早瀬晋三書評ブログ2018年から

紀伊國屋書店「書評空間」https://booklog.kinokuniya.co.jp/archive/category/早瀬晋三に2005~15年に掲載された続きです。2015~18年に掲載されたものはseesaaブログshohyobloghayase.seesaa.net/ で閲覧できます。

2022年09月

山田七絵編『世界珍食紀行』文春新書、2022年7月20日、245頁、980円+税、ISBN978-4-16-661362-5

 これまで喉を通らなかったものは、モンゴルのゲル(家屋)の中で出された羊の腎臓パイだけだ。ほかは腐っていようが、出されたものは食べた。出されたものを食べるのは、相手を信用していることを示すことになるからだ。もちろんわたしが「腐っている」と思っても、おなかを壊すとはかぎらない。壊すかもしれないと思ったものは、できるだけ少しずつ、何度か口に入れた。

 本書は、そんな調査対象者の目を気にしながら食べたものから、執筆者の好奇心からこっそり食べたものまで、「日本では誰も味わったことのない美味・珍味、時に悶絶するゲテモノ食」を含め、「開発途上国の専門家が集うアジア経済研究所(通称、「アジ研」)の職員三七人(元職員、編者を含む)が、世界の三五の国・地域で体験した食をめぐるカルチャー・ショックについて思う存分語ったエッセイ集である」。

 本書は、「『アジ研ワールド・トレンド』誌の連載コラム「世界珍食紀行」(二〇一六年一〇月号~二〇一八年三・四月号)および後継誌にあたるウェブマガジン『IDEスクエア』の「続・世界珍食紀行」(二〇一八年四月~二〇二一年四月)に掲載された全三九回のエッセイが元になっている」。

 「本書は「珍食」と銘打っているが、食を手掛かりに現地社会をよりよく理解することをテーマとしている。したがって、いわゆるゲテモノの類ばかりを取り上げているわけではない。思うに、私たちが異文化の食に戸惑う状況にはいくつかのパターンがあるようだ。一番分かりやすいのは普段食べ慣れない食材との遭遇だが、既知の食材でも食習慣や嗜好、調理法の違いにより、予想を裏切る味にびっくりすることもある。食事の作法や、レストランの業態が特徴的な場合もある。また、地域によっては政治経済的な事情から、そもそも安全かつ十分な食べ物が得られない、という状況に直面することもある」。

 「開発途上国の専門家が集まるアジ研」で、「カフェテリアでの昼食時、給湯室や廊下でのちょっとした雑談、あるいは夜の飲み会などの場で、研究成果にはまったく結びつかないが間違いなく面白い、滞在先での奇妙な体験をしばしば耳にする」。そのなかに「珍食」がある。

 だが、おもしろ半分で語るのと、こうして活字になるのとでは意味が違う。書くことをためらう人がいたことを、「おわりに」でつぎのように紹介している。「熟考の末に執筆を断った」理由は、「自分の専門地域が宗教上の理由等により保守的な食文化であるため書きづらい」「日本であまり知られていない国なので珍食を紹介することで日本の読者に悪い先入観を与えたくない」というようなものであった。ひょっとしたら、自分だけのフィリールワーク中の秘密を教えたくない、という理由もあったかもしれない。

 「悪い先入観を与えたくない」にたいする答えのひとつとして、アジ研を訪れる外国人が「発見」した日本の「珍食」を、なぜ「珍食」と思ったのか、理由を添えて紹介するのもいいだろう。日本人が世界各地で「珍食」を「発見」するように、日本を訪れる外国人も日本各地で「珍食」を「発見」している。

 これだけの「食通」が揃っているのだから、さぞアジ研のカフェテリアのランチは、それをいかしたものになっているのだろう。「珍食」を評価できるのは、日ごろの食生活があってのことだから。


評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年1月20日、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』(龍溪書舎、2021年4月~ )全30巻+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。

