早瀬晋三書評ブログ2018年から

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2024年02月

根本敬・粕屋祐子編著『アジアの独裁と「建国の父」-英雄像の形成とゆらぎ』彩流社、2024年2月16日、337頁、2800円+税、ISBN978-4-7791-2954-4

 本書のキーワードは、主題にあるとおり「独裁」と「建国の父」である。この2つのキーワードの関係を、編著者のひとり、粕屋祐子は序章「権威主義体制における正統性問題と「建国の父」-比較分析試論」で、つぎのようの説明している。

 「本書では、独裁(政治学用語では権威主義体制)における正統性問題を検討する手がかりとして、「建国の父」に着目する。どのような統治者も、何らかの形で統治の正統性、すなわち、統治される側から統治にふさわしいリーダーであるとみなされる状況を確保する必要がある。民主主義体制においては、選挙を経ることでリーダーには統治の正統性が付与される。一方で独裁においては、選挙以外の正統性訴求手段が重要になる。選挙があったとしても、その結果が公正なものとは認識されないことが多いからである。こうした状況において、権威主義リーダーにとっての正統性訴求手段の一つとして存在するのが「建国の父」シンボルである、というのが本書の基本的スタンスである」。

 そして、「「建国の父」という権威主義体制における体制正統性の訴求手段は、本人及びその後の後継エリートにとってどのように構築・継承され、変容しているのか。これが、本書を貫く基本的な検討課題である」。

 本書は、はじめに、序[章]、3部全10章、おわりに、からなる。「本書の骨格を紹介する」「序章では、正統性という概念を簡潔に定義したのち、権威主義体制研究における正統性分析の状況を示した上で「建国の父」に焦点をあてることの有用性を示す。こうした理論的位置づけののち、本書で事例分析の対象とする国と人物を紹介する。後半では、本書の各国分析で出された知見を比較するなかで浮かび上がってくる論点を検討し、今後の研究に向けての示唆を提供する」。

 「はじめに-なぜ、アジアの独裁における建国の父に注目するのか」は、「本書の特徴」と「本書の構成」の2つの見出しからなり、後者では各部、各章の内容が紹介されている。

 第Ⅰ部「神格化される「建国の父」」は3章からなり、「建国以来一党支配体制が続く国での建国の父を取り上げる。中国の毛沢東、北朝鮮の金日成、ベトナムのホー・チ・ミンである」。

 第一章「中国 毛沢東のふたつの神話-「二万五千里長征」と「抗米援朝」」では、「一九三四年から二年間にわたる共産党とその軍の約一万二〇〇〇キロに及ぶ大移動」である「長征」と「朝鮮戦争の中国における呼称」である「抗米援朝」「の際の大衆運動を題材に、これらにおいて毛沢東の役割が党の方針によりいかに神格化されていったのかを分析する」。

 第二章「北朝鮮 金日成-「偉大な首領様」の神話化」では、「北朝鮮国民に事実上の講読義務が課されている朝鮮労働党中央委員会機関紙『労働新聞』を詳細に検討する。同新聞における金日成の「業績」、肖像画や敬称の扱いをたどり、金日成の正統性根拠が「建国の父」であるのに対し、金正日と金正恩は金日成の「業績」を継承する者として正当化を図っていることを示す」。

 第三章「ベトナム ホー・チ・ミン-偶像化が進む民族の慈父」では、「ホー・チ・ミンがベトナムの「国父」であるとのイメージがどのように作り出され、利用されてきたのかについて検討する」。「ホー・チ・ミン自身は自らを偶像崇拝の対象とすることを望んでいなかったが、ベトナムに社会主義を建設するため、さらには、党の指導の下に新たな国民国家を形成するためにあえて伝記等を通じた個人崇拝を本人と党が創っていった」。

 第Ⅱ部「権威主義リーダーの交代と「建国の父」」は4章からなり、「建国後、民主主義から権威主義へ移行した国、または、建国以来の権威主義体制は継続しているが、異なるリーダー集団が政権の座についた国における国父を扱う。ミャンマーのアウンサン、カンボアジア[カンボジア]のシハヌーク、パキスタンのジンナー、そして、中央アジアに位置する国のうちカザフスタンのナザルバエフ、ウズベキスタンのカリモフ、トルクメニスタンのニヤゾフである」。

 第四章「ミャンマー アウンサン-三二歳で暗殺された指導者の歩みと、独立後の顕彰のゆらぎ」では、「独立直前に暗殺されたアウンサンに関して、歴代の体制エリートがそれぞれの政治環境に応じて異なる扱いをしてきたことを示す。「建国の父」であるだけでなく「ビルマ国軍の父」という位置付けがされるアウンサンは、独立後の軍政期には顕彰が進んだが、一九八八年に生じた全土的民主化運動で彼の娘であるアウンサンスーチーがそのリーダーとして出現してからは、アウンサンの顕彰が控えられるようになった。二〇一六年から二〇二一年の軍事クーデターまでのアウンサンスーチー政権期には再び国父として称えられるようになる」。

