布施将夫『近代世界における広義の軍事史-米欧日の教育・交流・政治-』晃洋書房、2020年1月30日、216+4頁、3500円+税、ISBN978-4-7710-3282-8
帯に、「細分化されてきた従来の研究を「広義の軍事史」研究によって「人文学」のなかで新たに綜合する可能性を拓く」とある。「広義の軍事史」とは、具体的になにをさすのだろうか。著者、布施将夫は、「序章 軍事史の立場と本書の構成」で、その概念をつぎのように説明している。「戦略や戦術、戦闘だけでなく政治や経済、技術、思想などの要素も包含した幅広い歴史観」で、「幅広い史観を採用する方が、こまかすぎる史実にとらわれることなく、興味深い歴史を掘り起こせそうに思えるからである」。
本書は、序章、3部全8章、終章などからなる。第Ⅰ部「ドイツ篇」は3章からなり、第一章「軍事と鉄道-普墺戦争までのプロシア陸軍に注目して-」では、「一八六六年に起こった普墺戦争までのプロシア・ドイツ陸軍に注目し、その鉄道利用法を検討した」。第二章「軍事と鉄道をめぐる思想的伝播-一九世紀後半のドイツから日本へ-」では、「普墺戦争の直後から明治期(一八六八年-)に入った近代日本が、ドイツ式の軍事制度やドイツ陸軍の鉄道利用法をどのように受容していったかを検討する」。第三章「アメリカとドイツにおける陸軍将校教育の比較文化史」では、「将校教育の点で、一九世紀以降のドイツ陸軍がアメリカ陸軍に影響を与えたかを考察する」。
第Ⅱ部「アメリカ篇」は4章からなり、第四章「アメリカの太平洋戦略と幕末の日米関係-外交には何が必要か-」では、「アメリカ海軍の北太平洋測量艦隊が、幕末の日本開国にどう貢献したかを検討する」。第五章「米軍将校エモリー・アプトンと明治初期の日本-社会と軍隊における近代化の相違-」では、「海軍から一転、アメリカの陸軍将校エモリー・アプトンが見た明治初期の日本社会と日本陸軍を比較考察する」。第六章「一九世紀アメリカ海軍の教育制度-海軍兵学校の規律重視から海軍大学校の効率重視へ-」では、「アナポリス海軍兵学校とニューポートの海軍大学校の創立期における教育制度を検証する」。第七章「第一次世界大戦期のアメリカ海軍による対日戦争論-補給に基づく戦略-」では、「第一次大戦前後のアメリカ海軍が、日本海軍に対してどのような作戦計画を練っていたかを検証する」。
第Ⅲ部「二〇世紀の世界政治篇」は第八章「二〇世紀の世界における戦争と政治-ナショナリズム、軍縮条約、賠償政治-」の1章からなり、「第一次大戦の開戦原因や両大戦間期のひそかな軍拡、第二次大戦後の賠償政治などに関する研究をいくつか紹介し、分析する」。
そして、「以上のように本書各章の概要を見てくると、次のような結論が引き出せそうだ」として、序章を終えている。「一九世紀後半当時、ドイツ陸軍から日本陸軍には、参謀本部制度や鉄道利用の点で影響が強かった。だがドイツ陸軍からアメリカ陸軍には、参謀本部制度や将校教育の点で影響が乏しかった。一方、同じ頃、ドイツ陸軍の参謀本部制を勧告した例外的なアメリカ陸軍将校のアプトンと、アメリカ海軍士官のルースは、海軍大学校教育における「戦略」教育を共に重視した。後者の衣鉢を継いだ海軍大学校教官マハンの思想が、日独の海軍にも影響を与えていく。それゆえ陸軍と異なり、戦略思想が世界中に普遍化した海軍では、日米両海軍のように作戦面で類似したのだ。加えて、ナショナリズムのような政治思想が世界中に普遍化するとより危険である。各国の国内政治が世界戦争を招き、第一次大戦後でも国際政治は戦争を抑止できず、第二次大戦後には過去の戦争が賠償をめぐる政治問題を世界中に引き起こしているからだ。したがって近代世界では、戦略思想や政治思想といった「広義の軍事」思想があまりに普遍化すると互いに摩擦しあい、大惨事が起こりやすいのではないかと推定できる」。
終章「現代世界における「広義の軍事史」-政治への提言をめざして-」では、つぎのように「提言」している。「「人文学」を、歴史学や政治学、経済学といったいわゆる文系の人文・社会科学を隣接領域と共に大きく包含するものとして捉える。以前の諸「科学」に分割された研究体制は、熟成した研究成果をあげてきたものの、各々の成果を一つに統合しそこねてきた。「広義の軍事史」研究は、熟成した各研究成果というメリットを結びつけ、一般社会への知識の普及に役立つのではないか。ひいては、既存の学問によりディシプリンが異なるという難しい問題はあるが、もしそれを乗り越えられれば「人文学」という新しい巨視的で総合的な研究体制を確立しうるのではないか。このように新しい研究・教育体制ならば、専門的な個別研究のスペシャリストだけでなく、彼ら研究者全体を統括しうるスペシャリスト兼ゼネラリストをも養成できるであろう」。
