、中国は大きな影響を受けず、飛躍的な経済発展の契機とし、周辺諸国への影響力を強めてきた。2020年の新型コロナウィルスの影響も最初に感染が拡大した国であるのもかかわらず、2~3ヶ月で終息に向かい、経済活動を取り戻しつつある。今回も、大きな影響を受けることなく世界中に影響力を強めるのか、これまでと違い他国の影響が中国にも及び共倒れになるのか、あるいは貧富の差が広がった中国国内でなにかが起きるのか、それによって「一帯一路」構想も変わってくる。本書は、出版後1年も経たないうちに役に立たなくなる可能性がある。年報とまでいかなくても、定期的に改訂版を出す必要がある。

土佐桂子・田村克己編『転換期のミャンマーを生きる-「統制」と公共性の人類学』風響社、2020年3月20日、330頁、5000円+税、ISBN978-4-89489-267-5

 帯に「激変するかに見えた国の底流にあるもの」「民政移管、そして「スーチー政権」へ。人びとの上には今も「統制」のくびきがある一方、傍らにはさまざまな「公共性」の風穴がほの見える。モノ・情報・コミュニティから見た可能性とは。注目の民博共同研究の成果」とある。

 アウンサンスーチーが事実上政権を握ったとき、内外の多くの人びとは期待した。それが、いまではアウンサンスーチーが受けた賞はつぎつぎと剥奪され、ノーベル平和賞は「賞を剥奪する規定はない」という理由で剥奪を免れている。アウンサンスーチーは期待を裏切ったのか、そもそも期待すること自体が間違っていたのか。もし後者ならば、その理由の一端を間接的にでも明らかにするのが、「底流にあるもの」を探しだし考察する基礎研究だろう。個々の事例を、直接時事問題に結びつけることは難しい。ならば、序章や終章で、総括する必要があるが、時事問題と結びついた基礎研究の成果を、本書で期待することはできない。いま現場で起こっている問題を、アカデミズムと結びつけるのは、難しいのだろうか。

 本書の特徴、つまり国立民族博物館の共同研究「「統制」と公共性の人類学的研究-ミャンマーにおけるモノ・情報・コミュニティ」(2012-16年)の特徴は、つぎのように説明されている。「政治権力体制の特質を踏まえつつ、むしろミクロレベルでの調査研究を元に、日常生活において感知、経験される政治的諸相を「統制」と公共性という観点から明らかにすること、特にミャンマーにみられる急激な変化を、過去との分断のうえにではなく、従来の長期の文化社会研究に基づく知見を生かし、連続性のなかでとらえていくことにある」。

 アウンサンスーチーが力を発揮できないのは、現在のミャンマーの憲法による。現憲法では、外国籍の家族をもつ者は大統領になれない。イギリス人と結婚したアウンサンスーチーの2人の息子はイギリス国籍であるために、アウンサンスーチーは大統領になれない。憲法改正は、75%の議決が必要であるが、上院・下院ともに25%の議席が国軍に自動的に与えられるので、国軍の賛成がないかぎり、憲法改正はできない。国軍最高司令官は、国防省だけでなく、警察権をもつ内務省、国境省の大臣の任命権をもち、大統領には国防、警察などにかんする権限がない。このような状況で、大統領以上の権限をもつとされる「国家顧問」に就任したアウンサンスーチーに、ロヒンギャ問題などにたいする権限がなく、期待するほうが間違いということになる。

 では、民政に移管せずに、軍政のほうが権力が一元化し、よかったということができるのか。本書の帯には「今も「統制」のくびきがある一方」、「「公共性」の風穴がほの見える」とある。「統制」と「公共性」が、本書のキーワードだ。

 「序章 「統制」と公共性研究について」で、まず「統制」はつぎのように説明されている。「二つのタイプを想定できる。第一は国家など公権力からモノや人や情報の流通に対して課せられる「統制」で、社会主義政権下では最も顕著に存在した。ただ「統制」は必ずしも外部から課せられるものとは限らない。第二には、フーコーが述べたような規律=訓練社会の成立のなかで、むしろ「個々人が掌握されるなどの関係を個人の内的な機構が生み出す仕掛け」を考える必要がある」。

