早瀬晋三書評ブログ2018年から

紀伊國屋書店「書評空間」https://booklog.kinokuniya.co.jp/archive/category/早瀬晋三に2005~15年に掲載された続きです。2015~18年に掲載されたものはseesaaブログshohyobloghayase.seesaa.net/ で閲覧できます。

2021年12月

藤原辰史『分解の哲学-腐敗と発酵をめぐる思考』青土社、2019年7月10日、341+iv頁、2400円+税、ISBN978-4-7917-7172-1

 出版社の編集者が本書のタイトルに「哲学」を掲げることにこだわった理由は、読めばわかる。だが、著者、藤原辰史がためらったのは、「歴史」研究者としてだけでなく、身近な日常生活から考察を深めていくスタイルが、「哲学」という仰々しさにふさわしくないと考えたからではないだろうか。

 本書も「序章 生じつつ壊れる」は「掃除のおじさん」にはじまり、各章も身近な日常が描かれている。著者が住んでいた公共住宅の掃除のおじさんの行為(「ゴミ捨て場にたまったゴミを整理し、収集車が来るときにはゴミの溜まったコンテナを道路に整然と並べる。ゴミの整理がひととおり終わると、掃除用具と水の入った大きな焼酎ボトルと携帯ラジオを台車に載せて、各階の共用通路を掃除する」など)を、著者は「二重の意味で、ものの延命と呼べる」と述べ、つぎのように説明している。

 「第一に、建物のメンテナンスをしたこと。掃除のおじさんがいなければ、建築業者の手を離れたあと、建物はもっと速度を上げて朽ち果てていくはずだ。そのはずのコンクリートの塊を、毎日洗い清めるものだから、痛みや汚れが出にくくなる。日々の手入れによって、無機的な素材の住宅を延命させるのが、掃除のおじさんの仕事であった」。「第二に、ゴミを子どもたちのおもちゃや掃除用具に変えたこと。つまり、掃除のおじさんは、ゴミとなって社会的価値を剥奪されたものをふたたび社会的価値のあるものに組み立て直し、その延命を成し遂げたのである」。

 「本書の目的は、公共住宅の住人たちを魅了して止まなかった掃除のおじさんと彼のふるまいを、これまで先人たちが紡いできた思考と行動してきた歴史のなかに置き直し、普遍化することにほかならない」。

 本書は、雑誌『現代思想』に連載されたものなどを書き直したもので、序章、全6章、終章などからなる。序章の最後で、簡略につぎのように紹介している。まずは、「怪物じみた存在を分解と再生を繰り返すものとしてもっとも戯画的に描写した」「ネグリとハートの議論を参照にしつつ、新品文化に潜む脆さのありかを探り(第1章「<帝国>の形態-ネグリとハートの「腐敗」概念について」)、分解論の基本モデルとして積み木遊びと幼稚園を論じたあと(第2章「積み木の哲学-フレーベルの幼稚園について」)、カレル・チャペックの作品群(第3章「人類の臨界-チャペックの未来小説について」)、屑を拾う人びとの社会とその歴史(第4章「屑拾いのマリア-法とくらしのはざまで」)、生態学史のなかの「分解者」(第5章「葬送の賑わい-生態学史のなかの「分解者」」)、そして修理と修繕の世界のダイナミズム(第6章「修理の美学-つくろう、ほどく、ほどこす」)を分解の観点から考えていきたい」。

 終章「分解の饗宴」では、「1 装置を発酵させる」「2 食現象の拡張的考察」を論じたあと、「3 食い殺すことの祝祭」で「一連の「分解の哲学」は、これまで築かれてきた思考世界のなかにどう位置付けられるのだろうか」と問い、つぎの3つを「申し添えて」いる。「第一に、人種主義を経由しない食を通じた人間と非人間の関係の統合的分析」「第二に、生と死という二項対立から漏れ出る生物および非生物の形態の分析」「第三に、第二と関連して、近代的時間を相対化する時間を前提にした歴史叙述」。

