早瀬晋三書評ブログ2018年から

紀伊國屋書店「書評空間」https://booklog.kinokuniya.co.jp/archive/category/早瀬晋三に2005~15年に掲載された続きです。2015~18年に掲載されたものはseesaaブログshohyobloghayase.seesaa.net/ で閲覧できます。

2023年04月

根本敬『つながるビルマ、つなげるビルマ-光と影と幻と』彩流社、2023年3月21日、218頁、2200円+税、ISBN978-4-7791-2877-6

 本書は、「ビルマ(ミャンマー)研究ひとすじ40年の著者が、いま伝えたいこと」をまとめたエッセイ集である。これまで書いてきた200編以上のエッセイから「自分のビルマ体験を振り返る」ものに的を絞って選んだ20数点からなる。

 本書は2部からなり、第Ⅰ部「ビルマを学ぶ、ビルマから学ぶ」は、「一九八〇年代後半に二年間ビルマへ留学していたときに経験した様々なエピソードから成るエッセイと、およそビルマとは無縁の話題を綴った数篇の雑文から構成されている」。第Ⅱ部「ビルマのいま、ビルマの未来」は、「アウンサンスーチーに関するものをはじめ、二〇二一年二月に発生したこの国で三度目となる軍事クーデターとその後の状況を論じた論説や、香港との比較を語り合った対談、日本に難民性を帯びてやってきたビルマの人々について書いた文章を並べている。エピローグでは私の半生に短く触れた個人のインタビュー記事を掲載した」。

 著者、根本敬にとって、1986-87年の2年間の留学がいかにその後の人生に大きな影響を与えたかは、本書のカバーや表紙に使われた写真の多くがその時期にあたることからわかる。カバーをめくらなければ気づかない87年に撮られた2枚のセピア色の写真が、カバーのカラー写真より著者の40年間を表しているようにも思える。アウンサンと僧院は、著者の研究の背後につねに目立たないが確実に存在していたものだろう。

 著者が伝えたいことは、本書の書名そのものである。その書名に込めた思いを、つぎのように述べている。「この国は一九四八年に英国の植民地から独立した後、一時的に議会制民主主義を経験したものの、その後は国軍による政治権力の独占という状況下に置かれてきた。二〇二一年二月のクーデター後も、国民は暴力的な抑圧の下に置かれている。しかし、そのような状況にあっても若い世代を中心に民主化と諸民族の平等を目指す国軍政権への抵抗が続いている(二〇二三年二月現在)。二〇二二年にロシアに侵略されたウクライナの苦しみと抵抗は国際的な同情と支援を得ているが、ビルマの場合は国民が同じような苦難に直面しているにもかかわらず、一国の「内戦」としてみなされがちで、なかなか有効な支援や介入がなされる気配にない。しかし、現実のビルマは「内戦」のような国民同士が複数に分かれて戦っているという状況にはなく、総選挙で圧勝した政党による民主的政府を武力で倒した国軍を絶対に認めない国民による抵抗が続いているととらえたほうが正確である。国軍は都市部の住宅街でもロケット弾を使用し、地方では村々を空襲で焼き、その結果一〇〇万人を優に超える国内避難民を出すに至っている」。

 「このような状況下にあるビルマの国民を私たちはけっして孤立させてはならないし、国際社会が様々な形でつながりを維持し支援をおこなう必要がある。一方で、ビルマの人々はけっして「助け」を求めているだけの弱者という存在ではない。今は国際社会の支援や介入を求めているが、彼らもまた私たちを「助け」てくれる存在である。二〇一一年の東日本大震災の際、在日ビルマ人は団体を組んで被災地の復旧にヴォランティアとして入った。仕事を休んで行った者が多く、中には休暇を認められず解雇された事例すらある。それでも被災地の人々を支援しようとしたのである。このような過去を思い出すとき、私たちは「助ける」のではなく「助け合う」、そして「教える」のではなく「学び合う」という姿勢の大切さを思わないではいられない。ビルマは孤立して存在する国ではないし、そこに住む人々も同じである。私たちと共に「つながり」「つなげる」存在なのである」。

