早瀬晋三書評ブログ2018年から

紀伊國屋書店「書評空間」https://booklog.kinokuniya.co.jp/archive/category/早瀬晋三に2005~15年に掲載された続きです。2015~18年に掲載されたものはseesaaブログshohyobloghayase.seesaa.net/ で閲覧できます。

2021年03月

中西嘉宏『ロヒンギャ危機-「民族浄化」の真相』中公新書、2021年1月25日、252頁、880円+税、ISBN978-4-12-102629-3

 2021年2月1日、ミャンマー国軍によるクーデタが起こった。本書が出版された翌週であった。本書の評価は、事態が急変してますます高まった。

 本書では、2017年に発生した大量のロヒンギャ難民にたいする解決策を模索している。それにたいして、ある外国人の安全保障コンサルトは、著者、中西嘉宏につぎのように告げた。「欧米では、ロヒンギャに対するジェノサイドが起きたという評価が定着している。政府関係者も含めて多くの人々は、責任が徹底的に追求され、加害者が罰せられることを願っている。ただし皆、虐殺のような悲劇に関心はあっても、事件の歴史的背景だとか、ミャンマー政治の複雑さだとかいった細かい話には関心を持たない。その上、人権派やムスリム団体の国内政治における影響力は強く、しかも、彼らは概して妥協を嫌う。だから、あなたたち学者がどれだけ客観的な分析に努めても、また、日本が現実的な解決策を唱えても、一度定着してしまった評価が変わることはないだろう。そこはもう決着がついてしまっているんだ」。

 こういう「身もふたもない見方」をする人は、クーデタ後の激変で本書を評価しないかもしれない。だが、ロヒンギャ問題もクーデタも、解決策を模索するための基本的なものが本書にはある。

 本書の概要は、つぎのように表紙見返しにある。「ロヒンギャは、ミャンマー西部に住むイスラーム系民族のひとつだ。軍事政権下、国籍が与えられないなど長く差別されてきた。2017年の国軍による掃討作戦以降、大量の難民が発生し、現在100万人が隣国のキャンプで暮らす。民主化運動の指導者アウンサンスーチーはなぜ「虐殺」を否定するのか。本書は、複雑な歴史的背景やミャンマーをめぐる国内・国際政治を通し、アジア最大の人道・人権問題の全貌を示す」。

 本書は、序章、全5章、終章などから成る。序章「難民危機の発生」の最後に「本書の視角と構成」がある。本書で著者が考えたいことは、つぎのような問いである。「いったいどうしてロヒンギャは無国籍になったのか。彼らを軍事政権はどのように弾圧してきたのか。ラカイン州北部で過去最大規模の紛争と難民危機が、このタイミングで生じたのはなぜか。それはどういった紛争だったのか。なぜアウンサンスーチーは国軍によるジェノサイドを認めないのか。正義を実現しようとする国際的な取り組みが、どのようにミャンマー国内で反発を生み、問題の解決を難しくしているのか」。著者は、つぎのように各章で考えたいという。

 第1章「国民の他者-ラカインのムスリムはなぜ無国籍になったのか」では、「歴史的な文脈をたどる。王朝時代から、一九四八年に独立するまでのミャンマーとラカインの歴史をみながら、いかにして植民地期に流入したインドやベンガルからの移民たちが、ミャンマー人という集団意識の外、すなわち「国民の他者」に位置づけられていったのかみていきたい」。

 第2章「国家による排除-軍事政権下の弾圧と難民流出」では、「五〇年近く続いた軍事政権下で、ロヒンギャがどのように弾圧を受けてきたのかをみる。軍事政権の性格と、軍事政権がどのようにロヒンギャを安全保障上の脅威と位置づけていったのかを考察したい。危機を生み出した根本的な原因を検討するには、ミャンマーの特殊な軍事政権と、その安全保障観についての理解が不可欠である」。

 第3章「民主化の罠-自由がもたらした宗教対立」で著者が考えたいのは、「どうしてこのタイミングで危機が起きたのか、その理由である。これにはミャンマーで二〇一〇年代に進んだ民主化の進展が関係している。民主化の進展は、一方で人々に自由を与えたが、他方で紛争の原因となる宗教対立をも生み出した。反イスラーム的な言説や運動の拡大、少数民族地域での民衆ナショナリズムの高揚、民主的政権と国軍との対立などである。民主化は紛争の導火線に火をつけたといえる」。