シナン・レヴェント『石油とナショナリズム-中東資源外交と「戦後アジア主義」』人文書院、2022年9月30日、358頁、4500円+税、ISBN978-4-409-52090-1

 「驚き」の一語である。まだ30代のトルコ人が日本語文献を駆使して、本書を執筆している。著者は博士課程に入学したとき、英語履修コースだった。

 英語履修が日本の大学でもできるようになってから、日本語をまったく学習しようとせず、自国のことや自国と日本の関係を学ぶ学生が日本にやってくるようになった。日本語が読めると言っても、専門書を読むためには日本語能力試験1級でもかなりの高得点をとらなければならないが、2級程度で博士論文を書く者も珍しくない。

 そんななかで、著者のシナン・レヴェントは、母国トルコを「本研究の対象国としない」。そして、日本語文献を読みこなしていることは、「序章」「3 研究の視角:民族石油資本と戦後「アジア主義」」の冒頭のつぎの記述から明らかである。「経済大国でありながら資源小国であり、かつ米国一辺倒であった戦後日本は、石油危機をきっかけに西側陣営から「アラブ寄り外交」、自主的な「中東外交」をとろうとしたと評された。しかしながら、戦後日本外交が資源・エネルギーへの渇望、あるいは日米同盟からの脱却観点からだけではなく、中東をどのような「地域」として認識し、資源外交のイデオロギー戦略としてどう対峙しようとしたのかは、十分考察されてこなかった」。「戦後日本外交の中東政策分析が石油資源保障論と日米同盟というリアリズムに偏っているのは、単に戦後の日本外交そのものに内在していたバイアスによるものだけではない。筆者は中東という「地域」を外交戦略の中で認識し位置づける営為の観点から意識し、それを意識的に行った政治主体を析出するという分析視角が、これまでの日本外交史研究になかったからではないかと考える」。ここまで言い切ることができるのは、よほど日本外交史研究の専門書を読みこなしたからだろう。

 本書の「4 課題と目的」は、冒頭でつぎのようにまとめられている。「石油を中心にした対中東外交を通じて政・民の関係を究明することによって、戦後政治の中で中東外交に積極的であった保守派の思想・イデオロギーを探り、その影響力を具体的に明らかにすることが出来ると考える。より具体的には、資源派財界人と政治家との関係・人脈が対中東石油確保のためにいかに活かされたか、またどのような政治家が後ろで支援したのか、さらには官僚側の立場はいかなるものであったかなどの問いへの答えを探し求めてみたい。政と民が「中東」という地域をどのように認識し、いかなる資源保障論を持っていたか、またナショナリズムや世界戦略の観点からどのように資源外交を行っていたかについてもあわせて考察していきたいと考える。特に、戦前と戦後のイデオロギー的連続性・断絶性を政治思想の側面から明らかにすることは、ほとんどなされていない重要な研究である」。

 本書は、序章、全5章、終章、補論などからなる。「序章 戦後日本における中東:その定義と概念」で、問題意識、先行研究、研究の視角、課題と目的、方法論、本書の構成を確認した後、それぞれ1章を割いて出光佐三(いでみつさぞう)、山下太郎、田中清玄(せいげん)、杉本茂の4人の「資源派財界人」を扱い、最後に政治家ブレーンとなった中谷武世(なかたにたけよ)を取りあげている。終章でまとめ、民間人主体に議論した本書を補う意味で、「補論 通商産業省と石油の自主開発政策」を考察している。

 「第一章 出光佐三とイラン石油」では、「まず戦後石油産業の発展過程を概説し、次に対中東外交の黎明期に自主的資源確保のために動き出した出光佐三に焦点を当てる」。「第二章 山下太郎とサウジアラビア・クウェート石油」では、「戦後日本における石油開発業界の進展を概観する上で、戦後「アラビア太郎」と言われた山下太郎とアラビア石油会社の中東における石油開発事業の実情を検証する」。「第三章 田中清玄とアブダビ石油」と「第四章 杉本茂とアブダビ石油」では、「山下太郎のアラビア石油株式会社の次に中東の油田開発事業に成功した第二の日本企業であるアブダビ石油株式会社の資源確保活動を論述する」。

