早瀬晋三書評ブログ2018年から

紀伊國屋書店「書評空間」https://booklog.kinokuniya.co.jp/archive/category/早瀬晋三に2005~15年に掲載された続きです。2015~18年に掲載されたものはseesaaブログshohyobloghayase.seesaa.net/ で閲覧できます。

2020年08月

浅香幸枝編『交差する眼差し-ラテンアメリカの多様な世界と日本』行路社、2019年3月31日、300頁、2800円+税、ISBN978-4-87534-395-0

 ともにカトリック修道会を母体とするイエズス会の上智大学イベロアメリカ研究所と神言会の南山大学ラテンアメリカ研究センターとの共同研究の成果が、本書である。日本カトリック大学連盟による「カトリック学術奨励金」をえて、本書の編者、浅香幸枝を研究代表として「イメージの中の日本とラテンアメリカ」研究が運営された。

 本書の題名「交差する眼差し」は、「世界の中でも有数の親日地域であるラテンアメリカの実像を知ることは、世界の中での日本の立ち位置を知ることでもある」ことに由来する。本書の意義と独創性は、「人の移動によりラテンアメリカ世界は多様性を維持していると認識し、さらに日本との関係も視野に入れていることである」。また、「観察者、分析者自体が多様な見方をしていることに本書の特徴がある」。

 本書は、序章、3部、全14章、終章からなる。第1部「人の移動がつくる世界」は4章、第2部「歴史から読み解く世界」は5章、第3部「課題に挑戦する世界」は5章からなる。序章「ラテンアメリカの多様な世界と日本」と終章「互いに学び合うために」は、編者の執筆による。

 その序章で、各部はつぎのようにまとめられている。第1部は、「ラテンアメリカが移民によって形成された世界であることに着目している。日系人人口は、各国でその国民全体の1パーセントにも満たないが、よく現地に適応しており、ラテンアメリカでは中産階級以上の社会的位置づけとなる。日本との関係で核となる日系人について3本の論考を集録している。また、成功する移民として知られる「シリア・レバノン人」を比較で考察している。これらは、いかにして、国際情勢を背景にして移民が現地社会に適応し、自身が出身国から持参した文化や技術などで貢献してきたかを知ることができる。今日日本で外国人単純労働者の受け入れが検討されているが、移民がどれほど困難な中を生き成功をつかんでいくのか、あるいは同胞やホスト社会と助け合っていくのか考えるヒントを与えてくれるだろう」。

 第2部は、「現在の問題や課題がどのような歴史的背景を持つのかという視点から編まれたものである。かつて、1492年にコロンブスが「新大陸を発見する」までは、ヨーロッパは、アジア、イスラム世界とほぼ互角の体制だった。ところが、ラテンアメリカが生み出す富により、スペインをはじめとするヨーロッパ世界の国際社会における圧倒的優位が始まっていった。この背景を描き相対化しようという試みである。西洋の富の源泉となったポトシ銀山でつくられた銀貨が世界の基軸通貨として使用され、日本にまで到達したこと。また、日本での布教活動の末、磔刑にされた修道士をめぐるメキシコの壁画、カトリックの宗教行事やラテンアメリカとスペインをつなぐ思想の新しい潮流について各研究は論じ、歴史に基づいたラテンアメリカの現在と将来を展望している。ここでは、ラテンアメリカイメージが、主体によって多様性を持つその背景をよく理解できるだろう」。

 第3部は、「山積するラテンアメリカの課題に対して、どのような解決策が試みられ、問題解決を目指したかが明らかになる。先住民、麻薬、暴力、米国への移住などの問題、日本のODAのあり方等は歴史的な背景の中で生じた課題であり、各執筆者は長期的な視野から分析している。さらに実施された政策評価もしている。ここでは、一旦大きくなった格差社会では、国民を統合することが非常に困難であることを示している。また、地続きのラテンアメリカでは隣接する他国との関係を常に考慮しなければならないことがわかる」。

