早瀬晋三書評ブログ2018年から

紀伊國屋書店「書評空間」https://booklog.kinokuniya.co.jp/archive/category/早瀬晋三に2005~15年に掲載された続きです。2015~18年に掲載されたものはseesaaブログshohyobloghayase.seesaa.net/ で閲覧できます。

2020年07月

早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年7月31日、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9

 本書の第1の目的が、「東南アジアの海域社会を理解することである」というと、タイトルから理解できない人もいるだろう。巷に溢れている「海域社会」論は陸からみた海域であって、海域を主体としたものはほとんどない。だが、「海域を主体とした」といっても、ほとんど理解してもらえないのが現状である。なんとかして、海域東南アジアの社会を理解してもらいたいと、考えに考え抜いた結果が本書であった。そして、この海域社会論は、流動性が激しくなったグローバル化社会にも通ずるものがある。

 本書の表紙のロゴやマスコットを見て、なんとなく楽しくなったことだろう。本書で取りあげるスポーツ大会は、東南アジアでは「シーゲームズ」と呼ばれて親しまれている。オリンピックやアジア競技大会より、はるかに現地の人びとを熱狂させ、東南アジアをしばしば訪れる機会があり、その現場に出くわしたことのある人は、その熱狂ぶりに唖然としたことだろう。そして、ここかしこで東南アジアらしさを見せつけられ、東南アジアの魅力を再発見しただろう。だが、競技レベルはそれほど高くなく、運営に至っては失態つづきで、部外者にはなぜ人びとが、こんなに愉しんでいるのか理解できない。東南アジアの人びとが、こんなに愉しんでいるものを取りあげない手はない。そして、その愉しんでいる源に、海域世界の価値観があると考えると、海域東南アジア社会を理解するには、いちばんの手っ取り早いと思えてきた。

 海域東南アジア社会の理解は、たとえば「合意すれども実行しない」などと揶揄されるASEANとの交流のように容易ではなく、その困難さを代表することばとして、ASEAN方式とかASEAN流とかよばれる「ASEAN Way」がある。「ASEAN Way」と聞くと、「ひどい目に遭った」ことのあるASEAN外の人は顔をしかめ、ASEANの人はニヤニヤなんともいえない親しみのある笑みを浮かべる。本書は、その差を埋めようと試みるものでもある。

 「ASEAN Way」は、流動性が激しく対人関係を重視する海域世界の価値観に、その源がある。ヒトやモノの移動が日常的で、「よそ者」は新たな知識や技術などをもたらし、外来のモノは自分たちの生活を豊かで楽しいものにしてくれる歓迎すべきものである、という考えが基本にある。温帯の陸域の定着農耕民のように、よそ者に警戒する排他性はない。「ASEAN Way」は、歓迎すべき機会を失わないための生活の知恵であり、移動性のある山地民も共有できる価値観である。

 具体的には、1959年以来、63年を除いて隔年ごとに着実に開催されているSEAP GAMES/SEA GAMESを事例として、東南アジアの現代史を理解しながら、国際関係論だけでは充分にわからない「ASEAN Way」をみていく。競技大会の参加国、開催国をみていくと、すべてではないがASEAN加盟前に参加し、ASEAN議長国になる前に開催国になっていることに気づく。当然大会参加国は、東南アジア諸国だけであるから意識せずに遠慮なく「ASEAN Way」でやっていける。また、孤立しがちだったビルマ(1989年ミャンマーと改称)は第1回から1度も欠かすことなく参加し、2年に1度、確実にほかの東南アジア諸国と交流をもっていた。従来のASEAN理解は、公式な会議を経て報告されたものに基づいていた。だが、「非公式性を重視する」ASEANでは、重要なことが非公式対話のなかで決められる。その場のひとつが、ASEANに加盟していない国ぐにを含めたスポーツ大会にあった。

 ロゴやマスコットからは、多様性のなかに統一性がみえてくる。2019年のフィリピン大会では、はじめて動物以外のものがマスコットになったが、「パミPami」と名付けられた。その意味は「家族」である。このスポーツ大会を象徴する名である。スポーツ選手は、政治家の何倍も、地域の善隣友好に貢献しているというのも、あながち誇張された表現ではないだろう。