 第4章「襲撃と掃討作戦-いったい何が起きたのか」では、「二〇一七年八月二五日に勃発した国軍とARSA[アラカン・ロヒンギャ救世軍]の武力衝突、その後の国軍による掃討作戦で実際に何が起きたのかを検討する。前述の通り、真実は今も謎に包まれている。そこで、現在わかっていること、わかっていないこと、関係者で食い違う事実認識を丁寧にみていきたい。本書は真実を解明するものではないが、少なくともその争点は明らかにしていきたい」。

 第5章「ジェノサイド疑惑の国際政治-ミャンマー包囲網の形成とその限界」では、「国際政治に目を転じる。危機の発生直後からジェノサイド疑惑が浮上し、国連、とりわけ国連人権委員会と、国際司法機関で、ミャンマー政府と国軍を国際法上の罪に問う動きが活発化した。対して、アウンサンスーチーはジェノサイドを否定している。なぜなのか。国際政治におけるロヒンギャ危機発生後の争い、そしてその国内社会への影響をみる」。

 終章「危機の行方、日本の役割」では、「難民帰還の行方を見据え、ラカイン州での平和構築のあり方、さらに、日本が果たすべき役割を検討しよう。ロヒンギャ危機のひとつの特徴は、国連や国際司法、欧米の圧力が十分に機能していない点にある。こうした状況下で、日本が国連に歩調を合わせれば、ミャンマー政府との関係悪化を覚悟しなければならない。関係悪化にくわえて、難民帰還も責任追及の進まない可能性がある。そうしたリスクをとるべきなのか。国際介入をめぐる理想主義と現実主義という古くて新しい問題を考える」。

 だが、著者が終章で問いかけた「危機の行方」も「日本の役割」も、明確に示されているわけではない。その理由を、著者は「あとがき」でつぎのように述べている。「実際に書いていくと、これまでわかっている事実がまばらで、しかも、いくつもの偏った解釈が定着していることにあらためて気がついた。断片的な情報をつなぎ合わせ、偏った見方を可能な限り取り除く作業の連続だった。なんとか書き終えてみて、ロヒンギャ問題の過去と現在を知るための第一歩となる読み物にはなったかなと思う。内容に納得できた読者も、納得できなかった読者も、他の関連情報にあたってもらえれば、問題の根深さや複雑さをもっと理解できるだろう。本書に書き切れなかったことがまだまだある」。

 では、日本人研究者としてなにができるか。解決のための「日本の役割」を示せばよいのか。本書を読めば、問題が根深く複雑で、時間的にも空間的にも広く検証しなければならないことがわかる。考察を深め、解決策を提言すればよいのか。そうではないだろう。外国人研究者として考えなければならないことは、当事者であるミャンマーの人びとが解決に向かうために議論をする環境を整えることだろう。部外者が直接解決策を示し、行動しても、複雑多岐にわたる当事者のすべてが納得できるわけがない。当事者が納得するまで対話に対話を重ねていくしかない。そのために研究者ができることは「断片的な情報をつなぎ合わせ、偏った見方を可能な限り取り除く作業」をすることだ。つまり、著者の方向性は間違っていない。


評者、早瀬晋三の最近の編著書
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』(龍溪書舎、2021年4月~)全30巻+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。

蘭信三・小倉康嗣・今野日出晴編『なぜ戦争体験を継承するのか-ポスト体験時代の歴史実践』みずき書林、2021年2月20日、503頁、6800円+税、ISBN978-4-909710-14-7

 なかなか考えさせられる本である。わたしは、「ポスト戦後」という、英語で書くとpost-post warということばを使って、戦争責任も戦後責任も無縁と考えている日本の世代に、東南アジアの同世代と共有できる歴史観を問いかけてきたが、もはやポスト戦後世代は学生のような若者だけを想定できなくなった。戦争を体験していないすべての人びとを対象にしなければならなくなった。つまり社会全体にたいして、戦争体験をいかに継承するかを考える時代になった。

 本書の目的は、筆頭編者の蘭信三が序章「課題としての<ポスト戦争体験の時代>」で、「多様化する<戦争体験の継承>に関する新たな取り組みの動向と現状をまとめ、その在り様と可能性を考えること」であると述べている。