 つぎに、公共性にかんしては、「とりあえず出発点とする議論はハーバマスのもので、彼は国家に対抗するものとして、ヨーロッパにおける公共性の成立と衰退を論じた」。「東南アジア社会において公共性を考察するということ」にかんしては、「コミュニティのなかで、公共性がいかに立ち上がるのかという視点」が重要で、「コミュニティのなかで新たな公共空間が発現するプロセスを追う必要性が指摘された」。具体的に、ミャンマーでは「二〇一一年[民政移管]以降の急激な変化のなかで、言論の自由が確保され、携帯電話が安価に流布するようになるなど、公共性へのアクセスは徐々に確保されつつある状況である。こうした近年の変化を含めて、考察することが求められている」としている。

 本書は、序章、3部全12章、あとがき、などからなる。「第Ⅰ部 統制のほころびと新たな公共性の行方」は5章からなり、「ネーウィン社会主義政権、軍事政権、テインセイン政権と続いてきた軍主導の統制のありようとその変化、また統制下でいかなる公共性が立ち現れる可能性があったのかを、それぞれの著者が、長年にわたる調査や研究成果をもとに描き出している」。「第Ⅱ部 民主化の中の宗教-競合する公共性」は3章からなり、「テインセイン政権時代に生じた宗教対立を背景として、宗教をめぐる公共性、公共圏の問題を取り上げている」。「第Ⅲ部 マイノリティをめぐる統制と鼓動」はミャンマー2章、カンボジア1章、シンガポール1章の4章からなり、「主に民族に焦点を当て公共性を考察する試みが行われる」。

 「あとがき」は、「ミャンマーは今、大きな転換点に立っているといえよう」、を1行のみのパラグラフとしてはじまる。ところがその「今」は、少々世間とずれている。そのことは認識されていて、つぎのように説明されている。「共同研究」は「二〇一一年一〇月に始まったが、それは、軍政から連続しながらも民政移管の形をとったテインセイン政権が始まって間もなくであった。同政権は、国の「開放」と「民主化」に向けた改革に踏み込み、次の本格的な「民主化」政権に道を開く形となった。そして、研究会の終わった二〇一六年三月は、総選挙の結果を受けて、国民民主連盟の政権がまさに始まろうとする時期であった。その政権の実質的指導者アウンサンスーチーは、軍からの掣肘を受けつつも、少数民族の問題も宗教の問題も包み込みながら、民主主義によって国の統合を成し遂げていく期待を抱かせていた。それは、多くのミャンマー国民の願いであるだけでなく、諸外国もそのような見方から熱い視線を寄せていた」。

 「その後の政治過程についての評価は、ここで述べることは難しいが、私たちを戸惑わせるのに充分であった」。「長く続いた軍政や軍主導の政権のもとでは、それら[独立以来の課題]が力で抑え込まれ、「民主化」政権の始まり前後には、民主主義への期待でヴェールに包まれていたにすぎない」。

 知りたいのは、軍の支配にたいして、一般ビルマ人は批判することもあれば、支持している面もあり、アウンサンスーチーも軍を擁護する発言をするのは、どういうことを意味するのかである。「多くのミャンマー国民の願い」、ミャンマー人の「普通の感覚」について、基礎研究から知りたいのであるが、かなり前のフィールド調査にもとづき、数年前に議論した成果では「今」が伝わりにくい。2016年4月にアウンサンスーチー政権が発足したにもかかわらず、17年8月以降ロヒンギャ難民が100万人発生したと言われることにたいして、「ここで述べることは難しい」では一般読者は納得しないだろう。「ほの見える」なにかを知りたいのだが・・・。

中坪央暁『ロヒンギャ難民100万人の衝撃』めこん、2019年8月25日、525頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0317-5

 「私たちが陰鬱な気分になるのは、軍事政権の弾圧に抗して民主化を勝ち取ったミャンマーの人々、アウンサンスーチー氏を信じて闘った人々、私たちも共感し応援した人々が、ロヒンギャに対しては人権意識も法秩序もかなぐり捨て、自分たちを圧迫していた国軍による少数民族弾圧に賛同ないし加担しているという甚だ救いのない現実への幻滅と失望なのだと思う。あるいは、私たちはこの国の本質を実は何も分かっておらず、民主化の幻想に惑わされていただけなのかもしれないが」。

 本書「第7章 遠のく帰還-解決の道はあるのか」のなかの著者のことばである。問題の根幹に、「民主化」されても国軍の権力は憲法上保証され、大統領を超えた権限をもつ国家顧問のアウンサンスーチーの及ばないところにある、ということがある。「アウンサンスーチー国家顧問の主導でロヒンギャ政策が転換される可能性は皆無である」と言い切る者もいる。

