早瀬晋三書評ブログ2018年から

紀伊國屋書店「書評空間」https://booklog.kinokuniya.co.jp/archive/category/早瀬晋三に2005~15年に掲載された続きです。2015~18年に掲載されたものはseesaaブログshohyobloghayase.seesaa.net/ で閲覧できます。

2024年06月

風間計博・丹羽典生編『記憶と歴史の人類学-東南アジア・オセアニア島嶼部における戦争・移住・他者接触の経験』風響社、2024年3月25日、370頁、3600円+税、ISBN978-4-89489-355-9

 本書でなにが議論されているのか、「序論-不確実性の時代における記憶と歴史の人類学」から、「本書」ということばを拾ってみよう。「二 相互浸透する二つの記憶形態」に、4つあった。

 まず、冒頭につぎの文章があった。「本書は、オセアニアと東南アジア島嶼部を対象地域とした、記憶と歴史に関する人類学の論集である。両地域は、人文学・社会科学において人為的に切り離されて論じられる傾向があった。しかし本書では、両者の地理的連続性や歴史的共通性ならびに差異に着眼したい。そして、在地住民を軸に据えて、アジア太平洋戦争の経験とその痕跡、国家内の暴力的な弾圧、ナショナリズムに関わるモノの展示、世代を超えた移住や出稼ぎ経験、オセアニアにおける数世紀を遡るヨーロッパ人との初期接触、核実験による被曝等の事例をとりあげる」。

 つぎに、3パラグラフつづけて、「本書」が出てきた。「本書で扱うのは、個人の脳内に電気的・物質的に蓄積された神経情報としての心理学・生理学的記憶ではない。むしろ、個に閉じた狭隘な記憶概念を解放し、複数の人間によって共有された歴史・文化的な記憶を主題化する」。

 「そして、本書では、過去の経験を想起した語りのみならず、過去に生起した出来事の遺物や写真等、モノの形態をとる記憶、環境のなかで間身体的に生成・伝達される歴史記憶を想定する。ここで歴史記憶を焦点化するにあたり、両極にある二つの記憶形態を便宜的に想定しておく」。「(一)集合的記憶:国民やエスニック集団を統合する首尾一貫した公的な記憶形態(二)ヴァナキュラーな記憶:人々の日常生活に根差した矛盾や曖昧さを含む記憶形態」。

 「本書では集合的記憶を切り詰めて、近代国家やエスニック集団の統合、政治的論争の場に強固に絡みつく概念としておく。狭義の集合的記憶は、集団を内閉化させて外部に敵対者を作り上げ、国家間の戦争やエスニック集団間の紛争において自己正当化の主張に根拠を与える。ただし、たいていの場合、これは政治的意図をもって構築あるいは歪曲された記憶であり、他集団あるいは自集団の一部からの信任が得られず、異議申し立てが行われることもしばしばみられる」。

 さらに、「五 不確実な現代世界における「史実性」」の最後で、つぎのように述べている。「本書では、集合的記憶とヴァナキュラーな記憶の切り結ぶ相互浸透的な関係を見据えながら、多様な歴史経験の具体的事例を提示し、強い力能をもつ多義的な歴史記憶の実践を通して、虚偽と真実のあわいに「史実性」がいかに現前するのか、詳細に検討する。そして歴史記憶は、人々に何をもたらし、人々をいかに駆動させるのか、いかにして忘却されるのか、序論に続く三部から構成される事例研究において展開していく」。

 つづく「六 本書の構成」では、3部全15章が紹介されている。第一部「戦争・紛争と植民地の記憶」[目次、扉では「戦争・紛争の記憶と国家」]は6章からなり、「記憶論の主流といいうる戦争経験や戦死者に関わる語りや遺物、国家による記憶の抑圧と強制をとりあげる」。各章のタイトルは、以下の通りである:第一章「沖縄シャーマニズムにおける「記憶の倫理」と痛みの民族誌」第二章「遺骨収集活動におけるつながりの辿り方と飛び越え方-戦没者と生者の関係の生成をめぐって」第三章「ペリリュー島における太平洋戦争の記憶とモノのエイジェンシー」第四章「記された記憶、刻まれた歴史-台湾東海岸の抗日事件記念碑から考える」第五章「九・三○事件後のインドネシア地方社会と社会的記憶の現在」第六章「想像の記憶と記憶の創造-インドネシアの博物館展示をめぐる一考察」。