 つづけて、課題について、つぎのように説明している。「本書の課題はそのタイトル『なぜ戦争体験を継承するのか-ポスト体験時代の歴史実践』に端的に示されているが、それはただ単に「戦争体験の風化」に抗する継承実践を掬い上げるという従来型の問題設定ではない。本書は、先に述べたように戦争体験の<忘却と想起>というより包括的なフレームにもとづき、それぞれの対象に関する考察と紹介を行うものである。すなわち、(1)<ポスト戦争体験の時代>になぜ戦争体験を継承するのか。(2)それはどのようにすれば可能なのか。また(3)冷戦崩壊後の今日のグローバル社会においてそのことはどのような意味を持つのか。さらには、(4)冷戦崩壊後、戦後半世紀も経った一九九〇年代以降に様々な戦争体験が新たに想起されクローズアップされたり、また多くの平和博物館が新たに開設されたりしてきたが、それらの現象にはどのような社会的意味が付与されているのか、を明らかとしていきたい」。

 本書は、序章、2部、終章などからなる。第1部は全5章と補論からなる。第2部は総論、全15項目、補論からなる。2部構成の特徴は、つぎのように説明されている。「戦争体験に関する新動向の研究を主とした第一部と、国内の代表的な一五の平和博物館・資料館の歴史実践を開館順に紹介する第二部という二部構成をとっている」。「研究篇のみや平和博物館篇のみで構成される本はこれまでも少なくなかったが、両者を同時に所収し二部構成とするものは少ない。そのねらいは、研究篇と平和博物館篇の二部構成にすることで、一冊のなかで同時に戦争体験の継承を研究し実践するふたつの部門を読み比べ、その相違点と共通点を明らかにし、さらには両者を相互参照することで、現代における戦争体験の継承実践の在り方を双方から探ることにある」。

 「第一部「体験の非共有はいかに乗り越えられるか」は、それぞれの対象から戦争体験の風化や継承、その忘却や想起について考察する論集である。第一章の小倉康嗣「継承とはなにか-広島市基町高校「原爆の絵」の取り組みから」は、基町高校の生徒たちが原爆の絵を描く過程で、体験者たちの語りから彼らの「生」を受けとめ、ある種の「トラウマの感染」に悩まされつつも、相互コミュニケーションに基づく「原爆の絵」の作成過程で、体験の協働的な生成を経ていることを詳細に描き出す」。

 「第二章の田中雅一「開いた傷口に向き合う-アウシュビィッツと犠牲者ナショナリズム」は<犠牲者ナショナリズム>という意表を突いた切り口を呈示する。ホロコーストは、ヒロシマ・ナガサキとともに人類にとって唯一無二の戦争体験であり、人類が犯した戦争犯罪というもっとも普遍的なテーマとして世界中の人たちに継承されてきた。しかし、イスラエルはナショナル・アイデンティティの確立のために、高校生たちのポーランド訪問を高校教育の一部に組みこむその活動のなかで<犠牲者ナショナリズム>というイスラエルに固有な個別性が獲得されていくというアイロニーを田中は描き出し、戦争体験継承の一筋縄ではいかない難しさを掬い上げる」。

 「第三章の遠藤美幸「戦友会の質的変容と世代交代-戦場体験の継承をめぐる葛藤と可能性」」は、「遠藤自身が長らく携わってきた「勇会有志会」という戦友会を事例に、戦友の高齢化に伴う戦後世代の戦友会への参加が、戦友会活動の活性化と同時に戦争体験(遺志)の「誤った」継承の可能性を孕み、戦友会の解散へと向かう過程をダイナミックに描きだす」。

 「第四章の井上義和「非体験者による創作特攻文学」は、特攻という独特の「妖しい力」を持つ体験を創作文学として表現することによって、その力を飼いならすという独特の継承の方法と位置づける。特攻体験に関する遺志の継承という井上の新視点は先に紹介したが、その延長線上で創作特攻文学の作品群を読み解き、特攻体験をめぐる継承の多様性を改めて浮き彫りにする」。

 「第五章の森茂起「戦争体験の聞き取りにおけるトラウマ記憶の扱い」は、「戦争の子ども」たちのトラウマ的体験の聞き取りの含意に関して幾重もの考察を行う。森はドイツにおけるトラウマ研究との連携のなかで「戦争の子ども」研究を推進していくが、その方法のひとつであるトラウマ体験のナラティヴ化、言語化を目指す「自伝的記述」という方法の詳細と、インタビュー法において空襲体験のトラウマ化された過程とその語りを分析的に描き出す」。