 そして、終章では、各部、各章を要約してまとめ、つぎのパラグラフで締め括っている。「14名の研究者の14通りの多様なラテンアメリカ世界と日本の関係についての論考が、今日の流動化の激しい国際社会にあって人が人として尊ばれる道筋に貢献できることを願うものである。ただ、一言申し添えるならば、このような問題があってもラテンアメリカに生きる人たちは、その生活を大事にして楽しんでおり、その生き様はわれわれ研究者だけでなく日本の読者にも示唆を与えてくれるものであると確信している」。

 たしかに「日本を入れると書きにくい」ということがわかる。もはや日本とラテンアメリカとの関係だけではわかりにくく、歴史的背景や隣国との関係を含めたラテンアメリカ地域の問題を抜きにして、日本との関係は語れないだろう。また、「日本では戦後第三番目のラテンアメリカブームが始まっている」ということもわからないだろう。

倉沢愛子『楽園の島と忘れられたジェノサイド-バリに眠る狂気の記憶をめぐって』千倉書房、2020年7月3日、258頁、3200円+税、ISBN978-4-8051-1205-2

 「筆をおいたとき、思わず「ふーっ」とため息が出た。これは私が五〇年におよぶ研究生活で取り組んだなかで、間違いなく最も重いテーマだった」と、著者、倉沢愛子は「あとがき」冒頭で吐露している。たとえ文章だけであっても、人が死ぬことを書いているとだんだん心の負担になってくる。ましてや、その人数が夥しく、その殺され方が尋常でないとなると、その蓄積に耐えられなくなる。それでも、著者が書き続けたのは、「使命感のようなものを抱かせた個人的な背景」があったからである。

 その「個人的な執筆動機」を、著者はつぎのように説明している。「その原動力となったのは、同時代に生きてきた人間でありながら、凄まじい虐殺に対し自分がそのとき何も声をあげなかったことに気づいたときの深い衝撃であった。調査の過程で出会った元政治犯や犠牲者の遺族らの多くは、私とほぼ同じ年齢、つまり同じ時間軸を生きてきた人たちであった。歴史を掘り起こすなかで出土した様々な事象は、同時代人として私自身が体験してきた事柄と重なっており、決して遠い昔の出来事などではなかった。この問題は、いわゆる「全共闘世代」である私自身の、挫折した青春時代への個人的回顧と絡み合っているのである」。

 著者の世代が、「キャンパスではいわゆるノンセクト・ラディカルとして全学共闘会議に集まって声をあげていた」そのときに、「インドネシアで起こっていた恐ろしい虐殺について全く無知で、何の声もあげなかったのである。あれだけいろいろなことに血をたぎらせ、「騒いでいた」」のに。

 さらに、著者は続けて、つぎのような後ろめたさを感じている。「そしてもっと恐ろしいのは、この多くの人命の犠牲の上に成った政権交代の結果、日本の経済界はインドネシアに大規模な資本進出の機会を与えられて潤い、私たちもその恩恵をふんだんに受けて生きてきたにもかかわらず、そのことについての認識も欠如していたことである」。

 その政権交代とは、1965年9月30日と68年3月11日に起こった2つのクーデタを中心に、独立の英雄スカルノが失脚し、反共の軍人スハルトが全権を掌握したことをさす。そして、この権力闘争の裏で、200万人ともいわれる市民が巻き添えとなり、残酷な手口で殺戮された。

 「しかし事件後、権力を握ったスハルト政権により真相究明のための調査研究は封じられ、わずかに政府の公式見解が学校教育の場で教えられるに過ぎなかった。ところが、一九九八年に三二年間続いたスハルト政権が倒れ、それまで困難だった研究が多少なりとも可能になってからは、世界中の研究者によって多くの研究が世に現れるようになった」。

 著者も、「すぐさまそれまで気になっていたこの事件を、私の人生の最後の大きな課題として抱えていこうと考えた」。しかし、すぐにまとめて書けたわけではなかった。ようやく2014年に『9・30 世界を震撼させた日-インドネシアの政変の真相と波紋』(岩波全書)と題して、「事件の全容にわたって幅広く紹介した」単行本を刊行することができた。「その後さらに現地調査の成果と、インドネシア公文書の解禁によってあらたに判明した様々な事実を取り込んで」、さらに2冊の本をほぼ同時に刊行することができた。「もう一冊は、『インドネシア大虐殺-二つのクーデターと史上最大級の惨劇』と題して刊行される中公新書である。本書は記述をバリの一つの地方における虐殺に限定しているのに対し、同新書は、中央の政界でスカルノが実権を奪われていく過程、社会のあらゆるセクターで事件との直接間接の関与を調べるスクリーニング(査問)が展開され人々が排除されていった過程、その結果逃亡や亡命生活を余儀なくされた人々の運命など全国レベルの問題を幅広く扱った」。