 第二部「移住と定着の記憶」[目次と扉では「移動と定着の記憶」]は4章からなり、「植民地期から現在にかけて起こった移住を取り巻く諸事象をとりあげる。移民の経験と感情、移民と先住の人々の関係に関する議論が展開される」。各章のタイトルは、以下の通りである:第七章「<南洋群島>という植民地空間における沖縄女性の生を辿る-「実践としての写真論」を手がかりに」第八章「ディアスポラの家族史と民族の語り-フィジーの首都近郊におけるヴァヌアツ系少数民族の祖先語りの分析から」第九章「記憶の不安-フィジー・キオア島において「移民」であること」第一〇章「「キーシナリオ」の不在-イタリア在住のフィリピン系第一・五世代のあいまいな未来イメージをめぐって」。

 第三部「他者接触と記憶の媒体」は5章からなり、「オセアニアと東南アジア島嶼部との顕著な歴史的差異は、ヨーロッパ人との接触の経緯である。オセアニア島嶼部はヨーロッパから遠隔の地にあり、比較のうえで接触時期は遅く、関係は希薄だった。同時に、小規模な島社会の受けた衝撃は大きかった」。各章のタイトルは、以下の通りである:第一一章「皮膚から紙へ刻み移す-ビーチコマ-と民族学者によるマルケサス諸島のイレズミの記憶」第一二章「モノのやりとりをめぐる齟齬と擦りあわせのプロセス-西洋人とトンガ人の歴史的出会い」第一三章「パプアニューギニア、アンガティーヤの他者接触と世界の拡大をめぐる「記憶」」第一四章「西洋人にルーツを求める系譜語り-ミクロネシア連邦ポーンペイ島の親族関係にみる他者接触と史実性」第一五章「クリスマス島での英米核実験をめぐる記憶-キリバス人の被ばくの「語り」による再構築」。

 そして、「序論」を、つぎの2パラグラフで締めくくっている。「本書の各章において、戦争の遺物や遺骨、石碑といったモノ、残された写真、語りや歌謡、身体に刻まれた文様やふるまい等、多様な形態による歴史記憶が、人々を駆動させ感情を喚起させることが示される。苦難の戦争体験により引き起こされる憑依現象は、苛烈な記憶が生者のみならず、死者をも賦活する好例である。一方、国家的意思が博物館展示を通じて集合的記憶を民衆に植え付けるよう作動し、ヴァナキュラーな記憶を抑圧する事例もみられる。また、人類の普遍的事象というべき移住経験や他者接触に関する記憶は、ときに親族集団を結び付ける想起を促す。あるいは集合的な不安や茫漠とした未来イメージといった、個別の文脈において異なる感情を伴った特異な相貌を呈することになる」。

 「実証的に史実と認めることが困難な歴史記憶であっても、多様な媒体を通じて継承され、「史実性」を帯びることがある。そして、歴史記憶は行為遂行的に繰り返し現前し、それを取り巻く人々に強く働きかけ、過去・現在・未来、生者/死者とモノを取り結び、それらの複合的な関係を活性化する力能を発揮するのである」。

 本書は、国立民族学博物館共同研究「オセアニア・東南アジア島嶼部における他者接触の歴史記憶と感情に関する人類学的研究」の成果である。「オセアニア・東南アジアというさしあたりの地域的区分を設けているが、実際には幅広い地域とトピックを扱って」いる。目次の後にある地図を見ると、「東南アジア・オセアニア島嶼部」からはみ出ているのが、第一章の沖縄と第四章の台湾であることがわかる。このことは、案外重要なことなのかもしれない。いまいちど、沖縄と台湾の熱帯の島嶼部を問う必要があるかもしれない。ASEAN wayやMicronesian wayということばが頭に浮かんだ。


評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9

早瀬晋三『戦前期フィリピン在住日本人職業別人口の総合的研究』(研究資料シリーズ10)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2024年3月、242+455頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるhttps://waseda.repo.nii.ac.jp/records/2001909)
早瀬晋三『電子版 戦前期フィリピン在住日本人関係資料:解説、総目録』(研究資料シリーズ9)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2023年3月、234頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできる https://waseda.repo.nii.ac.jp/search?page=1&size=20&sort=controlnumber&search_type=2&q=4989)
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』第1期(大正期)全12巻(龍溪書舎、2021年4月~23年1月)、第2期(昭和期)電子版(龍溪書舎、2023年12月)+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。