 第五章「カンボジア シハヌーク-復活を繰り返した長命な「建国の父」」では、「王家に生まれ独立直前には国王であったシハヌークが、独立後に独裁を確立するにあたりいかに自らの立場を「建国の父」とする制度化を進めていったのかを詳細する。これを受け、シハヌーク後の体制エリートたちが、シハヌークとの関係性に応じて彼の国父としての扱いを変えていったことが分析される」。

 第六章「パキスタン ムハンマド・アリー・ジンナー-ムスリムの自由を求めた「建国の父」」では、「パキスタンのジンナーを分析する。英領インドの独立運動はパキスタン・インド分離独立という結末を迎えたが、その過程でムスリムのための政治的単位が必要だと主張したジンナーは、現在のインドでは「インドを割った男」であるが、パキスタンにおいては「建国の父」として揺るぎない地位にある。ジンナー死後の各政権では、軍政期を含め、ジンナーの建国理念であった立憲主義を否定するエリートは(イスラーム国家を理念としたジアーウル・ハク軍事政権の九年間を例外とし)現れていないと指摘する」。

 第七章「中央アジア諸国 ナザルバエフ、カリモフ、ニヤゾフ-「建国の父」の威光はなぜ失われるのか」では、「中央アジアなかでもカザフスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタンの三カ国における初代大統領の「建国の父」としての浮き沈みを検討する。彼らに共通するのは、ソ連解体後に個人独裁型の権威主義体制を長期にわたって敷いた一方で、死後・辞任後には後継者により比較的早急にその威光が剥がされたという点である」。「ソ連時代から引き継がれたある程度発達した官僚制が大統領権限と結びついていることから、後継者にとっては前大統領を国父として正統性訴求をする誘因に欠けていることがその主要な理由である」。

 第Ⅲ部「民主化と「建国の父」」は3章からなり、「権威主義体制から民主主義への移行したコンテクストを扱う。具体的には、韓国の李承晩、台湾の蒋介石、インドネシアのスカルノである」。

 第八章「韓国 李承晩-失墜した韓国の「建国の父」」では、「韓国の独立運動を主導し、初代大統領となって一九六〇年まで統治した李承晩の生涯と、彼の退陣後の軍政期及びそれに続く民主化後の時代における李承晩への評価に焦点を当てる。李承晩は選挙によって選ばれた大統領でありながら個人独裁化を進めたことで、その後に経済開発を正統性訴求手段とした軍政からも、また自由な選挙を重視する民主化運動からも否定されたと分析する」。

 第九章「台湾 蒋介石-中華民国在台湾の「建国の父」」では、「一九四九年から台湾を統治することになった中華民国(国民党)政府の蒋介石に関し、自身がどのように「建国の父」像を演出したのか、さらには、民主化後に国民党から民進党政権に政権交代したのちに「移行期正義」の文脈でどのように蒋介石の評価が変化したのかを」分析する。

 第一〇章「インドネシア スカルノ-インドネシアが求めた政治的役割」では、「インドネシアの国父スカルノに対する評価の変遷を辿る。一九四九年のオランダからの独立後に初代大統領となったスカルノであるが、一九五九年からは個人独裁に移行し、一九六五年のクーデタにより退陣した。その後実権を握ったスハルトは、スカルノの遺産を利用しつつも脱スカルノ化を進めたこと、また、民主化後には再びスカルノの功績を讃える動きが出てきていることを示す」。

 「序章」の「おわりに」で、本書の「結論」にかわるのものが、つぎのようにまとめられている。「限られた事例からの抽出ではあるが、「建国の父」という体制エリートにとっての正統性訴求手段の創り方と使い方には、ある程度パターンがあることがわかる。国際的な体制の閉鎖性や権限の一極集中といった条件が「建国の父」の神格化を可能にするかも知れないこと。権威主義リーダーが別の権威主義リーダーに代わる際の政権掌握手段にその後の「国父」の扱い方は依存する傾向があること。また、独裁を敷いた「建国の父」であっても、その退陣の形態により民主化によって悪者にされる場合と、民主化と親和性を持って迎えられる場合に違いがあることなどである。これらの論点は、今後より多くの事例検討とともに精査される必要がある。同時に、本章で検討した以外のパターンの抽出も、今後の研究の課題として残されている」。

 本書を通して読むと、「アジア諸国の近現代史を横断的に理解」することができる。南アジアのパキスタンや中央アジア諸国を加えることによって、東南アジアを含む東アジアの近現代史とは違うアジア史の一面が見えてくる。1840-42年のアヘン戦争にはじまる東アジア近現代史とも、1945-89年の冷戦期を背景としたものとも違う。権威主義体制のなかにも民主的なものが見え隠れし、民主主義体制のなかにも強いリーダーシップの必要性が感じられる。温帯の定着農耕民世界だけでなく、熱帯の海域世界から沙漠の遊牧民世界まで含んでいるアジアの多様性を理解するためにも、本書の横断的理解は役に立つ。