 最後の章である第九章「和解への道を模索して」の最後の節の見出しは「壊してはいけない楽園イメージ」で、著者は「バリを国際的観光地として成功させたいというスハルトの開発政策にとって、血なまぐさい過去は最大の障害であった」と述べ、「その歴史を覆い隠そうとする努力は驚くほど成功していて、ガイドブックや観光案内のどこをみても五〇年前のその歴史に触れているものはない」、「バリでは、歴史の暗部をあえて見せつけ、その傷みを心に刻む「ダークツーリズム」を推奨することは考えられないことなのであろう」と、本書を結んでいる。

 では、本書で明らかにされたことは、「引き裂かれたコミュニティ」の「和解への道」にどう貢献するのだろうか。当該コミュニティに任せるしかないというのが現実だろう。だが、現地で著者に協力してくれた多くの人びとが、外国人である著者が真相をつきとめようと熱心に語りかけてくれたことにたいし、なにかを感じ、自分たち自身で「和解への道を模索して」いかなければならないと決意したのなら、著者の「大きな心の痛みと闘いながら必死でもがきながら」調査し、執筆してきたことも報われるだろう。

 わたしの身近には、沖縄戦、関東大震災や東京空襲など、多くの人びとが亡くなった場所に行くと、なにかしら「霊」を感じて、その場に居ることができなくなる人がいる。本書に出てきたような「供養」がバリでおこなわれているのは、そのような「霊」がさせているのではないだろうか。 

赤嶺淳『鯨を生きる-鯨人の個人史・鯨食の同時代史』吉川弘文館、2017年3月1日、283頁、1900円+税、ISBN978-4-642-05845-2

 食文化という身近なところから、時代や社会を考え、自分たちの生活を見直すというのが、昨今人びとが受け入れやすい切り口になっている。裏表紙では、本書をつぎのようにまとめている。「鯨とともに生きてきた〝鯨人(くじらびと)〟六人が個人史を語る。江戸時代の鯨食文化から戦後の「国民総鯨食時代」、鯨肉が「稀少資源化」した今日まで、日本社会における捕鯨・鯨食の多様性を生活様式の移りかわりに位置づける」。

 本書の目的は、「個人史と同時代史-プロローグ」の冒頭で、つぎのように述べている。「広義の捕鯨産業に従事してきた、あるいは現在も従事している人びと-鯨人(くじらびと)-の個人史の聞き書きと、そうした人たちが生きてきた時代を「クジラ」を通じて叙述することを目的としている」。

 本書には、目次にも本文にも章節が書かれていない。だが、「プロローグ」には章も節も書かれている。それに従うと本書は3章からなっている。最初の章「鯨を捕る」とつぎの章「鯨を商う」は、それぞれ3つの節に分かれ、それぞれ個人史が語られている。3つめの章「鯨で解く」は「個人史に解説を附」したものである。

 最初の2章の6つの個人史は、具体的につぎのようにまとめられている。「一九五四年に南氷洋へ出漁した池田勉さん(一九三三年生まれ)を筆頭に、奥海良悦さん(一九四一年生まれ)は一九六〇年、和泉節夫さん(一九四六年生まれ)は一九六四年に南氷洋へ出漁している。岡崎敏明さん(一九四一年生まれ)は、一九六一年から北九州市の旦過市場(たんがいちば)で鯨肉を売ってきた。おなじく一九四一年生まれの常岡梅男さんは、一九五九年から林兼産業で鯨肉入り魚肉ハム・ソーセージを製造してきた。一九四三年生まれの大西睦子さんが、大阪で鯨肉料理専門店を開いたのは一九六七年のことである」。

