早瀬晋三書評ブログ2018年から

紀伊國屋書店「書評空間」https://booklog.kinokuniya.co.jp/archive/category/早瀬晋三に2005~15年に掲載された続きです。2015~18年に掲載されたものはseesaaブログshohyobloghayase.seesaa.net/ で閲覧できます。

2021年11月

広中一成『傀儡政権-日中戦争、対日協力政権史』角川新書、2019年12月10日、265頁、880円+税、ISBN978-4-04-082313-3

 「本書は二〇一三年七月に社会評論社より刊行された『ニセチャイナ 中国傀儡政権 満洲・蒙彊・冀東・臨時・維新・南京』を改題の上、再編集(第一章、第二章を割愛。コラムを割愛ないし統合)し、加筆修正したものです」。

 著者、広中一成は、「おわりに」で、つぎのように結論している。「日本の侵略に協力した漢奸や傀儡政権をただ批難することは簡単です。しかし、その「負のレッテル」を取り外し、できるだけ客観的にひとつひとつの事実を丹念にたどって評価することで、見過ごしていた真相が明らかになるのではないでしょうか」。

 だが、中国側の研究状況は「客観的に」考察する状況にない。著者は、「はじめに」で、中国、日本、欧米のそれぞれの研究状況をつぎのように説明している。「中国側ではやはり漢奸や傀儡政権は悪であるという前提で論じられているため、客観的分析に欠けている」。「これは戦争で被害を受けた立場であり、かつ現在の政治状況では、そのように評されてもやむを得ない事情があります」。「一方、日本側は、実証面では中国側に勝っていますが、特定の漢奸や傀儡政権に関心が集中し、全容をとらえるような研究が不足していました。欧米の研究は、二〇〇〇年代以降になって盛んになってきましたが、日中の研究の蓄積にはまだ及びません」。

 以上の研究状況を踏まえて、著者は2013年に「六つの主要な傀儡政権の興亡をまとめ」、さらに6年後「最新研究を踏まえながら加筆修正し、一般的にはあまり知られていない、中国本土といわれる万里の長城以南の傀儡政権に着目し、彼らの動向を探って」いる。「本書をとおして、漢奸たちとは何だったのか、彼らはなぜ傀儡政権を建てて日本に協力したのか、傀儡政権では何が行われていたのか、日本軍は漢奸と傀儡政権をどう操っていたのかという点を明らかにして」いる。

 本書は、はじめに、全4章、おわりに、などからなる。各章では、それぞれ「冀東防共自治政府(冀東政権)」「中華民国臨時政府(華北政務委員会)」「中華民国維新政府」「中華民国国民政府(汪兆銘政権)」が、議論されている。それぞれの章の冒頭に、地図、「中国傀儡政権地域別系統図」、存続期間、政権変遷、首都、指導者が示され、全体像をつかんだうえで、その成り立ちから時系列的に論じている。

 そして、「おわりに」で、結論の前に、つぎのようにまとめている。「漢奸も、そして彼らが作った傀儡政権も、結果として日本の中国侵略を助長し、日中戦争を長引かせた元凶であったことは言うまでもありません。密貿易を奨励して、国民政府の税収に被害を与え、日中関係だけでなく、欧米と日本との関係にも悪影響を及ぼした冀東政権や、「ホテル政府」と揶揄され、日本側の意のままに日系企業を興し、アヘン専売を許して日本軍に多額の利益を提供した維新政府。彼らの行為は、断罪されてもやむを得ないかも知れません」。

 「しかし、本書で明らかにしたとおり、漢奸のなかには、侵略者の日本とあえて手を組むことで、中国民衆を戦乱から救おうとし、戦争拡大を防ごうとした人物もいました。彼らは傀儡政権を作っても、いたずらに日本に従ったわけではなく、ときには日本側と対立しながら、諸問題を解決しようとしました」。「これらの事実は、漢奸や傀儡政権に相変わらず「負のレッテル」を貼り続けている限り、見えてこないのではないでしょうか。あるいは、見えていても見ようとしなかったのか」。

