藤原辰史『分解の哲学-腐敗と発酵をめぐる思考』青土社、2019年7月10日、341+iv頁、2400円+税、ISBN978-4-7917-7172-1
出版社の編集者が本書のタイトルに「哲学」を掲げることにこだわった理由は、読めばわかる。だが、著者、藤原辰史がためらったのは、「歴史」研究者としてだけでなく、身近な日常生活から考察を深めていくスタイルが、「哲学」という仰々しさにふさわしくないと考えたからではないだろうか。
本書も「序章 生じつつ壊れる」は「掃除のおじさん」にはじまり、各章も身近な日常が描かれている。著者が住んでいた公共住宅の掃除のおじさんの行為(「ゴミ捨て場にたまったゴミを整理し、収集車が来るときにはゴミの溜まったコンテナを道路に整然と並べる。ゴミの整理がひととおり終わると、掃除用具と水の入った大きな焼酎ボトルと携帯ラジオを台車に載せて、各階の共用通路を掃除する」など)を、著者は「二重の意味で、ものの延命と呼べる」と述べ、つぎのように説明している。
「第一に、建物のメンテナンスをしたこと。掃除のおじさんがいなければ、建築業者の手を離れたあと、建物はもっと速度を上げて朽ち果てていくはずだ。そのはずのコンクリートの塊を、毎日洗い清めるものだから、痛みや汚れが出にくくなる。日々の手入れによって、無機的な素材の住宅を延命させるのが、掃除のおじさんの仕事であった」。「第二に、ゴミを子どもたちのおもちゃや掃除用具に変えたこと。つまり、掃除のおじさんは、ゴミとなって社会的価値を剥奪されたものをふたたび社会的価値のあるものに組み立て直し、その延命を成し遂げたのである」。
「本書の目的は、公共住宅の住人たちを魅了して止まなかった掃除のおじさんと彼のふるまいを、これまで先人たちが紡いできた思考と行動してきた歴史のなかに置き直し、普遍化することにほかならない」。
本書は、雑誌『現代思想』に連載されたものなどを書き直したもので、序章、全6章、終章などからなる。序章の最後で、簡略につぎのように紹介している。まずは、「怪物じみた存在を分解と再生を繰り返すものとしてもっとも戯画的に描写した」「ネグリとハートの議論を参照にしつつ、新品文化に潜む脆さのありかを探り(第1章「<帝国>の形態-ネグリとハートの「腐敗」概念について」)、分解論の基本モデルとして積み木遊びと幼稚園を論じたあと(第2章「積み木の哲学-フレーベルの幼稚園について」)、カレル・チャペックの作品群(第3章「人類の臨界-チャペックの未来小説について」)、屑を拾う人びとの社会とその歴史(第4章「屑拾いのマリア-法とくらしのはざまで」)、生態学史のなかの「分解者」(第5章「葬送の賑わい-生態学史のなかの「分解者」」)、そして修理と修繕の世界のダイナミズム(第6章「修理の美学-つくろう、ほどく、ほどこす」)を分解の観点から考えていきたい」。
終章「分解の饗宴」では、「1 装置を発酵させる」「2 食現象の拡張的考察」を論じたあと、「3 食い殺すことの祝祭」で「一連の「分解の哲学」は、これまで築かれてきた思考世界のなかにどう位置付けられるのだろうか」と問い、つぎの3つを「申し添えて」いる。「第一に、人種主義を経由しない食を通じた人間と非人間の関係の統合的分析」「第二に、生と死という二項対立から漏れ出る生物および非生物の形態の分析」「第三に、第二と関連して、近代的時間を相対化する時間を前提にした歴史叙述」。
そして、つぎのパラグラフで、終章を閉じている。「最高の美を求めて腐敗する妻を描いた中国の絵描きにはなれなくても、あるいは、みずから森を肥やすべく川を遡る鮭になれなくても、さまざまな存在が死者を食べ尽くす壮大な死の祝祭に、私たちはいつでも参加できる。残酷である、と目を覆ったその手をもう一度振り払い、装置のもたらす残虐さと分解のもたらす徹底さの違いを見極めることが、分解の世界の担い手となる第一歩になるだろう」。
「思想や哲学の本を読むのは結構好きで、史料分析に疲れると手に取っている」著者とは真逆のわたしは、思想や哲学の本を読むのは長続きせず、すぐに史料分析に遁れる。「おもちゃに変身するゴミ、土に還るロボット、葬送されるクジラ、目に見えない微生物……」を論じることができるのも、「安易に廃墟と再生を結びつけるような議論」ができそうな温帯の定着農耕民社会の研究蓄積があるからだろう。これが、流動性が激しすぎて「腐敗と発酵」する時間も意味もなく消え去っていく蓄積のない熱帯の海域社会の日常になるとどうなるか。「哲学」など生まれないのか、ふと、そんなことを考えた。
評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
近刊:早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年1月20日、412頁、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』(龍溪書舎、2021年4月~ )全30巻+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。