 そして、つぎのパラグラフで、終章を閉じている。「最高の美を求めて腐敗する妻を描いた中国の絵描きにはなれなくても、あるいは、みずから森を肥やすべく川を遡る鮭になれなくても、さまざまな存在が死者を食べ尽くす壮大な死の祝祭に、私たちはいつでも参加できる。残酷である、と目を覆ったその手をもう一度振り払い、装置のもたらす残虐さと分解のもたらす徹底さの違いを見極めることが、分解の世界の担い手となる第一歩になるだろう」。

 「思想や哲学の本を読むのは結構好きで、史料分析に疲れると手に取っている」著者とは真逆のわたしは、思想や哲学の本を読むのは長続きせず、すぐに史料分析に遁れる。「おもちゃに変身するゴミ、土に還るロボット、葬送されるクジラ、目に見えない微生物……」を論じることができるのも、「安易に廃墟と再生を結びつけるような議論」ができそうな温帯の定着農耕民社会の研究蓄積があるからだろう。これが、流動性が激しすぎて「腐敗と発酵」する時間も意味もなく消え去っていく蓄積のない熱帯の海域社会の日常になるとどうなるか。「哲学」など生まれないのか、ふと、そんなことを考えた。


評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
近刊:早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年1月20日、412頁、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』(龍溪書舎、2021年4月~ )全30巻+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。

キン・ソック著、石澤良昭訳『カンボジア近世史-カンボジア・シャム・ベトナム民族関係史(1775-1860年)』めこん、2019年7月20日、457頁、5000円+税、ISBN978-4-8396-0315-1

 1431年のアンコール都城陥落後のカンボジア史は、内紛とシャム、ベトナム両国の浸蝕で領土が縮小し、1863年のフランスによる保護国化前はシャム、ベトナム両国の植民地状態であった、という概略しか、日本語文献ではわからなかった。本書によって、はじめて日本語でカンボジアの「暗黒時代」の一端がわかるようになった。まさに画期的なポスト・アンコール史である。

 しかし、これまで語られなかったのは、カンボジアの国内情勢や史料の欠如・偏りがもちろんあっただろうが、なによりカンボジア人自身が、誇りをもつことができない歴史であったからであろう。自己崩壊していく国のことも民のこともも考えない王族間の醜い争い、それを利用して介入し凄惨なカンボジア人の殺戮を繰り返したシャムとベトナム、副題にある「カンボジア・シャム・ベトナム民族関係史(1775-1860年)」は、カンボジアにとって屈辱の歴史であった。

 本書「まえがき」は、「現在のベトナム南部とタイ東北部地方はかつてカンボジア王国領であった」ではじまる。しかし、この事実は、カンボジアの学校教育でも教えられなかった。その歴史に挑戦した著者らについて、つぎのように説明している。「クメール人歴史研究者マック・プン博士と私は『王朝年代記』と史実を付き合わせ、史料批判をする作業にとりかかり、1417年から1595年までの『王朝年代記』については、1975年に完了した。この史料校訂作業からは、『王朝年代記』の年代と日付が、年代記の書記官たちが手を加えたものではないということが判明した。さらにイスパニア人およびポルトガル人などによる旅行記等は、基本的に『王朝年代記』に記された歴史展開を裏付けるものであったことがわかった。本書の出版は、その史料校訂作業を終えた延長線上」にある。

 本書の目的は、以下の2点である。「(1)カンボジアの『王朝年代記』そのものが、信頼できる史実であるかどうかを考察していく。実際の校訂作業としては、外国人たち(商人・軍人・宣教師・フランス人・シャム人・ベトナム人)が残した膨大な史料と記録があり、それらと『王朝年代記』を照合し、比較検討する」。

 「(2)18世紀と19世紀のポスト・アンコール王朝は、どのような経緯で国土の大半を失うことになったかを詳解し、フランスとカンボジアの出会いの経緯を述べていく。そして、カンボジア社会が抱え持つ独特な民族論理を解きあかすことにより、なぜそうした歴史展開をたどったのかを解明し、その歴史がどのように繰り広げられたのかを見ていく」。

 そして、著者自身が「ここに提示した研究成果そのものだけではおそらく十分とは言えないであろう。ひとつひとつの事件や問題について、史料においてその史実を確認していくことになる。これは当然なすべきことである」と認めている。だが、つづけて絶望的なことが、つぎのように書かれている。「カンボジアの政変[1975年のポル・ポト政権の登場]によって、プノンペンにある仏教研究所図書館の膨大な原典史料がすべて消えてしまった」。