 「本書の副題である「光と影と幻と」のうち、「光」と「影」には」、つぎのようなメッセージが込められている。「無論、世界のどの国や国民についても理想化してはならない。ビルマやビルマの人々についても、私たちは多角的にみつめ、その魅力と問題点を両方とらえる必要がある。「微笑みの国」「やさしい仏教徒が住む国」であったとしても、同時に国軍が国民を苦しめる国であり、多民族・多宗教・多文化の側面を持つ多面的な国でもある。犯罪もあれば麻薬問題もある。民族間の対立や差別もある。経済格差も大きい」。「三つ目の「幻」は、国民の多くが求め続ける平和と民主主義と諸民族平等の土台の上に経済的にも繁栄するビルマという、遠い未来、必ず実現させたい未来のことを指す。人は「幻」を見ながら生きるのであり、それを追い求めながら苦難を一つ一つ乗り越えていくのではないか。私はそう理解している」。

 著者の40年間のビルマ研究については、「あとがき」でつぎのように総括している。「私は一貫してビルマ・ナショナリズムそのものを大きな研究対象としてきた。より具体的には、日本軍占領期のビルマ(一九四二-四五)における対日協力と抗日の絡み合いの実態分析を土台に、その背景としての英領期ビルマの研究(英緬関係史)、なかでも一九三〇年代後半に独立運動で独特の行動を展開したタキン党(我らのビルマ協会)の特徴分析をおこなってきた。これらに付随して、独立後のビルマで不安定な地位に置かれた英系ビルマ人の歩みに関する研究や、一九六〇年代にビルマから追われたインド人(主にタミル人)に関する調査などもおこない、また歴史的視点を重視したビルマの現代政治分析に加えて、同国の民主化運動を率いるアウンサンスーチーの思想と行動に関する考察にも取り組んできた。ここ十数年は、さらにロヒンギャ問題に関する研究もおこなっている」。

 研究者のあいだには、年齢や専門分野の違いにもかかわらず、研究空間を共有する者たちがいる。研究を志した時代に同じ「空気」を吸っていたといってもいいだろう。東南アジア研究者の場合、1960年代の日米安保やベトナム戦争反対闘争に参加した「空気」があり、著者はその後の成田闘争(三里塚闘争)を経験して、学界でさかんに国民統合が唱えられていた80年代に東南アジアの1国ビルマへと旅だった。第Ⅰ部で語られたビルマでの経験は、80年代にフィリピンでフィールド調査をしたわたしと共通するものがある。その後、近現代日本・東南アジア関係史のプロジェクトでよくいっしょになった。わたしより若いのは、著者だけだった。ほかの共同研究者は、ひとつ上の世代の「空気」を吸っていた。本書を読んで、わたしたちとは違う「空気」を吸っている若い研究者は、日本と東南アジアの関係史を今後どう綴っていくのだろうか、という想いが浮かんだ。それは、著者が、40年間の研究がどうつながる、どうつなげるを考えながら、本書を編集したからだろう。近現代日本・東南アジア関係史研究が、今後どういう若手メンバーで執筆されるのだろうかと考えたとき、その顔がまったく浮かばない。


評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
早瀬晋三『電子版 戦前期フィリピン在住日本人関係資料:解説、総目録』(研究資料シリーズ9)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2023年3月、234頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるhttps://waseda.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_snippet&pn=1&count=20&order=7&lang=japanese&creator=%E6%97%A9%E7%80%AC+%E6%99%8B%E4%B8%89&page_id=13&block_id=21 )
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年1月20日、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』(龍溪書舎、2021年4月~ )全30巻+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。

津田浩司『日本軍政下ジャワの華僑社会-『共栄報』にみる統制と動員』風響社、2023年2月20日、780頁、6000円+税、ISBN978-4-89489-331-3

 ていねいに、ていねいに原資料『共栄報』の記事にもとづいて考察を積みあげ、議論を展開している。このような議論ができるのも、ひとつにはインドネシアの日本軍政に実際にかかわった者が戦後その体験に基づいて研究した成果がいくつかでているからだろう。本書でも、それらを参照しながら議論を進めている部分が少なからずある。もうひとつには、インドネシアで大きな戦闘がなく比較的平穏であったことがある。日本人戦没者数は、フィリピン51万8000、インド・ビルマ16万7000などに比べ、インドネシアは2万5400で、現地の人びとの犠牲者もフィリピンやビルマに比べ少なかった。それだけに、軍政にかかわった日本人の生存率は高く、現地の人びとにたいする後ろめたさも少なく、「平然」と自分自身の体験を語ることができた。このような「恵まれた環境」について、インドネシア研究者はあまり気づいていないようだ。