楊峻懿『海を越える水産知-近代東アジア海域世界を創った人びと』京都大学学術出版会、2024年3月31日、267頁、3800円+税、ISBN978-4-8140-0521-5

 現代の黄海をめぐる中国と韓国、南シナ海をめぐる中国とベトナムやフィリピンなど東南アジア諸国との漁業を含む問題は、戦前の日本の侵漁と深くかかわりあっている、地域としての問題である。にもかかわらず、日本以外の研究はほとんどなく、日本の研究も漁民に視点をおいたものは少ない。地域として総合的に研究できるような状況になく、かろうじて日本側の資料が使える程度で、中国にかんしても日本側の資料を使わざるを得ない。本書は、はじめて日本側の資料を本格的に使った中国の漁村から見た「近代東アジア海域世界」である。

 本書の目的は、序章「日本における近代的「水産知」の蓄積と中国」「二 中国における水産教育の始まり」の最後に、つぎのように書かれている。「本書では、中国が清末から中華人民共和国が成立するまでの各時期において何を克服すべき課題として、いかに次世代の水産人材を育成し引き継いでいったのか、それが中国水産業の近代化にどのような影響を及ぼしたのかなど、近現代中国における近代的な「水産知」の獲得と発展について、主に中国と日本との関わりに焦点を据えながら捉え直し、日中関係史のなかに位置づけることを目的とする」。

 本書のキーワードは聞き慣れない「水産知」である。著者は、序章で「「水産知」とは」という見出しを設け、つぎのように説明している。「明治日本の農商務省水産講習所において展開された水産教育は、明確に定められた学制、授業科目などを通して、漁撈・製造・養殖に関する専門的な漁業知識として中国にも伝授されていくことになった。それは単に水産先進国であったノルウェーをはじめとするヨーロッパ諸国の知識の受け売りではなく、新たに日本で再構築しなおされた、まさに日本独自の「学知」とも呼べるものであった。そこには水産に関わる知識だけでなく技術や生活スタイルなども含まれていた。本書では、かかる農商務省水産講習所で明確に定められたカリキュラムのもと、中国に伝授された水産に関する近代的な「学知」を「水産知」と呼ぶことにしたい」。

 本書は、序章、全5章、終章などからなる。「本書の構成」は、序章の最後でまとめられている。まず概略的につぎのようにまとめてから、章ごとに概要を紹介している。「第一章と第二章は清末民国期の水産学校の教育状況の分析にあてる。第三章と第四章では、そこで育成された水産人材がいかなる活動を展開したかを明らかにする。第五章では、戦後の水産事業の復興およびそこで認識された課題について取り上げる」。

 第一章「清末民国期の水産教育と直隷水産講習所」は、「中国における最初の水産学校である直隷水産講習所を取り上げ、清末に多くの知識人・実業家が日本を視察し日本の水産教育・水産事業の発展を目の当たりにしたのち、日本を模倣し、中国の水産教育を起こした。この萌芽段階の水産教育の様子を検討する」。

 第二章「民国初期における江蘇省立水産学校の人材育成への模索」は、「南方の上海に所在する江蘇省立水産学校を取り上げ、水産人材の育成状況を考察する。直隷水産講習所が直接日本から教員を招いたのとは異なり、江蘇省立水産学校が創設される際には、まず学生を日本に派遣し、彼らの帰国を待った。その後、優秀な卒業生を日本の水産教育機関に派遣し研究させることも行なった」。

 第三章「一九三〇年代江蘇省の海賊問題に対する政府の対応と漁民武装自衛-『江蘇省沿海漁業保護会議記録』を中心に」は、「一九三〇年代前後の中国人の海賊問題を俎上に乗せる。各世代の水産人材は卒業後、水産教育機関だけではなく、政府機関においても重要な職位を担い、水産界の指導層となった。彼らはそこまで関心が払われてこなかった漁民問題に初めて着目した。この時期、少なからぬ漁民が生活困難に直面し、秩序が崩壊され、最終的には海賊になりはて、政府の注目を集めるにいたっていた」。