 日本占領下にあったのは、中国だけではない。「大東亜戦争」がはじまると、東南アジア各地も日本軍に占領され、ビルマやフィリピンで「傀儡政権」が成立した。しかし、そこには、日本に抵抗する人びとと日本に「協力」することで被害を最小限に抑える人びとの役割分担が生じた。一方的にどちらがより「愛国者」であったかを決めつけられない状況があった。結果論や現在の政治状況を超えるためには、「大東亜共栄圏」という地域からみることも必要である。


評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
近刊:早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年1月10日、412頁、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』(龍溪書舎、2021年4月~ )全30巻+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。

佐々木貴文著『近代日本の水産教育-「国境」に立つ漁業者の養成』北海道大学出版会、2018年2月28日、360+15頁、8000円+税、ISBN978-4-8329-6840-0

 本書は、小林多喜二著『蟹工船』(1929年)ではじまる。だが、富山県水産講習所同窓会誌『講友』に掲載されたものからは、「小林多喜二が世に知らしめた「地獄」」は感じられず、「長時間労働も意に介さず、誇らしげに工船蟹漁業に従事する若者の情熱がほとばしる文面となっている。私たちが想像する、「何千哩も離れた北の暗い海で、割れた硝子屑のやうに鋭い波と風に向つて死の戦ひを戦つてゐる」労働者の姿とは重ならない。職業教育を受けた、幹部もしくは幹部候補生として乗り組んでいたことがあるのだろう。もう一つの『蟹工船』物語が垣間みえる」。

 著者、佐々木貴文は、つづけてつぎのように問いかけている。「では彼らは、どのようにして遠洋漁業という国策漁業に身を投じ、将来の夢をそこにみようとしたのであろうか。また、そうした「立身出世」の階段を国家はいかに用意し、彼らを導き入れたのであろうか。水産教育機関は彼らの学ぼうとする意欲をどのようにしてすくい取ったのであろうか」。

 著者は、序章で「先行研究の整理」をおこない、とりわけ重要と思われるつぎの3つの課題を見出し、指摘している。「第一に、初等後水産教育に関する検討は、いまだおおよその全体像を俯瞰しようとする段階にあり、堅実な事例研究の蓄積が必要となっていることを指摘したい」。「第二は、水産教育制度の展開や、水産教育機関の活動の根拠となる法令・法文が明示されていないため、少なくない箇所で歴史的事実の認定に不確定要素を含んでいることを指摘したい」。「第三に、漁船の動力化とそれによる漁場の外延的拡大、さらには農商務省の遠洋漁業奨励策を、水産教育機関の拡充背景に位置づけたものの、実際に連関関係にあったと判断できる根拠や資史料を示していないことを指摘したい」。

 以上の整理をふまえて、著者は本書の課題をつぎのようにまとめている。「近代日本の水産教育の制度化過程における農商務省管轄下の官立および府県水産講習所の位置と役割に注目し、これらの形成過程を体系的に分析することを試み、日本の水産教育がもつ歴史的に刻印された構造的特質の一端を明らかにすることにある」。「分析する期間は、一八八二(明治一五)年の大日本水産会の誕生から、一九四一(昭和一六)年の富山県水産講習所の廃止までとする」。この期間は、「漁業の近代化を進めようとする農商務省がわが国の水産教育に関与しはじめる頃から、農商務省管轄下の水産教育が終焉をむかえようとする頃までと言いかえることができる」。

 本書で、「近代日本の水産教育機関のうち、農商務省管轄下の官立水産講習所と府県水産講習所に限定」して考察を加えた理由は、つぎの3つだった。「一つは、先行研究を批判する過程で述べたように、府県水産講習所に関する分析がほとんどおこなわれていないことがある」。「もう一つの理由は、近代日本における農商務省の役割にある。近代日本において農商務省は、水産政策の策定から実施までを一手に担う現業官庁であった」。「そして、最後の理由は、官立水産講習所と府県水産講習所の成立が、文部省管轄下にあった水産教育機関の成立と比較しても、けっして遅れてはいなかったことがある」。