 日本のミャンマー研究者のひとりの上智大学の根本敬は、つぎのように述べている。「前向きな進展は期待できない。国軍の権限を制約する方向での憲法改正に対し、国軍の反対の意思は非常に強固であり、改憲論議が進まないまま総選挙に突入すると考える。少数民族に関する改憲も『真の連邦制』をめぐる定義が少数民族組織の側と国軍で一八〇度異なり、NLD[国民民主連盟]政権はその板挟みになっているため、調整に取り組む姿勢は見せ続けるだろうが、具体的進展はほぼゼロに終わるだろう」。

 ロヒンギャ人が難民になる事態は、1970年代から繰り返し起こっているが、爆発的に発生したきっかけは、2017年8月25日未明にロヒンギャの武力勢力数百人が警察施設など約30ヶ所を一斉に襲撃したことだった。それにたいして、ミャンマー国軍はロヒンギャ掃討作戦を発動し、「警察と国境警備警察、仏教徒のラカイン人民兵などが加わって村々を焼き払い、女性や子供、高齢者を含む無抵抗のロヒンギャ住民を殺害した。最初の一カ月間だけで少なくとも六七〇〇人が殺害され(NGO「国境なき医師団」推計)、国連調査団報告によると、八月下旬以降の犠牲者の総数は控えめに見積もっても一万人に上る。死者を約二万五〇〇〇人と推計する調査報告もある」。1990年代から滞留する「古株」20~30万の難民に「新参」74万5000が加わって、100万人になった。

 本書は、全7章からなり、著者、中坪央暁は、「プロローグ」の最後で、本書の目的をつぎのように述べている。「ロヒンギャ問題とは何か、あの日何が起きたのか、解決の道はあるのか、そして日本に何ができるのか-。その全体像を描き、未来を正確に見通す力量など持ち合わせていないが、せめて傍観者による論評でも報道でもなく、学術研究でもなく、ロヒンギャ難民に直接関わる当事者のひとりとして、できる限り難民キャンプの内側から世界を眺めてみたい。そこで見えてきたものを、この未曽有の人道危機に心を寄せる皆さんと共有できればと思う」。

 本書は、プロローグ、全7章、9つのコラム、あとがきからなる。各章のタイトルは、つぎの通りである:「第1章 ロヒンギャとは誰か-迫害の歴史」「第2章 少数民族弾圧-繰り返される難民流出」「第3章 大惨事の発生-2017年8月25日」「第4章 渦巻く非難-アウンサンスーチーの沈黙」「第5章 難民キャンプの日々-過酷な楽園」「第6章 人道支援の現場-国際社会の役割」「第7章 遠のく帰還-解決の道はあるのか」。

 「あとがき」で、著者は「もうひとつ大それた試み」があったことについて、つぎのように述べている。「人道支援とアカデミズム、ジャーナリズムのささやかな融合である。これまでアジアやアフリカの現場を歩いて常々考えていた自分なりの課題であり、それぞれの視点と手法を〝良いとこ取り〟して、松花堂弁当のように盛り込み、誰にでも受け入れられる形でロヒンギャ問題を広く発信したいと目論んだが、全部が中途半端になってしまったことは本人が一番自覚している」。この「大それた試み」は、1963年生まれの著者の経歴を見ればわかる。「毎日新聞ジャカルタ特派員、東京本社編集デスクを経て、国際協力分野のジャーナリストに転じる。アフガニスタン紛争、東ティモール独立、インドネシア・アチェ紛争のほか、国際協力機構(JICA)の派遣で南スーダン、ウガンダ北部、フィリピン・ミンダナオ島紛争・難民問題、平和構築の現場を継続取材。2017年12月以降、国際NGO「難民を助ける会」(AAR Japan)バングラデシュ・コックスバザール駐在としてロヒンギャ難民支援に携わる」。

 いま「大それた試み」に必要なのは、人道支援とアカデミズム、ジャーナリストのあいだの、それぞれの成果を理解し実行に移すための「翻訳者」である。とすると、著者に必要なもうひとつの肩書きは「学術博士」であろう。キーワードは、「普通の感覚」である。ミャンマー国軍、国民、アカデミズム、ジャーナリズム、人道支援に携わる人びと等々、それぞれの「普通の感覚」が違っているかぎり対話は生まれず、解決の道は閉ざされたままである。それぞれの「普通の感覚」を近づけ、対話のための共通の基盤(利益)を見つける「翻訳者」が必要で、著者はその「翻訳者」になる可能性がある。