 第四章「一九三〇年代の中国における水産教育の変遷-水産学校教育から漁民教育への試み」は、「水産人材による漁民救済・漁民教育といった問題への認識を分析する。海賊などの影響を受けた漁村が破壊的な状況に陥っていたなか、江蘇省政府や水産人材は漁民の生活に配慮するようになり、漁業秩序の危機的状況の回復、漁民の救済、生業としての漁業の重視を喚起しようとする様々な活動を展開しつつあった」。

 第五章「一九四五年以降の中国における水産事業の復興と漁民救済-一九四五~一九四九年を中心に」は、「一九四五~四九年における、戦前に育成された水産人材の活動、中国の水産業・水産教育の復興状況、およびそこに内包された課題について考察を進める」。「課題の一つとして漁業救済物資の分配機関である漁業善後物資管理処を取り上げ」る。

 終章「近代東アジアにおける水産人材の流動と「水産知」の伝播」では、これまでの議論を整理したうえで、今後に残された課題、特にほとんど手つかずで残された現代中国の漁業問題について若干のポイントを挙げながら、今後の見通しについて」語る。

 終章では、まず本書で明らかになったことを、つぎのように4点にまとめている。「第一に、中国水産教育の嚆矢と発展は日本と密接な関係があったことが明らかとなった」。「これまでほとんど利用されることがなかった史料を分析しながら日本の「水産知」が中国の水産教育に与えた影響を明らかにした」。「清末民国期、日本人や中国人の水産人材の手によって日本の近代的「水産知」が中国へともたらされ、沿海各省に水産学校を相次いで成立させた」。

 「第二に、清末から一九二〇年代にかけて水産学校で行われた水産教育は、漁業の現場で活動していた漁民に水産知識を伝授することができなかった。漁民と水産学校の間に水産知識を流動させる媒介が存在せず、水産学校で教えられた水産知識と、漁民が使用していた伝統的な漁業知識・技術とが互いに並行したままで融合することはなかった。日本の水産教育システムを模倣し、沿海各省に水産学校が創設されたものの、人材育成の面においては決してうまくいっているとはいえなかった。直隷水産学校や江蘇省立水産学校の卒業生の出身家庭を見ると、家族が商業や教育に従事するものが半分以上を占めている。卒業生は漁民の子弟ではなかったといっても過言ではない。また、水産学校の卒業生の進路を見ると、水産業に従事した学生の数はそれほど多くない」。

 「第三に、水産知識が日本から伝播したのは確かであるが、その伝播の時期によって漁業知識・技術の伝授や定着に異なる点が生じたことは容易に想像できる。清末から一九二〇年代にかけて、水産教育は水産学校における教育に限られていた。三〇年代に入ると、水産人材は漁民向けの水産知識の伝授を試みるようになった」。「しかし、結果から見れば、漁民生活の改善にはほとんど役に立たなかったといってもよい。当時の政府の財政的な問題、戦争などの不安定な政治的・社会的環境、漁民の政府への不信感など、多様な理由から文字すら読めない漁民に近代的「水産知」を伝授するのは容易ではなかった。また日中全面戦争が勃発すると、萌芽したばかりの事業はすべて停頓状態へと陥った」。

 「第四に、民国期における水産人材の海洋観にも注目したい。江蘇省立水産学校は創設初期に日本を模倣し、漁撈科と製造科しか設置しなかった。しかし一九二六年に、遠洋漁業科も設置し、学生を募集して人材を育成しようとした」。「しかし一九二九年に遠洋漁業科は廃止された。その後ほぼ六〇年間にわたって、中国の遠洋漁業は停滞した」。

 終章では、つぎに「二 日本統治期の朝鮮・台湾における水産学校と水産教育」を概観し、「三 近代東アジアにおける漁業の発展と紛争」へとつなげ、つぎのように「今後の課題を展望」している。「一九四五年以前、中国は日本の「水産知」の影響を受け、四五年以降の戦後の復興期には欧米の漁業知識や技術を中国に導入した。一方、新中国建国後、水産教育は制度上ソ連のものを模倣するようになったが、五七年に日本人の教員である真道重明が中国を視察し、上海海洋学院で講義を行った。では、四九年以降の中国の水産教育の制度はどのように構築され、現在の海洋学科の構築にどのような影響を与えたのであろうか。中華人民共和国成立後の漁業・水産業の復興と発展は、現代史を考えるうえで重要な論点となる」。