評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9

早瀬晋三『戦前期フィリピン在住日本人職業別人口の総合的研究』(研究資料シリーズ10)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2024年3月(近刊)。
早瀬晋三『電子版 戦前期フィリピン在住日本人関係資料:解説、総目録』(研究資料シリーズ9)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2023年3月、234頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるhttps://waseda.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_snippet&pn=1&count=20&order=7&lang=japanese&creator=%E6%97%A9%E7%80%AC+%E6%99%8B%E4%B8%89&page_id=13&block_id=21 )
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』第一期(大正期)全12巻(龍溪書舎、2021年4月~23年1月)、第2期(昭和期)電子版(龍溪書舎、2023年12月)+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。

古田和子・太田淳編『アジア経済史 上』岩波書店、2024年1月26日、352頁、3400円+税、ISBN978-4-00-061626-3

 経済史は、経済学を基本としたものと歴史学を基本としたものとでは、まるで違う。本書は、地域研究を基本としたものである。それは社会科学的理論だけにもとづいたものでもなければ、文献だけを中心に考察したものでもなく、どういうものを基本にしたかは本書第Ⅰ部「アジア経済の基層」で示されている。第1部は4章からなり、それぞれの章のタイトルは「環境と人びと」「人口変動と人口移動」「物質文化-湿潤気候下の衣食住」「歴史の個性」である。

 地域研究としてのアジア経済史は、つぎのようにまとめられている。「アジアは、域内での貿易・投資の相互依存関係を深めることで、経済成長を地域として実現したことが特徴であったが、東アジア、東南アジア、南アジアの関係は近年あきらかに変化しつつある。現在のアジアは、域内の国際政治秩序をどう担保し、経済連関の枠組みをどう再編するのかという喫緊の課題に直面している。こうした状況を念頭に置くとき、アジアの社会経済変化を長期的なタイムスパンで捉え、アジア経済を形作ってきた特徴や地域の相互作用を改めて検討し理解する作業は、今後の世界を見通すために不可欠な視座を私たちに与えてくれるだろう」。

 アジアのなかでも、なぜ東アジア、東南アジア、南アジアなのかは、序章「アジア経済史とは」で、つぎのように説明している。「本書は東アジア、東南アジア、南アジアに相当する地域を対象とし、ケッペンの気候区分で言えば亜寒帯から、温帯、熱帯、乾燥帯まで多様な気候帯を含むが、主要地域はモンスーン(季節風)の影響を大きく受ける、いわゆるモンスーンアジアに属する、世界の三大穀物の一つであるイネ(米)はモンスーンアジアを原産とし、一粒から得られる収穫倍率をみたとき、その効率はコムギをはるかに上回り人口扶養力が高い。高温湿潤を好むイネの栽培環境は感染症や病虫害の脅威も大きく、洪水・塩害を防ぎながら稲作が現在のような巨大な人口を支えるようになるためには一定の技術的進歩が必要だった」。

 本書が「対象とする時期は16世紀から現代までである。ただし、環境、気候変動、疾病,人口、物質文化、歴史の個性など、アジア経済の基層を形成している要素については15世紀以前にも遡って考察している」。

 本書は、3つの分析視角に焦点をあてており、それぞれつぎのように説明している。第一の「アジア経済の「連関」を問う視点」は、「後にアジア交易圏論と総称され」たもので、論者たちは「それぞれの専門地域の比較史ではなく、地域間の連関を探ろうとする方向性」で一致し、「アジアの近代史を各国別に足し合わせた単純総和としてのアジア史を止揚することをその根底に合意していた。言い換えれば、「アジア経済史」という分析枠組みを設定することで初めて明らかになるアジア経済の構造がある」ということが示された。

 第二の「アジア地域の「比較」を考える視点」では、「「比較」の基準には国家と財政、家族・相続・社会集団などさまざまなものがあるが、ここではそのなかで市場と市場秩序とを取り上げ」る。
 第三の「「人びとから出発する」視点」では、「人びとから出発する方法として」、「人びとが個別の経済活動を行うときになぜか拘束されるものであり、外からの強制ではないという意味で内生的な秩序形成である」共有予測を探ることが有用であり、「また、人びとが日常的な概念形成をする際に好まれる考え方や感じ方、理解の仕方、表現の仕方に注目することももう一つの視点として重要である」と説明している。

 本書は6部からなり、「上」巻である本書では第Ⅳ部の前半まで全12章からなり、第Ⅳ部の後半と第Ⅴ-Ⅵ部は「下」巻になる。各部は、序章の最後「本書の構成」でまとめられており、「教科書」になることを念頭に、各部の最初の1頁で各部、各章の概要がまとめれている。