 「第五章 中谷武世と中東」では、「戦後日本の対中東民間外交の主役の一人として知られる日本アラブ協会の創立者、中谷武世を取り上げる。中谷武世は岸信介、福田赳夫、中曽根康弘などの保守政治家が対中東外交に関して意見を求めた人物であり、冷戦期日本政府から中東に派遣された主たる外交ミッションのほとんどに参加したメンバーの一人でもあった」。

 「終章」では、「本書の分析から得られた知見を大きく二つに分けてまとめ」ている。「第一の知見としては、戦後の日本・中東関係、特に一九七〇年代半ばまでの黎明期において、政府よりも民間が対中東資源外交を先導・主導したことがある」。「資源派財界人及び民族系資本による対中東外交の分析を通じて得られたもう一つの知見は、石油とイデオロギーが密接な関係性を有していたということである」。

 そして、つぎのパラグラフで「終章」を終えている。「最後に、戦後日本ではこうした民族主義は資源派財界人という民間経済人によって先導・主導され、彼らのこの民族主義思想が戦前アジア主義と同じく、「万世一系」の天皇崇拝と皇室の教えを原理とする日本的宗教倫理と表裏一体を成していた。その意味において、資源派財界人の政治的関係と思想、そして民族系資本の経営理念からは戦後日本の対中東民間外交には、「戦後アジア主義」とも呼べる民族主義が強く影響していたと言うことができる」。

 「日本的宗教倫理」がイスラームと呼応するなら、戦前のイスラームとのかかわりも再考できるかもしれない。戦前と戦後をつないだ意味は大きい。ならば、戦前・戦中に後のノーベル受賞者まで生んだ技術者は、どうだったのだろうか。石油だけでなく、鉱物資源開発において、技術者の役割は大きい。戦前・戦中の技術開発は、戦後にどうつながったのだろうか。

 石油利権に絡む問題はいろいろおもしろいと、以前から聞いていたが、研究が進めば進むほど書けないことが多くなるとも聞いた。本書が書けたのは、戦前の「アジア主義」を研究してきた著者だから、「右翼」と一言で片付けられない人物像を浮かびあがらせることができたからだろう。

 こういう外国人研究者がいると、日本における英語履修の独自性が出てくる。日本で英語履修する意味(特徴と限界)がわかっていない学生に、著者のことを紹介したい。


評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年1月20日、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』(龍溪書舎、2021年4月~ )全30巻+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。

野村幸一郎『東京裁判の思想課題-アジアへのまなざし』新典社、2021年12月8日、267頁、2000円+税、ISBN978-4-7879-6857-9

 本書は、「序」の冒頭で、つぎのように目的を述べている。「極東軍事裁判、いわゆる東京裁判について、同じ時代を生き、裁判を目撃した、場合によっては当事者としてかかわることになった文化人、言論人が抱いた違和感や批判意識について分析を試みるものである。東京裁判を法律の問題や歴史の問題、政治的イデオロギーとして扱うのではなく、近代日本のアジア認識とのかかわりの中で分析しようとする試みであると言ってもよい」。

 つづけて、つぎのように説明している。「東京裁判は単に戦争責任を問うだけではなく、今日から見れば、その思想課題は文明論上の問題にまで拡大している。サミュエル・ハンチントンの言う「文明の衝突」が法廷という場で展開された歴史上希有な例であると言ってもよい。私が思想上、文明論上の問題として東京裁判を考えてみる必要を感じたのは、ここに理由がある」。

