下條尚志『国家の「余白」-メコンデルタ 生き残りの社会史』京都大学学術出版会、2021年2月28日、558頁、4300円+税、ISBN978-4-8140-0309-9

 1991年だったか、高校野球選手権(甲子園)大会で、沖縄水産と鹿児島実業が対戦した。当時、鹿児島にいたわたしは、奄美出身の同僚に、どちらを応援するのか尋ねた。迷うことなく、「沖縄水産」という答えが返ってきた。昨年(2020年)、出版した『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019』(めこん)では、本書の研究対象になっているベトナムの少数派であるが、コミュニティとしては多数派のクメール人のような人びとが、東南アジアではオリンピックやアジア大会より盛りあがる東南アジア競技大会にたいして、どのような態度を示すのか知りたかった。ベトナムとカンボジアのどちらを応援するのか、自分自身が参加するときどちらの国の代表を選ぶのか。だが、文字資料ではわかりにくいこのようなことは、本書のような民族誌的調査から得られる個々人の語りのなかに見出すしかなく、わからなかった。その意味で、本書の意義はきわめて大きいことがよくわかる。

 制度史ではわかりにくい流動性の激しい社会では、動く人びとが主体性をもっている。海域社会の歴史では、陸域中心史観で海域を陸域の従属下にあったかのように叙述するものが多いが、記録を残していない海域社会に主体性があり、人びとは陸域の制度に翻弄されたのではなく、陸域社会を利用しながら生きてきた。そして、その陸域の支配を利用できないとわかったとき、人びとは移動した。本書でも、「難民と移民の区別がつかない」という表現が出てくるが、それこそかれらの生き残り策である。「移民」として国家を利用することもあれば、「難民」として国家を捨てて生きる術を見出すこともある。

 本書の目的は、序章でつぎのように述べられている。「メコンデルタの近代を、その地域性に光を当て、問い直す試みである。具体的には、現ベトナム南部メコンデルタにおいて、ある多民族的な地域社会を対象に、二〇世紀半ば以降の動乱の最中、そこで暮らす人々がとった生き残り策を検討する。動乱とは、脱植民地化のなかで生じた長期の戦争や、国家政策に起因する政治経済的混乱を指す。動乱に巻き込まれ、大きな再編を迫られてきたメコンデルタの多民族社会において、いかにして国家の「余白」が浮かび上がってきたのか。この過程を、過去から現在にかけて人々が行ってきた様々な生き残り策と、生き残りをかけて人々が紡ぎ出してきたローカルな秩序の生成のありようを詳細に検討することで、明らかにする」。

 気になる「余白」というキーワードは、つぎのように説明されている。「本書で述べる国家の「余白」とは、長期にわたり国家のなかに組み込まれてきたにもかかわらず、為政者にとって常に捉えどころがなく、それゆえに統治のモデルを描きにくい場である。国家は統計や民族分類、地誌、報告書、地図などを作成し、開拓や開発を進め、度々強制力や暴力を用いて、地域とそこに暮らす人々を把握し、そこで実現すべき国家のかたちを描こうとしてきた。しかし、民族的宗教的に様々な背景を持った人々が混住し、人やモノの高い移動性がみられる地域社会では、国家がその実像を十分に把握できないことがある。把握できていないにもかかわらず、国家がそこで理念的で画一的な統治モデルを描き出し、実現しようとすると、それを受け入れられない人々との間で微妙な齟齬や軋轢が生まれ、その小さな裂け目からやがて動乱が拡がる。すると動乱を避けるように人々は国家の規則を無視して生き残りに奔走し始め、たとえば徴兵逃れの場や闇市といった「国家の介入しにくい空間」を創り出してゆく。その状況に直面した国家は、人々と折衝を試みるも、かれらの動きをもはや制御することができない。最終的にはそこで動乱を収束させるために統治モデルを描く試み自体を放棄し、人々の行動を黙認、許容し始める。この過程が繰り返され、あたかも万遍なく塗り潰そうとしても浮かび上がる白地のように、国家の「余白」部分が度々出現してきた地域の一つが、本書で扱うメコンデルタ多民族社会である」。

 「本書の意義」は、「第一に、第二次世界大戦以降、世界で最も長く激しく繰り広げられた、ベトナムとその周辺国をめぐって生じた動乱を、ナショナリズム、革命、冷戦といったグローバルな現象ではなく、むしろ社会統合または分断をもたらすそれらの現象によって大きな変化を迫られた人々の生存に焦点を当て、再検討していることである」。「第二に、フータン社の事例は、国家が確立しようとした秩序がいかに脆く、一方でローカルな秩序がいかにこの地域で強固であったかを示す」。

 本書は、序論と4部、全12章、終章(結論[?])からなる。「序論」は序章、第1章「生き残り策から問い直す動乱」、第2章「混淆的な多民族社会」の3章からなる。第1章では「これまでの先行研究を検討」し、第2章では「本書の舞台であるソクチャン省フータン社という、混淆的な多民族社会について説明する」。