 第Ⅰ部「アジア経済の基層」では、「アジア経済の基層を構成する要素を検討する。地形、気候、疾病、人口、物質文化(衣食住)という要素は、人間の経済活動とその歴史の根幹となる層を構成していると言える。人びとが形成する社会そして国家はこれらの層の上に築かれ、さまざまな歴史経験を経ていっそう多様な特徴を持つようになった」。

 「第Ⅱ部から第Ⅵ部はアジア経済史を時系列に沿って叙述していく。各部の冒頭では、アジア経済における「連関」の側面を国際商業活動や貿易構造の変化、人の移動などに焦点を当てて俯瞰し、次に地域の「比較」を念頭に国家の制度や財政などを検討する。最後に、在地の経済社会の変容を地域別あるいは国別に詳しく見て」いく。

 第Ⅱ部「連動するアジア経済-銀の時代の始まり、16-17世紀」は、「16-17世紀を対象とする時代を扱う。アジア各地の経済は大量に流入する銀-日本銀とアメリカ大陸銀-を媒介に緊密の連動し、その動きは世界ともつながってさまざまな経済主体がアジア貿易に参入し激しい競争を繰り広げた。その過程で登場した新しい政治経済勢力が近世のアジアを作っていくことになる。在地の経済では、東アジア世界を特徴づける小農経済の形成と定着を、東南アジアでは貿易ブームがもたらした光と影を、南アジアでは国家と地方の緊密化を考察する」。

 第Ⅲ部「成熟するアジア-18世紀」は、「18世紀を「成熟するアジア経済」と捉え、地域間のつながり、国家と財政、市場経済という三つの視角を軸に検討する。各地域をつなぐ貿易のなかでは特に中国・東南アジア間の貿易が発展し、広州では対ヨーロッパ貿易が成長した。経済が発展する一方、各地で国家財政が悪化し、東南アジアと南アジアでは英蘭東インド会社が勢力を伸ばした」。

 第Ⅳ部「「衝撃」とアジア経済-長期の19世紀」は、「18世紀末から第一次世界大戦前までの「長期の19世紀」と呼ばれる時代を扱う。強制された自由貿易、国際通貨制度・交通通信インフラの導入、不平等条約による開港、そして植民地化の進展は、西洋からの「衝撃」を受けてこの時代のアジアが直面した新しい構造であった。第Ⅳ部の前半では、東アジア、東南アジア、南アジアが各地域レベルでどのような対応と再編をみせたのか、またその過程で、シンガポール・香港・上海・大阪などの都市とそれらがつなぐ広域ネットワークがどのような形でアジア経済史に登場したのかも考え」る。

 巻末の「執筆分担」を見て驚いた。9人の執筆者がかなり細かく分担している。1節を4人で分担したものもある。その結果、それぞれの専門性を活かした「基層」を踏まえた個々の正確さが可能になっただろうが、いっぽうで「連関」と「比較」を意識したため繰り返しが目立つことになった。

 もうひとつ気になったのは、参照文献の多くが2000年前後で、すこし古いのではないかと危惧した。その危惧は的中し、すでに義務教育の教科書から消えて久しい「士農工商」の身分制度がでてきて不安になった。ほかでも、講座や事典に書かれたものが、後により信頼性の高い学術書・論文の一部になったものがある。「教科書」として使われることを想定するなら、各部の最初だけでなく、各章の最後にも「まとめ」がほしかった。学生が読んだ内容を確認するために、そして試験対策用に。

 ともあれ、「全域を俯瞰するはじめての通史」として、広い視野をもって地域や時代をみることができる、ありがたい「教科書」である。


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早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9

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竹沢泰子『アメリカの人種主義-カテゴリー/アイデンティティの形成と転換』名古屋大学出版会、2023年2月28日、427+71頁、4500円+税、ISBN978-4-8158-1118-1

 本書は、著者の「アメリカ研究の集大成」である。これが著者、竹沢泰子にとって2冊目の単著であることに驚いた。編著・共編著・雑誌特集号などが、すでに17冊になるというのに。その2冊目を出版するにあたって、著者は並々ならぬ覚悟を決めて臨んだことが、「あとがき」につぎのように述べられている。

 「二作目の壁は厚い-はるか昔、一作目[1994年]の出版後に担当編集者からそう聞いてはいた。多くの研究者が最初の学術書をなかなか超えることができずに悩むのだという。私もその例に漏れず、三〇代半ばの勢いのある時に日米で出版した学術書の次の本をどうするかは、たやすい問題ではなかった。新書や他の単著の有難いお誘いを何度かいただいたが、私にとっての二作目はあくまでも最初の本を超えるものでなければならなかった」。わたしも1989年に1冊目の学術書を出した後、2003年まで出せなかったが、その後は「楽」になった。