 本書は、この序章、全6章、終章、あとがき、などからなる。各章は、序章の終わりで、つぎのようにまとめられている。「第一章 官立水産講習所と府県水産講習所の誕生」では、「官立水産講習所ならびに府県水産講習所制度が創出される過程を、大日本水産会が果たした役割に注目しながら考察する」。「第二章 農商務省の遠洋漁業奨励策と遠洋漁業従事者養成」では、「農商務省の遠洋漁業奨励策の策定と、確立したこの奨励策が近代日本の水産教育制度に及ぼした影響を、遠洋漁業練習生制度ならびに漁猟職員資格制度の創出から検討する」。「第三章 官立水産講習所における遠洋漁業従事者と府県水産講習所「教員」の養成」では、「官立水産講習所の活動と「遠洋漁業奨励法」とのかかわりを明らかにするため、官立水産講習所に設置された本科漁撈科、遠洋漁業科、現業科のそれぞれの教育課程や実習内容に注目する」。

 「第四章から第六章までは、府県水産講習所の教育実態を三つの事例から明らかにする」。「第四章 資格者養成機能を保持し続けた長崎県の水産教育」では、「北海道漁場に次いで開発への高い期待があったとされている朝鮮海域を目の前とした長崎県水産講習所の事例を分析する」。「第五章 「特異な教育機関」に発展した千葉県の府県水産講習所」では、「勝浦水産補習学校や鴨川水産補習学校を設置して、初等教育後の水産教育の普及に努めた千葉県に設立された千葉県水産講習所の事例を取りあげる」。「第六章 蟹工船を「学び舎」とした富山県水産講習所」では、「府県水産講習所三事例のなかで、唯一府県水産試験場を母体にもたない富山県水産講習所についてみる」。

 「終章 遠洋漁業型水産教育の確立」では、分析の結果についてつぎの3つの点から論じ、「日本の水産教育がもつ歴史的に刻印された構造的特質を明らかに」している。「第一に、先行研究において水産教育機関として評価がなされてこなかったばかりか、ほとんど研究の対象にもなっていなかった農商務省管轄の府県水産講習所が、文部省管轄下の水産教育に従属しそれを補完するといった消極的な存在ではなく、水産教育の一翼を担って活動していた事実を明らかにした」。「第二に、官立および府県水産講習所は、「遠洋漁業奨励法」により創出された漁猟職員資格の付与機能を保持するなかで、農商務省の遠洋漁業奨励策と親和性を有するようになっていった事実を明らかにした」。「第三に、官立および府県水産講習所の教育活動の特質といえる遠洋漁業奨励策との親和性、ならびに資格付与機能との一体性は、日露戦争を契機として確立した事実を明らかにした」。

 そして、つぎのように終章を結んでいる。「結果的に、国家の主導する遠洋漁業奨励策に対応した遠洋漁業型水産教育の確立により、わが国においては、戦前戦後との間で高い再現性と連続性をもって船舶職員養成機能が水産教育機関に根付き、遠洋漁業開発への追従が水産教育の必然となった」。「つまり、政府の遠洋漁業奨励策に組み込まれ、遠洋漁業型水産教育へと傾斜していったわが国の制度化された水産教育は、漁業権益と漁場の拡大を背景として外発的な「発展」をとげ、内発的な発展形態といえる沿岸漁業振興や零細漁業者支援の視点を、国家政策に追従するなかで軽視し続けてきたといえる」。

 「あとがき」では、戦後、さらに尖閣諸島をめぐる問題などをとりあげて、「国策と漁業」、「領土と漁業」、「国境と漁業」など漁業と国家に収斂する問題を考え、最後にいまの「水産教育」について、つぎのように意見を述べている。「こうした現実があるなか水産教育は、漁業者に専門的な知識や技能を教授することだけをその役割とするのではなく、今こそ、漁業者がしたたかに、国家の意思という大きな波を自在に乗りこなすための羅針盤となる必要がある。また同時に、人々に広く漁業のあり方や本質を問うことができる教育分野として昇華していかなければならない。私は、漁業に「共生の海」を保障するには、専門教育としての水産教育に加え、普通教育としての水産教育が不可欠になっていると信じて疑わない。私が、希求する水産教育は、山積する課題を克服したあとにたどり着く、共生の大海原にある」。