 著者、野村幸一郎は、東京裁判の争点をつぎの4点に整理している。「まず、第一は「平和に対する罪」や「人道に対する罪」という概念が、まだ国際法上において成立していない現状にあって、これをもって裁くのは「事後法」(犯罪が行われた後に成立した法をもって裁くこと)である、というものである」。「第二はいわゆる「勝者の裁き」に対する疑念である」。「第三は日本の軍部や政治家が、ナチスのように集団で計画的に侵略戦争を進めたとする「共同謀議」に対する批判である」。「そして、第四は「文明の裁き」に対する批判である」。

 著者は、「これら四つの争点の内、東京裁判に批判的であった言論人、文化人がとくに違和感を感じたのが、「文明の裁き」の問題であったことはまちがいない」と述べ、つぎのように説明している。「植民地化への危機意識から日本人はやむをえず西洋文明を受けいれ、近代国家を建設したと考える彼らにとって、アジア太平洋戦争もまた、東条の言う「自衛のための戦争」であり、大東亜共栄圏は明治維新の世界的展開、つまり、列強による植民地化からのアジアの解放であった。それゆえ彼らにとっては、アジアを蚕食してきた西洋諸国家が、アジア太平洋戦争を文明への宣戦布告であると批判したことは、みずからが過去に犯した犯罪を顧みず被害者の側に罪を押しつける無恥と傲慢に満ちた強弁のように感じざるをえなかった」。

 本書は、序、全6章、あとがきからなる。「序 保田與重郎の東京裁判批判-問題の所在」では、「保田與重郎の批判が内包する思想課題を指摘して」、本書の問題の所在を明らかにし、つぎのようにまとめている。「大東亜共栄圏をアジア解放の思想と主張したり、西洋近代こそが侵略戦争の根源であると語るなど、東京裁判史観からあまりにもかけ離れているために、従来、保田の歴史認識は、狂気と暴力に彩られた、きわめて危険な思想のように扱われてきた。このような指摘が保田の批評が内包する独善性や非人道性を照射していることは、私も承知している。しかし、仔細に見れば、保田は、アジア太平洋戦争が内包する功利的性格、侵略的性格を非難しつつ、もう一方で、その反植民地主義的性格をすくい取ろうとしている。誤解を恐れず言えば、戦争を「可能性」として見ようとしている」。「日本によって戦われた戦争はすべて正しいといったような、単純なナショナリズムを主張しているわけではない」。

 全6章各章で取りあげる徳富蘇峰、松井石根、大川周明、竹山道雄、堀田善衛、阿川弘之ついては、「序」でつぎのように紹介している。「徳富蘇峰は、ペリー来航にはじまる列強の圧迫に、日本における「国民」の誕生を指摘し、以後、日本は「国民」の意思として列強に対抗するために対外戦争をくりかえすことになった、と論じている。南京事件の責任を負わされ死刑となった松井石根は軍人であるが、さまざまな文章で彼の政治理念であった大亜細亜主義を主張している。松井にとって中国の民は列強に圧迫されつつあった「同胞」であり、日支事変は侵略戦争ではなく、「同胞」同志の内輪もめ、兄弟げんかのようなものであった。大川周明は岡倉天心の影響の下にあって、インドの仏教も中国の儒教も日本の精神文化として蓄積されており、日本はこの「三国意識」をもってアジアのリーダーとなるべきことを主張している。『ビルマの竪琴』の作者として知られる竹山道雄は、近代文明の光と影を論じ、行きすぎた経済格差が共産主義やファシズムの温床となった、日本でもまた近代文明の負面を温床としてファシズムや共産主義が人心をとらえていった、と論じている」。

 堀田善衛は、「東京裁判史観そのものを思索なり批判の対象としているわけではないのだが、東京裁判法廷での南京事件に関する詳細な証言を作品世界に巧みに取り入れ、歴史と実存の問題について思索をめぐらしている」。

 阿川弘之は、「東京裁判史観と歴史認識を共有することで、戦争責任に関する議論としては、ある死角を抱え込んでしまっている。保田の文明観にしたがうならば、アジア太平洋戦争の責任は、西洋的近代に追随した側の政治勢力にあったことになるわけだが、阿川の歴史認識、そして、その源流にある東京裁判史観は、この問題を捨象してしまっている」。