 「一方、台湾では四五年以降、国民党の遷台に伴って大陸で育成された多くの水産人材が台湾へと赴き、水産業の復興や水産教育を推進し、また同じ時期には少なからぬ日本の水産人材が国民党政府によって留用された。その後の台湾における水産教育システムの構築もやはり重要な検討課題といえよう」。

 「このように中国大陸・台湾だけではなく、韓国をも含めた東アジア各国において戦前に育成された水産人材が、四五年以降の水産教育においていかなる役割を果たしたのか、彼らによる各国の水産教育はどのように再興され発展したのか。かかる一連の過程については、戦後東アジアの水産業を考えるうえで極めて重要な問題であるにもかかわらず、これまでほとんど研究がなされず、今後の研究に俟つ部分が多いのである」。

 水産資源や環境問題を含め、日本を含む東アジアの問題として考えるとき、歴史的には日本側の資料が不可欠である。日本、中国本土、台湾、韓国、北朝鮮、それぞれの「水産知」を結集して取り組むべき課題である。日本側は資料を整理して利用しやすいようにすること、戦前に日本の「水産知」の影響を受けた国や地域は本書のようにそれぞれの「水産知」を持ち寄ることによって、地域としての問題に取り組むことができる。著者が指摘するように「課題」はある。東アジアの海を紛争の海ではなく、コモンズの海にするためにも、地域としての「水産知」が試される。


評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9

早瀬晋三『戦前期フィリピン在住日本人職業別人口の総合的研究』(研究資料シリーズ10)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2024年3月、242+455頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるhttps://waseda.repo.nii.ac.jp/records/2001909)
早瀬晋三『電子版 戦前期フィリピン在住日本人関係資料:解説、総目録』(研究資料シリーズ9)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2023年3月、234頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできる https://waseda.repo.nii.ac.jp/search?page=1&size=20&sort=controlnumber&search_type=2&q=4989)
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』第1期(大正期)全12巻(龍溪書舎、2021年4月~23年1月)、第2期(昭和期)電子版(龍溪書舎、2023年12月)+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。

高橋哲哉『沖縄について私たちが知っておきたいこと』ちくまプリマー新書、2024年5月10日、162頁、800円+税、ISBN978-4-480-68479-0

 本書の目的は、「まえがき」でつぎのように説明されている。「本書は、沖縄の基地問題をテーマとしていますが、いわゆる「国際政治学」や「軍事的安全保障論」の立場から専門的議論をするものではありません」。「筆者は「国家と犠牲」をめぐる思想的諸問題と格闘するなかで、戦後日本国家の「犠牲のシステム」としての「沖縄の基地問題」にぶつかりました。そしてこの問題は、何よりも日本本土の一市民である筆者にとって、避けられない問題であることに気づかされたのです」。「沖縄では、沖縄への長年の基地集中とその過剰な負担への本土の無関心は、沖縄に対する差別の結果だという意識が広まっています。なぜそのような意識が生じるのか、そこにはどんな歴史的および構造的理由があるのか。そのことについて、筆者の見方をあえて率直に記したのは本書です」。

 本書は、「まえがき」、全3章と「対話」からなる。第一章「沖縄の歴史」で通史的に概観した後、第二章「構造的差別とは何か」で、まず「沖縄戦後に「戦後」は来たか」と問いかけている」。答えは、もちろん「来ていない」で、章の最後で、つぎのようにまとめている。

 「このように見てくれば、現在の日米安保体制下での在日米軍基地のあり方に根本的な矛盾が横たわっていることに気づくでしょう。日本の人口の九九%(有権者数でもほぼ同じ)を占める本土の人びとの政治的意思で選択され、その八割を超える圧倒的多数で支持され、今後も維持されていくだろう安保体制のもとで、人口・面積ともわずか一%程度の小さな沖縄に、全体の七割を超える米軍基地(米軍専用施設)が置かれているという矛盾です。日本国民が日米安保体制を支持するということは、日本に米軍基地を置くことを支持するということにほかなりません。その安保体制の支持者の九九%は本土にいます。ところがその本土には、防衛省のデータが示すように、米軍専用施設のない府県が三四もあります。米軍専用施設の七割は、七〇年以上も米軍基地負担に苦しみ、反対の声を上げ続けてきた沖縄にあるのです」。