 「初出一覧」をみると、「学生時代から比較的最近までの論考が並んでいる」。著者の贈呈挨拶状によると、「カテゴリーとアイデンティティをキーワードとして、大半の章はほとんど書き下ろしに近いかたちでこれまでのアメリカ関連の成果をまとめた」という。退職を機に出版される論文集の多くは、初出に多少手を加えただけで、初出時の状況を尊重したとか言い訳が書かれている。わたしも2012年に出版した『フィリピン近現代史のなかの日本人』(東京大学出版会)では、大幅に書き直すことができなかった。しかし、本書は違う。丁寧に、いまに向き合い書き直している。それは、新たに書くより手間が必要で、なにより頭のなかを整理し切り替える、とてつもない作業が必要だったはずだ。「二作目の壁」を乗り越えるために。

 本書は、序章、5部全10章、終章、あとがきなどからなる。書き下ろしの序章「システミック・レイシズムの新たな理解に向けて」では、「アメリカ研究の集大成」にふさわしい基本的なことが整理され、最後の「本書の構成」で各部、各章が紹介されている。

 序章に続く、第Ⅰ部「消費される人種カテゴリー」、第Ⅱ部「学知が創るカテゴリー」、第Ⅲ部「制度が創るカテゴリー」、第Ⅳ部「カテゴリーにもとづく差別」、第Ⅴ部「アイデンティティと人種カテゴリーのゆくえ」、および終章で、「社会の諸領域にみられるステレオタイプや諸制度における差別、さまざまな言説は、互いに連動し複合しながら社会システム全体の人種主義を構成し支え続けている」状況を考察している。

 「第Ⅰ部から第Ⅲ部では、ステレオタイプと資本主義、科学言説、社会制度に焦点を当て、これらがいかに人種主義の核心部において通底し、人種間の距離や優劣を創出・拡大してきたかを検証する」。第Ⅰ部では、「ジェンダーや年齢層、階級などが交差するインターセクショナリティに注意を払いながら、広告やジョークにおいて消費され続けてきた人種カテゴリーについて考察を行う」。第Ⅱ部では、「古典的人種学の中心を担ってきた人類学がアメリカにおいて創出した「大文字のRace 」をめぐる科学言説を概観する」。第Ⅲ部が「俎上に載せるのは、法制度としてのセンサスと帰化権をめぐる判例が創出するカテゴリーである」。

 第Ⅳ部では、「人種主義がカテゴリーにもとづき実践されてきた例として日本人移民・日系アメリカ人を主題とする。第二次世界大戦中、アメリカ政府が西海岸に居住する「日本人を祖先とするすべてのもの」を対象とし、強制立退き・強制収容を命じたことは周知の事実である」。

 第Ⅴ部では、「マイノリティ化された人びとがいかに自らに烙印された人種カテゴリーと向き合うのか、それがかれらのアイデンティティにどのように影響しているのかについて、アジア系アメリカ人アーティストの作品と語りをもとに考察する」。

 最後に終章「「ほどく」「つなぐ」がひらく未来へ-井上葉子とジーン・シンの作品と語りから」では、「日本と韓国出身の二人のアーティストの生きざまとメッセージをそれぞれの作品と語りに探りつつ、人種主義に押しつぶされることなく、未来に希望をつなぐ術があるのかを展望する」。

 本書に「結論」はない。著者は、終章の目的を冒頭つぎのように説明している。「アメリカの人種主義を筆者なりの視点から洗い直す本書の長い旅も、本章で終着点を迎える。あまりにも多領域にわたり、かつ複雑で厄介なこの課題に対して、本章で何らかの結論が提示できるわけではもちろんない。人種化され生命を脅かされ続けている人びとを守り、その地位向上や権利拡大に直結するような議論を提示できる能力も筆者にはない。本書を締めくくるにあたり、ひとつの小さな役割を本章に課すとすれば、それは、アジア出身の二人のアーティストの作品と語りを取り上げ、彼女たちの営みから放たれる問いと未来への希望へと読者を誘うことである」。

 本書に「卒業論文や修士論文まで恥を忍んで並べたのは、私の研究人生の出発点を記すことが学生たちへのエールになればと願うからである」と、著者は「あとがき」で述べている。それぞれの論文に取り組んでいる学生は、当然のことながらテーマに関連する学術書・論文を読んでいる。ところが、それぞれの分野・テーマには特有の研究史があり、ずいぶん偏った研究をすることになる場合がある。また、マイナーな研究分野では優れた学術書・論文に触れる機会が少なく、ただテーマに近いという理由だけで読んでいる場合がある。そういう学生にぜひ読んでもらいたいもののひとつが、本書である。専門分野・テーマにかかわらず良質ものを読むことはひじょうに重要で、自分自身の研究に直接役立つことも少なくない。問題はその良質のものがそれほど多くないことで、本書は著者の学生時代からの研究人生を振り返りながら書かれているだけに、学部生、大学院生、若手研究者のそれぞれの研究上の位置から本書を読むことができ、参考になることもそれぞれで違うだろう。