 「あとがき-坂口安吾のまなざし」では、坂口が言おうとしていることを通じて、本書をつぎのように総括している。「安吾は戦争の原因を、東京裁判で裁かれる軍人政治家の個人意思にではなく、日本文化そのもの、安吾の言葉で言う「日本を貫く巨大な生物、歴史のぬきさしならぬ意志」に求めていた。私たちの生を偶然から必然へ、非意味から有意味へと転換していく日本文化に、安吾は戦争の原因を求めたと言ってもよい」。

 そして、著者は、「東京裁判をめぐるさまざまな言説の限界性をあきらかにしていくところに、本書の目的があったことを、最後に述べさせていただきたい」と締め括っている。

 東京裁判については、いろいろなことが書かれ、評価されている。だが、本書のように同時代の文化人・言論人がどのようにとらえていたのかを考察したものはそれほど多くない。歴史学の基本は、後付けで議論するのではなく、あくまでも同時代資料にもとづいて議論すべきで、本書はそれに沿っている。問題が錯綜すれば、本書のように基本に戻って考えてみる必要がある。


評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年1月20日、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』(龍溪書舎、2021年4月~ )全30巻+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。

賀茂道子『GHQは日本人の戦争観を変えたか-「ウォー・ギルド」をめぐる攻防』光文社新書、2022年6月30日、272頁、900円+税、ISBN978-4-334-04613-2

 日本人が、なぜ戦後、戦争責任について深刻にとらえなかったのか、本書を読んでわかった。とくに報道関係者が、この問題をとりあげなかったなぞが解けたような気がした。

 本書の概要は、表紙見返しに、つぎのようにまとめられている。「第二次世界大戦後の連合国による日本占領期、GHQ民間情報教育局(Civil Information and Education Section)は「ウォー・ギルド・プログラム」を実施した。文芸評論家の江藤淳はこれを「日本人に戦争の罪悪感を植え付けるための政策」と位置づけ、以後、保守論壇では「洗脳」言説が支持を広げていったが、それは学術的な根拠に基づくものではない」。「この政策はどのように立案・実施され、日本人はどう関わったのか。日本人は戦争とどう向き合い、その心理は時代を経てどう変わったのか。一次資料やBC級戦犯を主題にした映像を通じて、米国側の思惑と、日本側の受け止め方を明らかにする」。

 著者、賀茂道子の本研究の出発点となった江藤の主張は、「まえがき」でつぎのようにまとめられている「GHQは検閲という手段で言語空間を閉ざしたうえでこうした情報発信を行い、さらには東京裁判によって連合国の正義を押し付けた。これにより戦後日本の歴史記述のパラダイム転換が起こり、そのパラダイムを戦後も固く守り続けたために、日本人は間接的に洗脳された」。

 これにたいして、著者は、このアメリカの政策がほとんど検証されてこなかったにもかかわらず、保守論壇で支持され続けたことにたいして、実態を明らかにし、「日本人の視点を取り入れる必要性」を感じ、「ウォー・ギルド」に向きあった。その理由は、つぎのように説明されている。「実は、この日本人の視点に関しては、筆者にとって未達成の残された課題でもあった。占領史研究は日本側の史料が圧倒的に不足していることもあり、往々にして占領者の史料に依拠しがちである。本書では占領者だけでなく日本人にも焦点を当て、日本人は「ウォー・ギルド・プログラム」にどのように関わったのか、日本人は「ウォー・ギルド」をどのように捉えたのかを軸として、「ウォー・ギルド」と向き合った日本人の物語を描き出したい」。

 さらに、本書全体を、つぎのようにまとめている。「本書では、「ウォー・ギルド」を占領史の中にのみ位置付けるのではなく、戦後を含めた日本人の意識の中に位置づけるために、戦後製作されたBC級戦犯を主人公とする映像の分析を通して「ウォー・ギルド」の行方を追う。その際に、水面下で静かに流れ続けた非公式の語りにも注意を払いたい」。