 「第一部補論の人見佐知子「戦争を<体験>するということ」は、神戸空襲を記録する会のメンバーへの聞き取りのなかで、会のメンバーや人見が戦争を<体験>することの過程を丁寧に描いたオーラルヒストリー作品である。人見は、戦前生まれだが神戸空襲を経験していないある女性の戦争<体験>と、人見自身が神戸空襲の<体験>を獲得していく過程を、痛ましいエピソードとしてではなく、自身の戦争観や平和への想いを問い直していく作業であることを示す。そして、その女性の<体験>から人見の<体験>へと積み重ねていくことの重要性を描き切る」。

 「第二部「平和博物館の挑戦-展示・継承・ワークショップのグローバル化」は、福島在行の総論と国内一五の代表的な平和博物館(資料館)の紹介と考察から成る。福島「平和博物館は何を目指してきたか-<私たち>の現在地を探る一作業」が、日本における平和博物館の動向を的確に紹介し、各館の開設された文脈や特性について詳細に述べている」。

 序章最後に、「残された課題」として、<平和博物館の挑戦><あの戦争の「特権化」><第二世代の経験と想い><当事者になる>の見出しを掲げて論じ、最後に<植民地責任と向かい合う>の見出しの下、つぎのようにまとめて、本論の結びとしている。「戦争体験の継承は多様であり、唯一反戦平和に接続されるのではない。戦争体験の継承と現代社会の在り様は合わせ鏡であり、それらとナショナリズムの関係は複雑で、難しい。同時に、日本社会の戦争責任論は、あの戦争を推進していった主体(軍部)への責任追及から、アジア諸国への加害者としての自らへの戦争責任を問い、そして植民地責任を含む議論へと展開していった。戦後日本社会が歩んできたこれらの思想的経緯を踏まえ、戦争責任問題を継承して反戦平和への想いを新たにしつつも、植民地責任をいま現在の問題として向かい合うことが、<ポスト戦争体験の時代>を生きる私たちの課題であることを確認し、本論の結びとしたい」。

 終章「「戦争体験」、トラウマ、そして、平和博物館の「亡霊」」(今野日出晴)では、これまでの議論を踏まえて、「本書の指し示す、いくつかの方向性と可能性について考え」、「おわりに-歴史実践という試み」で「見えないものに眼を懲らす」「<トラウマという歴史実践>」を論じ、つぎのように結んでいる。「死者を含めた他者の傷みや苦しみを深く想起し、かけがえのない戦争経験として、自分自身の身体を通して共有していくことができれば、それは、人権と呼ばれるものの根源に触れるだけではなく、<ポスト戦争体験の時代>において、国境をこえても成り立ちうる人権とは何か、新たな社会的・歴史的コンテクストを創り出すことにつながるかもしれない。そして、それは、二一世紀を生きる私たちにとって、<トラウマという歴史実践>を経験していくことなのだ。私たちは、大きな地平をもった新たな経験の入り口に立っている」。

 日本でいう「戦争体験」とは、第二次世界大戦アジア戦線や太平洋戦争、「大東亜戦争」でのことをさす。ところが、東南アジアを含む東アジアの人びとに「戦争体験」のことを訊けば、中国では国共内戦、南北朝鮮では朝鮮戦争、インドシナではインドシナ戦争、そのほかにもそれぞれの国ぐにで内戦や近隣諸国との戦争をしており、日本でいう「戦争体験」とは違う意味で語られることがある。トラウマとの関係でいえば、日本では1995年の阪神・淡路大震災、2011年の東日本大震災や各地でおこった地震での経験を思い起こす人びとがいる。第二次世界大戦に限定することなく、広く「戦争体験」をとらえることによって、それぞれの人にとっての「継承」の意味が明らかになってくるだろう。

代珂『満洲国のラジオ放送』論創社、2020年1月30日、342頁、3000円+税、ISBN978-4-8460-1823-8

 本書の目的は、「はじめに」でつぎのように述べられている。「ラジオ放送事業が満洲国でどのように確立、展開されたのか、どのような機能を発揮したのか、を日中双方の資料や文献に基づき検討しようとするものである。さらに、ラジオ放送の参与者(放送側、聴取側、関係機関など)及び参与過程を検討することで、メディア研究の視角から発信者の一方的な行為とみられる満洲国ラジオ放送のメカニズムを明らかにしている」。