 本書では、ロゴやマスコット、「ご当地競技」が随所に出てきて、愉しんでもらえると思う。楽しいものになっただけでなく、学術書としてもずいぶん完成度の高いものになった。それはひとえに編集者の桑原晨さんに帰する。東南アジア、なかでもラオスをこよなく愛す桑原さんは、その知識から現地語のスペルの統一など、こと細かに点検してくださった。本書は、本文がアジア経済研究所の多くの専門家の執筆による『アジア動向年報』や東南アジア各地の英字新聞の記述によったため、記述がまちまちで、統一をとることは困難を極めた。おまけに、資料や索引を充実したものにしたため、本文と資料、索引の記述を統一する必要があった。著者自身がなかば投げ出したこの作業を、桑原さんは最後の最後まで手を抜かずに進めてくれた。本書の記述内容にかんしての責任はすべて著者にあるが、書物として読みやすく愉しめるものにし、学術書として完成度を高めた功績は、桑原さんにある。

 桑原さんとの付きあいは、大学に入った1975年からで、もう45年になる。出版社「めこん」を立ち上げる前の文遊社から77年に出版された『フィリピンのこころ』(ホルンスタイナー編、山本まつよ訳)では、訳注を付ける手伝いをし、「あとがき」にわたしの名前が載った。出版にかかわった最初で、いつか「めこん」にふさわしい本を出したいと考えていた。東南アジアの人びとに愛着をもっている桑原さんなら、SEA GAMES、さらにその背後にある「ASEAN Way」を理解してくれると思った。一連の編集作業を通して、桑原さんは「めこん」にふさわしい本をただ出版しているだけではなく、素材を活かして「めこん」にふさわしい本に仕上げていくことがわかった。改めて大手出版社にはできない、手作りのよさを実体験した。長年の希望が叶っただけでなく、出版デビューから40数年ぶりに新たに教えられることが多かった。感謝のことばもない。

倉沢愛子『インドネシア大虐殺-二つのクーデターと史上最大級の惨劇』中公新書、2020年6月25日、222頁、820円+税、ISBN978-4-12-102596-8

 いまから半世紀ほど前、東南アジアの2つの国、インドネシアとカンボジアで大虐殺事件が起こった。1975年に政権を奪ったカンボジアのポル・ポト政権下(79年初まで)で起こった虐殺は、戦闘や飢餓などで死亡した人びとが含まれていたりいなかったりではっきりしないが、百数十万人といわれる。2003年にカンボジアと国連が協力して、カンボジア特別法廷が設置され、国連監視の下で、現在も裁判が進行している。すでに1998年にポル・ポトが死亡し、裁判中に中枢にいた指導者がつぎつぎに死亡するなどしたが、大虐殺の全貌は裁判を通しておおかた明らかになった。いっぽう、インドネシアで1960年代後半に起こった虐殺事件は、いまだ真相は闇で、和解は進んでいない。

 本書は、この大虐殺の背景にある1965年9月30日と68年3月11日に起こった2つのクーデタを中心に「史上最大級の惨劇」を追う。「この一連の事件が原因となって、独立の英雄スカルノは失脚し、反共の軍人スハルトが全権を掌握する。権力闘争の裏で、二〇〇万人とも言われる市民が巻き添えとなり、残酷な手口で殺戮された」。「いまだ多くの謎が残る虐殺の真相に、長年に及ぶ現地調査と最新資料から迫る」。

 著者、倉沢愛子が2014年に『9・30 世界を震撼させた日』(岩波書店)を出版したにもかかわらず、本書とほぼ同時に『楽園の島と忘れられたジェノサイド-バリに眠る狂気の記憶をめぐって』(千倉書房、2020年)を出版したのは、「猟奇的ともいえる、必要以上に残忍な殺し方をあえて選び、被害者の苦しみもがく姿を楽しんでいた」といわれるような殺人劇が、「地方によって異なるものの、連日連夜おこなわれ、多くは終息までに数ヵ月」におよび、「そのあいだには至るところに死体が転がり、多くの人が自ら手を下して集中的に殺害がおこなわれた」現実を知りたかったからである。