桐山昇・栗原浩英・根本敬著『東南アジアの歴史〔新版〕-人・物・文化の交流史』有斐閣、2019年12月25日、386頁、ISBN978-4-641-22139-0

 「新版」が出た。なんと素晴らしいことだろう。ものを書く者にとって、最善を尽くしたつもりでも、出版後いろいろ明らかな間違いや誤解をされる表現などに気づく。今日の出版事情から、増す刷りされることはほとんどなく、訂正したくても訂正する機会がないのが現実だ。しかも、誤字脱字のような校正ミスだけでなく、基本的なミスをおかしたことに、校了した後、出版前に気づくことがある。手遅れである。出版前から憂鬱な気分になり、それが一生続くことになる。「新版」の出版で訂正でき、憂鬱な気分から解放される。なんと素晴らしいことだろう。

 本書の初版は、2003年である。それから16年、21世紀も歴史になろうとしている。本書は、3部全14章からなり、第Ⅰ部「東南アジア世界の形成」、第Ⅱ部「帝国主義・世界戦争そして独立」につづく第Ⅲ部のタイトルを「ASEAN10が切り開く地域世界」とし、初版に引きつづき「東南アジア各国史の詳細叙述を必要最小限度にし、東南アジア地域史としての叙述を心がけ」、「日本との交流関係史にもつねに注意を払った」。

 第Ⅲ部の冒頭の要約は、つぎのように結ばれている。「かくて、その近代史がつねに外部勢力の関与で発展のコースを左右されてきた東南アジアは、21世紀も外部勢力、ことに北方で大国化した中国の分断・懐柔策にASEAN10ヵ国体制を維持しながら、「はしがき」に触れたように、今世紀、「地域世界」がもつ特性の世界史的発露をもって、その展開を見ることとなろう」。

 最終章の第14章は、「中国のインパクト-中国との新たな付き合い方の模索」と題して、地域としての東南アジアの最大の課題としての「中国問題」を論じ、「南シナ海問題」を取りあげて本書を終えている。

 時事問題も、前近代史から読んでいくと、問題の根幹にあるものがわかってくる。冷戦が終わり、グローバル化していくなかで、世界的にだけでなく、身近な近隣諸国とともに生きていく地域が重要になってきたことが、本書からわかってくる。いっぽうで、東南アジア各国ではナショナリズムが重視され、地域主義はナショナリズムあってのことで、地域主義がナショナリズムに優先されることはない。また、本書で議論された分権化による地方も無視できなくなっている。世界、地域、国家、地方を、時代、社会、テーマによって、どこに重点を置いて語る必要があるかを考えて歴史を語る時代になった。16年前は、まだ国家を基本に語ればよかったが、そうはいかなくなった。東南アジアという地域枠組みで歴史を語る重要性は高まったが、「中国問題」を語る場合も、中国対ASEANという対立軸だけでなく、中国を含むASEAN+という地域で語ることも必要になっている。

 冒頭で書いた校了後出版前に気づいた、わたしがおかした基本的な間違いと同じ、しかも本書で強調しているASEANにかんする間違いを、本書でしている。まさか、わたしの本を読んだせいだではないだろうが、3人の執筆者が何度も読み返して気づかず、そのまま出版されている。読者のみなさん、探してみてください。本書が増刷され、訂正されることを願っている。わたしの本は、訂正されず、そのままになっている(恥ずかしい!)。

山田美和編『東アジアにおける移民労働者の法制度-送出国と受入国の共通基盤の構築に向けて』アジア経済研究所、2014年3月28日、288頁、3600円+税、ISBN978-4-258-04611-9

 本書は、「2011年度から2年間にわたってアジア経済研究所において実施した共同研究「東アジアにおける人の移動の法制度」の最終成果」である。編者の山田美和が、「重ねて強調したいのは、移民労働者は労働者であるだけでなく、人として幸福を求める家族の一員であり、社会の一員であるということである」。

 本書を読んでいた2020年4月半ば、シンガポールとマレーシアで外国人労働者のあいだで新型コロナウィルス感染のクラスターが発生していると報じた。とくに20日感染者数がはじめて1日1000人を超え1426人になったシンガポールでは、感染者のうち国民や永住権をもつ者は16人にすぎなく、そのほとんどは低賃金の外国人労働者向けの寮に住む労働許可証保持者だった。日本でも、一時期、感染者のうち3割が外国人だという噂が流れ、それは否定されたが、一定程度の外国人がいることは事実のようだ。日本の厚生労働省では国籍別集計はおこなわないとし、シンガポールは国籍別外国人労働者数を公表していない。もはや、外国人労働者の存在は、国内問題になっている。