 本書は、「日本軍政期(1942年3月~1945年8月)のジャワで華僑向けに発行され続けた唯一の日刊紙である」『共栄報』を読み解くことによって、つぎのことを問おうとしている:「ジャワを総力戦体制へと巻き込んだ日本軍政期にあって、この地の華僑社会はいったいどのような統制を受け、またどのような動員を経験したのか、ということについてである。実は、この後の序章で述べるように、分厚い蓄積がある日本軍政期のインドネシア研究全体のなかにあって、当時人口70万ほどを数え経済構造上も枢要な地位を占めていたはずの華僑社会に対する注目は、意外なほど希薄であり、歴史記述も極めて粗いままに留まっている。本書は上述の基本的な問いに対し、この時期ジャワにおいて華僑向けの情報統制・発信を一手に担い続けていた日刊紙『共栄報』を主要な資料として分析することを通じ、具体的に答えていこうとするものである」。

 本書は、はじめに、序章、4部各部3章全12章、終章、あとがき、などからなる。第Ⅰ部「資料としての『共栄報』」は、「本書で中心的に依拠する日刊紙『共栄報』の史料批判に割かれる」。第Ⅱ部「日本軍政の開始と華僑社会の混乱」第Ⅲ部「華僑総会の成立と展開」第Ⅳ部「強まりゆく統制・動員の諸相」では、「その『共栄報』を主要資料として用いつつ、日本軍政期ジャワの華僑社会の動向をおおむね時系列に沿って記述していく。日本軍によって南方全体の兵站基地として位置づけられたジャワの歴史過程は、3年半という占領期間を大局的に見るならば、人々を総力戦体制へと巻き込む形で統制と動員が次第に強まっていった過程として捉えることが可能だろう」。

 そして、終章「『共栄報』から見えること/見えないこと」で、見えることは以下のように答えてから、「日本軍政下の華僑社会とインドネシア人社会との関係」「二項対立を超えて(1)-日本軍政の対華僑政策の性質をめぐって」「二項対立を超えて(2)-日本軍政下の華僑指導層の再評価に向けて」の見出しの下にまとめている。「これまでほとんど実態解明が進んでいなかった当該対象をめぐって、おおむね時系列に沿いつつテーマごとに明らかにしてきた、本書各章の記述自体がまさにそれである、ということになろう。本書の記述によって、1942年3月から45年8月ないし9月までの間に、この地の華僑社会が経験した過酷な歴史過程が、単なるインドネシアのネーション・ビルディングの前史として目的論的に還元されるのではなく、また抗日武勇伝を語るための舞台として後景化されるのでもなく、3年半の間に時々刻々と変化するコンテクストのなかで課された具体的な諸施策、そしてそれに対する華僑らの応答の過程として、ヴィヴィッドに見えてきたのではないかと思う」。

 見えないことでは、「資料的制約」の見出しの下で、いくつもの課題にとって重要と思われるつぎの3点を挙げている。「ひとつは、本書においては、軍政下のジャワの華僑社会が経験した歴史過程を、各地の華僑社会で一定の役割を担ったリーダーたちの名を挙げつつ具体的に記述してきた。ただし、こうして展開してきた記述は、同時代のいわゆる市井の人々-ここには本来、華僑社会内でもしばしば周辺化されがちな女性・子供・貧困者等の存在も含まれねばならない-の暮らしを活き活きと伝えるような社会史記述とは依然距離がある、という点である」。「ふたつ目は、ひとつ目で述べた点とも一部重複するが、『共栄報』が当時のジャワ華僑-仮にそのようにひと括りにできるとして-の言説空間のなかでいかなる位置を占めていたのか、個別具体的な検討が未着手である、という点だ」。「最後の3つ目であるが、それは、本書がジャワの華僑社会を総体として描いている、という点である」。

 そして、「今後いかなる研究の展開があり得るか」と問いかけ、「ひとつは、『共栄報』をさらに細かく読み込んでいく、という方向性」、「もうひとつの方向性は、比較の視点を導入することである」と答えている。さらに、「日本軍政下のジャワの華僑の経験は、たとえばスマトラ、ボルネオ(カリマンタン)やセレベス(スラウェシ)、あるいはシンガポールやマラヤ、それにインドシナ、フィリピン等におけるそれと比較した際に、何が共通し何が異なっていたのだろうか」と問いかけている。その答えは、すでに復刻されている日本軍政期の日本語を中心とした新聞の「解説」から見えてくるものもあるだろう。たとえば、『復刻版 ボルネオ新聞』の索引から共通することばを拾っていけば、その一端がわかるだろう。