 「この矛盾、巨大な不平等の体制こそ、沖縄に対する「構造的差別」と言われているものです。日米安保体制は、沖縄を犠牲として成り立つ「犠牲のシステム」だと言うこともできるでしょう。そしてこれは、琉球併合にまで遡る日本の沖縄に対する植民地主義の現在的形態だと捉えることが可能です」。

 第三章「沖縄から問われる「構造的差別」」は、「本土から「押しつけ」られている」の見出しの下、つぎのような文章ではじまる。「戦後長く今日に至るまで、米軍基地(米軍駐留)から生じる事件・事故、その他多くの負担に苦しんできた沖縄。現在でも本土に比して桁違いの過剰な基地負担に苦しむ沖縄」。「この現実はけっして自然にできたものでも偶然こうなったものでもなく、本土の基地を整理縮小する一方で、本土の部隊を沖縄に移したり沖縄の基地を固定化したりするなど、差別的な基地政策によってもたらされた面があるのでした」。

 「こうした事情は、近年では多少とも改善されつつあるのかもしれません」と、章の最後で述べるものの、「構造的差別」はつづいていることを、つぎのように述べている。「辺野古の新基地施設(普天間飛行場の「県内移設」)を強行しようとする政府と、それに反対する沖縄の民意との対立が長く激しく続いたことで、本土メディアの報道が増えたとすれば皮肉なことではあります。先に見た世論調査に表れていたように、本土でも沖縄への基地集中はよくないと考える人びとが増え、沖縄の基地の一部を本土が負担することに賛成する人も決して少なくないことは歓迎すべき事実です。問題は、にもかかわらず、自分の住む地域に沖縄の基地を受け入れることには多くの人がなお賛成できないでいることです。日米安保体制(日米安保条約に基づく「日米同盟」)を支持するということは、日本に米軍が駐留すること、米軍基地を置くことを認めるということです。そうした人々が圧倒的多数でありながら、米軍基地を自分の住む地方に置くことには多くの人びとが反対する。この根本的な矛盾の結果として、在日米軍基地の多くが沖縄という小さな地域に押しつけられてきたわけです」。

 そして、つぎのように結んでいる。「日本政府の安全保障政策とそれを支持する本土有権者の政治的選択の結果として、数十年にわたって沖縄は「基地の島」という苦境に追いやられてきました。このままでよいはずはありません。今からでも積極的に沖縄の歴史と現実を知り、沖縄を犠牲にしてきた政治を変えていくことが求められているのだと思います」。

 そして、最後に「まえがき」で述べた「本土に住む筆者の見方ですから、まだまだ「見えていない」部分もあることでしょう」を補う意味で、「一九六六年、琉球列島米国民政府(USCAR)下の沖縄島首里に生まれた琉球人」知念ウシとの「対話 沖縄へのコロニアリズムについて」を掲載している。

 知念は、つぎのことばで「対話」を結んでいる。「沖縄では生まれたときから基地のことで悩んでいるし、リスクを抱えているのに、ヤマトゥではほとんどの人が考えてもいないわけで、同じ国とは思えないほどの意識の差があります。ヤマトゥの人は私たちの顔の上に立っているという感じがするんですよ。私たちの顔を踏んで、基地のほとんどない本土にいる。これを変えてほしいし、変えないといけない。そうでないと、基地問題も解決に向かっていかないし、人間として対等な存在だとは言えない。それは我慢できないんです」。

 活字になると、知念さんの念いが伝わらないような気がした。独特のイントネーションで、強弱をつけた怒りが伝われば、本土の人びとも「沖縄の問題」は自分たちを含めた「日本の問題」であることに少しは気づくだろう。沖縄の「基地問題」がすぐに解決できないのなら、せめてはっきり目に見えるかたちで、基地負担に沿った税負担を考え、基地のない県民は多く払い、基地の多い県民は少なく払うか、あるいはキャッシュバックすることにして、個々人が実感することが必要だろう。定額減税をわかりやすくするために給与明細に書くのなら、基地負担を給与明細に書くことによって本土の人びとの意識も変わるかもしれない。