 著者は、「まえがき」をつぎのパラグラフで終えている。「本書が描こうとするのは「人」である。多くの資料や証言にもとづいて、できるだけ正確に歴史を掘り起こすという基本姿勢は曲げないが、私が追うのは単なる歴史事実の記述ではない。私が追うのは、その歴史を形作った「人」の歩いた奇跡であり、そこに秘められたやりきれないほどの哀しみや深い怒りなのである。事件の被害者の生の声に触れることで、この悲劇を少しでもリアルなものとして感じてもらえればと願う」。

 そのためにも、背景として事件の真相を知る必要がある。だが、国内外で新たな資料が出てきても限られており、1998年にスハルト政権が崩壊した後も、2008年にスハルトが亡くなった後も、真相にたどり着けるようなものは出てきていない。そこで、国際情勢や近隣諸国、日本との関係が注目された。著者は、それぞれ、「まえがき」でつぎのように説明している。

 まず、国際関係については、「なぜ各国は沈黙を守ったのか」を問う。「それは、共産主義の浸透に危機感を抱く西側諸国にとって、当時四大政党の一つとして大きな勢力を有したPKIの一掃は非常に望ましいことだったからである。本来ならPKIをバックアップするべき立場にあった社会主義国の盟主ソ連や東欧諸国も、イデオロギーの異なるPKIの受難に対して冷ややかな対応をした。唯一、中国政府だけがこの党を守ろうとしたが、まもなく自国で始まった文化大革命の混乱ゆえに、発揮できる影響力は限られ、最後はPKIの準備不足の行動だったとして切り捨てた。こうして、孤立無援になったPKIの支持者たちは、歯止めのかからない残虐行為の中で息絶えていった」。

 つぎの近隣の東南アジア諸国に与えたことについて、つぎのように述べている。「一連の事件は、インドネシアの国内政治においても、アジアの国際関係においても、非常に大きな変化をもたらした。スカルノからスハルトへの政権交代とPKIの消滅によって、インドネシアはそれまでの容共国家から、親欧米的な反共国家へと変身した。東南アジアの勢力バランスは自由主義陣営に有利なものとなり、その結果、反共五ヵ国からなる東南アジア諸国連合(ASEAN)が成立した」。

 そして、日本との関係である。「経済的には、外国資本の導入を拒む旧体制から、開発優先の政策へと舵を切ることにつながっていく。海外に門戸を開放し、外資を獲得することで経済発展を目論んだスハルト時代のインドネシアに対して、日本の経済界は大規模な資本進出に乗り出し、政府は多額の経済援助を供与した。この太いパイプが、一九七〇年代以降の日本の経済成長を牽引したことは間違いない」。「未曾有の惨劇の果てに、日本もこのような巨大な利益を享受したといえるが、今そうした自覚をもっている日本人はほとんどいないだろう。歴史に葬られようとしているこの事件について、私はあらためて書き留めてみようと思った理由はそこにある。私たちはこの大虐殺を簡単に忘れるべきではない」。

 本書は、まえがき、序章、時系列な全4章、終章、あとがき、年表、参考文献、からなる。終章「スハルト体制の崩壊と和解への道」はわずか4頁で、最後の見出しが「進まぬ和解」とあるように、事件の真相を明らかにするにはほど遠く、「こうして、国際社会はもちろん、国内的にも事件はどんどん風化しつつあるのである」と終えていることからも、研究の行き詰まりが感じられる。年表も、1998年のスハルト政権崩壊後、たった2項目しかない。

 それでも著者の執筆意欲をかき立てたわけは、「あとがき」でつぎのように述べられ、改めて日本との関係が強調されている。「この血なまぐさい大惨事を経て、日本はインドネシアと非常に緊密な経済関係を構築した。多くの日本企業が資本を投下して進出し、インドネシアは長期にわたって日本の政府開発援助(ODA)の最大の援助国となった。その結果、一九七〇年代、八〇年代と日本の経済は潤い、私たちはその豊かさを享受した。にもかかわらず、そのような歴史への理解はほとんど欠如している。なんとかこの歴史を正確に記述し、日本の若い世代に伝えたいという個人的な思い入れが、私をパソコンの画面にくぎづけにさせ、本書の完成につながった」。