 第1部「国家の周縁から「余白」へ」は、第3章「紛争と移動-多民族社会の生成」、第4章「脱植民地化過程における言語・仏教・帰属」の2章からなる。第1部では、「一九世紀半ばまで国家の周縁部であったソクチャンという地域が植民地化と脱植民地化によって経験した変化を、フータン社に着目して検討する」。

 第2部「戦時下での生き残り」は、第5章「戦時国家による地域社会の再編」、第6章「二つの政治権力の狭間で」、第7章「戦時下における不可侵の秩序空間」の3章からなる。第2部では、「脱植民地化後に拡大していったベトナム戦争の下で、 国家による統治と、抗争し合う南ベトナム政府と南ベトナム解放民族戦線(略)の狭間に置かれた人々の生き残り策を論じる」。

 第3部「社会主義改造下での生き残り」は、第8章「社会主義改造による地域社会の再編」、第9章「社会主義改造下のローカルな秩序」、第10章「生き残り策としての越境」の3章からなる。第3部では、「終戦後、南北を統一した共産党政府による社会主義改造が、地域社会に与えた影響、そしてその統治への人々の反発が、国家の介入しにくい空間の拡大や国境線外への移動につながっていったことを論じる」。

 第4部「過去を踏まえて現在を生きる人々」は、第11章「二一世紀のクメール人越境者とベトナム国家」、第12章「混淆的な多民族社会における差異の認識」の2章からなる。第4部では、「現在の人々が過去に基づいて実践する日々の営みが、カンボジア、ベトナムの社会、国家との関係、また多民族社会のなかでの差異の認識に及ぼしている影響を論じる」。

 そして、終章「秩序が紡ぎ出される場としての「余白」」では、「フータン社というミクロな地域社会において、住民国家間の齟齬、軋轢、折衝の過程で展開された人々の生き残り策が、脱植民地化以降にベトナム南部で生じた動乱の拡大と収束とどのように関わっていたのかについて、第1章で示した論点に基づいて本書の見解を示す。この検討を通じて、メコンデルタの混淆的な多民族社会から国家の「余白」が浮かび上がり、ローカルな秩序が生成されてゆき、その歴史的過程の延長線上に現在があることを明らかにする」。

 その終章は、つぎの文章で閉じられている。「文字資料に残されやすい国家や宗教・政治組織のような対象の考察から演繹的に地域社会の過去を推察・議論するのではなく、民族誌的調査のなかで得られる個々人の一見不可解で断片的な過去の語りの意味を、過去と現在両方における、語り手を取り巻く文化や社会、政治状況との関係性のなかから丹念に探り出し、その関係性のなかで生じていた齟齬や軋轢、折衝の過程を検討してゆかなければならない。こうしたローカルな微視的な個別研究を積み重ねてゆくことではじめて、ナショナルかつグローバルな規模の見方のみでは決して可視化されなかった、人間の生活・生存に関わるあらゆる事象の変化やその相互作用が次第に明らかになり、対象とする地域の日常の領域における長期変動を捉える道筋が見えてくる。それは、かつて冷戦やナショナリズムといった包括的、統合的な枠組みで外部者によって解釈され、また国家権力によって意味付け強調された地域の政治的動乱を、もう一度その複雑性と向き合い、動乱以前と以後の連続性のなかで、その渦中にいたローカルな人々による多様な経験とその意味付けの世界から問い直していくことにつながる。秩序構築の場としての国家の「余白」に焦点を合わせ、秩序が再編され新たに紡ぎ出されてきた歴史の延長線上の世界として現在を位置付け直すことで、たとえば私達が今目の当たりしている分断や軋轢の背景を深く理解し、自身とまったく考えが異なっているように見える他者と交渉や調整をする糸口を、探ることができるようになるのではないか」。

 これまで国家中心に語られてきた歴史を、国家の「余白」から考察した結果、これまで気づかなかった人びとの「生き残り策」が見えてきた。国家を軸に考察したということは、利用できる国家があったということだろう。時代や社会によっては、利用するに値する国家が見当たらないこともある。人びとは国家から逃げるだけではなく、国家を利用するために近づくこともある。

 本書で批判した先行研究も本書も、外部の研究者からみた歴史であるが、国家の代弁者になったのか住民の代弁者になったのかの違いは、ひじょうに大きい。ローカルから語る視点は同じでも、現在、国家を超える地域を考えたとき、アセアンあり中国あり、多くのベトナム人が暮らすようになった日本などがある。過去と現在だけではなく、未来をも見据えていかなければならなくなった。

 丁寧にわかりやすく論述しているが、年表や略語一覧などがあると、もっと読みやすくなっただろう。


評者、早瀬晋三の最近の編著書
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』(龍溪書舎、2021年4月~)全30巻+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。