評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9

早瀬晋三『戦前期フィリピン在住日本人職業別人口の総合的研究』(研究資料シリーズ10)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2024年3月、242+455頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるhttps://waseda.repo.nii.ac.jp/records/2001909)
早瀬晋三『電子版 戦前期フィリピン在住日本人関係資料:解説、総目録』(研究資料シリーズ9)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2023年3月、234頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできる https://waseda.repo.nii.ac.jp/search?page=1&size=20&sort=controlnumber&search_type=2&q=4989)
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』第1期(大正期)全12巻(龍溪書舎、2021年4月~23年1月)、第2期(昭和期)電子版(龍溪書舎、2023年12月)+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。

志賀市子編『潮州人-華人移民のエスニシティと文化をめぐる歴史人類学』風響社、2018年2月28日、420頁、5000円+税、ISBN978-4-89489-247-7

 本書の目的は、「序章 「潮州人」のエスニシティと文化をめぐって」の冒頭で、つぎのようにまとめられている。「潮汕地域にルーツを持つ潮州系移民の、歴史的、多元的、かつ状況によってゆれ動くエスニシティを、彼らが育み、継承してきた多様な文化との関連から、歴史学と人類学の両方の視点と方法によって描き出すことを目的とする」。

 また、「まえがき」では、さらにわかりやすく、つぎのように述べている。「本書は、「潮州人」をテーマとして日本で初めて出版される学術的な論集である。客家に関する書籍は日本でこれまで多く出版されてきたが、潮州人に絞った書籍はなぜか今まで出版されてこなかった。本書が、これまでことさらに問われることのなかった「潮州人とはだれか」、「潮州文化とはなにか」という問いを敢えて発するのはなぜか。「潮州人とはだれか」を問うことによって、いったい何が見えてくるのか。本書をお読みになれば、各章の執筆者の丹念な観察の中から、あるいは斬新な分析の中から、その答えをいくつも見出すことができるだろう」。

 この「 」付きの潮州人について、序章で、つぎのように説明している。「公式的な定義とは、「中国中原地域にルーツを持ち、広東省東部沿岸地域という風土のもとに育まれ、その一部は海外へと移住し、移住先においても、民族集団としてのまとまりと、独自の文化伝統、民族気質を継承、維持している人々である」というものである。ここには、あるエスニック・グループを、共通の祖先から発し、現代にいたるまで脈々と引き継がれている「民系」の一つであるとみなす民族観が反映されている」。

 「まえがき」では、さらに具体的に説明している。「潮州人は、広東人や福建人よりも少数派であるにもかかわらず、どこの地域でも独特の存在感がある。潮州人といえば、だいたいにおいて勤勉、商売上手、倹約家(吝嗇)、徒党を組む(団結力が強い)、排他的である(自己意識が強い)といった正負相混じったイメージで語られる。潮州文化といえば、潮州料理、功夫茶(工夫茶と表記されることもある)などの独特の飲食文化や潮州劇、潮州音楽などの信仰、民俗、芸術文化が挙げられることが多い」。

 本書は、まえがき、序章、2部全9章3コラムからなる。3章2コラムからなる第Ⅰ部では「主として中国本土と台湾」、6章1コラムからなる第Ⅱ部では「香港と東南アジア地域をフィールドとする論文及びコラムを配し」、第Ⅱ部ではとくに潮州系の善堂に焦点をあてている。

 「本書はこれまでの華人移民のエスニシティ研究では十分とは言えなかった次の三つの点を補うことを意識して構成されている」。「第一に、客家と比べて日本ではこれまで正面切って取り上げられることの少なかった潮州系移民のエスニシティに焦点をあてる[と]ともに、複数の地域における「潮州人」や「潮州文化」の比較を視野に入れた点である」。「第二は、歴史的な視点を重視し、執筆者にも歴史研究者を加え、近代以前の潮汕地域の社会史や移民史についても多くの頁を割いている点である」。「第三は、華僑華人研究の負の側面、すなわち海外の華人コミュニティにおける中国性の維持・継承を検証することが自己目的化することを避けるために、執筆者に東南アジア研究者を加え、ホスト社会において華人文化がどのように意味づけられているのかという視点を加えた点である」。

