庄司智孝『南シナ海問題の構図-中越紛争から多国間対立へ』名古屋大学出版会、2022年1月15日、331頁、5400円+税、ISBN978-4-8158-1054-2
流動性の激しい海域世界に属する東南アジア各国は、対人関係を重視し、どちらにつかずのあいまいな態度をとるため、信頼されないことがある。このアセアン・ウェイ(本書では「ASEANの流儀」と訳されている)は、小国の寄りあい所帯であるアセアン各国にとって、大国にたいする「弱者の武器」になり、近年では「両掛け」を意味する「ヘッジ」政策ともよばれる。2016年のドゥテルテ政権の誕生で180度南シナ海政策が転換したようにみえたのも、「弱者の武器」を効果的に使うためであった。前アキノ政権があまりにもアメリカ寄りになりすぎ、中国の「一帯一路」政策の「恩恵」をこうむることができなくなるおそれがあった。
ドゥテルテ政権が「親中」ともとれる政策をとった背景には、2016年7月に下された国際仲裁裁判所の判断でフィリピン側の主張がほぼ全面的に認められたことと、フィリピン人のアメリカにたいする絶対的な信頼が調査結果で明らかだったためである。仲裁裁判で、中国側の主張する権利がほぼ全面的に否定されたことで、それを利用して中国を追い詰めるより、持ちださないことで中国側から引き出すほうがはるかに国益にかなうと判断したからだろう。2016年第3四半期のフィリピン人の信頼度は、アメリカのプラス66にたいして、中国はマイナス33だった(日本はプラス34)。フィリピン人は、政権の「親中」を本気に受けとめていなかった。このことは、ほかのアセアン諸国も承知していただろう。
このように、社会科学にもとづく国際関係の分析だけでは充分にわからないアセアン・ウェイを考慮に入れなければ、「南シナ海問題」は理解できない。本書でも、社会科学の考察を超えたものが随所に感じとれる。
本書の目的は、「序章」冒頭で、「南シナ海問題を、東南アジア諸国連合(ASEAN)、そしてその加盟国であるベトナムとフィリピンに焦点を当てて考察するものである」と述べている。
南シナ海の重要性は、つぎの2つの要因にもとづいているとして、つぎのように説明している。「第1に、同海域はインド洋と太平洋をつなぐ世界的にも主要な海上交通路の1つであり、海上貿易とエネルギー供給の観点から、日本や中国といった地域諸国にとって死活的な重要性を有することである。交易上枢要な海路ということは同時に、マラッカ海峡同様、安全保障上も重要な海域であることを意味する。第2に、同海域は豊かな漁場であるほか、大量の石油・天然ガスの埋蔵が推測されていることである」。
つぎに、「ASEAN、そのなかでも特にベトナムとフィリピンに焦点を当てる理由」を、つぎのように3つあげている。「第1に、ASEANの視座の重要性である。ASEANには、南シナ海の領有権紛争における、東南アジアの4つの係争国すべてが加盟している」。「ASEANは、米中対立の文脈でも注目すべきアクターである」。「米中対立の焦点の1つである南シナ海問題でASEANがいかなる対応をとってきたかを明らかにすることは、当該問題を理解する重要な視点となるのみならず、米中対立というより広い文脈においてインド太平洋の戦略環境を考察する有効な切り口でもある」。
「第2に、ASEAN諸国のなかで、また4つの係争国のなかでなぜベトナムとフィリピンに着目するのかであるが、まず両国は共に、ASEAN諸国のなかで南シナ海問題に、政治的にも軍事的にも最も積極的に関与してきた。両国は地理的に中国に近く(特に、ベトナムは陸上でも海上でも中国に隣接している)、南シナ海で領有権を主張する範囲も広い。そのため両国は、南シナ海で中国とたびたび緊張状態になり、そのたびにあらゆる政治的・軍事的な努力を払い、これに対処してきた」。
「第3に、ベトナムとフィリピンそれ自体の重要性である。先述の通り、南シナ海問題には6つの係争国(地域)のほか、米国、日本、そしてインドやオーストラリアも強い関心を寄せ、関与してきた」。「南シナ海問題は専ら、米中間の戦略的競争や覇権争いの文脈で語られ、その他のアクターは2次的な位置に置かれてきた」。「しかし、これらの中小アクターのなかでも、ベトナムとフィリピンの動きを分析することは、単に先行研究の穴を埋める以上の重要な意義を有する」。
以上の3つを総括して、著者、庄司智孝は、本書の意義をつぎのようにまとめている。「本書の観点は、ベトナムやフィリピンのパワーや影響力を過大評価するものでは決してなく、また米中を過小評価するものでもない。しかし、大国の動きを追うだけでは南シナ海問題の複雑な構図を的確にとらえることはできない。問題の構図は、影響力のある国の一方的な政策の集合ではなく、そこに関与する国々の相互作用としてとらえる必要がある。本書は、ASEANとASEAN加盟国のベトナムやフィリピンに注目し、これらのアクターの主体性や影響力、諸大国との関係を適切に評価する。これにより本書は、南シナ海問題を米中対立に還元する過度に単純な見方を排し、同問題の複雑さとダイナミズムを理解するために必要な視座を提供するものである」。