 著者がマック・プン博士とともに校訂したことで、「これまでのポスト・アンコールの歴史の年代が確定し、間違いだらけの中世・近世史が正しく校訂された」。カンボジア史研究だけでなく、「東南アジア史研究にとって、何よりの成果である」。

 だが、著者がいうように「本書が導き出した結論には、議論の余地がある可能性があり」、2011年に逝去された著者の後を継ぐ者が出てくる必要がある。日本でも、詳細な解題が書けるカンボジア近世史を専門とする者が出てくる必要があるし、同時にシャム史やベトナム史からみた解題も必要だろう。そうすることで、地域としての東南アジアの歴史、とくに大陸部の歴史を背景とした今日の問題を考えることができるようになる。たとえば、ベトナム史の一部としてナショナル・ヒストリーに組み込まれている南部は、その住民のアイデンティティが北部の者とは違うことを前提に考察しなければならなくなる。


評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
近刊:早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年1月20日、412頁、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』(龍溪書舎、2021年4月~ )全30巻+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。

石澤良昭『アンコール王朝興亡史』NHK出版、2021年10月25日、301頁、1700円+税、ISBN978-4-14-091271-3

 本書は、「世界的なアンコール学研究者の六〇年近い研究の総決算」である。2005年に出版された『アンコール・王たちの物語~碑文・発掘成果から読み解く』(NHKブックス)に、「発掘成果、最新の碑文解読や建築学、美術図像学の研究の成果による新たな史料を校訂し、遺跡の保存修復中に見出した伝統技法の新発見などを加え、大幅に加筆、改訂」したものである。

 600年におよぶ26代の王位簒奪と寺院造営の歴史の大まかな全体像がわかったことは、冒頭の「アンコール王朝と寺院遺跡の造営一覧表」からわかる。本書の概要は、表紙見返しに、つぎのようにまとめられている。「往時の人々の六〇〇年に及ぶ叡智と最先端技術の結晶である世界遺産アンコール。前にすると膨大な石像伽藍に圧倒される。クメールの人々は、これだけの建造物をどうやって造ったのか、労働力を支えた経済力は何によって賄われていたのだろうか、造営した二六代の王たちは何を考え、どのように生きたのか。碑文、発掘成果、最新測量技術などを駆使した研究成果を踏まえ、アジア世界へとつながっていた王道の踏破、周辺五大都城調査、世界的な大発見二八〇体の仏像の発掘などを通して、王たちの興亡の歴史を振り返る」。

 本書が、「東南アジアの帝国、遅れて登場してきたアンコール王朝という視座で再考」したことは、全11章のタイトルを並べるとわかってくる:「第一章 アンコール遺跡とは何か-巨大な建寺エネルギーに圧倒される」「第二章 群雄割拠をまとめた若い王-前アンコール時代末期からジャヤヴァルマン三世まで」「第三章 アンコール王朝を造営した炯眼の王」「第四章 最初の大都城ヤショダラプラ」「第五章 アンコールへの再遷都を行なった王」「第六章 最初の建寺王-忠誠を誓った査察官たち」「第七章 スールヤヴァルマン二世の大いなる野望」「第八章 偉大な建寺王ジャヤヴァルマン七世」「第九章 浮彫りに描出されたアンコール都城の人々」「第一〇章 すべての道はアンコールへ-ヒトとモノが動いた王道」「第一一章 世紀の大発見、二八〇体の仏像発掘-歴史は塗り替えられた」。

 著者が、「国際政治に翻弄されるカンボジア」のまっただ中で調査することができた背景には、カンボジアの人びとの日常の信仰があった。著者は、「おわりに」で「衣食足りて来世へつなぐ-自力救済主義」の見出しの下に、つぎのように述べている。「カンボジアの人々は上座部仏教を篤信し、だれもが功徳を積みたいと願っている。村人が托鉢に戸口に立つ仏僧に丁寧に接するのは、解脱へ導いてくれる期待を込めた敬虔な行為なのである。そして最も関心があるのは来世の極楽浄土のことであり、誰もが第一番目に極楽浄土を目指している。魅力的な天女がいるというのであるから、希望者が多いし、ほのぼのとした茶目っ気振りも納得できる。上座部仏教は出家者の仏教であり、自力救済主義である。カンボジア僧侶は妻帯せず、実践的な修行により涅槃の境地に達することを最終目標としている」。