 国家と「共生の海」とは、共存できないのだろうか。日本の近代漁業が国策と絡んでいたことが、本書からもよくわかった。水産教育を受けていた者の待遇が、あまりにいいことにも驚いた。それでも、志願者はけっして多くなかった。「蟹工船」の従事者の待遇のひどさとも結びつかない。歴史的にも今日も多額の補助金が、漁業には支払われている。今後を見据えた日本の「水産教育」「漁業者養成」を見直さなければならないことは、著者だけではなく、漁業の現状を多少知っている者はだれでも気づいているはずだ。

 本書が出版された当時、著者が所属していた鹿児島大学水産学部キャンパスの隣の「官舎」に住んでいたことがある者として、最後にいまの「水産教育」を語らずにおられなかったことが、なんとなくわかる。


評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
近刊:早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年1月10日、412頁、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』(龍溪書舎、2021年4月~ )全30巻+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。

早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年1月10日、412頁、ISBN978-4-409-51091-9

 カバーの装丁案が届いた。カバー写真のキャプションを「慰安婦像が撤去されたマニラ湾岸近くにあり、庶民から絶大なる信仰を集めるバクララン教会にある壁画の一部(2019年4月筆者撮影)」とした。フィリピン庶民の密やかだが、激しい怒りが日本人読者に届くことを願う http://www.jimbunshoin.co.jp/book/b592370.html 。

 本書の「あとがき」は、「結」を書き終えた後、つまり第1草稿ができたときに書いた。それから数ヶ月間、出版社の編集者と二人三脚で完成度を高めていった。そして、カバー写真のキャプションを書いて、わたしの作業は終わった。このブログが、ほんとうの意味での「あとがき」になる。

 本書が出版できたのは、3つのおもな要因による。ひとつは2019年2月から1年間の最初で最後のサバティカル休暇、もうひとつはコロナ禍の自粛、3つ目が早稲田大学アジア太平洋研究センターの出版助成である。

 サバティカル休暇を利用して、フィリピンに入ったり出たりしたが通算3ヶ月ほど滞在することができた。毎日現地の新聞を読み、マニラの下町を歩き、博物館を観てまわった。日本での机上の学問ではけっして得られない日々を送ることができた。1989年に『「ベンゲット移民」の虚像と実像』(同文舘)を出版して以来、はじめてバギオを訪れる機会もあった。客員教授として受け入れてくれたデ・ラ・サール大学の教員・大学院生といっしょだったことが、日系人とは違うフィリピン人の「普通」の感覚を教えてくれた。ダバオは、国際学会の冒頭スピーチに招かれて、21世紀になってはじめて訪れた。1980年代に調査した墓地などを再訪し、旧知の人びとにも会うことができた。博物館を訪ね、バギオ同様、ダバオでも日系人のあいだで虚像が信じられ、地域社会となじんでいないことが確認できた。

 このようなサバティカル休暇の成果は、コロナ禍のなかでまとめることができた。4月に大学が閉鎖され、4月からの授業は6月からの夏クオーターに延ばした。2ヶ月もすればおさまり、対面授業ができるのではないかと楽観視していた。大学も自宅マンションも、エレベーターに乗るのが恐かった。

 幸い、わたしは『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』(めこん)の出版が決まり、暇をもてあますことはなかったが、都心の繁華街にある自宅には机はなく、6月からのオンライン授業は研究室でせざるを得なかった。おそるおそる出るようになった研究室には、2013年に大阪から東京に移ったときに整理できなかったものがあるだけでなく、1993年に鹿児島から大阪に移ったときのままのものもあった。第3章のバギオやダバオのことを書くために「ひっくり返して」みると、1980年代に集めた資料が出てきた。『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム』が2019年7月に出版されると、「ひっくり返して」出てきた資料が気になりだし、本書第2章第2節になる「戦記を糾す試み」が書けるような気がしてきた。数年後の定年後に書く予定にしていたものが、海外調査などができないために繰り上がった。