 厚い「二冊目の壁」を超えたことで、「楽」になって書かれる3冊目以降に期待したい。


評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9

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早瀬晋三『電子版 戦前期フィリピン在住日本人関係資料:解説、総目録』(研究資料シリーズ9)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2023年3月、234頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるhttps://waseda.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_snippet&pn=1&count=20&order=7&lang=japanese&creator=%E6%97%A9%E7%80%AC+%E6%99%8B%E4%B8%89&page_id=13&block_id=21 )
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』第一期(大正期)全12巻(龍溪書舎、2021年4月~23年1月)、第2期(昭和期)電子版(龍溪書舎、2023年12月)+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。


杉田弘毅『アメリカの制裁外交』岩波新書、2020年2月20日、236頁、840円+税、ISBN978-4-00-431824-8

 アメリカが離脱する前のTPP(環太平洋パートナーシップ)協定のときも同じことを思ったのだが、アメリカの制裁外交もアメリカのフィリピンの植民支配を知っていれば、理解が早い。つまり、アメリカは世界をアメリカの植民地と同等に扱おうとしているのである。

 本書の概要は、表紙見返しに、つぎのようにまとめられている。「米外交は経済制裁、特にドル覇権を背景とする金融制裁を抜きには語れない。しかもイランや北朝鮮等の敵対国やテロ集団にとどまらず、根拠法の「国外適用」により第三国の企業や個人も制裁対象になる。なぜ経済制裁は多用されるのか。それは世界に、そして自国に何をもたらすのか。超大国の内実に新しい光を当てる渾身の一冊」。

 本書での問いかけ、それにたいする答えは、「はじめに」を拾い読みすればわかる。まず、アメリカの横暴さについて、つぎのように述べている。「国際法の原則は各国の主権の尊重であり、それはある国の領域内で起きた事実はその国が管轄するというものだ。米国が世界の超大国だからと言って、日本や欧州の領域内に干渉するのは法律的に成り立たないはずだ。だが、米国はそんな原則などお構いなしに手を突っ込んでくる。米国の法制度を国外にも適用するという米国の横暴である」。

 つぎに、「今の世界は経済制裁を抜きには語れない」といい、「今の米国の経済制裁の中心は、敵対する国や組織を締め上げるために基軸通貨ドルと世界経済の動脈である米国の金融システムをフルに使う金融制裁にある」という。つづけて、つぎのように説明している。「モノの遮断はいくらでも抜け穴を見つけられ効果が薄い。モノはどこででも生産でき、貿易できるからだ。だがドルを使わせない金融制裁は、米国が独占的にドルの使用ににらみを利かせているから、抜け穴封じができる。その分効果が上がる」。

 そして、「金融制裁の活用には隠れた理由がある」といい、つぎのように説明している。「世界最強の軍事力を持つ米国といえども戦争に踏み切れないからだ。核兵器に代表されるような兵器の圧倒的な殺傷能力、兵士の死亡や相手国市民の殺傷を望まない国民世論から、本格的な戦争はできない時代だ。だが、対立や紛争は至るところで起きる。戦争ができない時代に、相手を叩いているという感覚を得られることが制裁多用の理由だ。経済制裁が「他の手段による戦争」と呼ばれるゆえんである。その結果が、二一世紀に入ってからのより厳しい金融制裁の「発明」と言ってよい」。

 「しかし、制裁とは対象国の政策の変更を目指すために科すのだが、思うような効果を上げているとは言えない」とし、「市民生活レベルでの負の影響も見逃せない」と指摘して、「米国の制裁多用傾向は世界をどこに導くのだろうか」と問いかけている。そして、つぎのように「結論」を述べて、「はじめに」を閉じている。

 「米国の制裁に反発する中国、ロシア、イランなどが、ドルを介さない決済システムを構築しようとしている。ドルに代わる通貨としてデジタル通貨にも注目が集まる。まだまだ非ドルの決済システムは少なく、使い勝手が悪いのは確かだ。だが、やがては世界の基軸通貨ドルを揺さぶり、米国の覇権の衰退につながっていくと警告する識者や実務家も増えている」。

 米国が基軸通貨ドルを握り金融の力で世界を支配している状況を苦々しく見ていた中国やロシアは、米国の金融制裁依存の状況を、非ドルのシステムを作り上げドルの覇権を揺るがすチャンスと見て、挑んできているように見える」。

 「自由と民主主義の理想を掲げる米国が強権的に制裁を発動する事態には、同じ価値観を持つ日本として失望せざるを得ない。しかもその覇権の揺らぎが加速するとなれば、日本にも甚大な影響を与える。異様とも見える制裁を多発する米国の覇権はゆっくりと衰退していく気がしてならない」。

 本書は、はじめに、4部全11章、あとがき、からなる。第1部「司直の長い腕」は2章、第2部「アメリカ制裁の最前線」は4章、第3部「制裁の闇」は3章、第4部「金融制裁乱用のトランプ政権」は2章からなり、それぞれの章で具体的に事例をあげて考察されている。

