高嶋航『スポーツからみる東アジア史-分断と連帯の二〇世紀』岩波新書、2021年12月17日、264+8頁、940円+税、ISBN978-4-00-431906-1
まず最初に感じたのは、著者は本書を愉しんで書いたのだろうか、ということだった。「オリンピックにほとんど関心」がなく、「戦前期東アジアのスポーツを研究してきた」著者は、「東京オリンピック・パラリンピック延期発表後にメディアの取材を受けたとき、うまく答えられなかったことをきっかけ」に、「自分の専門と現在の状況を繋げられないことにもどかしさを感じ」、「東アジアという視点からオリンピックの歴史を書いてみようと(無謀にも)思い立った」。だが、政治的駆け引きばかりで、うんざりする記述がつづく本書執筆に、著者は愉しさを見出していたのだろうか。
拙著『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』(めこん、2020年)を愉しんで書いた経験から、著者が愉しんで書かないと読者も愉しめないというおもいがある。海域社会の価値観からくるアセアン・ウェイを東南アジア競技大会を通して理解することが目的であったが、表紙に配した各大会のマスコットからなによりも東南アジアの人びとが大会を愉しんでいることを伝えたかった。競技レベルはオリンピックどころかアジア競技大会にもおよばない競技が大半で、大会運営にいたってはお粗末としかいいようがないのだが、1959年から初期に1度中止があっただけで、2年毎に2019年まで確実に30回おこなわれてきた(2021年ベトナム大会は22年5月に延期)。大会終了後には、いつも開催国も参加国も大成功だったと自画自賛し、選手・役員は2年後の再会を約して別れる。良くも悪くも東南アジアの人びとの人間味あふれる大会の様子を伝えることは、愉しかった。だが、本書からそんな愉しさは微塵も感じられない。
「本書では二〇世紀初めから現在に至る東アジアのスポーツの歴史を、オリンピックやアジア大会などの国際競技会との関係から概観」し、三つのテーマで描いている。
「まずは、①「分断と連帯(排除と包摂)」である。東アジアは冷戦によって分断される前に、すでに満洲国という分断を経験している」。「本書ではオリンピックとアジア大会、それぞれの運営組織である国際オリンピック委員会(IOC) とアジア競技連盟(AGF)での包摂と排除が主たる焦点となる」。
「こうした視点が次に浮かび上がらせるのが、②「スポーツと政治」である。「スポーツと政治は別だ」という理念は、とりわけアマチュアスポーツで強調される」。「スポーツと政治の問題は、しばしば政治的差別という形で現れた」。「スポーツと政治の事例として、しばしば取り上げられるのがモスクワ五輪のボイコットである」。「日本オリンピック委員会(JOC)はこのときボイコットを選択し、その理由の一つに「アジアの連帯」を挙げた。なぜ「アジア」なのか」。
「この問いは、とくに第二次世界大戦の敗戦国・日本が直面した③「世界とアジア」のテーマにつながる。JOCはオリンピック・ムーブメントに最も忠実な国内オリンピック委員会(NOC)と言われてきた。日本にとって世界とは「スポーツと政治は別」な空間であり、アジアとは「スポーツと政治は不可分」な空間であった」。「日本スポーツ界が直面したジレンマは、戦後日本が直面したジレンマそのものだったのである」。
本書は、序章、全3章、終章などからなり、5つの章が時系列的に並んでいる。序章「戦前の文脈-一九一〇~一九四〇年代」では、「戦前の東アジアのスポーツ界を概観する。東アジアへのスポーツの伝播が西洋帝国主義の拡大の結果であったことは、東アジアのスポーツが最初から政治と密接に関わっていたことを意味する。実際、本書で検討する三つのテーマは、すでに戦前にそのルーツを辿ることができる」。
第一章「分断のなかの政治化-一九五〇~一九六〇年代」では、「東アジアのスポーツは冷戦によって分断され、日中間でその壁を越える試みがなされはしたが、長続きはしなかった。一方で、この時代には第三世界で脱植民地化が進み、中国とインドネシアが中心となって既存の国際スポーツ界と激しく対立した。アジアにとって、国際スポーツ界はたんなる競技の場ではなかった」ことを描く。そして、「日本のスポーツ界が非政治主義の規範にしがみつくことができたのは、自らの特権的な立場に無自覚だったからである」と指摘する。
第二章「中国の包摂-一九七〇年代」では、「文化大革命の影響で国際スポーツ界を去った中国が、一九七〇年代にアジアと世界のスポーツ界に包摂される過程を描く」。また、「スポーツの政治はこれまでおもに競技の外で繰り広げられてきたが、新たにアジアに包摂された国々は、南ベトナムやイスラエルとの対戦拒否などの形で、政治を競技場の中に持ち込んだ。そんなアジアに日本はとまど」い、「アジアから孤立した」ことに気づかされた。
第三章「統合をめざして-一九八〇年代」では、「モスクワ五輪とロサンゼルス五輪の二度にわたる大規模なボイコットを経て」、「冷戦の終結にともない、包摂と排除という形のスポーツの政治は基本的に終わりを告げた」世界を描く。しかし、北朝鮮と台湾の問題は残った。「一九七〇年代にアジアスポーツ界の主役の場を奪われた日本は、北朝鮮の包摂を主導することで、自らの影響力を高めようとする。その結果生まれたのがアジア冬季大会であり」、東アジア競技大会であった。
終章「東アジア大会の挫折-一九九〇年代以降」では、「一九九三年に第一回大会が開かれた東アジア大会は、二〇一三年の第六回大会で廃止され」、それにかわる東アジアユースゲームも台湾をめぐって紛糾して開催されない状況を描き、「スポーツは依然として東アジアの分断に悩まされ続けているのである」と結論している。
帯にある「オリンピックは分断を越えたか?」という疑問にたいして、著者は「あとがき」冒頭でつぎのように答えている。「答えはイエスであり、ノーである。包摂と排除の観点からみれば、ポスト冷戦時代のオリンピックはすでに分断を越えたといえる。だが、東アジアのレベルでは、分断は厳然と存在する。また、本書でおもに扱ったのは国家の分断であったが、人種、階級、ジェンダーなどさまざまな分断がこの世界には存在する」。
つづけて、つぎのように自問し、自答している。「オリンピックには友情や連帯を育み、平和な世界を実現する力はないのだろうか。この答えもイエスであり、ノーである。オリンピックがそうした理想を掲げることで、たとえ実態が伴っていなくとも、それが目指すべきものであることを広く共有させることができる」。
本書でいう「東アジア」には東南アジアは含まれず、温帯の陸域の定着農耕民社会を基層とする東アジア諸国の政治的駆け引きに、熱帯の海域の流動的海洋民社会の東南アジア諸国が「おつきあい」している様子がうかがえた。人と人とのかかわりを重視する海域社会の人びとにとって、建前にこだわる人びとと「おつきあい」するのは疲れる。これでは「同意すれども実行しない」などと揶揄されるアセアン・ウェイで対処するしかない。
評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年1月20日、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』(龍溪書舎、2021年4月~ )全30巻+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。