鈴木勉『インディペンデント映画の逆襲-フィリピン映画と自画像の構築』風響社、2020年5月25日、382頁、3000円+税、ISBN978-4-89489-127-2
「本書はフィリピンのインディペンデント映画についての考察が中心である。それも二〇〇五年以降、筆者がフィリピンのインディペンデント映画に本格的に接しはじめたシネマラヤ・フィリピン・インディペンデント映画祭(以下、シネマラヤ)に出品された作品及び同映画祭が歩んだ時代と時を同じくして世に出た作品を中心に論じる」。「シネマラヤ」とは、「シネマと「自由」を意味するマラヤを冠したフィリピン最大の独立系映画祭」のことである。
まず、インディペンデント映画とはなにか。著者の鈴木勉は、「確固とした定義はない」とし、フィリピン大学フィルム・インスティチュート所長のパトリック・カンポスが述べたことを、つぎのように引用している。「〝インディペンデンス〟とは、あらゆる専制的な主張を拒み、アイデンティティに対する問題提起によって立つものであり、その言葉は現在様々なかたちで進行している国民映画(ナショナル・シネマ)を語るときに欠くことのできない重要な要素である」。
つぎに、なぜフィリピンなのか、序章「フィリピン映画の源流と一つの問いかけ」の最後のつぎのパラグラフからわかる。「本書で語ろうとしているのは現代のフィリピン映画と創り手たちの物語であり、それは国民国家というシステムが生み出したヒエラルキー、決して公平とは言えない構造に由来する社会の現実に向き合い、自らのアイデンティティ、自画像を再構築してきた者たちの苦悶の物語でもある。いま世界の映画界で注目され始めているフィリピン映画は、近代国民国家と資本主義経済や世界中を席巻しているグローバリゼーションに対して、マニラの民衆の喧騒にまみれたスラム街やストリートから、ポストコロニアリズムの周縁から立ち上る無数の民と、彼らの思いをインディペンデント映画という手法を用いて掬い取るクリエーターたちの逆襲にも見える。その対象は無自覚な他者であったり、自尊を失った自虐の自己であったりするであろう。それでは一体どんな逆襲となりえているのか、フィリピンのインディペンデント映画の中に分け入ってみよう」。
本書は、はじめに、序章、全8章、終章、あとがき、と充実したシネマラヤにかんする資料からなる。「第一章 インディペンデント映画揺籃史とシネマラヤの誕生」で歴史的経緯をたどった後、つぎのようにテーマ別の7つの章が並ぶ:「第二章 映画と風景」「第三章 地域映画(シネマ・レヒヨン)の創生」「第四章 フィリピン映画に描かれたポストコロニアルな風景やLGBT」「第五章 フィリピン映画と日本」「第六章 「ポスト真実」時代のフィリピン映画」「第七章 フィリピン映画と信仰」「第八章 異彩を放つ映画人たち」。
そして、「終章 インディペンデントの航海は続く」では、「一 自虐を超えて」の冒頭で本書をつぎのようにまとめている。「本書では、二〇〇五年を起点に勃興したと言われているフィリピン・インディペンデント映画の成り立ち、その前史や背景、そして「わたしたちが本来あるべき姿」、「失われた自己」を求める彼ら彼女らの内なる声とその挑戦の姿を探ってきた。その中核となっているのは一九八一年から一九九六年生まれのミレニアル世代前後の若い世代であるが、その世代を支えている一九五〇年代から七〇年代生まれの映画人たちの存在も輝いている。そして、このフィリピン映画第三期黄金時代を演出してきた一群の映画人たちの向かう先には、さらに若い世代の息吹が待ち受けている。なにせ平均年齢が二四・三歳の若者が主流の国である」。
「二 越境する「国民映画」」で、もはや「国民映画」といえども「国境線という枠に縛られたものではない」現実を確認した後、「三 他者のまなざしに注視して」で、序章で問いかけた「人は、何人たりとも他者そのものになることは不可能である。しかし他者のまなざしに注視することはできる」に立ち戻り、つぎのように結論している。
「そもそも国家やイデオロギー、政治、ジェンダーや階級、または人種の違いによって、自己と他の人々を区別、そして差別することは深いところに根差しているように思われる。そうした差別や抑圧の構造について考え、それに対する解決の道筋を探求することは、現代の思索者やアーティストに課された大きな課題の一つであるだろう。ポストコロニアルを考察する思想家ガヤトリ・スピヴァクが語りかける。「私たちが自分自身の中に聞かなくてはならない、他者の様々な声を思い出すこと」または「私たち自身の内に存在する聴くべき声を呼び起こすこと」、とはいったい何を示すのであろうか。そしてどうすればその声を呼び起こし思い出すことができるのだろうか。「何を」と聞かれれば、おそらく本書を書く行為そのものが、その回答を求めるための思索であり想起の過程であったと思う。そして「どうすれば」と聞かれれば、私は迷うことなく、フィリピンの偏在する庶民街の雑踏の中で、人々の営みの喧噪と様々な臭いで過剰に満たされた豊穣に身を浸し、貧しさと豊かさのアンバランスとバランスの中を漂い、ただただ安堵感に包まれながら実感すること、と答えるだろう」。
そして、「五〇〇年の航海には終わりはなく、フィリピン・インディペンデント映画を巡る私たちの旅もまだまだ続き、今日も新たな作品が生まれ、歴史は上書きされてゆくだろう。本書はただその途中経過報告である」と結んでいる。
フィリピンだけでなく、東南アジアはわかりにくい、という声をよく聞く。「暴力・貧困・差別」などのネガティブ・イメージがあるが、その実態はよくわからない。そんななかで、「土着の「リアル」」が伝わってくるのが映画である。それがインディペンデント映画で、よりわかりやすくなったということがいえるのではないだろうか。
東南アジアのなかでも、なぜフィリピンなのか。フィリピンは、16世紀に当時世界最強のスペインの植民地になり、カトリック教徒が多い。19世紀末には、20世紀最強の国家になるアメリカ合衆国の植民地になった。流動性の激しい海域世界の一員でもあるフィリピン人は、英語を武器に世界各地に出稼ぎするディアスポラな国民になった。南部にはイスラーム教徒が多く居住し、イスラーム世界にも出稼ぎしている。フィリピン人は、グローバル社会のなかのさまざまな問題に出くわし、国内外でそれらに対応してたくましく生きている。新たな作品のネタは、どこにでも転がっている。