 著者が、個人史に着目するのは、「個人史のなかには社会の変化が凝縮されているはずである」からで、つぎのように説明している。「本書の主要舞台のひとつとなる一九五〇年代後半から六〇年代前半は、いわば日本の南氷洋捕鯨(南鯨)の黄金期でもある。同時に日本列島が高度成長で沸いた時代でもある。大量生産・大量消費をキーワードとする高度成長を契機として、わたしたちの生活は、どのように変化したのであろうか? また、調査捕鯨がはじまった八〇年代後半、日本はバブル経済にうかれていた。そうした日本社会の激変ぶりを、鯨人はどのように見つめていたのであろうか? それが、本書の執筆動機であり、大胆にもタイトルの一部に「鯨食の同時代史」と名づけた理由でもある」。

 6つの個人史の後を受けて、「「消費」(鯨を食べる)という視点から、戦前から戦後にかけての日本の捕鯨について叙述し、日本社会の変容過程を跡づけ」、「エピローグ」冒頭で、本書で明らかになったこと、指摘したことを、つぎのように整理している。「本書では、日本の南氷洋捕鯨(南鯨)に関し、①戦前は鯨油生産を中心とするものであり、②戦後は肉と油の生産が並行したとはいえ、③一九六〇年代なかばまでは鯨油生産もさかんであり、④捕獲可能な鯨種に制限が加わる過程で、もっぱら鯨肉生産に軸足がおかれるようになったことを明らかにした。そして鯨の消費形態については、⑤全国的に鯨肉が「見える」形で消費されたのは戦後の食糧難の時代のことにすぎないものの、⑥マーガリンと魚肉ハム・ソーセージという商品を通じて、わたしたちは大量の「見えない」クジラを無意識に消費していたことを指摘した」。

 そして、この「エピローグ」は「クジラもオランウータンも?」と題して、「鯨の保護」がオランウータンの生息域を脅かしている実態を紹介している。鯨油の代替品となったのは、大豆油とパーム油で、パーム油はアブラヤシからとれる。アブラヤシの生産は、オランウータンの生息地であるボルネオ島やスマトラ島で急拡大し、オランウータンの生息環境を悪化させている。

 ひとつを保護すれば、別の環境を脅かす。著者は、つぎのように総括している。「鯨類の乱獲は、たしかに問題である。それはアマゾンやボルネオの森を破壊し、生物多様性を脅かすのと同様、糾弾されてしかるべきである。南氷洋というグローバル・コモンズの利用も同様だ。逆説的であるが、だからこそ、わたしたちは歴史と対峙し、その過ちを繰りかえさないように科学調査を積みあげ、持続可能なレベルで厳格に管理された鯨類の利用を推進すべきなのではないだろうか? それは、決して「蛮行」なのではなく、「かぎりある地球でわたしたちが生きる」術のひとつなのである」。

 身近なものから入ると理解しやすい。だが逆に、食材としての鯨が身近ではなくなり、なんで必要なのかがわからない者がいる。とくに著者より若い世代は、鯨を食べたことがなく、食べようとも思わない人も多い。どう説明したらいいだろうか。鯨はもはや「史」の領域で、鯨にかわる身近な食材から語る必要が生じている。

林葉子『性を管理する帝国-公娼制度下の「衛生」問題と廃娼運動』大阪大学出版会、2017年1月17日、536+12頁、7000円+税、ISBN978-4-87259-560-4

 本書の帯の表には「近代公娼制度を支持した者たちの責任を問う」という怒りがあり、裏には「なぜ、このような女性の虐待を公認する制度を、日本人は自ら廃することができなかったのか?」という悔しさ、情けなさが感じられる。そして、「序章より」のつぎの説明がある。「近代公娼制度は、巨大な暴力装置であった。その制度のもとで、どれほど多くの女性の生命と尊厳が損なわれてきたか、計り知れない。貧しい家の娘たちが親に売られ、男性の性欲解消のための犠牲にされた。帝国日本の拡大にともない、日本「内地」で近代化した公娼制度は占領地へも持ち込まれ、被害を甚大なものにした」。「日本では、1946年1月にGHQが公娼を容認する一切の法規の撤廃についての覚書を出すまで、公娼制度が存続していた。つまり日本人は、戦争に負けて、占領軍に命じられるまで、それを廃止できなかったのである」。