 そして、「まえがき」の最後で、「「ウォー・ギルド」をどのように訳すのか」と自分自身に問いかけ、つぎのように「まえがき」を締め括っている。「このように言葉の定義づけにこだわる理由は、「ウォー・ギルド」という日本人にはなじみのない概念がこの政策をよりわかりづらくしている面が大きいからである。「ウォー・ギルド」とは何なのか、その本質はどこにあるのか、そして日本人はこの未知なる「ウォー・ギルド」にどう向き合い、先の戦争をどう捉えたのか。こうしたことを考えながら本書を読み進めてほしい」。

 本書は、まえがき、全5章、あとがき、などからなる。最初の3章は、著者が2018年に上梓した『ウォー・ギルド・プログラム-GHQ情報教育政策の実像』(法政大学出版局)を「ベースとして、日本側の反応などを加えて再構成し」たもので、新たに第4章と第5章を書き下ろしている。

 本書の結論にあたる「終章」はない。本書のタイトルの「GHQは日本人の戦争観を変えたか」の答えを著者は明確にまとめていないが、「限定的」で江藤淳の主張やそれを支持した保守論壇がいうような「洗脳」はなかった、問題はそれを日本人がどう捉えたかである、というところだろうか。「あとがき」から、つぎのような結論らしきものを拾うことができる。「もちろん、「ウォー・ギルド・プログラム」がプロパガンダであったことは否定のしようがないし、連合国側が全く残虐行為を犯さなかったわけでもない。また、日本占領はあくまで米国の国益達成のために行われたものだということも疑いようがない。しかしだからといって、スミスやダイクの思い[なぜ日本軍は人の命を虫けらのように扱うのか、そしてなぜそれを悪いと思わないのか]が否定されるものではない。日本人も、東条の東京裁判での堂々たる態度を賛美しつつ、日本軍の犯した残虐行為や侵略行為を恥じ入った。人間の感情は白黒はっきり線引きできるものではない。時には白と黒が共存することもある」。「筆者が、憲法改正や農地改革のような占領史を彩る華々しい政策ではなく、どちらかと言えば傍流の「ウォー・ギルド・プログラム」を研究テーマに選んだのは、こうした揺れ動く複雑な人間感情が垣間見えるところに心惹かれたからかもしれない」。

 日本が占領された歴史を日本側からみるための資料が欠けていて研究に支障をきたすように、日本に占領された国や地域の歴史についても同じ問題がある。占領されたことを教訓にして、占領した国や地域の歴史に思いを馳せることも重要だろう。


評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年1月20日、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』(龍溪書舎、2021年4月~ )全30巻+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。

瀧井一博編『明治史講義【グローバル研究篇】』ちくま新書、2022年6月10日、326頁、1000円+税、ISBN978-4-480-07456-0

 かつて大学で「国史」と呼ばれていたのが、「日本史」と呼ばれるようになって久しい。だが、その内実は変わったのだろうか。東アジアのなかの日本や世界のなかの日本を扱うのは「東洋史」や「西洋史」であって、「日本史」ではないと思っている偏狭な「日本史」研究者・教育者がいるなら、「国史」のままにしておいたほうがわかりやすい。いまや、「最新の国際的研究成果を結集し日本の近代化を多面的に検証」しなければ、近代日本史は理解できなくなっている。

 本書の内容は、表紙見返しで、つぎのようにまとめられている。「かつて西洋文明の圏外にあった日本は、西洋に由来する価値観や制度を受容し、定着させ、近代化を成し遂げた。明治維新が稀有な人類の歴史的経験であることに疑いの余地はない。それはいかなる思想と条件の下、可能となったのか。明治維新は世界史においていかに語られ、そこにどんな意味が見出されているのか。世界各地域の第一線で活躍する日本研究者の知を結集し、定説とされる歴史観に囚われず、国際的に大きなインパクトを与えた明治維新の世界史的意義を多面的に検証する」。