 著書の指摘するようにジャワ研究に特化した研究はマイナス面もあるが、研究蓄積、資料に「恵まれた」面を活かして、比較研究をリードするにはいい位置にある。インドネシアのほかの地域や、関係者が多く戦死し資料が焼失・散逸したほかの国や地域の研究の指針となることもできる。日本占領期の東南アジア研究を戦前からの延長、戦後への延長と捉えると、近現代日本・東南アジア関係史研究全体の発展にもつながり、ジャワを相対化することによってジャワ研究も深化・発展するだろう。

 本書でいいのは、「わからない」「不明である」と実直に書かれていることである。わかることだけを書いたものと違い、わからないことを含めて全体像を理解しようとする著者の真摯な姿勢がみえて好感がもてるだけでなく、今後の研究への示唆を与えている。

 これだけ大部なものにもかかわらず、誤植がほとんどない。コロナ禍の影響で海外出張などができず、ゆっくり時間がとれたことが幸いしたのかもしれないが、逆にコロナ禍でなんとなく落ち着かずミスを犯しやすい状況にあったともいえる。そのようななかで、著者の集中力が完成度を高め、『共栄報』の読み解きにも細心の注意を払ったことが伝わってくる。「画期的な労作」ということばは、まさに本書にふさわしい。


評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
早瀬晋三『電子版 戦前期フィリピン在住日本人関係資料:解説、総目録』(研究資料シリーズ9)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2023年3月、234頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるhttps://waseda.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_snippet&pn=1&count=20&order=7&lang=japanese&creator=%E6%97%A9%E7%80%AC+%E6%99%8B%E4%B8%89&page_id=13&block_id=21 )
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年1月20日、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』(龍溪書舎、2021年4月~ )全30巻+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。

原民樹・西尾善太・白石奈津子・日下渉編著『現代フィリピンの地殻変動-新自由主義の深化・政治制度の近代化・親密性の歪み』花伝社、2023年3月20日、280頁、2000円+税、ISBN978-4-7634-2054-1

 若い研究者が、切磋琢磨するのをみるのはいいもんだ。なんとなく感じていた現代フィリピンの「地殻変動」を、具体例とともに知ることができた。

 本書の目的は、4人の編者のひとり、原民樹の「批判的序論 2010年代のフィリピン政治をどう理解するか-社会民主主義への転換」の冒頭で、つぎのように端的に示されている。「本書は、2000年代の現実を基礎にしたフィリピン理解に対し、2010年代のフィールド調査から新しい変化をつかみだし、これまで注目されてこなかった論点を提示する試みである。本章[「批判的序論」]に続く各論は、序論[新時代のフィリピン人-なぜ「規律」を求めるのか]で展開された日下[渉]のフィリピン社会論との批判的対話を通して、さまざまな切り口からフィリピンの新しい姿を描く」。

 「批判的序論」では、「2010年代に調査を行った政治研究者の立場から現代フィリピンの変化を検討し、日下の議論に正面から批判を加え、最後にそこから浮かび上がるフィリピン理解の相違を手がかりに、各論であつかう論点の意義を紹介する」。

 「2010年代のフィリピン政治の変化」は、つぎの6つにまとめられている:「1.新自由主義+寡頭制から社会民主主義+反寡頭制へ」「2.インフラ政策」「3.労働力輸出政策」「4.女性政策」「5.福祉レジーム論から見たフィリピンの変化」「6.アキノ・ドゥテルテ政権の歴史的意義と限界」。そして、「2000年代の現実を基礎にした」「日下論文への批判」は、つぎの3つにまとめられている:「1.新自由主義による分断なのか?」「2.福祉制度の評価をめぐって」「3.反国家主義の限界」。

 本書は、はじめに、問題の所在、2部各部5章全10章、結論にかえて、あとがき、からなる。「問題の所在」は、「異なる視点からの2つの序論」からなる。「第1部「フォーマリティへの欲望」は、2010年代における政策や制度の変化を論じる。ここでは、国家の力が弱く、属人的関係が主たる社会編成原理であるためにインフォーマルな領域が大きかったフィリピンにおいて、フォーマルな領域が拡大していることが見出されている」。