 これまでの研究で欠如していたものは、つぎのようにまとめられている。「満洲国でのラジオ放送の歴史的概況や実情、放送内容や番組構成、ラジオ放送が果たしたさまざまな機能およびその効果に関する研究が欠落していたようである。たとえば、放送内容を検証することで、ラジオ放送が満洲国の社会や文化に与えた影響に対する考察や分析は、まだほとんど行われていない」。

 そして、メディアとしてラジオを研究する意義を、つぎのように説明している。「当時の文化状況とラジオの関係を明らかにし、ラジオ放送の機能及び効果の検証が必要であろう。当時の放送内容は、主に娯楽放送、報道放送および教養放送という三つの大きな放送分類があり、それぞれに多民族統合、プロパガンダ、国民創出(アイデンティティコントロール)などの理念にかなう内容と政策が存在していたことは間違いない」。

 本書は、はじめに、全8章、おわりに、などからなる。「本書では、満洲国でのラジオ放送事業の運営について、関東州および日本占領前の中国東北、満洲国成立直後、そして満洲電信電話株式会社成立後という三つの時期に分けて考察」している。「第一は、日本と軍の統制下から独立し、満洲国を代表する音声メディアとなるべく成長した時期である」。第二は、「電々の誕生を境に放送事業を全満に浸透させる全満放送網の建設が始まった」時期で、「ラジオ放送を商業化する過程で」、「同時に国家の経済、文化、軍事、国防などの分野にも関わる、充分に計画されたものであった」。第三は、「全満放送網から独立して存在した対外放送は、満洲国における放送事業の第三構成部分」となった時期である。「満洲国を「国家」として世界に紹介することを目的とした対外放送は、やがて日中戦争や太平洋戦争に巻き込まれ、激しく変容した」。

 第二の時期の「全満放送網は三つの方向性を示していた。一つは、経済および文化を中心とした都市部に対する放送拡充である。それは新京、奉天、ハルビン、大連の中央放送局の建設であり、これが満洲国におけるラジオ放送のもっとも重要な部分であった」。二つ目は、「農村または鄙地へのラジオ普及であった。電々のいわゆる全満放送網実現に向けた固い信念が見えてくるが、現実的には失敗に終わる」。三つ目は、「安東、承徳、延吉、ハイラル、黒河、牡丹江などの国境地帯への放送局の設置であった。これらの放送局は、ラジオ放送普及以上に外来電波の侵入阻止が大きな使命であった」。

 「また本書では、報道、教養、慰安の三種類に分けて番組を編成した満洲国のラジオ放送の機能についても触れた」。ニュース報道では、「ラジオ放送と新聞の一体化が進んだ。こうした満洲国の新聞とラジオの関係と、太平洋戦争勃発後、民衆の情報に対する需要の増加は広範囲の情報伝達に優れているラジオが戦時ニュースと講演放送を通して、徐々に新聞を凌駕し、成長していく過程が明らかとなった」。

 「教養放送での日本語・中国語講座は番組として一般的となっていて、言語による民族統一が意識されていた。それ以外では、意思伝達機能としての電波から離れ、一般民衆の生活にまで浸透していたラジオ体操と学校放送があった」。

 慰安としては、ラジオドラマが大いに期待された。「ラジオドラマは、各都市を拠点とした多くの劇団の活躍で、聴取者から好評を得た。しかし、思想指導および政治宣伝として有効なメディア・ツールと放送側に認識されたラジオドラマは、国民演劇という外来概念の提起と提唱によって、国策に付随するものに変容した」。

 そして、本書を「おわりに」で、つぎのようにまとめた。「満洲国でのラジオ放送事業運営は、都市での国民性統合、農村での国策普及、国境地帯での外来電波侵犯を防護、この三点から満洲の空に飛ばす電波を純化し、満洲国の「声」を障害なく国民に伝えることを目指した。これを前提に満洲国のラジオ放送はさまざまな試みを行った。このラジオ放送システムは、緻密で、内容が豊富で、さまざまな分野で機能していた。ニュース放送は新聞を凌駕するほどの力を持ち、ラジオドラマは市民生活に接近し聴取者の興味を喚起した。そして、ラジオ体操は満洲全域で行われるようになった。そのほか、実況放送、子供向けの放送などを加え、満洲国のラジオ放送は多元的な内容を有した。しかも、これらのラジオが作り出した空間のなかで民族的な壁を乗り越えたものもあったことは無視できない。しかし、放送側の一方的な統制強化によって、満洲国のラジオ放送は時間の推移とともに内容的に崩壊していったことも事実であった。本書では、その原因と過程、そして結果に至るメカニズムを、さまざまな角度から分析し、論証したつもりである」。