 「あとがき」では、アメリカの覇権の揺らぎが最近著しく、「目立つのは軍事力と外交」だと述べ、「今のアメリカにもっとも欠けているものは、国際社会を率いる指導力と責任感であろう」と結論している。そして、つぎのことばを加えている。「今は一時の迷いであって、アメリカは再び、成功を確認し新しい課題に挑戦する国として復活するのか。そんな疑問と期待を持ってこの本を書き終えた」。

 たしかにアメリカの覇権の揺らぎは随所にみられ、その指導者にも疑問をもたざるを得ないものがあるが、それを立て直すだけの人材がみあたらない。アメリカと同じ価値観をもち、アメリカを中心とする民主主義的世界を支えてきた日本やヨーロッパの国ぐにも低成長が続き、アメリカを充分に支えるだけの力がなくなってきている。アメリカ1国だけの問題ではない。中国やロシアに、なぜグローバルサウスの国ぐにの支持が集まるのか、いまいちど歴史から問い直す必要がある。


評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9

早瀬晋三『電子版 戦前期フィリピン在住日本人関係資料:解説、総目録』(研究資料シリーズ9)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2023年3月、234頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるhttps://waseda.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_snippet&pn=1&count=20&order=7&lang=japanese&creator=%E6%97%A9%E7%80%AC+%E6%99%8B%E4%B8%89&page_id=13&block_id=21 )
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』第一期(大正期)全12巻(龍溪書舎、2021年4月~23年1月)、第2期(昭和期)電子版(龍溪書舎、2023年12月)+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。

小川忠『変容するインドネシア』めこん、2023年12月10日、469頁、3200円+税、ISBN978-4-8396-0336-6

 インドネシアなど東南アジアの多くの国では、近年の経済発展にともなう大きな変容に戸惑っている人びとがいる。その様子を見ている研究者のなかには興奮して、いま起こっている現象を考察、分析しようとしている者がいる。だが、表面上の変化を追っている者と、基層文化・社会、歴史のなかで理解しようとしている者とでは、大きく違う。前者は一過性のものとして評価されるかもしれないが、後生まで先行研究として残るのは後者である。本書は、後者のひとつとなるものである。

 著者は、1989-93年に国際交流基金ジャカルタ日本文化センター駐在員、2011-16年同基金東南アジア総局長(在ジャカルタ)の経歴をいかして、肌で感じた基層文化・社会、歴史を背景に本書を執筆している。すでに10冊ほどの単著を出版し、書き慣れた文章で読者を誘っている。博士号も取得している。

 序章「なぜインドネシアに注目する必要があるのか」では、その肌で感じた「変化」が紹介され、最後の「本書の構成」の冒頭、つぎのようにまとめている。「経済成長によって、貧富格差が激しかったインドネシアで中間層が拡大し、中間層が主役となる社会が誕生した。中間層が購買意欲をそそらせ消費活動を行なうことによって経済が回る消費社会化が進んだ。中間層の親は、子どもに自分たちよりも高い社会的地位を得させようと教育に熱心で、その結果、社会全体の高学歴化も進む。高学歴の若者は母語のみならず、外国語能力にも長け、海外情報に敏感だ。グローバリゼーションの申し子たる彼らは、最新のICT[情報通信技術]技術を使いこなす。彼らにとってICTはなくてはならない存在だ。二〇一〇年代、日本以上に急速に、インドネシア社会のデジタル化が進んだ」。「このように彼ら中間層が社会構造や国民意識を変えつつある中で発生した新型コロナウィルスのパンデミックは、この国の未来にどのような影響を及ぼしていくのだろうか」。

 以上の状況を踏まえて、著者は「本書が意図するのは、現在のインドネシアで起きている変化と多様性に焦点を当て、今後のこの国の方向性を考える材料を読者に提供することである」としている。

 本書は、序章、3部全16章、終章などからなる。第1部「インドネシア社会-変化の潮流と多様性」は2章からなり、「現代インドネシア社会の変化の二大潮流である宗教復興とデジタル化について論じる。宗教復興(イスラーム教徒国民の宗教意識活性化現象)が生んでいる一つの概念、すなわち信仰心の高揚に伴いインドネシア・イスラームが従来備えていた美風(少数派への寛容性)を失いつつあるのではないか、という点について検討する(第1章)。またグローバリゼーションに乗り遅れまいと、この国においてもICTを活用した社会変革が進行中だ。新型コロナウイルス危機は、さらにこの変革を加速させた。デジタル技術が脚光を浴び始めたとき、双方向コミュニケーションを可能とするデジタル技術は民主化のツールと目されていたが、それは本当か。デジタル化がインドネシアの民主主義にもたらしている光と影とは何か、を論じる(第2章)」。

 第2部「社会・文化変容から見たインドネシア各地」は10章からなり、「第1部で紹介した宗教復興とデジタル化が、具体的にはどのような変化をもたらしつつあるのか、インドネシア各地において、それぞれの歴史と特性を踏まえて、つぶさに見てみたい。インドネシアの地理的多様性と社会的特性を考慮して、ジャワ島とジャワ島外の重要な都市、州に焦点を当てる(第3~12章)」。