 「第2部「ままならないインティマシー」は、急激な社会変化が人々の親密な領域に与える影響に注目し、現代フィリピン人の生のあり方を多面的に活写する。ここでは、フィリピン社会における変わりゆくものと変わらないものが、具体的な位相において捉えられる」。

 そして、終章となる「結論にかえて」(白石奈津子論文)では、「「時間」をキーワードにしながら、本書を総括する。そこでは、新自由主義化、近代化、親密性の変容が複雑にからみ合う現代フィリピンのダイナミズムが、各論文の議論をふまえ、日下や筆者[原民樹]とは異なる視点から整理される」。

 本書の結論は、「あとがき 変化の混沌を受けとめる道行き」の「舞台裏」の顛末の最後にあるようだ。つぎのように書かれている。「一番のトラブルな道のりは、最終段階(原稿締め切りのなんと10日前!)に生じた。最終的に提出された日下の序論が、極めて首尾よく様々な議論をまとめているがゆえに日下の論を批判する「世代間プロレス」の構成が破綻してしまっているという異論が出たのである。企画の締め切りを延ばして、もう一度議論を再構成するか、編者たちで何度も話し合ったが、最終的に落ち着いたのは「元の構成のままでいこう」という結論だった」。

 本書は、フィリピン・ナショナル・スタディーズの枠内で語られているため、フィリピン研究で前提となる基礎的なことはあまり説明されずに議論が展開されている。省略されたことをまとめると、つぎの3つになり、それが相互に絡みあっていまのフィリピン社会があるということになるだろう。これらのほかにカトリック教徒が多く、その影響で離婚や人工中絶が「できない」ことなどがあるが、省略できない本質的なことで本書でも正面から取りあげている。

 まず、フィリピンが流動性の激しい海域社会に属しているため、自己完結的な社会を考えず、必要なものは外からもってくる、もってこられないなら自分たちが行くという考えがある。海外就労がそのひとつの例で、それによって条件のよくない国内就労にこだわらなくなる。

 ふたつめが、フィリピンは1898-1946年にアメリカの植民地であったために近代の基本的制度が、アメリカによってもたらされたことである。選挙や社会保険制度がその例で、フィリピン人エリートはアメリカで教育を受けた者が多く、それを「常識」と考えている。しかし、海域世界に属しているため、制度化は徹底せず、中央集権化せず、インドネシアでいわれる「村落国家」的な地方の自治・独自性が残った。

 三つめが、2015年に成立したASEAN共同体の影響である。12年に中等教育が4年間から6年間になったのも共同体の3つの柱のひとつの社会・文化共同体への影響がある。海域世界に属するため、セレモニー的な公式会議より非公式な対話が重視される。かつては、英語に堪能なフィリピン人が「おしゃべり」であったが、ほかのアセアン諸国代表の英語力が高まり、アセアン内での発言力はけっして大きくない。かつて1人あたりのGDPでかなり差をあけていたインドネシアにも抜き去られた。1959年から隔年ごとに開催され、非公式対話の場になってきた東南アジア競技大会でも、メダル獲得競争でインドネシアにつぐ人口にもかかわらず、小国シンガポールにも及ばない6位が定位置になっている。アセアン諸国内での人の流れも活発になり、空港にはアセアン専用の窓口があり、滞在する者も各国で多くなって、庶民レベルで各国を比較でき、ほかのアセアン諸国を意識せざるを得なくなってきている。柔軟性のあるアセアン方式(アセアン・ウェイ)は、アセアン内で臨機応変に対処できるいい面もあれば、なにも決められないというアセアン外に評判のよくない面もある。アセアン内で考えることも有効になってきている。

 このような近代社会の成り立ちのなかで、制度化、中央集権化が充分にされていないフィリピンでは事例研究が成り立ちにくく、時代や社会によってさまざまな事例が紹介され、モデルとなった先行研究の事例が批判されてきた。したがって、2000年代をモデルとして10年代の事例を持ち出せば批判の対象となる。そして、この10年代のモデルも20年代の事例研究によって批判されることになるだろう。そうしたなかで、社会科学だけでは充分に理解できない東南アジア研究に、地域研究の重要性が持ち込まれてからずいぶん時が過ぎた。10年代に事例研究をおこなった者は、すでに地域研究が当たり前のなかで研究をスタートしている。本書のなかに、社会科学をこえた論考があるのは、その影響だろう。温帯の定着農耕民社会を事例に近代で発展した社会科学だけで、熱帯の流動性の高い海洋民社会に属する東南アジアを理解するには無理がある。