 また、著者は60年にわたる遺跡研究を、「おわりに」でつぎのように総括している。「遺跡に思いを馳せるとき、私たちは一体どこから来たのか、またこれから先、どこへ行こうとしているのかと問わずにはおれない。遺跡には様々な謎があり、未だ解明されていないものが多い。科学的方法でそのメッセージを解明していく作業が必要である。遺跡を科学的に看破し、そこにかつての人間を登場させる研究こそ、遺跡研究である」。

 巻末に50余り列挙されている著者の業績に親しんできた者にとって、本書は「発掘成果、最新の碑文解読や建築学、美術図像学の研究の成果による新たな史料を校訂し、遺跡の保存修復中に見出した伝統技法の新発見など」の過程がわかり、これまでと違った趣で愉しんで読むことができた。

 アンコール王朝の歴史についてはわかった。だが、偉大な遺跡を残した王朝のその後についてはよくわからなかったが、「二人のカンボジア人歴史学者が新「ポスト・アンコール史」」を出版し、著者らの訳で『カンボジア中世史』(めこん、2021年)も『カンボジア近世史』(めこん、2019年)も日本語で読めるという。早速、「中世史」から読もうとしたが、まだ出版されていないようだ。

 本書から、著者のこれまでの研究が多くの人びとに支えられ、これらの人びとへの著者の感謝の気持ちが伝わってくる。出版物にかんしては、「浄書作業等を手伝」う人びとに支えられてきたことがわかる。それでも見落としはある。「おわりに」に「なぜ上智大学がR・マグサイサイ賞か」の見出しがあるが、どこにも「R・マグサイサイ賞」の記述はない。


評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
近刊:早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年1月20日、412頁、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』(龍溪書舎、2021年4月~ )全30巻+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。

飯島明子・小泉順子編『世界歴史大系 タイ史』山川出版社、2020年9月15日、422+98頁、6500円+税、ISBN978-4-634-46212-0

 2000年には「世界歴史大系第二期」の1冊として企画されており、2002年に刊行予定となっていた本書が、ようやく出版された。まずは、もともとの編者(石井米雄)が2010年に世を去ったことで頓挫した、この企画を引き継いだ2人の編者の「容易ならざる決心」に敬意を表したい。「世界歴史大系」シリーズのなかで、「唯一東南アジアを、しかも一冊丸ごとタイを扱う『タイ史』」が刊行できたことは、「序章 タイ史から何を学ぶか」を読めば、並大抵のことではなかったことが想像できる。

 「序章」では、タイで一般に語られている「ナショナル・ヒストリー」を、つぎのように紹介している。「タイ王国の歴史は、スコータイ以前、スコータイ時代、アユタヤー時代、トンブリー時代、そしてバンコク時代というかたちに区分され、一つの王国がスコータイ時代に遡って存在したことを所与として、中部チャオプラヤー川流域におかれた王都の変遷を軸に連綿と描かれる」。「中部タイのタイ民族が卓越するシャム国を、歴史を遡って所与とする公定史観は、十九世紀末以降のバンコクの王権による周辺地域への介入を、西洋植民地勢力に対抗した領土防衛、独立の維持として正当化する根拠となり、さらには立憲革命(一九三二年)をへてタイ国時代のナショナリストたちに受け継がれ、一九四〇年代初頭の失地回復運動の拠り所にもなった。そして今日なおタイの人びとに広く受け入れられている」。

 「タイ国のいわゆる「一国史」を相対化する」試みは、本書の企画段階からあっただろうが、その後の「東南アジアにおけるタイ」や「タイ文化圏」の議論を経ても、容易ではなく、編者は「このようないわば新領域は本書の構想の範囲を超える」「完成した本書は充実した「一国史」といってよいだろう」と総括している。だが、この「充実した」に「類書を求めてもこれまでの日本にはなかった『タイ史』を世に送り出」したという自負が感じられる。