 本書の目的は、「序章 東アジアにおける移民労働者の法制度-送出国と受入国の共通基盤の構築に向けて」(山田美和)で、つぎのように述べている。「東アジア人口の多くを占める中国、インドネシア、フィリピン、タイ、ベトナムおよびカンボジアの移民労働に関する各国法制度および政策を分析しながら、その共通の問題点を抽出すること、そして共通の課題として、東アジア経済圏の形成における人の移動、なかんずく低熟練労働者および非熟練労働者に関する法制度の共通基盤を構築する可能性を探ることである」。

 そして、「送出国の政策に焦点を当て、その問題点の抽出および分析により、それが受入国の政策の問題点との相互作用であることを示しながら、送出国および受入国の共通の課題を論じる」。

 本書は、まえがき、序章、全7章からなる。第1章から第6章までの6章は、国ごとに中国、インドネシア、フィリピン、タイ、ベトナム、カンボジアを扱い、第7章で「東アジアにおける外国人雇用法制の考察」(今泉慎也)をおこなっている。最初の6章は、その主題、副題からその特徴がうかがえる:「第1章 中国の労働者送り出し政策と法-対外労働輸出の管理を中心に」(小林昌之)「第2章 インドネシアの労働者送り出し政策と法-民主化改革下の移住労働者法運用と「人権」概念普及の課題」(奥島美夏)「第3章 フィリピンの労働者送り出し政策と法-東アジア最大の送出国の経験と展望」(知花いづみ)「タイにおける移民労働者受け入れ政策の現状と課題-メコン地域の中心として」(山田美和)「第5章 ベトナムにおける国際労働移動-「失踪」問題と労働者送り出し・受け入れ制度」(石塚二葉)「第6章 カンボジアの移民労働者政策-新興送出国の制度づくりと課題」(初鹿野直美)。

 第7章のねらいは、冒頭つぎのように述べられている。「他章における送出国の視点からの分析を理解するための手助けとして、東アジアにおける移住労働者の主要な国・地域の外国人雇用に関する法的枠組みについて比較法的な検討を行うこと、ならびにその作業を通じて東アジアの移住労働の法的規定調整のための共通基盤の確立にむけた着眼点を示すことにある」。そして、つぎのようにまとめている。「多様な外国出身の住民をどう社会に統合するかという課題は東アジア諸国においても顕在化しつつあり、多文化共生という政策領域が形成されつつある。短期の外国人労働者から永住者まで多様な外国人出身者の幅があるなかで統合的な制度を模索する必要があるだろう」。

 本書に結論部分に相当するものはないが、編者は「序章」で結論を先取りして、つぎのようにまとめている。「現在東アジア各国は多様な移民労働者に関する政策を有しているが、その制度や実態を精査すると、多くの共通点を見いだせる。それは、労働力の移動について、送出国と受入国の二国間で覚書を締結したり、受入国による特定のプログラム下で労働者の送出国を指定したりするように、多国間ではなく、二国間の関係による労働移動の制度構築が活発になされている点である。同時に共通の問題点は、各国の移民労働者政策が移民労働者を期間限定の一時的な労働力であることを前提とするゆえに、移民労働者の人権や厚生の観点からその是非が問われていることである。東アジア諸国にとって移民労働者に関する法的拘束力をもった多国間国際条約への加盟が難しく、また東アジアはもとよりASEANにおいてもEUのように加盟国に対して拘束力をもつ立法過程がない現在においては、共通基盤として、送出国と受入国という二国間の合意内容について最低限の基準を示すガイドラインの策定や二国間の合意文書を第三機関に付託する制度の設立を提言する」。

 東アジアは多様な国・地域からなっていることは言うまでもない。だから、二国間の合意しかないのが現状で、編者の提言もよく理解できる。ここで重要なのは、制度化できるものとできないもの、したほうがいいものとしないほうがいいものとがあるということである。とくにASEAN加盟国は、ASEANウェイとよばれる非公式対話を通じてコンセンサスを探る解決方法をもっている。あまり制度化にこだわると、このASEANウェイが充分機能しなくなる。近代的な国境線が弊害となっていることもある。柔軟に対応できる部分を残しておかないと、制度化で有利になる大国の思うままになる。編者は、このようなことを充分に把握しているから、このような提言になったのだろう。ただ、「第三者機関に付託する制度の設立」が実現しても、国際法と同じく拘束力の乏しいものになるだろう。

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