 本書で議論されたもののなかには、たとえば「麻薬戦争」のようにアセアン各国共通の課題がある。その点、本書に寄稿した者が、それぞれ英語での発表を積極的におこない、ほかのアセアン諸国、あるいは第三者の立場の研究者と議論することができる条件を整えていることを頼もしく思う。想定する読者対象をフィリピン人だけでなく、もっと広げることによって、リージョナル、グローバルな問題として議論することができる。そのためには、フィリピンの基礎的なことがわかるように説明することも必要だろう。

 最後に、議論が多岐にわたると当時に、共通するものもあるため、索引がほしかった。たとえば、行政地域としてのメトロ・マニラ(首都圏マニラ)とマニラ首都圏は、あきらかに違うことが索引を作成すればわかるだろう。首都圏マニラの地域的範囲は変わらないが、マニラ首都圏は拡大している(縮小することもある)。フィリピン政府もID CARDなどに使うOverseas Filipino Workers (OFW)は、日本的文脈で「海外出稼ぎ労働者」と一般に書かれるが、元の英語に「出稼ぎ」とことばはない。本書でも、それを使い分けているものもある。そして、「出稼ぎ」はもはや個々の生活、社会の一部になって、たんに「出稼ぎ」とも言えなくなってきている。日本の「移民」ということばの意味が、戦前、戦後、現代と違うように、フィリピンのOFWの内実にも時代的変化がある。

 流動性の高い海域世界に属するフィリピン人は、そのときその場で自分の居場所を見つけていくたくましさをもっている。頭でっかちの議論をよそに、研究者の想定をこえた言動をすることがある。そこにグローバル化社会のいまを生きる知恵があり、反面教師としての面を含め、わたしたちが学ぶことがある。

 さて、この「世代間プロレス」に参戦した12人の10年後、20年後が楽しみだ。ぜひ、同じメンバーで、同じタイトル(当然、副題は変わる)で「第2版」を出してほしい。自分たちが書いたことを批判の対象として。その前に、わたしが30代前半に取り組んだ『フィリピンの事典』(同朋舎、1992年)を出版してから30年以上が過ぎたので、これだけのメンバーがいるなら新しい「フィリピンの事典」を出版するのもいいだろう。本書でいう「地殻変動」が起こっているなら、「事典」の項目の多くが役に立たなくなっているはずだから。


評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
早瀬晋三『電子版 戦前期フィリピン在住日本人関係資料:解説、総目録』(研究資料シリーズ9)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2023年3月、234頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるhttps://waseda.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_snippet&pn=1&count=20&order=7&lang=japanese&creator=%E6%97%A9%E7%80%AC+%E6%99%8B%E4%B8%89&page_id=13&block_id=21 )
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年1月20日、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』(龍溪書舎、2021年4月~ )全30巻+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。

アミナ・マジッド・ウスマン長田周子、サルミヤ・マジッド・ウスマン『インドネシア独立への悲願-アミナ・M・ウスマン108歳の証言』花伝社、2022年10月25日、305+vii頁、2000円+税、ISBN978-4-7634-2031-2

 本書の内容は、帯の裏につぎのようにまとめられている。「スカルノ、ハッタと並び称されるインドネシア独立の志士、アブドル・マジッド・ウスマン。日本に学び、志を共にする長田周子と帰国した彼は、故国の独立に身を捧げ、言論の力で民衆を啓蒙する」。「300年にわたるオランダ支配に終止符を打った日本軍政に対する二人の期待は、やがて失望に変わり、家族の運命は危機に晒される。その裏にあったのは、日本のスマトラ植民地計画と本土決戦に備えた遷都計画だった-」。

 「本書出版の大きな目的」は、娘のサルミヤ執筆の「あとがき」で、つぎのように記されている。「それぞれが固有の文化、言語、習慣を持つインドネシアの島々の違いが理解できない未熟な学者は、しばしば各島固有の言語の持つ背景を理解できないがゆえに間違いを犯す。それを直視することなく、日本人がインドネシア語を読めず、インドネシア人が日本語を読めないのを良いことに、勝手に作為し、得々としているような著作が溢れている。そういった「研究成果」の誤謬を正すことも、本書出版の大きな目的である」。