 日本のインドネシアへの経済進出は、インドネシアの経済発展にもつながったが、その過程で、日本人の「傲慢さ」をみたインドネシア人もいる。インドネシアの日本とともに歩んだ経済発展の背後にある「史上最大級の惨劇」に目を向けることによって、インドネシア人と日本人がともに歩む、これからの道がみえてくることだろう。そのためには、著者のように「人」に目を向けることが大切だ。

小川真和子『海をめぐる対話 ハワイと日本 水産業からのアプローチ』塙書房、2019年9月5日、234頁、2300円+税、ISBN978-4-8273-3124-0

 海外在住日本人の歴史となると、著者が日本人であれば、もちろん日本人中心の叙述になる。だが、当然のことだが、海外では日本人はマイノリティで、ハワイのような移民社会では、現地の人びととだけでなく、ほかの移民との関係がある。本書は、日本人漁民中心でありながら、「海をめぐる対話(ダイアローグ)」のなかで形成されてきたハワイ社会がみえてくる。

 本書は、これまで「学術書としての性格が強かった」書籍を世に送り出してきた著者、小川真和子が、「ハワイに少しでも関心を持っている大学生や高校生、そして広く一般の方々に、日本とハワイの間の、海をめぐる対話を知ってほしいと願いながら書いたもの」である。

 「ハワイへ渡った日本人の多くは、現地の砂糖キビプランテーションで働いた」ため、ハワイの日本人移民の歴史は、「「陸」の仕事を生業とする人々」中心に語られてきた。「たとえ太平洋の中央に位置するハワイが視野に入っていたとしても、その周辺の海と移民の労働や生活との関係が取り上げられることは稀であった」。著者は、陸の民と海の民が食を通してつながっていたいっぽうで、かれらの体験が大きく異なっていたことに注目した。

 その違いを、著者はつぎのようにまとめている。「海の民の物語は、ホレホレ節からにじみ出てくる苦労や我慢、あるいは子どものために自己犠牲を払うといった感情よりはむしろ、地元住民の食生活を支えているという自負や、ハワイで近代的な水産業を立ち上げ、やがて砂糖キビ、パイナップル生産に継ぐ主力産業へ育て上げたことへの誇り、そして「搾取する側」に立っていたはずの人々をも取り込むしたたかさに満ちあふれている」。

 「大きく変化する時代のうねりを絶えず受け止めてきた」ハワイの海に「進出した日本の海の民は、ハワイで出会ったさまざまな人々と、一体どのような対話を交わしながら生活し、家族やコミュニティを作ってきたのであろうか。そして海をめぐる対話を通して、どのようにしてハワイの水産業を育て、今日に伝えてきたのであろうか」。「本書はそのような疑問に対する答えを探るため、これまでのハワイの日本人・日系移民研究の舞台では、ほとんどスポットライトを浴びることがなかった日本の海の民を主役に据え、その周囲の人々との交流を通してハワイの水産業の諸相を描き出す歴史物語である」。

 本書は、「序 海をめぐる対話のはじまり」、時系列の全5章、「結 海をめぐる対話はつづく」、および4つのコラムからなる。最後の章である「V ハワイの海の戦後」は、つぎのパラグラフで終えている。「こうしてハワイの海から姿を消していく沖縄の研修生と入れ替わるように、存在感を増していったのが、韓国人、ベトナム人、そして米本土からやってきた白人漁民であった。ハワイの海はさまざまな人種やエスニックグループに彩られながら、やがて二一世紀を迎えるのである」。