本書は、序章、全8章、終章などからなる。全8章は、「序章」の最後「5 本書の構成」で、つぎのように説明してから章ごとにまとめている。「本章において南シナ海問題の重要性と、この問題をASEAN・ベトナム・フィリピンという3つの視点から考察することの有効性を、先行研究や理論的枠組みの整理を踏まえて論じてきた。上記の問題設定とアプローチに基づき、本書は以下の構成をとる」。
「まず第1章から第3章では、南シナ海問題の発生、鎮静化、再燃の経緯を、3つの時期区分によって論じる。第1章[南シナ海問題の発生(前史~1990年代半ば)]では、問題の前史から説き起こし、1970~90年代半ばの南シナ海問題の顕在化と構図の形成、ASEANとベトナムの初期対応をそれぞれ扱う」。
「第2章[南シナ海の「凪」(1990年代半ば~2000年代半ば)]では、「微笑外交」の中国によってもたらされた南シナ海の「凪」の時期(1990年代半ば~2000年代半ば)を分析する」。
「第3章[南シナ海問題の再燃(2000年代半ば~10年代半ば)]では、中国の海洋進出の再活発化、米国の関与と問題の構図の変容という南シナ海問題の再燃の状況を追う。こうした状況においても、ASEANは平和的解決のアプローチを追及し続けた」。
「第4章から第7章では、再燃期におけるベトナムとフィリピンの南シナ海対応を考察する。うち第4~6章では、ベトナムが追求する「全方位安全保障協力」の態様を探る。第4章[対中関係安定化の模索-ベトナムの対応(1)]では、中国との関係安定化を模索するベトナムのアプローチと、そうしたベトナムの努力が、2014年のオイルリグ事案で覆る様を見る」。
「第5章[対米安全保障協力の強化-ベトナムの対応(2)]では、対中対応の合わせ鏡として、ベトナムが米国との協力を慎重かつ漸進的に深める様子を探る」。
「第6章[ASEAN、ミドルパワー、そして自助努力-ベトナムの対応(3)]では、ベトナムが対外関係の礎とするASEANにおける同国の振舞いと、日印露といったミドルパワーとの協力を、海上防衛能力向上の自助努力に絡めて考察する」。
「第7章[フィリピンの対応-アキノ政権の対決姿勢]では、中国との対決姿勢をとったアキノ政権下のフィリピンの南シナ海対応につき、「外交・同盟・国際法」の3点セットでの対応ぶりを分析する」。
「第8章[南シナ海問題の変容(2010年代半ば~現在)]では、2010年代半ばから現在までを扱い、南シナ海問題の変容を考察する。問題の構造変容をもたらしたのは、米中対立の激化と、フィリピンのドゥテルテ政権の政策転換であった」。
「そして、終章[南シナ海問題の構図-総括と展望]で、本書の議論を総括し、「依然として波高し」の状況である南シナ海の今後を展望する」。「総括に際しては、問題の時期区分、構造の変化、主要アクターの役割、そして規範の効用と限界、という4つの観点からこれまでの議論を検証する。そして総括の後、現状を踏まえつつ、南シナ海問題の今後を展望する」。
その終章は、つぎのパラグラフで閉じている。「本書は、歴史的な経緯から現在まで、南シナ海問題を追ってきた。しかし、現在も緊張状態は続き、事態は刻々と変化している。南シナ海問題のパズルは未完成のままである」。
1990年代後半にASEAN10になってから四半世紀が過ぎた。加盟各国はASEANに過大に期待しないいっぽう、解体や1ヵ国でも脱退することを望んでいない。ASEANが存在することを前提として、どのような議論の場でも主体性をもって臨むことができるように努めている。過小評価も過大評価もできないASEANがあり、個々の加盟国は本書の議論が本格的にはじまる1990年代以前からの歴史的経緯(ベトナムは中国の属国であった、フィリピンはアメリカの植民支配下にあった、等々)をそれぞれ踏まえて、ことにあたっている。
本書は、南シナ海問題を事例に、現在さらに今後の東南アジアを含む東アジアを考える好著である。
評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年1月20日、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』(龍溪書舎、2021年4月~ )全30巻+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。