 そして、編者は、「あとがき」で本書を、つぎのように総括している。「中国から香港、台湾、タイ、ベトナム、シンガポール、マレーシア、さらにはフランスのパリまで辿ってきて改めて思うことは、潮州系移民とその子孫たちのエスニックなカテゴリーや呼称や意識はたとえ変化しようとも、彼らが運んだ文化は、まちがいなくその地において根を生やし、種をまき、新しい芽を生み出しているということだ。台湾南部の影絵芝居で用いられる「潮調」と呼ばれる潮州由来の民間音楽を聴いたときも、またパリの法国潮州会館で、潮州語で念じられる仏教のお経を聴いたときも、そのように感じた。言語が意外に早く忘れられていく一方で、儀礼や音楽がエスニシティを越えて根強く残っていくのはなぜなのだろう。儀礼や音楽のように、慣習的で、身体的、情緒的感覚を伴う文化は持続性があり、また共感を得られやすいからだろうか」。

 「むろん、すべての移民の儀礼や音楽に持続性があり、ホスト社会に根を下ろしていくわけではないし、また、すべての中国人移民の儀礼や音楽がそうだというわけでもない。だが、少なくとも言えることは、潮州人の儀礼や音楽が、他のエスニック・グループのものに比べて洗練されており、見ごたえがあって、しかも美しい旋律と音色を持っているということ、さらにはホスト社会において、エスニシティや世代を越えて、そのように評価されてきたということである。つまり潮州人の儀礼や音楽は、それを求めている人々がいたからこそ、生き残ってきたのだと言えるだろう」。

 さらに、「潮州人とはだれか」という問いにたいして、つぎのように答えている。「潮州人の「ドライでとっつきにくい」という印象は、初対面のときや表面上のことで、これまで編者が現地調査や資料収集でお世話になった潮州人の多くは、「自己人」(自分たちの仲間)ではない編者を温かく迎え、協力を惜しまず、ときにはおせっかいなまでに「熱情」(親切)な人たちであった。おそらく本書の執筆者たちも同じような思いを持っていることだろう」。

 グローバル化のなかで、「世界に活動の場を広げ」る人びとが増え、ハイブリッドな文化が若者を中心に広まっていくのをみていると、本書のような研究は今後難しくなるかもしれないと考えてしまう。その意味でも、本書が出版されたことはおおいに意義がある。


評者、早瀬晋三の最近の著書・編著書
早瀬晋三『すれ違う歴史認識-戦争で歪められた歴史を糺す試み』人文書院、2022年、412頁、5800円+税、ISBN978-4-409-51091-9
早瀬晋三『東南アジアのスポーツ・ナショナリズム-SEAP GAMES/SEA GAMES 1959-2019年』めこん、2020年、383頁、4000円+税、ISBN978-4-8396-0322-9
早瀬晋三『グローバル化する靖国問題-東南アジアからの問い』岩波現代全書、2018年、224+22頁、2200円+税、ISBN978-4-00-029213-9

早瀬晋三『戦前期フィリピン在住日本人職業別人口の総合的研究』(研究資料シリーズ10)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2024年3月、242+455頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできるhttps://waseda.repo.nii.ac.jp/records/2001909)
早瀬晋三『電子版 戦前期フィリピン在住日本人関係資料:解説、総目録』(研究資料シリーズ9)早稲田大学アジア太平洋研究センター、2023年3月、234頁。(早稲田大学リポジトリからダウンロードできる https://waseda.repo.nii.ac.jp/search?page=1&size=20&sort=controlnumber&search_type=2&q=4989)
早瀬晋三編『復刻版 南洋協会発行雑誌-『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』-』第1期(大正期)全12巻(龍溪書舎、2021年4月~23年1月)、第2期(昭和期)電子版(龍溪書舎、2023年12月)+『南洋協会発行雑誌(『会報』・『南洋協会々報』・『南洋協会雑誌』・『南洋』1915~44年) 解説・総目録・索引(執筆者・人名・地名・事項)』(龍溪書舎、2018年1月)全2巻。
早瀬晋三編『復刻版 ボルネオ新聞』龍渓書舎、2018~19年、全13巻+『復刻版 ボルネオ新聞(1942~45年) 解題・総目録・索引(人名・地名・事項)』龍渓書舎、2019年、471頁。

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