 「戦記を糺す試み」を書き終えたころ、『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム』で得た早稲田大学アジア研究センターの出版助成に余裕があり、「もう1冊どうですか」と冗談(だと思う)を言われた。とんでもない、と思ったが、「戦記を糾す試み」を書いて、この10年ほどのあいだに書いたものをまとめると1冊になる可能性があることに気づいた。わたしは、出版社の編集者に恵まれ、これまでに単著単行本11冊を出版していた。そのため、助成金がなくても出版できるとみなされ、助成金が取りにくくなっていた。現実に増刷りできたものは2冊だけで、数百部しか売れないことはよくわかっていた。助成金が得られれば出版できるのではないかと思ったが、昨今論文集の出版は厳しく、最初に打診した出版社の編集者には、助成金のことを言わなかったこともあってか、断られた。はじめから1冊にして出版することを目的としたものではなかったので、「論文集」を超えるためには「序」と「結」をしっかり書き、論文間のつながりを明確にする必要があることに気づかされた。そして、整理していくうちに、本書はたんなる「論文集」ではなく、1冊のまとまりのある専門書になることを確信した。おかげで、大きく書き直す羽目になった。

 第1章第1節は、朝日新聞大阪本社で「再発見」した戦中・戦前に東南アジアで撮られた5000葉ほどの写真を分析するために、東南アジア各地で発行された新聞の全体像を把握しようとした論文にもとづいている。その1紙である『ボルネオ新聞』復刻の機会を得て書いた解題が、第2節のもとになった。そこには、「大本営発表をさらに粉飾した」ねじ曲げられた報道の実態があった。

 第2章は、「戦記もの」の量的調査と質的調査の両方にもとづいている。「戦記もの」が描かれた背景のひとつに、公刊された「戦史叢書」や人気作家による戦記によってねじ曲げられた歴史を糾そうとする、戦場体験者の切実な想いがあった。

 第3章の日系人の虚像の背景には、1930年代に皇民化教育を受けた日系二世の日本人としての誇りがあった。戦後の激しい反日社会のなかで隠れて暮らさねばならなかった日系人が、1970-80年代の日比交流の深まりのなかで表に出てくるようになり、戦前の日本人社会を思い出させ、日本本土からやってきた日本人が持ちこんだ日本人優位の「虚像」を無意識に受け入れていった。さらに、日系人は日本で就労できる機会を与えられ、フィリピン社会から遊離していった。

 第4章は、『戦争の記憶を歩く 東南アジアのいま』(岩波書店、2007年)出版後、その後の変化の追跡と補足調査をつづけた成果と、2016年の天皇・皇后のフィリピン訪問にさいして研究室に取材に訪れた報道関係者にたいして充分にこたえられなかったことへの遅まきながらのこたえである。ともに、ねじ曲げられた歴史を糾す試みに逆行することを示すことになったが、それは結果論であって、その意図することはずいぶん違っていた。

 第2章第1節で質的研究の事例として登場した雲南・ビルマ戦線の丸山豊は、緒戦において収容されていたダバオ在住日本人の解放者であり、ボルネオ、ジャワを占領した日本兵のひとりであった。第2節の佐藤喜徳は、戦後頻繁にバギオを訪れ、バギオの日系人や慰霊活動を客観的にみていた。初出の個々の論文を超えるつながりを、本書の随所で章を超えてみることができる。

 ここで忘れてはならないのは、世論が反日にならないように心がけたフィリピン人研究者や政治家がいたことである。そこには、経済大国日本に期待・遠慮しただけではないものがある。だが、慰安婦像を「強制的に」移動させられたりすると、静かな怒りが湧いてくるのは自然のなりゆきである。表紙の写真から、フィリピン庶民の密やかだが、激しい怒りが、日本人読者に伝わることを願っている。一度点いた火を、消すのは容易いことではない。