 そして、「結」の見出しから、21世紀になって、どのように海をめぐる対話がつづいていったかがわかる:「ある漁民一家のハワイでの生活と仕事ぶり」「ハワイにおける産業構造の変化と漁民の多様化」「フィッシングビレッジの誕生」「変化するハワイの魚食文化」「日本の海の民の痕跡」「ハワイの「こんぴらさん」にみる海の民の文化の変遷と新たな伝統の創出」「海をめぐる対話はつづく」。

 閉鎖的な「陸の民」と違って、「海の民」はたとえ「敵」からであっても知識や技術を学び、生活を向上させようとする。対話は、そのために不可欠であり、ハイブリッドな社会を築いていく。閉鎖的な社会のほうが語りやすく、文献の乏しい流動的な「海の民」は描きにくかった。「結」からは、変化する社会に対応しながら、新たな地域社会が創造されていく姿が見えてくる。そこには、「協調と排斥のなかハワイにおける水産業を育てた日本の海の民の歴史物語」が背景にある。

後藤乾一『「南進」する人びとの近現代史-小笠原諸島・沖縄・インドネシア』龍溪書舎、2019年8月30日、407頁、5000円+税、ISBN978-4-8447-8320-6

 著者、後藤乾一は、これまで「パワーエリートとは縁遠い無名の人びとの移動の航跡に焦点を当て、その生涯を編年史的に論じ」、マクロな世界(国、地域、世界)に翻弄されながらも懸命に生きてきた人びとを描いてきた。

 本書執筆への動機を、つぎのように説明している。「筆者はこれまで近代日本の対外関係・交流史の中でインドネシアを中心とした欧米列強の植民地東南アジアとの関係史を主たる研究の対象としてきた。その過程で、最終的に「大東亜共栄圏」構想(添付地図参照)の中に取り込まれることになる東南アジアへの政治的・軍事的・経済的進出の「中継地」役を果たした地域の重要性を意識するようになった。それは具体的には新附の帝国領土沖縄、清国から割譲した植民地台湾、そして第一次世界大戦を契機に事実上日本の領土となった赤道以北の旧ドイツ領南洋群島であった」。「東南アジアへと連鎖していく上述の諸地域と近代日本との関係を考える過程で、絶えず念頭に点滅しながらも、一度として具体的に論じることができなかった地域があった。それが、本書執筆の主たる契機となった小笠原諸島である」。

 そして、「広義の「南進」研究の中で小笠原諸島の有する重要性、同諸島と沖縄、東南アジアとの関係性を自分なりに定位することであった」。本書で取りあげた人びとの「移動のありようを図式化するならば、①「内地」から小笠原諸島へ、そしてそこを起点に南洋群島、さらには東南アジアへ羽翼を伸ばそうとした人びと(第一章-三章)、②沖縄から明確な意思に基づき家族とともにインドネシアへ移住するも、戦争によって永住の夢を絶たれた事例(第四章)、③沖縄に出自を持ちつつも硫黄島を故地とし、自らの意志とのかかわりのない戦争という外因によってインドネシアに出征し、日本敗戦後その地に骨を埋めた事例(第五章)に大別される」。「こうした幾筋もの顔の見える人びとの移動の足跡をたどり、近代日本の大きな伏流であった「南進」を下支えし、かつそれに翻弄された人びとの姿を描き出せればと願った」。

 本書は、まえがき、全5章、あとがき、からなる。それぞれの章で取りあげられた人びとは、「ジョン万次郎を除くとほとんどの登場人物は一般的には無名の士であり、彼らについての公的な一次資料はごく限られたものであった」。

 第一章「ジョン万次郎・平野廉蔵と小笠原諸島-幕末維新期の「洋式捕鯨」をめぐって-」では、「国際環境および日本の対外施策をふまえた上で、日本最初の「洋式捕鯨」の導入を試みた元漂流民(当時は幕府の鯨漁御用)ジョン万次郎と北越の資産家(廻船業)平野廉蔵の役割に注目しつつ、幕末維新期の日本の捕鯨の実情を考察する。また一八七六年に日本の領有が確定した小笠原諸島にとって、捕鯨ならびにクジラが有していた社会的経済的な意味を考察する」。