 本書は、序章、全7章、図版補説3、補説3に加えて、充実した付録(索引、年表、参考文献、歴代王名表・略系図、行政区分図)からなる。「第一章 先史・古代のタイ」から時系列的に並べられているが、「一国史」を超える試みも随所にある。第1章は、現在のタイ王国の領土を越えて論じざるを得ないだろうが、「第二章 北方の「タイ人」諸国家」は、その後の「中部タイのタイ民族が卓越するシャム国」を語るためにも、きわめて重要な位置を占めている。そこには、「北方の「タイ人」」では表せない、周辺諸地域、とくにビルマとの関係が描かれている。

 「第三章 港市国家アユタヤー」でも、国際性を語るとともに、周辺諸地域との関係が描かれ、とくに中国との関係は「第四章 華人の時代」に繋がる。「第五章 絶対王制の構築」で近代シャム王国の形成を描いた後、タイ王国としての現代の歩みを「第六章 現代の政治」と「第七章 現代の経済・社会」の2章に分けている。第6章は政治、第7章は経済を中心に論じているが、重複する部分が少なくない。いっぽう、第7章のタイトルにある「社会」はほとんど描かれていない。

 「東南アジアにおけるタイ」や「タイ文化圏」といった「新領域」は随所で感じられるが、まとまった叙述となってあらわれていない。3つの補説(「マンラーイサート」、ビルマ語史料にみるラーンナー、マカオからみる十六・十七世紀の日・タイ関係)で、文字通り補われているが、いっそのこと、ビルマ、マカオだけでなく、中国、日本、ベトナム、カンボジア、ラオス、マレーシアなどの周辺諸国のナショナル・ヒストリーからみた「タイ」があってもよかったのではないだろうか。

 「タイ史」は、現在のタイ王国国民のためだけにあるではない。地域や民族のことを考えると、「国民国家の連合によって定義される地域とは異なる」分野・領域の理解が、「タイ史」の本質であるようにも思えてくる。編者は、「序章」をつぎのことばで終えている。「日本におけるタイ史研究は「公定史観」の桎梏のもとにあるタイ「国内」の動向に追随するばかりでは足りないとはいえ、同時に彼らから学ばずして、日本人の研究は存在しえない。日本人が学んできたことは、自国研究者が卓越する言わずもがなの実証研究の成果だけではない。少なからぬタイの歴史家たちが、「歴史学は、過去の事実を掘り起こすことを目的とする学問ではなく、そのことを通じて、社会に何らか寄与することを目指す学問である」[略]という、歴史学の「アクチュアリティ」にかかわる認識を絶えず思い起こさせてくれることを銘記したい」。

 執筆者の顔触れは、ひとりを除いて当初案通りであったという。企画時に40歳代の執筆者が多かったことが幸いした。事典も企画から出版まで10年以上かかかることが珍しくない。「大系」も、幅広く扱うため、個々の分野・領域で研究状況が違い、すぐに書けることもあれば書けないこともある。ましてや、ほかの「世界歴史大系」に比べ、格段に研究者が少ない「タイ史」では、個々の執筆者が「有能」であったから出版にいたることができたのだろう。こういう「一国史」が、東南アジア11ヶ国すべてで出そろうと、東南アジア通史がもっと書きやすくなるだろう。


評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
近刊:早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年1月10日、412頁、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』(龍溪書舎、2021年4月~ )全30巻+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。

白鳥圭志『横浜正金銀行の研究-外国為替銀行の経営組織構築-』吉川弘文館、2021年2月1日、221頁、8000円+税、ISBN978-4-642-03903-1

 横浜正金銀行の本店本館は、現在神奈川県立歴史博物館になっている。館内の展示より、建物そのものが気になって、外も内もぐるぐる回り、ずっと見上げていたので、首が痛くなったのを覚えている。戦前の対外貿易を研究していて、気になるが全体像がよくわからなかったのがこの銀行で、本書のタイトルを見てすぐに飛びついた。