 これで、解放される。出版されるまで、いつも頭の片隅に「加筆・訂正」があり、心おさまるときがない。だが、解放された瞬間、大きな間違いに気づくこともある。Wikipediaでも間違っていたので、点検してくれた出版社の編集者も校閲者も気づかなかったこともある。増刷りされる機会がないと、間違いは間違いのまま残っている。本書では、そのようなことがないことを願っている。もしあったとして、増刷りで訂正の機会が与えられることを願っている。

 数ヶ月間にわたって、出版の準備を進めていくことはきつい。それも、2年連続となると、消耗が激しい。はじめ、既発表論文をそのまま論文集として出版する手抜きを考えた。楽なのはたしかだが、それでは発展も進歩もない。


評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
近刊:早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年1月10日、412頁、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』(龍溪書舎、2021年4月~ )全30巻+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。

ニコ・ベズニエ、スーザン・ブロウネル、トーマス・F・カーター著、川島浩平、石井昌幸、窪田暁、松岡秀明訳『スポーツ人類学-グローバリゼーションと身体』共和国、2020年9月20日、473頁、4500円+税、ISBN978-4-907986-65-0

 本書が出版された前々月の2020年7月、拙著『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』(めこん)が出版された。本書を参考文献にできていれば、拙著でもうすこし「厚味」のある議論ができていたかもしれない。本書で網羅的と言っていいほど取りあげられたスポーツにまつわる数々のことが、拙著でも取りあげられていたからである。しかし、本書で「網羅的」に取りあげられたなかに、拙著で取りあげた「東南アジア」にかんするものはほとんどないし、拙著の視点である「海域世界」や「地域としてのスポーツ」はない。本書の執筆者・訳者が拙著を読んでいれば、さらに「網羅的」になっただろうし、「訳者あとがき」もすこし違ったものになっていたかもしれない。

 「本書は、学問としての後発性がもたらす不利や不足を埋め合わせるべく、オランダ、アメリカ合衆国(略)、イギリスを研究の拠点とする三者が満を持して書き上げたスポーツ人類学の概説書である」。「日本語版への序文」では、2018年にカルフォルニア大学出版局から出版された本書の英語版を書いた理由を、つぎのように述べている。「スポーツの研究が現代の人類学と人々の生活の主だった関心に多大な貢献をすると感じたからである。人類学者はいまやあらゆる形態のスポーツに関心をもっている。それは、スポーツが二十一世紀の人々の生活で重要な役割を果たし、また現代世界の中心的な問題に示唆を与えているからである」。

 このことは、「エピローグ 人類学にとってのスポーツ」で、さらに詳しくつぎのように説明されている。「我々は本書で、単に社会や文化におけるスポーツの位置づけについてのみ描くことを目指したわけではなかった。つまり、人類学の概念や方法がスポーツにまつわるトピックにいかに適用可能かを探ろうとしたわけではなかった。そうしたありきたりな仕事は繰り返し試みられてきたが、まとまりのある結果がもたらしてはこなかった。我々がそれをありきたりと呼ぶのは、結局のところ、そうした研究は少数の社会科学者の関心しか集めないからである。本書はむしろ、人類学にとってのスポーツについて書かれたもので、スポーツというレンズを通してどのような幅広い問いを投げかけることができるのかを示したものである。スポーツは、社会や文化、そして政治の仕組みについてなにを教えてくれるだろうか。また、スポーツはそのなかに埋め込まれている社会的・経済的関係や政治的なプロセス、そして象徴構造を理解するのにいかに役立つのだろうか。この問いはとくに的を射ている。なぜなら過去三十年間にわたって、身体、ナショナリズム、近代性、グローバリゼーション、トランスナショナリズム、国家、市民権、ジェンダー、セクシュアリティなどのトピックが人類学の理論において中心的な役割を果たしてきたからである。これらのトピックは偶然にもスポーツの根本的な側面でもあるので、スポーツを人類学における現代的関心の中心に位置づけることになるのである」。「人類学」を「海域世界」や「東南アジア地域研究」に置き換えると、拙著がめざしたものになる。