 第二章「明治期小笠原諸島の産業開発と鍋島喜八郎」では、「西南の「雄藩」佐賀藩の藩主鍋島家の一統として幕末の佐賀に生まれた鍋島喜八郎は、明治維新直後上京し中江兆民の仏学塾で学んだ後、明治期南進論の高まりを背景に東邦組を創設し、一八九一年領有まもない小笠原諸島の開拓を志し渡南する」。「その事業は必ずしもすべてが成功したとはいえなかったが、士族出身の実業家として明治・大正期の小笠原諸島の産業開発に果たした役割は、同諸島近代史を理解するうえでも無視することはできない」。

 第三章「「南進」論者・服部徹の思想と行動-小笠原諸島を基点として-」では、「土佐の下級士族出身の服部徹の「南進」論とその具体的な「南洋」進出の足跡を考察する。土佐自由民権運動の洗礼を受け一〇代で上京した服部は、日本に欧米式農業の導入を推進した津田仙が創設した学農社農学校に学びその薫陶を受ける。一八八七年には東京府知事高崎五六に率いられた南洋視察団の一員として小笠原諸島等を視察、勧業主義的「南進」論の提唱者として論壇に登場する」。

 第四章「又吉武俊の「南方関与」三〇年-戦前期沖縄とインドネシア-」では、「沖縄からインドネシアへの移民の先駆となった又吉武俊およびその家族を事例とし、沖縄の「南方関与」の実像の一端を明らかにしようとする」。「無名の沖縄びとの「南方関与」史を事例としつつ、戦前期沖縄・インドネシア関係の特質の一端を明らかにする」。

 第五章「沖縄ルーツ・硫黄島出身「日系インドネシア人」勢理客文𠮷の歴程-小笠原諸島近現代史の文脈で-」では、沖縄と伊豆大島に出自をもつ両親の次男として一九一九年硫黄島に生まれた勢理客文𠮷の生涯を、硫黄島(小笠原諸島)近現代史、近代日本の南進を背景に描く」。「沖縄・硫黄島・インドネシアと関わるその軌跡は、文字通り日本の南進に翻弄された人生であった」。そして、「この無名の元日本人の生涯が」、「かつて一千余名の村人が暮らす社会があった、今は「自衛隊の島」と化した硫黄島が、今日の日本国と私たちに問いかけるものは何か」と、かつて「沖縄核密約」を追った著者は疑問を投げかける。

 著者は、「研究者を含む大多数の人びとから忘れられている」小笠原諸島(硫黄島を含む)を考察の対象に加えることによって、巻頭に挿入された「本書登場人物の足跡」を記した地図が示すとおり、「大東亜共栄圏」内を移動し、国家に翻弄された人びとの姿を描いた。そして、今日まで翻弄され続け、いまだ帰島もままならない元硫黄島島民を苦悩を紹介して本書を終えている。過去の問題ではなく現在の問題として「南進」をとらえることによって、過去も現在も、さらに未来も見えてくる。

酒井一臣『金子堅太郎と近代日本-国際主義と国家主義』昭和堂、2020年3月30日、195頁、2700円+税、ISBN978-4-8122-1913-3

 金子堅太郎と聞いて、どこかで名前を聞いたことはあるような気がするが、なにをした人なのか皆目わからなかった。帯をみると、つぎのように書いてあった。「福岡から世界へ」「福岡藩から近代日本を代表する国際人となった金子堅太郎。明治憲法の起草や広報外交、日米間の諸問題解決で活躍し、修猷館再興や八幡製鉄所設置など福岡の発展にも貢献した。彼の生涯を追いながら、近代日本のグローバル戦略の光と陰、そして現代日本のグローバル化がどうあるべきかを考える」。

 著者、酒井一臣が金子堅太郎に注目したのは、学問的動機からではない。著者が「縁あって、福岡の大学に勤めることになり、大学の市民講座を担当するときに、せっかくだから地元ゆかりの人物を取り上げようと考えてのことである」。そして、「金子を調べはじめてすぐに気づいたのは、グローバルに活躍した彼の生涯を追うことは近代日本の全体像を追うことにつなが」り、著者にとって「文明国標準という観点から近代日本に関わる国際関係史を研究してきたこともあり、金子はかっこうの素材になった」。