本書のなかには、論文というより書評論文のような章がある。それは、著者の学ぶ姿勢の表れということができる。本書のような蓄積の多い研究分野を統合するという意味では、この学ぶ姿勢がなによりも大切だ。原資料に基づいた実証的研究が必要なマイナーな分野とは違う。研究者には、蓄積の多い分野に向いた人もいれば、マイナーな分野に向いた人もいる。原資料に基づいた研究で優れた業績をあげている人でも、学術書の書評がまったくないか、あっても自分の意見・感想を一方的に述べ、本自体は理解していないのではないかと思える人がいる。著者目線で、本が読めないのである。そういう人は、本書のような議論はできなく、提言もできないだろう。
本書は、序章、3部全8章、終章などからなる。第Ⅰ部「ドイツ篇」は3章からなり、第一章「軍事と鉄道-普墺戦争までのプロシア陸軍に注目して-」では、「一八六六年に起こった普墺戦争までのプロシア・ドイツ陸軍に注目し、その鉄道利用法を検討した」。第二章「軍事と鉄道をめぐる思想的伝播-一九世紀後半のドイツから日本へ-」では、「普墺戦争の直後から明治期(一八六八年-)に入った近代日本が、ドイツ式の軍事制度やドイツ陸軍の鉄道利用法をどのように受容していったかを検討する」。第三章「アメリカとドイツにおける陸軍将校教育の比較文化史」では、「将校教育の点で、一九世紀以降のドイツ陸軍がアメリカ陸軍に影響を与えたかを考察する」。
第Ⅱ部「アメリカ篇」は4章からなり、第四章「アメリカの太平洋戦略と幕末の日米関係-外交には何が必要か-」では、「アメリカ海軍の北太平洋測量艦隊が、幕末の日本開国にどう貢献したかを検討する」。第五章「米軍将校エモリー・アプトンと明治初期の日本-社会と軍隊における近代化の相違-」では、「海軍から一転、アメリカの陸軍将校エモリー・アプトンが見た明治初期の日本社会と日本陸軍を比較考察する」。第六章「一九世紀アメリカ海軍の教育制度-海軍兵学校の規律重視から海軍大学校の効率重視へ-」では、「アナポリス海軍兵学校とニューポートの海軍大学校の創立期における教育制度を検証する」。第七章「第一次世界大戦期のアメリカ海軍による対日戦争論-補給に基づく戦略-」では、「第一次大戦前後のアメリカ海軍が、日本海軍に対してどのような作戦計画を練っていたかを検証する」。
第Ⅲ部「二〇世紀の世界政治篇」は第八章「二〇世紀の世界における戦争と政治-ナショナリズム、軍縮条約、賠償政治-」の1章からなり、「第一次大戦の開戦原因や両大戦間期のひそかな軍拡、第二次大戦後の賠償政治などに関する研究をいくつか紹介し、分析する」。
そして、「以上のように本書各章の概要を見てくると、次のような結論が引き出せそうだ」として、序章を終えている。「一九世紀後半当時、ドイツ陸軍から日本陸軍には、参謀本部制度や鉄道利用の点で影響が強かった。だがドイツ陸軍からアメリカ陸軍には、参謀本部制度や将校教育の点で影響が乏しかった。一方、同じ頃、ドイツ陸軍の参謀本部制を勧告した例外的なアメリカ陸軍将校のアプトンと、アメリカ海軍士官のルースは、海軍大学校教育における「戦略」教育を共に重視した。後者の衣鉢を継いだ海軍大学校教官マハンの思想が、日独の海軍にも影響を与えていく。それゆえ陸軍と異なり、戦略思想が世界中に普遍化した海軍では、日米両海軍のように作戦面で類似したのだ。加えて、ナショナリズムのような政治思想が世界中に普遍化するとより危険である。各国の国内政治が世界戦争を招き、第一次大戦後でも国際政治は戦争を抑止できず、第二次大戦後には過去の戦争が賠償をめぐる政治問題を世界中に引き起こしているからだ。したがって近代世界では、戦略思想や政治思想といった「広義の軍事」思想があまりに普遍化すると互いに摩擦しあい、大惨事が起こりやすいのではないかと推定できる」。
終章「現代世界における「広義の軍事史」-政治への提言をめざして-」では、つぎのように「提言」している。「「人文学」を、歴史学や政治学、経済学といったいわゆる文系の人文・社会科学を隣接領域と共に大きく包含するものとして捉える。以前の諸「科学」に分割された研究体制は、熟成した研究成果をあげてきたものの、各々の成果を一つに統合しそこねてきた。「広義の軍事史」研究は、熟成した各研究成果というメリットを結びつけ、一般社会への知識の普及に役立つのではないか。ひいては、既存の学問によりディシプリンが異なるという難しい問題はあるが、もしそれを乗り越えられれば「人文学」という新しい巨視的で総合的な研究体制を確立しうるのではないか。このように新しい研究・教育体制ならば、専門的な個別研究のスペシャリストだけでなく、彼ら研究者全体を統括しうるスペシャリスト兼ゼネラリストをも養成できるであろう」。
本書のなかには、論文というより書評論文のような章がある。それは、著者の学ぶ姿勢の表れということができる。本書のような蓄積の多い研究分野を統合するという意味では、この学ぶ姿勢がなによりも大切だ。原資料に基づいた実証的研究が必要なマイナーな分野とは違う。研究者には、蓄積の多い分野に向いた人もいれば、マイナーな分野に向いた人もいる。原資料に基づいた研究で優れた業績をあげている人でも、学術書の書評がまったくないか、あっても自分の意見・感想を一方的に述べ、本自体は理解していないのではないかと思える人がいる。著者目線で、本が読めないのである。そういう人は、本書のような議論はできなく、提言もできないだろう。