 本書の内容は、裏表紙につぎのようにまとめられている。「1880年に設立され、日本銀行と密接な関係を持ちつつ世界三大為替銀行の一つとして戦前日本経済を支えた横浜正金銀行。戦争・地震・金融恐慌などに翻弄された歩みを、様々な内部史料から検証。本部組織(頭取席・取締役会・監査役会)の動向に焦点を絞り、組織管理・経営戦略といった経営上の特徴を捉え、後発国の政府系多国籍銀行の実態に迫る」。

 本書は、序章、全5章、終章などからなる。まず、「序章 後発国多国籍銀行=横浜正金銀行経営史研究の課題と視角-ジェフリー・ジョーンズの多国籍銀行史研究の方法論についての再検討-」「1 本書の課題-対象の限定」で、本書の目的をつぎのようにまとめている。「同行の経営のあり方の特徴は、本書を構成する各章での研究史整理を踏まえて、問題を設定する。ここでは、本書全体に関わる議論として、ジェフリー・ジョーンズ(Jones, G.)による最先進国である英系多国籍銀行の研究方法の特徴を説明の上で、後発国の多国籍銀行である横浜正金銀行の分析の方法として何を継承して、何を批判した上で何を新たに付け加えるのかを論じる」。

 全5章は、「時期別に問題にすべき事柄は異なる」ことから、それぞれの章で時期別(創業期、産業革命期、第一次世界大戦期から関東大震災期まで、金融恐慌・昭和恐慌期、総力戦体制下)に論じている。その特徴は、それぞれの副題(貿易金融業務の開始と経営管理体制の構築、中国大陸におけるビジネスの拡大と組織的経営管理体制の成立、外国為替銀行の金融危機への対応、外国為替銀行の金融危機へに対応(その2)、経営戦略と経営組織の再編成)に明記されている。

 そして、「終章 後発国の政府系多国籍銀行史を貫くもの」では、まず「(1)組織的経営管理の歴史的展開とその特質」について、つぎのように結論している。「創業時から産業革命期までの同行は、大蔵省や日本銀行からの「外圧」(経営統治)により改革が進められた。その後は、反動恐慌後の監査役会の機能強化があった点に留意する必要があるが、第二次世界大戦期前まで明治期に形成された公的信用を支柱とする経営制度に経路依存する形で、日銀券の兌換制の維持=通貨価値の安定性確保への貢献を目的にして、ほぼ「内発的」に外国為替銀行としては極めて堅実な貸出姿勢や、その姿勢を守るための組織構築(組織革新)も含む経営行動をとっていた。このような経営行動を通じて、横浜正金銀行は貿易金融を中心に戦前日本の対外経済関係を支えていたのである」。

 つぎに「(2)世界三大為替銀行との比較経営史的考察-企業統治の問題を中心に」を、つぎのようにまとめている。「他の国内後発多国籍銀行に対する競争力優位のみならず、強いsound banking志向をもたらしたことは強調しておきたい。同時に、このことが、香港上海銀行、チャータード銀行とともに、世界三大為替銀行と称された横浜正金銀行の信用力、ひいては(国際)競争力を強化(経営規模の急拡大)させた要因であることは想像に難くない。さらには、前二者が民間金融機関であり、横浜正金銀行とは異なり高い流動性を維持する形で預金銀行化を重要視する戦略をとったことを想起したとき、政府・日本銀行との密接関係を持つ特殊銀行であったことが重大な国際競争力、台湾銀行、朝鮮銀行などの国内後発多国籍銀行に対する競争力の源泉だった。これらの諸点に世界三大為替銀行や国内後発多国籍銀行と比較した横浜正金銀行の特徴が見出せる」。

 国内多国籍銀行として、台湾銀行、朝鮮銀行のほかに戦争中の南方開発銀行も、本書に出てきた。若干比較されているが、まだよくわからないことが多々ある。それは、具体的事例があまり示されていないからだろう。これらの銀行によって、社会や人びとにどのような影響があったのか。いっぱいいっぱい残されている資料から考察することは、それほどたやすいことではなさそうだ。


評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
近刊:早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年1月10日、412頁、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』(龍溪書舎、2021年4月~ )全30巻+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。

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