 本書は、2018年12月14-16日に国際日本文化研究センター(日文研)においておこなわれた国際シンポジウム「世界史のなかの明治/世界史にとっての明治」に集ったおよそ15の国ぐに、40名もの代表的日本研究者が議論のために用意したペーパーを中心に編まれている。

 編者の瀧井一博は、「二〇一八年を振り返ってみれば、明治一五〇年と唱えられながらも、それに対する一般的かつ学術的関心は決して高かったとはいえない」と述べている。いっぽう「目を海外に転じると、明治一五〇年を考える試みは、世界各地でいくつも催された。中国、アメリカ、ドイツ、イギリス、エジプト、トルコ、シンガポール、ベトナムといった国々で関係の学術会議が開かれた」。

 この「シンポジウムの具体的な議論では、明治期における日本人の海外での活動、明治維新が諸外国に与えたインパクト、公共性(公議公論)をキーワードとした明治維新の本質、喜劇や音楽を通じての明治日本の文化史的特性、江戸期日本社会との連続と断絶といった観点から活発かつ緻密な討議が行われた」。

 そのような討議のなかで、編者が印象的だったと感じたものを、つぎのように紹介している。「一次史料の綿密な読解を通じて新たな史実の提示と国際的な研究動向のなかでのその位置づけを行った研究報告があった。海外においても史料に基づいた実証的研究が進展しており、それが斬新な観点と接合して新たな研究の視角が拓かれていることが実感された」。

 そして、「はじめに」を、つぎのようにまとめている。「今日の日本人が明治に処する姿勢とは、それを通じて、日本が何を世界に向けて発信できるか、どのような寄与ができるかとの意識に基づいたものでなければならないのではないか。明治という経験が、世界の病を治すためのよき道具となり得るか。少なくとも、そのような問題関心をもつことから、自閉的でない世界史的な明治史研究が可能となるものと期待される」。

 本書は、つぎの16講からなる。
  オスマン官僚と明治官僚 ジラルデッリ青木美由紀 著
  台湾で再現した「明治」 蔡龍保 著
  一九世紀の革命としての明治維新 マーク・ラビナ 著
  明治日本と世界経済との関連 ジャネット・ハンター 著
  明治天皇の皇位継承儀礼とその遺産 ジョン・ブリーン 著
  中国の明治維新研究概観 秦蓮星 著
  明治に学ぶ ダリル・フラハティ 著
  地域社会の固有性と普遍性 マーレン・エーラス 著
  近代エジプトにおける明治日本 ハサン・K.ハルブ 著
  明治維新に関するベトナムの近年の研究関心 グエン・ヴー・クイン・ニュー 著
  中国近代化のモデルとしての明治維新像 黄自進 著
  トルコから見た明治維新 セルチュク・エセンベル 著
  フランスから見た明治維新 ベルランゲ河野紀子 著
  タイ地方行政能力向上プロジェクト 永井史男 著
  帝国の襲来 アリステア・スウェール 著
  紀州の夜明け前 サイモン・パートナー 著

 「世界から明治維新を見る16の視点」から、シンポジウムの趣意書の最後で書かれたつぎのことを、どう発展させていくか見守りたい。「明治日本の再現を唱えるのではなく、それが終わった歴史として客観化すると同時に、そこから人類社会の発展に寄与できるような知的資源を抽出するためのアカデミズムの国際的連携の場となることを目指したい」。

 「明治」という天皇の統治年代を表すことばが、「世界史」でも通用することの意味はなにかを考える必要があるだろう。だが、2018年の「明治維新150年を祝う政府の記念式典」に、天皇は呼ばれなかった。天皇抜きの「明治」とはなにかも、考える必要がある。


評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年1月20日、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』(龍溪書舎、2021年4月~ )全30巻+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。

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