 本書では、日本が公娼制度を廃止することができなかった「その最大の原因が「衛生」論であったことを明らかにする。「衛生」論を突き詰めた先にあるのが「軍隊衛生」論である」。「本研究は、日本における近代公娼制度に対する人々の認識の変遷について、一八六〇年代から一九三〇年代までの時期を中心に検証するものである。この時代に特に焦点を当てるのは、まさにこの時期に、西洋の帝国が植民地支配の技術として日本に持ち込んだ性病管理の方法が、日本社会に定着し、さらにアジアへと伝播されていくからである」。

 著者は、検証を通じて探したいことを、つぎのように述べている。「わずかな可能性であっても、人が差別を乗り越え、助け合えるならば、その力はどのようにして生じ、どのような条件があれば可能になるのか?-私はその答えを、実際にそれを模索して生きた人々の軌跡をたどることによって、探したいのである」。

 そして、著者は、先行研究の動向を踏まえて、「公娼制度下の暴力は、なぜ廃絶できなかったのか?」という問いにたいして、つぎの3つの課題を掲げた。「①日本の近代公娼制度を「帝国」の問題として捉え、日本のアジアへの侵略と近代公娼制度の拡大が、不可分の関係にあったことを示す」「②近代公娼制度を、当時のエリート層だけでなく、庶民にも関わる「衛生」問題として捉え直す」「③近代公娼制度を支えた「軍隊衛生」論は<男らしさ>の理想化と同義であり、それが存娼派のみならず廃娼派の人々にも支持されていたために、廃娼運動が近代公娼制度の問題の核心に迫れなかったことを示す」。

 本書は、「序章 公娼制度下の暴力は、なぜ廃絶できなかったのか?」、全9章、「終章 帝国の軍隊に取り込まれた公娼制度と廃娼運動」からなる。終章では、3つの節「アジアへの侵略戦争と公娼制度の近代化」「近代公娼制度を支持したのは誰か?」「帝国主義の女性差別」にわけて、本書を総括している。

 まず、第1節は、つぎのように締め括っている。「日本が最初に経験した大規模な対外戦争である日清戦争において、軍隊が戦地で娼婦を利用し、軍医が現地の女性たちの性病検査を行うという軍隊による性の管理の原型が見られ、日露戦争において、その規模が拡大したのである」。

 第2節は、「日本軍の責任もきわめて大きいが、その責任の所在については、慎重な検証が必要である」として、つぎのように結んでいる。「人々の差別意識を煽る新聞記者と、そのような新聞を支持して購読する読者との間に、共犯関係ができあがっていたのである。性病予防のために娼妓を社会の犠牲に供することを前提とする近代公娼制度は、娼婦への差別意識があってこそ成り立つ制度であったから、そのような差別意識を醸成したメディアもまた、近代公娼制度を下支えした責任が問われるべきであるといえよう」。

 そして、第3節の最後、つまり終章の最後は、つぎのパラグラフで結ばれている。「帝国批判なき廃娼論が主流を占める中、近代公娼制度の非人道性に気づいていたはずの廃娼派の人々の多くは、真に効力ある近代公娼制度批判を展開し得なかった。しかし、日露戦争中にシングルマザーになった伊藤(城)のぶが、右の非戦論を投稿し、それを掲載したのも、廃娼運動を担った『婦人新報』であった。公娼制度の廃止に失敗した廃娼運動の歴史の中にも、そのようにして僅かに、人の希望が見えるのである。「義のため戦ふとせば如何なるものが義であらふ?」という彼女の問いは、今も、その意義を失っていない」。

 日本人自らが公娼制度を廃することができなかったが、「公娼を容認する一切の法規の撤廃についての覚書」を出したGHQの下で、日本人娼婦はアメリカ軍基地周辺を中心に巷に溢れた。帝国の問題なのか、近代軍制度の問題なのか、はたまた男性の性(さが)の問題なのか、それぞれの国・地域、民族、社会の個々人にたいする「民度」が問われている。「民度」ということばは曖昧で、こんな場合に使いやすいが、もっとふさわしいことばはないだろうか。本書で扱われた「衛生」が、もっとも女性を傷つけたことを考えると、「個人の尊厳」のほうがふさわしいかもしれない。

↑このページのトップヘ