 そして、つぎのパラグラフで、「エピローグ」を結んでいる。「まさにいま、スポーツの人類学は人類学の亜領域としての本領を発揮しつつある。人類の壮大な歴史についてのこの手短な概説は、スポーツが世界中で時空を超えて社会生活の中心であったことを示してきた。そして、近代スポーツは、近代という時代の産物であるばかりでなく、近代という時代を創り出す助けとなったのである。我々が暮らすこの困難な世界をより良く理解するのにスポーツが貢献するのだ、ということの魅惑的な民族誌的証拠と創造的な理論的洞察の一端を本書が提示できたなら幸いである」。

 本書で、まず議論しなければならなかったのは、「序章」の見出しになっている「スポーツの概念」と「人類学のなかのスポーツ」だった。

 まず、「スポーツの概念」については、つぎのようにまとめている。「我々は一般的に、スポーツの非常に広い定義を採って、何がそれを他の日常的な活動から分かつのか、それは当該の土地でどのように特徴づけられているのか、それは他の人々にはどのように理解されているのか、それは国際的に「スポーツ」と認識されているメインストリームの活動に対して、どのような位置を占めているのかなどの点に特に注意を払う」。

 つぎに、「人類学のなかのスポーツ」については、つぎのように考えをまとめている。「我々は、人類学的なアプローチがスポーツに独自の光を当て、またスポーツに焦点を当てることが人類学における斬新なアイデアに貢献すると考えている。だから我々は本書を、一方でスポーツ人類学というフィールドの情況を批判的に評価することと、もう一方で将来の探求に向けたプログラムのアウトラインを描くこととの間を行き来するものと考えているのである」。

 本書は、日本語版への序文、序章、全8章、エピローグ、註、謝辞、訳者あとがき、などからなる。「第一章 スポーツ、人類学、歴史」で「スポーツが人類学者の関心をひいた例の概観」をした後、各章で取りあげた「多種多様なテーマやトピック」をつぎのように要約している。

 「第二章 スポーツ、植民地主義、帝国主義」では、「ポストコロニアル研究および植民地主義に対する人類学的批判というレンズを通してスポーツを分析する」。「第三章 スポーツ、健康、環境」では、「スポーツと、健康と、医学との関係を、科学とテクノロジーについての批判的研究からの視点を応用して検討する」。

 「第四章 スポーツ、階級、人種、エスニシティ」では、「ピエール・ブルデューの実践理論を解明するためのとりわけ豊かなフィールドとしてスポーツを用いる」。「第五章 スポーツ、セックス、ジェンダー、セクシュアリティ」では、「セックス、ジェンダー、セクシャリティに対するフェミニスト的批判と人類学的批判にとってのスポーツの価値を例示し、そうしたものすべてが文化的に構築されたものであることを明らかにする」。

 「第六章 スポーツ、文化パフォーマンス、メガイベント」では、「すでに短く論じた一九七〇年代および八〇年代の儀礼理論に戻って、そうした理論のなかで、もはや失効していると考えられる諸側面を確認しながら、一方で、今日でも価値がある諸側面についても検討する」。

 「第七章 スポーツ、ネーション、ナショナリズム」では、「ナショナリズムの諸理論にスポーツがあてはまるさまざまな例をあげていく」。「第八章 世界システムにおけるスポーツ」では、「国際スポーツおよびオリンピック・スポーツを一つの世界システムとして分析し、スポーツがグローバリゼーションの多様な側面に対する、増加しつつある批判的アプローチのなかで考察される価値があることを示す」。

 そして、「第一章」を、つぎのパラグラフで結んでいる。「スポーツを人類学の理論の中心に置くことによって、次のことが明らかとなる。それは、個々の理論的アプローチは我々の世界の限られた一側面しか説明しないかもしれないが、それらの理論を全体として捉えることで、過去数十年間に我々が手にしていたものよりも、より完成度の高い説明の枠組みへと収斂しはじめるということである」。

