レオ・チン著、倉橋耕平監訳『反日-東アジアにおける感情の政治』人文書院、2021年8月10日、265頁、2700円+税、ISBN978-4-409-24137-0
「日本はなぜ恨まれるのか?」と、本書の帯で問いかけられている。つづけて、つぎのように本書を要約している。「近年アジアで繰り返された「反日デモ」を見るたびに、多くの日本人はこう感じたのではなかったか。「なぜいまだに我々は憎まれるのか?」と。本書はその要因を、戦後日本の脱植民地主義の失敗と、グローバル資本主義による東アジアの成長、そしてそれらの事態に対する日本社会の徹底的な無知にみる。台湾に生まれ、日本に育った著者が、東アジア全域をフィールドに日本への複雑な感情を多様な切り口で描き出し、対話と和解への道を探る」。
本書の目的を、著者は「日本語版への序文」で、つぎのように主張している。「この『反日』という本は、「日本」に対する命題でもなければ、「日本」を邪魔者から守るためのものでもない。東アジアにおける帝国日本の記憶に対する感情、感覚、その他の情動的態度の分析である。私の主な主張は、帝国日本の脱植民地化の失敗と近年のグローバル資本主義下での中国の台頭が、東アジア地域における反日・親日主義の高まりに寄与したということである。私がいわゆる大衆文化に注目したのは、それが公式の言説とは異なり、集団的な不安、欲望、空想が投影され、想像され、演じられる場所を構成していることに由来する。ナショナリズムの感情が噴出する権威主義的な体制への世界的な転回は、グローバル資本主義による絶え間ない剔出と評価によって引き起こされた、継続的な収奪と転位の結果だと言えるだろう。「家族」「国家」、そして「原初的共同体」、こうした古い頼みの綱が、自分たちがコントロールできない大きな力のなかで、個々の存在を意味あるものにしようともがく人たちにとっての精神的な拠り所となっている。歴史的な記憶や激しい感情は、しばしば争いが宣伝され、交渉され、抵抗され、止揚される舞台となる」。
本書は、日本語版への序文、まえがき、序章、全6章、エピローグ、訳者解題などからなり、「中国、韓国、台湾の三つの東アジアにおける反日主義(およびその構成的他者である親日主義)」をテーマに構成されている。その際、文化的表象に重点を置いて、「ポストコロニアリティpostcoloniality」と「センチメンタリティsentimentality」という概念を通じて検討を進める。植民地における独立運動によって帝国が滅んだフランスとイギリスとは異なり、帝国日本の瓦解は敗戦によってもたらされた。この特殊な帝国の終焉は、脱植民地化の失敗に寄与する二つの帰結をもたらした。第一に、二つの原爆投下とその後の占領は、日本人にとってアメリカ人の手によってもたらされた圧倒的な敗北であり、それは、中国人ではなくアメリカ人に負けたという認識をもたらした。第二に、東アジア地域において日本の帝国主義が及ぼした問題や脱植民地化の問題は、日本の敗戦と戦後の非武装化に取って代えられたとまでは言わないけれども、ひとまとめにされた」。
各章は、「序章 東アジアの反日主義(と親日主義)」の最後で、つぎのようにまとめられている。「第1章「ブルース・リーとゴジラが出会う時-帝国横断的キャラクター、反日主義、反米主義、脱植民地化の失敗」では、『ゴジラ』(1954)の象徴的な反米主義と、ブルース・リーの『怒りの鉄拳』(1974)の象徴的な反日主義が、戦後の東アジアにおける脱植民地化の失敗を特徴付ける欲望と幻想の二つの軸を構成していることを議論する」。
「第2章「「日本鬼子」-中国における反日主義の条件とその限界」では、現代の日中関係の一例を中国大衆文化における蔑称「日本鬼子」から分析する。私は日本鬼子の表現を四つの歴史的契機に位置づけている。中華思想的帝国の末期、帝国主義の最盛期、社会主義ナショナリズム、社会主義後のグローバリゼーションがその四つである」。
「第3章「恥辱の身体、身体の恥辱-韓国の「慰安婦」と反日主義」では、性的暴力に関する恥辱の感情にとりかかる。そこで私は、身体の比喩と恥の感情を通して「慰安婦」を描いたピョン・ヨンジュのドキュメンタリー三部作を分析する」。
「第4章「植民地時代へのノスタルジアまたはポストコロニアル時代の不安-「光復」と「敗北」のはざまにいるドーサン世代」では、「反日主義に関する他の章とは異なり」、「台湾のかつての被植民者によって示されるような、日本の植民地主義にたいするノスタルジーと親密性の感情を探る」。
「第5章「〝愛という名のもとに〟-批判的な地域主義とポスト東アジアの共生」では、私は、(略)戦後ポストコロニアル時代の東アジアにおける愛の四つの表現、または愛の政治的概念の具体化について説明する」。
「第6章「もう一つの和解-親密性、先住民族性、そして台湾的な異相」では、津島佑子の小説『あまりに野蛮な』(2008)とラハ・メボウのドキュメンタリー映画『サヨンを探して』(2010)を読解し、植民地時代のナラティブと、妥協と解決という国家中心の政治の両方を退かせる世代間の和解について議論する」。
そして、「エピローグ 反日主義から脱植民地デモクラシーへ-東アジアにおける若者の抗議運動」で、2014-15年にかけて東アジア各地で生起した「学生主導の大規模なデモ」を、「東アジア地域という枠組みから捉え直し、反日主義への代替案を提案」して、つぎのように主張している。「これらの運動は、政治的ビジョンや各国の状況が異なるにもかかわらず、アジア間の対話と活動に貢献できるような、国境を越えた地域的な政治的主導権を形成する可能性がある。第一に、三つの運動に共通する二つの特徴について述べたい。最初の特徴は、大衆文化の重要性である。大衆文化は、この地域での対話と相互参照関係のための共通文法を提供している。次の特徴は、若者の間に中国の台頭に対する懸念と不安定性の感覚が共有されていることである。第二に、戦後資本主義体制において、とりわけ日本における植民地問題を覆い隠している民主主義の共犯性を問い、そこに挑戦しなければ、運動がリベラリズムとナショナリズムの限界を超越超克することはできない、ということを私は主張する。要するに、反日主義から民主主義の脱植民地化への言説を転換させることが必要なのである」。
最後に、つぎのように述べて結論としている。「反日主義は、中国の台頭と帝国日本が残した未解決のままの帝国と植民地の遺産によって示される東アジアにおける構造的変化の兆候である。この帝国変遷の時期には、アメリカの覇権の衰退も含まれるが、しかしその圧倒的な軍事力とともにあるのだ。中国の野望を過小評価することはできないにせよ、日本がなすべきことは、東アジアの和解と未来に向けた対話を始めるために、脱帝国化のプロセスに真摯に取り組むことである。それは、反日・親日主義に向き合うことに他ならない」。
本書は、これまでの中国、韓国を中心とした「反日」にたいして、「親日」台湾を加えたことで、「東アジア全域」を論じている。しかし、その「東アジア」のなかに、1942-45年に帝国日本の占領・影響下にあった「東南アジア」は入っていない。エピローグで取りあげられた台湾、香港、日本の若者の抗議運動は、その後タイやミャンマーでも起こっている。「反日・親日」を語るとき、東南アジアを加えると、より現代の問題に向きあうことができるように思う。
評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
近刊:早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、412頁、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』(龍溪書舎、2021年4月~ )全30巻+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。