 「ことも」ということで、その前に別の目的が、つぎのように記されている。「インドネシア独立闘争の中で担った役割を世間に誇示することなく、名誉も名声も富も望まない人生を送った両親の生き方を、私[サルミヤ]は誇りにしていた。私は、著者[日本人研究者]を糾弾する前に、日本語の自著で両親の正しい人間像と母の大東亜戦争に関わった実体験の歴史を書く責務を感じた。そのようにして日本語で両親の実像を書くことを決心し、出来上がったのがこの本である」。

 この日本語の本の元になったインドネシア語の本については、つぎのように説明している。「二〇一七年、母の一〇三歳の誕生日に、父に捧げた深い愛情で書かれた母の心を、私は母のメモを元にインドネシア語で上梓し、ジャカルタのオボール社から出版した。三百年間植民地としたオランダ軍から、そしてインドネシア侵略を画策した日本軍から、祖国を解放するためにタイプライターで抗い続けた父の四八年間の人生を見守った貴重な母の心の集積を、子供たちに残したメモを元にした本だった」。

 その「メモ」を書いた母のアミナ(長田周子)は、「はじめに」でつぎのような経緯を記している。「本書は私が長年書きとめ、一九八九年西スマトラ州政府の要請により「インドネシア共和国独立功労勲章授与」のために編纂し、またパダンで開催した「マジッド・ウスマン生誕一〇〇年記念」の二〇〇七年に作成した小冊子をもとに、二〇一七年にオボール出版社に依頼した『MEMOAR Siti Aminah Madjid Usman-Hiroko Osadaシティ・アミナ・マジッド・ウスマン長田周子の回想録』を原本としています。その際には、私が実体験した事柄の記憶と、これまで残しておいた個人的なメモをもとに口述した回想録と共に、「ラジオ新聞」「スマトラ新聞」を資料として、長女サルミヤがインドネシア語で書きおこしてくれました」。「今回の日本での出版にあたっては、再びサルミヤがインドネシア語で書かれたこの原本を日本語に翻訳した上で再構成し、補足の記述を加えています」。

 また、つぎのようにも記している。「本書は、私個人の回想録であるとともに、様々な政治勢力と軍事機密の中で葛藤を抱えながらも、インドネシアの独立のために奔走したアブドル・マジッド・ウスマンの戦いの記録でもあります。また、私は日本に生まれ育った日本人ではありますが、本書は日本人あるいはオランダ人の目線ではなく、あくまで第二の母国インドネシアの国民としての立場から記述しています。そのため、日本の読者には多少不愉快に思われる部分もあるかもしれませんが、その点をご容赦ください」。

 帯の表には、つぎのように記されている。「インドネシア独立の志士マジッド・ウスマンを妻として支えた日本女性が語る、日本軍スマトラ占領計画秘史」「ここに歴史を書き換える、数々の証言。日本軍スマトラ侵略の「本当の狙い」とは?」「スカルノとの捕虜交換、「義勇軍」誕生の真相、そして東条英機の仕組んだウスマン一家の日本幽閉……世紀を越えた沈黙を破り当事者が明かす、驚愕の歴史事実」。

 本書で明らかになったのは、「日本人がインドネシア語を読めず、インドネシア人が日本語が読めない」ことによる「誤った」歴史である。日本人研究者による「研究成果」があるいっぽうで、その「研究成果」に応えるインドネシア人の「研究成果」がすくないことで、「インドネシアの国民の立場」から見れば「誤った」歴史が流布しているように見える。著者のいう「それぞれが固有の文化、言語、習慣を持つインドネシアの島々の違いが理解できない未熟な学者」は、第三者の目で客観的に見ることができるかもしれない。いっぽうで、インドネシア人だからといって「違い」を理解しているとは限らない。一般の人びとが肌で感じているものは、事実とは違うことがある。要するに、日本とインドネシアとの関係史には大きな偏りがあり、とくに「研究成果」のすくないインドネシア人の立場から見れば多々不満があることだろう。この本を契機に、インドネシア人が「誤った」日本人による研究成果としてのインドネシアの歴史を、自分たち自身の歴史として「取り戻す」試みをすることを期待したい。もちろん、日本人研究者は、それに応えなければならない。


評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
早瀬晋三『電子版 戦前期フィリピン在住日本人関係資料:解説、総目録』(研究資料シリーズ9)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2023年3月、234頁。
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年1月20日、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』(龍溪書舎、2021年4月~ )全30巻+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。

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