 日本本土、植民地であった台湾、朝鮮、満洲国、さらに中国本土の占領地、「大東亜戦争」勃発後はアジア・太平洋の占領地に拡大して、ラジオ放送はそれぞれの地で帝国日本にとって重要な役割を担った。満洲国成立以前からの帝国日本のラジオ放送の流れとともに、「大東亜戦争」勃発後の占領地のラジオ放送を考察すると、満洲国のラジオ放送の位置づけがよりはっきりしてくるだろう。

河村有教編著『台湾の海洋安全保障と制度的展開』晃洋書房、2019年6月30日、293頁、3600円+税、ISBN978-4-7710-3180-7

 本書の目的は、「序章 台湾の海洋安全保障政策と海上保安法制の展開」(編者)の冒頭で、つぎのように述べられている。「本書は、台湾政治(アジア政治)、台湾法(アジア法)の研究者・学習者のみならず、海上保安法制、国際海洋法の研究者・学習者を対象にした学術書で」、「台湾政治の変化、すなわち、陳水扁政権から馬英九政権、そして蔡英文政権という台湾の政権交代の過程において、台湾における海洋安全保障政策及び海上保安法制の展開について検証しようとするものである」。

 つづけて、つぎのように説明している。「台湾の海洋に対する管理に焦点をあてて、台湾政治の変化に伴う海洋安全保障政策に基づく台湾国内の海上保安法制についての法的・政治的分析のみならず、台湾の海洋安全保障政策の対日、対中等の対外的影響についてもふれている。不分明、また複雑な国際法的地位における台湾の海上保安法制に焦点をあてて、その法構造及び海上法執行の実際から台湾の海洋安全保障をめぐる法と政治の関係について検討を試みているが、領土周辺を海に囲まれており、ロシア、北朝鮮、韓国、中国、台湾との間で様々な問題を抱えている日本の海洋安全保障のこれからを考える上で、また海洋をめぐる国家・地域間の双方の利益、あるいは万国共有の利益を促進可能な平和的な海洋安全保障の運営方式を考える基盤を探求する上で、本書は重要な一書になろう」。

 本書の学術的、実務的貢献については、つぎのように強調している。「これまでの台湾研究においては、台湾と海洋の観点からの法的政治的な総合的分析はほとんどなされていない。台湾と海洋の観点からの学術的研究が皆無の中で、海上保安法制、刑事法、国際法、国際政治、台湾研究における本書の学術的価値はいうまでもなく、また、本書は、日本の海上保安実務(海上法執行実務)にも影響を与え得るものであり、加えて、日本の平和的な海洋安全保障体制の構築・確立の探求にも大いに貢献し得る研究成果物である」。

 本書は、はしがき、序章、2部全12章、あとがきなどからなる。第Ⅰ部「台湾政治の変化と海洋安全保障政策」は5章からなる。第1章「海洋問題をめぐる台湾の政治過程-馬英九政権を中心に-」(松田康博)では、「馬英九(国民党)政権下での海洋問題の政治過程について検証する。馬政権は、「主権・領土」に関わる海洋問題について、基本的には中華民国としての正統的な立場を継承する一方で、直接に中国と共闘せずして、台湾としての「利益」を得ることに成功し、結果として、中華民国としての領土意識と台湾の利益が重なりあったと分析する」。

 第2章「「日台漁業取決め」に基づく法形成と課題」(河村有教)では、「日台漁業取決めがどのような性質を有するものなのか、また、漁業取決めの内容はどのようなもので、取決め以後の会合においてどのようなことが議論の対象になり日台の漁業者及び漁業従事者の間で争われてきたのか、取決めというルール形成について検証する」。

 第3章「「南シナ海仲裁案件」に対する台湾の反応とその国際法的意義-新たな南シナ海政策か?-」(姜皇池/上水流久彦訳)では、「2016年7月12日の南シナ海仲裁案件での仲裁裁判所の「九段線とその囲まれた海域に対する中国の主張する歴史的権利については、海洋法条約に違反し、その法的根拠はない」とする判断が出た以降の蔡英文(民進党)新政府の発言を中心に、台湾の新政府の南シナ海政策について考察する」。