 第3部「コロナ禍後の世界におけるインドネシア」は4章からなり、「第1部、第2部で分析したインドネシア社会内部の変化および新型コロナウイルス危機が、国際社会におけるインドネシアの自らの位置取り、対外関係構築にもたらしているインパクトについて考える(第13~15章)。そして第3部の締めくくりとして、第16章でコロナ禍を契機に自らの原点を再確認しようという気運が高まっているインドネシア・ナショナリズムについて論じ、終章では日本インドネシアの未来を考えた提言を行ないたい」。

 第1部のインドネシアの「グローバリゼーション」と連動する「イスラーム化」「デジタル化」は、第1部の最後でつぎのようにまとめられている。「この国で進行中の宗教復興、市民社会の拡大とも共鳴し、独特の色彩を帯びるに至っている。デジタル化が進むインドネシア社会の政治面でステルス権威主義の色が濃くなり、非寛容なイスラーム一派のネット空間での「不信者狩り」が行なわれる一方で、逆バネが作動していることも、この国の行く先を考える上で見過ごせない」。

 第2部は、本書を編集・出版した「めこん」代表者の桑原晨さんの注文、「各州の視点に立ってインドネシアを論じてほしい。全州をカバーするつもりで」を反映したもので、著者は「改めてこの国の多様性の奥深さを、筆者自身が実感する機会になった」と、「あとがき」で述べている。

 具体的には、「「イスラーム化」の衝撃は、イスラーム社会のみに限らない」ことに気づき、つぎのようにバリの事例を紹介している。「ジャワ島の「イスラーム化」が刺激となって、東隣のバリ島ではバリ・ヒンドゥー文化の復興運動「アジュグ・バリ」が活性化している(第6章)。またバリで受容されてきた昔ながらのヒンドゥー信仰は、本場インドのヒンドゥーとはかなり異なる信仰形態だったのだが、グローバリゼーションの副産物として二〇世紀後半インドで力を増した排外的なヒンドゥー・ナショナリズムがバリに持ち込まれている。インドネシアの国家建設の一環として行なわれている国際観光開発が、バリ人の自己認識を変えつつある(ヒンドゥー宗派意識の強化)という側面もある。バリの変化は複雑だ」。

 第3部では、「「イスラーム化」と「デジタル化」というインドネシア国内の社会変化は、インドネシア外交にも影響を及ぼしている」ことを考察している。「スハルト政権崩壊後の国内の混乱をおさめることに精一杯だった時期を脱し、安定を取り戻したインドネシアは、より積極的に国際社会に関わっていこうとしている。そうした姿勢の中で、本書ではインドネシア外交の傾向としてイスラーム外交(第13章)新・非同盟外交(第14章)を取り上げる一方、国際的に存在感を高めるインドネシアに対する中国の文化外交、それに絡むインドネシア華人のアイデンティティーについて述べた(第15章)」。

 そして、終章「日本・インドネシア関係の未来に向けて」を、つぎのように締めくくっている。「三〇年後の世界において、日本とインドネシアは、どのような関係をとり結んでいるのだろうか。経済的には相互互恵のパートナーシップを創造し、より多くの国民が往来するようになる結果、日本在住インドネシア人、インドネシア在住日本人の数も増えて、より身近な隣人と感じられるようになっているだろうか。文化面では三〇年後もインドネシアは日本語学習大国であり続ける一方、日本の高校・大学でインドネシア語を学ぶ若者が増えて、言語学習を通じて両国民間の相互理解は深まっているだろうか」。「より多くの価値を共有するようになった未来の両国民が、共に手を取り合って世界の平和と安寧に貢献する関係を築いていることが現実となっていたら、こんな嬉しいことはない」。

 本書が、著者ひとりの力によって書かれていないことは、著者がいちばんよくわかっている。随所に先行研究からの引用が執筆者の名とともにある。執筆にあたって、「あとがき」に名前をあげている直接助言を得た人びとだけでなく、多くの人びとの話に耳を傾けてきたことが本書を支えていることがわかる。コロナ禍で「耳学問」ができず、仲間内だけで「いまの変容に興奮している」者が書いたものと、ひと味もふた味も違うものに仕上がっている。


評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9

早瀬晋三『電子版 戦前期フィリピン在住日本人関係資料:解説、総目録』(研究資料シリーズ9)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2023年3月、234頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるhttps://waseda.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_snippet&pn=1&count=20&order=7&lang=japanese&creator=%E6%97%A9%E7%80%AC+%E6%99%8B%E4%B8%89&page_id=13&block_id=21 )
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』第一期(大正期)全12巻(龍溪書舎、2021年4月~23年1月)、第2期(昭和期)電子版(龍溪書舎、2023年12月)+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。

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