 ところが、研究を進めるに従って、著者は「金子は立志伝中の人物なのだが、その言動を追っていると、現在の日本に筆者が感じている怒りと同調していった」。本書で著者が書いたのは、「金子の評価というより、現在の日本社会で「高い地位にある」人たちへの批判で」、主人公の評価できる面からより、「負の面から現在への教訓を引き出そうとした」。

 本書は、序章、全10章、終章からなる。「序章」で、著者は本書執筆の理由を3つあげている。まず、詳細な金子の研究があるにもかかわらず、「金子を通じて、近代日本の姿を筆者なりに描いてみたいと考えたからである」。第2の理由は、「近代日本の西洋文明受容のあり方を金子堅太郎の生涯から考察することである」。第3の理由は、「維新前からアジア太平洋戦争勃発まで生きた金子の変遷、つまり明治国家の変遷から得られる教訓を、明治維新一五〇年の今日から考えること」である。

 ところが、すぐに大きな2つの問題にぶつかった。「一つは、金子の性格である。調査をしてすぐに気づいたのは、金子は大変な秀才だったが、友達にしたくないタイプの人間だということだ。金子は自己顕示欲が強く、自分の立場を守るためにコロコロと立場を変える。そして、このことは史料の問題にもつながった。金子は大量の回顧録・回顧談を遺したが、多くは晩年に書かれたもので、その内容が、自己正当化のため、かなりゆがめられているのである。頭のいい人だったので、整合性はとれているが、金子自身や周辺の人の言動が、回顧した時点の金子に都合がいいようになっている場合が多い。その点をどこまで割り引いて金子を描くのかが困難なのである」。

 「いま一つは、金子の晩年の問題である。金子が日露戦時に活躍したのは五〇代前半の時である。金子はそれから三〇年以上も生きた。その後半生の金子が、「老害」扱いされてしまうのである。もちろん、主人公だからといって、取り上げる人物を全面的に肯定する必要はない。しかし、晩年の姿があまりに悪すぎると、書きにくいことは否めない」。

 それでも著者は、「老害となってからの金子のことも、その悪評とともに書いた。なぜなら、晩年の金子の姿からは、近代日本の国際人・国際主義とは何だったのかを考えるヒントがあると考えたからである」。

 そして、著者は、「近代日本の国際主義の限界がある」という結論に至った。それは、「戦略的に国際主義でやっていくという考え方である。その場合、第一にくるのが日本という国家であり、国際社会ではない。その結果、近代日本の国際主義は国家主義と同居してしまうことになった。日本国家が優先されるため、国際社会が日本の発展に障害となれば、やけになって国際秩序を否定し破壊するか、再び殻に閉じこもる(日本に還る)ことになる」。

 さらに、著者は、「あとがき」で「明治維新から敗戦までと、敗戦から今日までほぼ同じ期間が過ぎて日本社会の現状は決して明るいものではない」と悲観し、明るさを求めて「明治最初のグローバル人材であった金子が晩年に老害となってしまうのはなぜか。ナショナリズムをトランスナショナリズムに転じられなかったのはなぜか。そこには必ず現在への厳しい教訓があると考えて本書を書いた」。
 副題の「国際主義と国家主義」は、金子にとって同じことを意味した。日露戦争のときに、ロシア兵を人道的に扱って絶賛された日本赤十字は、アジア太平洋戦争のときには「国家主義」のために非難された。明治期の日本人の国際主義は、表層的な「西欧化」でしかなかった。著者は本書で頻繁に「教訓」ということばを使っている。今日の日本人が金子から「教訓」を得て、トランスナショナルなグローバル人材になることが必要なのだが・・・。

 本書後半で何度か出てくる「ルーズベルト」大統領だが、「ルーズベルト」はもともと「バラ野」を意味するのだから「ローズベルト」のほうがいい。ローズベルト家の調度品にはバラをあしらったものがあり、選挙キャンペーンではバラを飾った。「緩んだベルト」では、文字通り締まらない。

↑このページのトップヘ