 第4章「台湾社会にみる尖閣諸島をめぐる3つのナショナリズム」(上水流久彦)では、「台湾における尖閣諸島をめぐる運動の実態から3つのナショナリズムについて考察し、その3つのナショナリズムの連鎖による関係を分析する」。

 第5章「台湾海峡をめぐる両岸関係と中国海軍の増強」(竹内俊隆)では、「台湾海峡を挟んでの中国大陸と台湾との関係について検証する」。「まず初めに、全般的な両岸関係を記述したのち、これまで惹起した紛争を歴史的に振り返る。そして、中国の南シナ海での行動と海洋法条約の解釈問題に言及し、中国海軍がどのような増強をしてきたか、今後はどのように動くのであろうかを検討する」。

 第Ⅱ部「台湾の海上保安法制の制度的展開」は、7章からなる。第6章「台湾における海上法執行機関の法構造」(越智均)では、「台湾の海上法執行機関である行政院海岸巡防署について、その組織及び権限について法的に分析する」。

 第7章「台湾不法入国罪について-理論的・実務的問題点の検討-」(謝庭晃/河村有教訳)では、「金門馬祖地区の地方裁判所の判決から、準不法入国罪の成立を認めたいくつかの事例を具体的にあげながら、中国大陸船舶の不法入国での取締りについて、取締りの根拠法令について整理し、考察する」。

 第8章「台湾の領海制度をめぐる一考察」(江世雄)では、「台湾の領海制度について、主に領海基線の画定の問題と無害通航制度について国際海洋法と国内法から法的に分析する」。

 第9章「台湾の海上密輸犯罪-「密輸処罰条例」及び「煙草酒管理法」を中心に-」(葉雲虎/越智均訳)では、「台湾の海上密輸犯罪について、海事刑法上の規範体系及び枠組みについて整理し、とりわけ「密輸処罰条例」第2条の構成要件の内容について考察する」。

 第10章「台湾におけるGPS捜査について-高雄地方裁判所2016年易字第110号判決の検討を中心に-」(林裕順/河村有教訳)では、「海岸巡防署の職員が犯罪捜査において車両にGPSを取り付けたことにおいて、裁判所は違法と認定した上で、あわせて当該職員に対して刑事的責任を認めた高雄地方裁判所の判決について検討する」。

 第11章「海域における集会・デモの自由と取締り」(陳國勝/越智均訳)では、「海上集会・集団行進及び集団示威運動の取締りについて考察する」。

 第12章「台湾における「外国」漁船の取締りについて-対中国大陸漁船を中心に-」(宿里和斉)では、「台湾における中国漁船の取締りについて、その法的根拠及び海岸巡防署の取締りの現状について検討する」。

 そして、今後の課題として、台湾と日本の見解の違いを指摘する。「台湾においては、海岸巡防署の再編の動きの最中である。もっとも厄介な問題が、軍人と警察(法執行官)の「棲み分け」の問題である。台湾の海岸巡防署における警察と海軍との「棲み分け」の問題は簡単に整理できるものではない。とりわけ、台湾では戦時下の海岸巡防署職員の法的位置づけの問題をめぐって、議論が続いている」。

 いっぽう、日本での一般的な見解は、「「海」の軍人の任務(国防)と警察(犯罪捜査、犯罪の予防)の任務ははっきり分けられるべきであると「棲み分け」論」である。「領海警備を海上保安庁が行っているのは、防衛の任務ではなく、国家的法益を侵害する犯罪行為の捜査及びその予防の目的でもあり、台湾の「海域」と「海岸」の巡防機関の任務をめぐっての再編の動きは、日本の海上保安庁の将来のあり方を考えるにおいても様々な重要な課題を提示し得る」。

 台湾を扱うとき厄介なのは、国家であって国家ではないため、法解釈が定まらないことである。中華民国も中華人民共和国もひとつの中国しか認めていないので、中華民国の見解は大陸に及び、中華人民共和国の見解は台湾に及ぶ。国際的には、中華人民共和国が一般に認められているので、国際関係では中華人民共和国の見解にもとづいて行われることになる。しかし、現実は理論上だけで行われるわけではなく、とくに国際的には慣習も重視されることから、実務上の問題が生じる。理論と実務が矛盾しないようにするのは、至難の業である。さらに、中華民国と中華人民共和国間の「国内問題」と国際問題が絡む。「現状維持」もなにもしないわけにはいかない現実がある。

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