 本書は、1998年に設立された日本スポーツ人類学会創立20周年の節目に出版された原著を俎上に、著者のひとりを招いてシンポジウムを開催し、翻訳作業を進めた成果である。世界的にも新しい学問で、74年に遊戯人類学会が結成されたのが人類学におけるスポーツ研究のはじまりだという。85年に出版された『スポーツ人類学入門』につづき、本書が出版されたことで、個々の事例研究が今後進むことだろう。


評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
近刊:早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年1月10日、412頁、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』(龍溪書舎、2021年4月~ )全30巻+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。

濱田武士『魚と日本人-食と職の経済学』岩波新書、2016年10月20日、230頁、820円+税、ISBN978-4-00-431623-7

 「序章」の見出しの「まちから魚屋が消えた」「魚食と魚職」「「魚食」の背後で何が起こっているのか」「なぜ縮小していくのか?」から本書の問題がわかり、最後の見出し「再生への道筋を考えるために」で本書の目的がわかる。

 本書の概要は、表紙見返しで、つぎのようにまとめられている。「漁師、卸、仲買人、鮮魚店、板前など多くの「職人」によって支えられている日本独自の魚食文化。しかし、魚の消費量が減り、流通のあり方も変わってきている。日本各地の漁港や市場を歩いて調査を重ねてきた著者が、現場の新たな模索とともに魚食と魚職の関係を再考し、「食べる人」の未来に向けてのかかわり方も提言する」。

 本書は、序章、全5章、終章などからなる。各章は、「食べる人たち」にはじまり、「生活者に売る人たち」「消費地で卸す人たち」「産地でさばく人たち」を経て、「漁る人たち」に至る。

 そして、「終章」の「市場経済が深まっていくなかで」、「日本漁業が対処すべき政策課題」をつぎの2つに収斂されるとしている。「ひとつめは、「漁場の再生」である。その根拠は、遠洋漁船は外国水域の漁場から締め出され、近海漁業は、日本周辺水域に広がるグレーゾーンに迫ってくる隣国の漁船に圧倒され、沿岸漁業は、地域開発により漁場がかなり傷んでいるからだとした」。「ふたつめは、「魚を取り扱う人たちのネットワーク」を再生する、ということである。換言すると、魚を食べる人、魚を取り扱う人、魚を獲る人の関係を良好にしていくことである。とくに卸売市場が大切であることも付け加えた」と述べている。

 最後に、「魚食と魚職の復権への道筋について考え」、つぎのような結論に達した。「食が職を支えている。この事実こそが大切なのだ」。「人が人を頼りにする、人が人を大切にする、人が人に敬意を払う、そして自然からの恵みをうまく廻し、活用する。魚食には、こうした連鎖が大切なのである」。

 さらに視野を広げて、つぎのように述べて、「終章」を閉じている。「資本主義経済である以上、経済成長のために生産性を向上させようという力が働く。これは資本主義の性であり、致し方がない。しかし、効率化に囚われすぎて、支えあうという本来の「強み」がそぎ落とされた日本経済は豊かと言えるのであろうか」。「筆者は魚食と魚職にこそ、日本経済を豊かにするヒントがあると思う。だから、「魚食」も「魚職」も朽ちさせてはならない。各地で盛んにおこなわれているすばらしい「魚食普及」を「魚食普及」で終わらせず、「魚食不朽」につなげて欲しい。そして、小さくてもいいから、食と職の経済を育てて欲しい」。

 「各地の港や市場を歩く」著者だからの視点で書かれているから、「絶望的な状況」のなかで希望を見出そうとしている。だが、縮小していく市場、細っていく魚食から、明るい未来はみえず、消費拡大を訴えるしかないという結論になっている。食料自給を含め、日本の食そのものを、戦略的に議論するときになっている。なし崩し的に「補助金」で一時しのぎする状況では、もはやないだろう。


評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
近刊:早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年、412頁、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』(龍溪書舎、2021年4月~ )全30巻+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。

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